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誰も私のことなんか相手にしない

 大人になると友達が少なくなる。幼馴染とは疎遠になり、同級生はみな家庭や仕事で消息がわからない。ネットで出会う友人関係は儚く、アカウントを消したらそれまでだ。
 昨日Twitterのタイムラインを眺めていたら、ふと孤立感に苛まれて消えてしまいたくなった。すべては私とは関係のない世界で、私は世界の外に弾き出されている。疎外される気持ちとはこういう感覚のことを言うのだろうとしみじみ感じた。早い話が泣きたくなった。なぜみんなそんなに親しげに語り合えるのか。みんな私よりも若く、世代差があるからか。いやそんなことはない。私と同年代の人も存在していて楽しそうに語り合っているのだから。話せないでいるのは私だけだった。話しかけられないのも私だけだった。そしてそんな自分が情けなくなった。
 だが「友達」とは一体なんなのだろう。それほどまでに微動だにしない堅牢な岩のような存在なのだろうか。そんなはずはない。「友達」は私と同じ弱い人間なのだ。自分自身が生きるのに精一杯で私のことまで世話している暇はない。彼らは各々の世界の主人公であって各々の世界を回すのに手一杯で、私は彼らにとって他者の一人でしかないのだ。どんなにこちらを向いてほしくても、多忙ならば不可能だ。自分だって同じだ。毎日が多忙なのに友達の愚痴、それもただの寂しさによる僻みみたいなものを聴いている暇はない。時間があれば、そしてきちんと申し入れてくれれば話を聴けるかもしれないが、忙しければ残念ながら「また今度ね」ということになる。「友達」に幻想を抱いてはならない。
 誰も私のことなんか相手にしない。この気持ちは子どもの頃から抱いていた。ほんの少しだけいじめられっ子だったネクラの私は、華やかなクラスメイトたちと比べて勉強もできず球技もできず落ちこぼれだった。常に一人か二人の親しい友達がいてくれたので救われてきたが、そういう人とは大体クラスが別だった。クラスの中では誰かに相手にされなければ生き延びることはできない。孤立したら生きてはいけない。それが学校という場所だ。私は華やかでかつ私をいじめていた子にゴマすりをして友達になってもらった。仲間に入れてもらうには、それしかなかった。私は生き延びるために悪魔に魂を売り渡したのだ。本来ならば絶対に親しくなりたくもない存在に対して、足を舐めて友達にしてくださいと願った。私はそうやって自分を暴力に売り飛ばしながら生きてきた。そうでなければ誰も私のことを相手にはしなかった。
 人生の半分を過ぎた今、私はもう悪魔にも暴力にも何者にも魂を売り渡したくない。私のことは私が守らなければ誰も守ってはくれないのだ。心許せる友達がいないのならば、それなりの生き方を模索するしかない。心から信頼できる友がいないのは残念なことだが、それが年を重ねるということなのかもしれない。誰も私を相手にしないのなら、私は一人で生きていくしかないのだ。誰かにへつらって生きるような年齢ではなくなった。
 これを読んでくれているあなたに友達はいるだろうか。その人との未来は決して絶対ではない。大切な人がいるならば、どんな現実に押し流されても大切だという気持ちを持ち続けてほしい。どんなに大切にしていても消え去るものは消え去るし、のちに生まれ出てくるものもあるだろう。最後に残るのは自分自身だけだ。人間はひとりぼっちで死んでいくことが約束されている。人は一人では生きてはいけないのは当然のことだが、それでも人は一人なのだ。最後は、一人なのだ。自分の人生は自分にしか責任は持てない。
 こんな私のことなど、誰も相手にしない。例えばこの独白も誰にも相手にされない。仕方ないし、それでいい。これが私の人生だと自分に言い聞かせて、今日も私は一人の部屋で泣くのだ。