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2021年新卒社会人への手紙

FABRIC TOKYOで行われた入社式で読んだ手紙をnoteにて公開

本noteは2021年4月1日(本日)に行われた株式会社FABRIC TOKYOの新卒入社式で読んだ新社会人に宛てた手紙を、外部向けに公開したものです。

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初めて話す内容も多く、自分の中での辛い過去や恥ずかしい事実も赤裸々に書いているため、公開を躊躇しましたが、本日新社会人になられた皆さまにとって少しでも参考になればと思い、公開に踏み切らさせていただきました。拙い文章ではありますが、よろしければご覧ください。

2021年新卒社会人への手紙

株式会社FABRIC TOKYO、2021年新卒入社の皆さん。
本日は新社会人としての門出を迎え、誠におめでとうございます。本日は新社会人としての門出を迎え、誠におめでとうございます。

そして2020年新卒入社の8名の皆さんも今日は一年越しにこの入社式に出席していただき、皆さんとこの日を迎えられて、とても感慨深く思っています。何せ一年前の4月1日はとても忘れることのできない日で、新型コロナウィルスの影響で皆さんの入社式を中止せざるを得なかったですからね。
あれから早1年。数え切れないほど本当に色々なことがあったと思いますが、こうして全員が初めて揃い、そしてこの1年でタフに成長した姿を見て、とても頼もしく感じています。

今年入社の皆さんも、この困難な時代に、FABRIC TOKYOで新社会人をスタートする決意をしていただいて本当に嬉しく思います。

実のところ、僕は皆さんのように入社式を経験したことはありません。僕の社会人のスタートは皆さんに比べてもっと情けないものだったのです。そのため偉そうに社会人について語れる人間でもありませんが、今日は皆さんに、僕なりの話をしたいと思います。

僕は今の会社を2012年に設立しましたが、2014年の初頭まで、現在展開しているFABRIC TOKYOという事業は展開していませんでした。この事業をスタートするまで、丸2年かかっているのです。ではそれまで何をしていたのか?

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話は小学生時代に遡ります。小学生時代、僕はどこにでもいる、ごくごく普通の一般家庭で育った子どもでした。勉強の出来も普通、スポーツも並の才能。ご多分に漏れずゲームや漫画が好きでよく友人たちと楽しんでいました。そんなごく一般的な子どもだった自分にとって、他の人と唯一違った点があったことと言えば、自分の子ども部屋にパソコンが1台置かれていたことでした。そのパソコンはPC-98というモデルで、Windowsが流行するもっともっと前のモデルでした。

僕の父親はNECグループでパソコンの営業マンとして忙しく働いていて、僕が小学校4年時には父親は単身赴任となり、一緒に過ごす時間が極端に減りました。数ヶ月に一度しか会わないため父親と出かけた記憶はあまり多くありません。しかしそんな父親が毎年会社で譲り受けてくる型落ちのパソコンが、自分の子ども部屋に置かれることが自分にとっては何よりも嬉しいプレゼントとなりました。

ゲームやアニメが好きだった僕はパソコンゲームにのめりこみました。しかし途中から、このゲームがどう出来ているか、仕組み自体に興味を持ち始めました。近くの本屋に通い、立ち読みでパソコンについて学び、次第にかんたんなプログラミングまで覚えるようになりました。その後、中学生になった頃にはバスケットボールの部活も始めていましたが、練習が終わるとそそくさと家に帰ってきてパソコンいじりを楽しんだものです。

そして1990年代後半、実家についにインターネットが開通しました。地方の田舎町の中でも早い段階での開通。まだインターネットが常時接続ではなく、ダイアルアップで繋げるのに「ぴ〜ひょろろろろ〜」という音が出る時代。月に数万円もしたのに、画像一つのダウンロードに数分かかるというそんなインターネット黎明期でした。こんな時代にインターネットを使わせてもらえて、パソコンメーカーに勤めていた父親に今更感謝しているところです。

僕はすぐにインターネットの世界に魅了され、ネット閲覧を楽しむ傍ら、その仕組み自体に興味を持ちはじめ、自らでもWebサイトを作り始めました。中学生時代に自ら作ったWebサイトは片手では収まらない数です。もしかしたら今でもどこかで動いているかもしれませんが、URLなどはスッカリ忘れてしまいました。

