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アメリカのコメディ VS 日本のお笑い

□ アメリカのコメディ VS 日本のお笑い

90年代頃、TAMAYOという名の日本人女性がアメリカのスタンダップコメディの世界で名を成し「アメリカで成功した日本人女性」として一躍日本のメディアで取り上げられたことがあった。

そのTAMAYOが日本に凱旋帰国し、普段アメリカで演っているネタを日本語に訳して日本人客の前で披露した。

 全然ウケなかった。

 そしたらそのTAMAYOという女はあろうことか客に向かって
「あんたら、わかってへんわ」
という態度をとった、と言われている。(諸説あり)

 この件に関して、コラムニストのナンシー関氏がコラム紙上で激怒されていた。
ナンシー氏曰く
「このTAMAYOという女はアメリカが笑いの本場だと思っているようだ。しかし、アメリカンジョークの本場はアメリカかもしれないが、笑いの本場なんていう国はない

 重要な事なので太字にしてみた。

 野球の本場はアメリカかもしれないが、スポーツの本場はアメリカではない。ヒップホップの本場はアメリカかもしれないが、音楽の本場はアメリカではない。
日本ではエンターテイメントやショウビジネスに関してはなんでもかんでもアメリカが本場であるかのような先入観を持っている人が多数見受けられるがそれは偏見だ。
たしかにアメリカこそが本場というものはそれなりにはあるが、少なくとも「お笑い」に関しては違うだろう。
アメリカは単に「市場が大きい」というだけのことだ。


□ 政治ネタ、権力者イジリ、反体制ジョーク

音楽の世界で歌詞の内容が「政治的、反体制的メッセージ性が高いから」という理由だけで「音楽性が高い」と評価されるであろうか。
映画において、作品のテーマが「政治的、社会的問題を扱っているから」という理由だけで「映画として質が高い」と評価されるであろうか。
いずれも政治的であるか否かは、あくまでも作品ジャンルの中の一種類であって、作品の質を決める絶対的指標ではない。

 しかしなぜか「お笑い」に関しては「アメリカのコメディは政治批判や社会問題をネタにしているから」という理由で「日本の笑いよりも上質でレベルが高い」と主張する人がいる。
全くもって同意できない考え方である。
そこには「アメリカこそが笑いの本場である」という思想が見え隠れする。

 因みに、笑いの基本は「緊張と緩和」であると言われているが、ネタの対象が政治家や権力者である時点で「緊張」の部分(フリ)があらかじめ担保されているので「権力者イジリ」は笑いの取り方の難易度でいえば低い部類に入るとされている。

 ただこうまで言うと筆者がいかにも「アンチアメリカンコメディ派」のように思われるかもしれないが実はそうでもなく、私自身はアメリカンコメディはそれなりに嗜む口である。
サタデーナイトライブはスティーブ・マーティンやチェビー・チェイスの頃から観ているし、『ソープ』や『ミスター・ベンソン』も毎週観ていたし、ベニー・ヒルの輸入盤βビデオなんかも持っていた。
ジョージ・カーリンやレニー・ブルースの生き様は確かにカッコイイと思うし憧れもある。
Saku Yanagawa氏やウーマンラッシュアワーの村本氏は両名とも熱烈に応援している。

 ただ「政治的ネタを演るから笑いの質が高い」という考えには与しない。

 
 普遍性と構造改変

ノンスタイル石田氏はアメリカ(海外)の笑いを「ベタ」と表現している。アメリカ在住の野沢直子氏も過去それに近い発言をしていた。
アメリカのコメディには大まかに分けて、スタンダップ、スケッチ、インプロの三種の形式があるが、恐らくはスタンダップに関しての発言であると思われる。

因みにベタの語源は「手垢が付いた」や「左官屋のベタ塗り」とか諸説あるようだが、いずれにしろネガティブな意味合いで使われることが多い。
しかし裏を返せば「普遍的」ということでもある。

 アメリカの笑いは(ポジティブに表現すれば)「普遍性の追求」というスタイルであると言えるのではないか。

 例えばスタンダップコメディでは、笑いの取り方、落とし方には昔ながらの定番の型がいくつかあり、時事問題や流行をその型にうまく当て嵌めて時代性を微調整すれば所謂「アメリカンジョーク」は出来上がる。

ネタのジャンルは政治、宗教、人種、家族、夫婦、セックス等々、多岐に渡るが「落としの型」や「笑いの構造」の部分に関しては古来からの伝統的なスタイルを現在に至るまで踏襲している。

 又、スタンダップにおいては「オリジナリティ」が重視されると言われているが、ここでいうオリジナリティとは「演者自身の実体験が元になったネタであるかどうか」ということであり、笑いの構造の部分の斬新性についてではない。
演者自身の出自や生い立ちや実体験に基づいた自己主張的独白、というのがスタンダップの基本姿勢であり、同じ社会問題をネタにするにしても、どの角度から切り込むか、その視点の独自性が問われる。
(この部分にオリジナリティを見出すという考え方が実にアメリカらしい)

