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映画『この世界の片隅に』で中島地区の街並みを再現した意義

大ヒットを遂げた映画『この世界の片隅に』、この作品のすばらしさは、原作の雰囲気を忠実に表現したことだけではなく、戦前の中島地区の街並みを見事に作中で再現したことにもあります。中島地区とはどのような場所だったのか、そして、その街並みから私たちが何を考えればよいか、考えます。

なお、『この世界の片隅に』の原作者、こうの史代(ふみよ)先生のもう1つの代表作である『夕凪の街 桜の国』については、「こうの史代著『夕凪の街 桜の国』を読んで」で取り上げていますので、こちらもぜひお読みください。こちらの作品は、広島の原爆をテーマにしたものです。

中島地区とはどのような場所だったのか

広島市内、戦前の中島地区は、水運を活かして産業の要衝地として発展していました。様々なモダンな店舗が立ち並び、街の豊かさを象徴するように、川のほとりに半球型のドームが象徴的な産業奨励館がありました。

しかし、中島地区は、1945年8月6日、一瞬にして消失しました。焼け野原となった中島地区は、平和記念公園へと整備されました。そして、奇跡的にその形を残した産業奨励館は、後に「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。

広島を訪れた人が少なからず誤解してきたこと

平和記念公園を訪れた人が、少なからず誤解していることがあります。それは、「ここはもともと公園だった」という誤解です。平和記念公園は、そのような誤解をしてもやむを得ないほどに、戦前の痕跡をほとんど残していません。

広島平和記念資料館には、展示のはじめのほうに、戦前の中島地区の写真が掲げられています。ただ、白黒の不鮮明な写真であることから、来館者にあまり印象を残すものではありません。

核の恐怖を現実のものとして考えられていない

広島平和記念資料館を訪れただれもが、「原爆は怖い」と感じます。しかし、原爆が「何を壊したのか」を知らない(私自身を含めた)多くの非体験者は、原爆に対して「現実離れしたもの」という印象を無意識に持ち、真の恐怖に目を向けられていないのではないかと思うのです。

作中でよみがえった街並みから感じる真の恐怖

作中では、綿密な調査と取材を重ねて、中島地区の戦前の街並みがありありと再現されています。その再現度は、当時の中島地区のことを知る方が、昔の記憶を思い出すほどであるそうです。

平和記念公園を訪れたことのあるだれもが、この街並みを、そして、その街の暮らしを作中で知ったとき、この活気ある街が一瞬で消えてしまった現実に真の恐怖を覚えます。

核の議論がされる時代だからこそ考えたいこと

最近、日本でも、「核共有」の議論がされています。「核共有」については様々な意見があり、その是非について安易に結論を述べることはできません。

ただ、核の議論において常に心に留めておかなければならないのは、核が持つ「真の恐怖」です。

核兵器が使用された場合の被害想定については、死者何名、被災地域何キロなど、様々なデータがあります。

ただ、人間は、被害想定データの数字があまりにも大きいと、それを現実のものとしてとらえられなくなってしまいます。

核兵器について実際に体験したことのない私たちがその「真の恐怖」を知るための手がかりとなるのが、現実に日本に投下された原爆について知ることです。

作中で見事に再現された中島地区の街並みは、そのほとんどすべてを一瞬で奪い去った原爆の「真の恐怖」を、私たちに訴えかけているように感じました。

~おわり~
※ noteで執筆する内容は、私の個人的な見解に基づくもので、所属する事務所としての見解ではございません。

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