それだけパソコンやインターネットに傾倒していた自分が、高校生になる頃にはすっかり触らなくなってしまいました。理由は、自分が作ったWebサイトの掲示板(当時BBSと言いました)が友人たちによって荒らされてしまったことがキッカケでした。いわゆる荒らし行為。陰湿なイジメにあったのです。

僕にとってインターネットは、自分が見たこともない新しい世界への扉であったのと同時に、多くの友人を失うキッカケともなった、悪夢の装置でもあったのです。

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パソコンやインターネットを使うのをやめた僕は中学3年生になっていました。勉強も不出来だった僕もなんとか受験で受かり、高校は進学校に進むことになりました。しかし入学してみると挫折の連続。クラスの全員が自分よりも学力は上、しかもみんな努力家で、すぐに成績は周囲に置いていかれる散々な結果となりました。自分は元々優秀でもないし、勉強もぜんぜん好きになれる気がしない。更に中学時代に経験したインターネット上でのイジメを引きずっている僕にとって、自らのアイデンティティを保つことにとても苦労していたことを思い出します。

でもそんな中自分を救ってくれた存在がありました。それは、ファッションとの出会いでした。ふとしたキッカケで初めて読んだファッション雑誌に心を捕まれ、目が釘付けとなりました。元々ハマり症の性格だったのも相まって、学校と部活が終わると本屋に入り浸り、ほとんど全ての雑誌を隅から隅まで立ち読みしたものです。

好きな服を着ることは、まるで自分に翼が生えたかのような体験でした。お気に入りの服を纏う日は、そうではない日に比べていつも気分が上がり、嫌なことがあってもいつも前向きな気持ちで出かけることができます。勉強やスポーツが得意ではない自分でも、ファッションを頑張ることで、次第に周囲の同級生からも興味を持たれることも増えて、友人から褒められたりする機会も増えていきました。お前って最近お洒落だよね、森くんが着てる服ってとってもいいね。そういう言葉が僕の人生を後押ししてくれました。

距離を置いていたインターネットも再開し、ファッションの情報サイトや掲示板での交流をスタートさせました。顔も名前も知らないけれど、多くの友人をインターネット上で持つことができました。そして、時代はSNSの時代に突入していきました。当時日本最大のSNS旋風を巻き起こした、mixiの登場です。

大学生になった2005年の頃の僕は、SNS上で友人を作っていきました。mixi上のとあるファッションコミュニティでの出会いから、友人とファッションのメディアを始めることになりました。英語のファッションの情報を、日本語で発信するブログのようなメディアサイト。小さく始めた僕たちのサイトは、半年後には毎日1,000人を超える人々が訪れてくれるファッションメディアに育っていきました。スポンサー収入も決まり、月に数十万円の売上になり、人生で初めて、自ら生んだビジネスでお金を稼ぐという経験もすることができました。
自分が趣味でずっと好きだったパソコン・インターネット、そしてファッションという存在を突き詰めることで経験した、小さな小さな成功でした。

僕はやっぱりファッションを仕事にしたい。僕はファッションに感謝をしています。

だから、社会人になってもファッションの仕事に就こうと思いました。そんな中、ファッションショーの演出家という仕事があることを知りました。ファッションのメディアをインターネット上で展開していた自分にとって、ファッションが出来ていく過程や、それが発表され世の中に出ていく流れに、とても興味を惹かれたからです。

僕は一般的な就職活動を行わずに、東京のファッションショー演出家の事務所を片っ端から調べ、直接履歴書を渡しに行くことにしました。今考えるとバカみたいな話ですね。当然最初は門前払いでしたが、何度も電話とメールをしているうちに、ようやくインターンとして採用してもらえることになりました。条件は無給。1日20時間働いても給料はゼロです。何も保証されていない中での初めての上京。それが、2009年の春。僕が大学を卒業した年で、皆さんと同じくらいの年齢でした。

上京してきた初年度は、給料がもらえなくても、僕にとっては天国のような毎日でした。ずっと地方の街から憧れてみていた東京の街。そしてファッション業界ど真ん中に身を置ける環境。与えられる仕事はスーパーに買い出しに行ったり、コピーした書類を何時間もかけてホッチキスで止める仕事だったり、ファッションショーがある日は、モデルさんが歩くステージのホコリをガムテープで何度も何度も本番まで取り続ける雑用の毎日。体力的にもキツくてフラフラ倒れそうになったことも何度もありました。