あとはそれを吟ずるコメディアンの話術、キャラクター、声質、ルックス、カリスマ性等々、演者自身の人的資質での勝負ということになってくる。

そして、その主張(思想)がどれだけ多くの大衆に支持されるかが人気の度合いということになる。

一方、日本のお笑いは、笑いの取り方の「型」や「構造」の部分の改革改変を突き進めるというスタイルだ。

「それまでにない笑いの取り方」
「誰もやったことがないオチのつけかた」
「前例のないボケとツッコミのシステム」等々。

萩本欽一、ビートたけし、松本人志ら、お笑い界の偉人たちが新しい笑いの概念を生み出し続け、今日に至る。
(最も多くの型・概念を開発した人物は松本人志であろう)

 日本のこのような発展の方向性では笑いの質はよりマニアックで閉鎖的な方向に進む。
お笑いリテラシーが高くなければ感じ取ることができない微妙なニュアンスの応酬、とういうような様相を呈す。
このことが、日本人でありながら「何が面白いのか全くわからない」「日本のお笑いは全く面白くない」と主張する人を少なからず生み出す要因の一つになっているのではないかと思われる。
しかし「新しさ」「斬新さ」を追求しようとする道筋において、このような疎外者を生み出すという弊害は止むを得ない事象であり、むしろ必然的ですらある。
実際には日本には多くのお笑いファンが存在し、彼ら彼女らはその微妙なニュアンスを感じ取って楽しんでいる。

 よく日本のお笑いを「内輪の空気の読み合い」と(酷)評する言説を耳にする。まあ確かにその通りではあるのだが、しかし、その「読み合い」に、いかに高度な技術を要するか、その妙、それこそが「日本のお笑い」の醍醐味なわけで、日本のお笑い好き達はまさにそういう部分を楽しんでいるのだ。

 この日米両者の違いは音楽においてのヒップホップとJポップの違いに非常によく似ている。

ヒップホップでは伴奏の部分はブレイクビーツと呼ばれるシンプルな構造の音楽が使われ、それより重視されるのはリリック(歌詞)の内容であり、そこではラッパー自身の出自や体験に基づいた自己主張的思想表明が主体となり、当然、政治や社会問題が題材になることが多々ある。

一方のJポップは「コード進行」や「メロディライン」や「楽曲構成」のような、より音楽的な部分の独創性に重きが置かれ、歌詞の内容に政治的主張や社会問題性などはほとんど含まれない。
(Jポップのコード進行の斬新性に関してはマーティー・フリードマン氏の著書に詳しい)

 

 海外でウケるから質が高いのか

 個人的には日本の構造改変型のお笑い文化はアニメや漫画と同レベルで高度に発達した日本の独自文化であると考えている。
しかし、アニメや漫画と違って海外で日本の笑いは(いくつかの例外を除いて)殆ど受け入れられない。

日本の笑いは日本語という言語、特に言葉の語感に深く根ざしたものであるため、翻訳や吹替えではそのニュアンスはほぼ伝わらない。
特に「間」という、笑いにとって最も重要な部分は、字幕ではもちろん、たとえ吹き替えであっても再現することはほぼ不可能だ。
文化的予備知識も必要で、日本芸能界の掟やテレビ業界史を知らないと理解できないネタも多い。

 ただこれは、英語を理解せずアメリカの文化的背景も知らない日本人がアメリカのスタンダップコメディを字幕や吹替えで観ても面白いと感じないのと同じ構造であるということは意識しておかなければならない。
日本のお笑い界隈では「アメリカンジョーク=面白くない笑い」というコンセンサスが出来上がっているようだが、理解できないからといって面白くないと決めつけるのは思慮が浅いと言わざるを得ない。

 問題なのは、日本においては、この「欧米で評価されない」ということを文化として致命傷であるかのように捉える人がいるということだ。
昭和の時代から比べればかなり改善されてきたとはいえ、日本にはまだこの手の欧米文化コンプレックスが根強く残っている。

 筆者なんかはむしろ逆で、この構造改変型のお笑いを楽しめるということを日本人の特権のようなものとして捉えている。
これほどまでに高度に発達し、しかも最高に面白い文化コンテンツを我々日本人だけが楽しめるということにある種の優越感すら感じる。
ラーメンの旨さをまだ我々日本人しか知らなかった時代の感覚、とでも言えば昭和世代の人には伝わるだろうか。

 しかし一方で「アメリカのコメディ」も好きである。
スタンダップの笑いのツボは正直ほとんどわからないが、コメディ映画においてはアメリカの方が圧倒的に面白いと思う。
因みに筆者の生涯ベストコメディ映画は「チーム★アメリカ/ワールドポリス」だ。

 要するに、まあ、何が言いたいのかと言うと
「アメリカが笑いの本場」であり「政治的であるからアメリカの方が上」という考え方と「アメリカンジョーク=面白くない笑い」という思い込みは等しく同罪であるということだ。   〈了〉

 

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