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斯くも残酷な芸術



だいぶ昔にバルセロナの旧市街の、デザイナーのショップで、雑貨や靴や服やバッグを見て、余りの可愛さに胸をときめかせ、様々な画廊を覗き、現代絵画に驚かされ、刺激を受けまくって、
「ピカソの美術館はやめようか?」
と、言ったのだけれど、従姉妹は、
「ここまで来たんだから、見て帰ろう。」
と言うので、エネルギーエンプティギリギリだったけど、ピカソ美術館に行った。
既に疲れてるはずなのに、ピカソのその凄さに、エネルギーがフル充電され、閉館ギリギリまで絵を楽しんだ。
「これを10歳で描いたの!?」
沢山のデザイナーの商品や、現代画家の絵を見たけれど、ピカソは別格で、旧市街で見たどれも、ピカソの絵には敵わなかった。

それから、私の中でピカソはナンバーワンになった。

メトロポリタン美術館でもホイットニー美術館でも、そう思った。

何がそんなに違うのか?
…と、言われても分からない。
「別格だ!」
と、感じるのは一瞬の事なのだ。

辻井伸行さんも、吉村妃鞠さんも
そうだけど、
「別格だ!」
と、感じるのは一瞬なのだ。

先日、地元の美術館で地元の画家の企画展があり観に行った。

地元で、自分が生きた年代に天才がいたんだなぁ…と、感動して見ていった。
図録では決して分からない感動が凄かった。

ところが…。

パリで一緒に画家をしていた、藤田嗣治の絵が現れた。

アレ?
今まで、感動していたのに、世界が一変する。

奥行きの空気感、艶かしい女性、その女性の存在感…。

全く違う絵が現れて、感覚が揺れたとも言えるけど、圧倒的違いが現れる。



知名度の違いを見たようだった。



各個人の好き嫌いはあるだろう。

でも、斯くも残酷に芸術とは、天才との違いを見せつけるものらしい。


天才のその仕様は、正しい位置、正しい色、正しい濃淡、正しい強弱を取りこぼす事なく配置する。

星読みなのだろうと思う。

星を隅々まで読み、何かを作り上げる。
そして、一箇所、ため息をつけるように、星をズラし抜けを作る。
星を読めなければ凡人、または秀才となるしかない。



芸術を創る人にとって、それは残酷にも映る。

でも…。
旧石器時代以前の遺跡はどうだろう?

エジプトのスフィンクスや猫の彫刻、壁画。ラスコーの洞窟壁画。アンコールワットの街道沿いに永遠と続く彫刻。エトルリアの石棺に施された、愛を閉じ込めた様な彫刻。
世界に点在する、ピラミッド。
そして、縄文土器。特に、火焔式土器は生活にも使用されていた。

たまたま発掘されたそれら全てが、力強く、神々しいのは何故だろう?
発掘されるまで、それらが素晴らしいからと言って綺麗に保存されていたわけではない。
誰かがそれらが素晴らしいから、後世に残そうとしたわけではない。

ここからは勝手な想像だが、石器時代以前は、誰もが星読みだったのではないだろうか?
ある時期から、星読みの能力は失われて行ったのではないだろうか?
何かと引き換えに、手放した星読み…と思えてしまう。

星読みが形作るのは、
シンフォニー。調和。

もしかしたら、「個」を手に入れたのかもしれない。


自然を思い浮かべると、草や木は、そのままで完璧な形だ。
草や木は、「個」の様で、ネットワークで繋がっている。

「個」を手に入れて、全てと繋がるネットワークを遮断してしまった、遮断せられた。

草木の様に、ネットワークに繋がることで、人はもう一度、星読みに戻れるのかもしれない。


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