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【映画備忘録】コクリコ坂から/2011年

実在しない宿舎,コクリコ荘に至る坂から始まる物語.

宮崎吾朗作品に限らず,スタジオジブリ作品の中でも本作はかなり好きな作品である.

父親の作品で言うところの『耳をすませば』に近い表現が多く見られるが,物語やキャラクターの表情はどこか影を感じる作品ではなかろうか.

舞台は1963年の横浜近郊である.
物語は非常にシンプルで二筋の話が並行して進んでいく.
一つは主人公である海と俊の関係にまつわる話.
もう一つは彼女らが通う学校の部活棟であるカルチェラタンの取壊しを撤回を求める話である.

作品では,時代も相まって,戦後の動乱の最中,激動の時代を懸命に生きる若者と彼らを支える大人たちが描かれている.

先にも記したが登場人物はどこか表情が固く不安を抱いている様にも見えるし,はたまた彼ら彼女らからは学生という社会身分にそぐわない自我と自律精神を感じ取ることができる.
現代とは比べ物にならないほど不安定な時代の中,逞しく育つ登場人物の動きは自然と目で追ってしまう.

この作品の登場人物は(私が感じた限りでは)精神的に芯を持っている.
だからこそ登場人物の人間性にスポットがあたることや,作品を振り返って実感する飛躍的な成長などは無い.
(戦後における)普通の女子生徒が普通の男子生徒に(かなり自発的な)学校行事を通して想いを募らせるだけの話ともいえる.

だからこそ『千と千尋の神隠し』のような非日常を通した主人公の圧倒的な成長などを期待した人には凡夫な作品に見えるだろうし,現代と比べて不安定な時代では些細な問題であったことも現代では気持ち悪く写る描写や発言もあるだろう.

話の焦点を海と俊に戻そう.
互いを意識し始めた最中,2人は血が繋がっているのではないかと疑念が少しずつ確信へ移ろう.
最終的に2人の本当の親と親友であった人物の話から血は繋がっていないということになるが,果たしてこの人物は本当のことを言っているのだろうか?

私は人間不信の毛があるが,仮にそうでなくてもそう思った方も多いのではないだろうか.
というのもこの作品の登場人物はどこか大人びている.学生というのはもっと自己形成がなされておらず,自分のことは愚か,他人のこともよく分からないものではないだろうか.
だが生徒会の水沼をはじめとして,察しの良い人間が多く,全体的に理解力が高い様に思える.
映画の尺の都合なのか,現代若者へのアンチテーゼなのか,はたまた宮崎吾朗が説明することを嫌っているからなのかはわからないが,とにかく彼らは自分の芯が通っている.
メル(海)は父親の代わりに俊を想い,好きだと伝え,俊もまたメルを好きだと伝える.
好きとは彼らが兄妹であっても何も間違っていない表現と捉えられるし,実際にそのシーンの段階では2人とも兄妹だと思っているのだ.
俊は父親の親友から,メルは母親と父親の親友からそれぞれ「2人は兄妹ではない.」と伝えられる.
俊とメルは話を聞き,2人で横浜へと戻り,メルは物語の始まりと同じ様にコクリコ坂から旗信号をあげるシーンで物語は幕を閉じる.

メルがコクリコ坂から旗に乗せる想いは少なくとも変化があっただろうが,その真意は分からない.
俗に言う恋人として俊を想っているのか,純粋に血縁者として想いを馳せているのか.
彼女の顔から読み取ることは私にはできなかった.
それは私が現代人で,メルの時代の人物の様に逞しくないからだろう.

だが,私は現代人なのでメルと俊の両者の立場を覗くことができる.
それを踏まえて私は2人は兄妹では無いと思うのだ.
メルの母は「無鉄砲だったけどあなたのお父さんは本当にいい男だったのよ」とメルに伝える.(確か予告編にもあったシーンだったと思う)
メルはその血をどこか受け継いで無鉄砲ともいえるシーンがいくつもある.
俊が落ちてきたときにすかさず駆け寄ったり,カルチェラタンの清掃を提案したり,理事長の元へ同行したり.
どれも迷いの無い行動を起こしているが,先のプランまで計画しているという様子では無かった.
俊に好きだと伝える時も同じだ.
自分の想いをできるだけ素直に,状況がどうあろうと成り立つ形で言葉にしていた.

一方で俊は無鉄砲とは言い難い.
飛び込みも水沢と話し合って伝統的な行事の一環としてあくまでカルチェラタンの存続のためと受け取れる行動である.
というか彼は他人をよく信頼し,その信頼関係の上で計画的に行動を起こしているように見える.
何かを行う時,彼のそばには水沢か海がいる.
それは2人をよく信頼しているし,そこに直接的な言葉が無くても行動とその未来を預けられると信じているように見える.
もし無鉄砲というか自分の内なるものを優先する男だとしたら,俊は海が血縁者であろうとなかろうと愛を持って接する覚悟を最初から決め,海を避けることはしなかっただろう.
海は兄妹と知っても俊を避けることはしなかった.
これは既に海の中に俊への確かな想いがあり,それと異なる行動を取ることができなかったからでは無いだろうか.
この行動の違いで私は2人は血縁者では無いと思った.

私には彼らの様に行動や未来を預けられる人がいない.
さらに現代人として私は脆く,1人で生きていくことへの不安を拭うことができない弱さと不安定さを孕んでいる.
彼らは時代が不安定だったからこそ結託して強く安定することができたのか.
現代の安定の中でも結託している人はいるが強く安定して結託している人は多くないと思うし,偶に出会った時に不思議な気持ちを抱いてしまう.
まるで別の国やお伽話の世界の住民のように断絶された確かな壁の向こう側の住人の様な気がしてしまう.
そういった私の中にある陰の側面をこの映画は掘り起こしてくれるし,登場人物たちのどこか影のある表情はそれを教えてくれる気もしている.
私の自己満足になってしまうが,この映画はこうした理由で私にとって大事な映画なのだ.

まあ横浜も好きな街だしな.


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