なにせ、当然無給だと生活が成り立たないので、夜はホテルの深夜のフロントのアルバイトをやったり、朝は早く起きて新橋の駅前でティッシュ配りをやる毎日だったんです。

体力的にも精神的にもキツくても、弱音を一切吐かずに、頑張れば、上司たちのようにかっこよくファッションデザイナー達と会話しながら、ファッションショーを演出できる立場になれるんだ。そう本気で信じていたし、頑張ればそうなれたかもしれません。
でも2年目も半ばになってきたあたりで、現実を知りました。与えられる仕事は雑用から大した進化もなく、そしてこのままこのような生活を10年もしなくては、ショー演出家のスタートラインにも立てないという現実も悟りました。

もしかしたら自分が得意なパソコンやインターネットなどの知識が活かせるかもしれない。自分は理系出身だし、デジタルやロジックなどの手法を使って人よりも早く演出家の道に進めるかもしれない。そんな望みも乏しく、僕のファッション業界での生活は終りを迎えました。

「お前はこの業界に向いていない。」それが僕が当時の上司に言われた、最後の一言でした。

その頃、僕は、あれだけ好きだったファッションの事を嫌いになっていました。好きだった頃のことを忘れてしまった、この表現の方が正確かもしれません。

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ファッションに情熱を向けられなくなった僕に残ったのは、インターネットでした。インターネット業界なら、自分の人生をまた見つけられるかもしれない。そう思って、インターネット業界の人たちに話を聞き始めました。なにせ地元の時の同級生の2人が、当時既にIT起業家として活躍しているというニュースをよく見るようになっていたのです。

知人の紹介で、不動産ビジネスをインターネットを駆使して新たな取り組みをするベンチャー企業を紹介してもらい、そこで営業として働かせてもらうことになりました。その頃すでに地元の同級生を意識して起業を志すようになっていたため雇用されるのではなく、フリーランス契約。正社員にならなかったのは、決算や税金の仕組みについて学びたかったからです。

その後は皆さんももしかしたら使ったことがあるかもしれない、フリマアプリのメルカリの創業期にも参画する機会に恵まれました。

前にいたファッション業界に比べて、ベンチャー業界というのは本当にオープンでかつイノベーティブで、そして何より、若い自分が年齢を気にすることなく活躍できる、そういった自由な空気感がここにはありました。

さて、そろそろ、今日皆さんにお話したいことの結論です。

僕は、2012年に会社を創業した時には、ファッションの事業をつくることに躊躇をしていました。インターネットは相変わらず大好きだけど、ファッションとは距離を置きたい、そう思った過去があったからです。しかし、やはり自分にはファッションしかない。なにせ多くの機会にファッションを通じて巡り会い、多くの友人もファッションをきっかけに出来たのです。2014年、僕はインターネットとファッションを掛け合わせた事業「FABRIC TOKYO」を起業することになります。

インターネットは多くの機会と巡り合わせてくれるのと同時に、多くの人々との出会いの機会を与えてくれます。そしてファッションは自らに勇気と自信を与えてくれます。

「好きな服を着ることは、まるで自分に翼が生えたかのような体験です。お気に入りの服を纏う日は、そうではない日に比べていつも気分が上がり、嫌なことがあってもいつも前向きな気持ちで出かけることができます。」

今も昔も。


思い返せば自分の好きを追求してきた人生でした。その「好き」は、自分の心の拠り所だと感じたこともあったし、こんなものが社会人になって仕事の役に立つわけがない、そんなとても無駄なものに見える、その時はそう思えたこともありました。

しかし僕が経験したように、全ての無駄なことは、一つ一つ必ず未来に繋がっているものなのです。むしろ自分がそれを無駄であると思わなければ、人生には一つも無駄なことは無くなります。

新社会人の皆さん、そして昨年入社してくれた皆さん。人生の無駄を大いに楽しみ、無駄を無駄で終わらせない自分を持ちましょう。

無駄へのリスペクト。そして無駄だと思えたことを繋げること。これから社会人として仕事をしていく中で、時々この話を思い出してもらえたらと思います。

本日は本当におめでとうございます。そしてこれから仲間として、よろしくお願いします。

ご清聴いただき、ありがとうございました。

2021年4月1日 森 雄一郎

今日入社した仲間たち

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2021年新卒メンバー

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※集合写真に時のみマスクを外して撮影しています。

2021年新卒に加えて、2020年新卒メンバーや2018、2019年入社のメンバーも駆けつけてくれました。

2021年度もFABRIC TOKYOはアパレルとテックで世界を変えるべく頑張ってまいります。


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