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いまがいちばん幸せなことは、わかっていた。

noteにアカウント登録してから、3年半もたってしまった。自分ほどずぼらでぐうたらな人間もいないんじゃないか。それでいて自意識過剰なのだから、自分でも困っている。

私には、ずっと前から書きたくて、書けなかったことがある。それは、いま書かないと後悔するのがわかっていることだ。これ以上遅くなれない。

初めて投稿する文章をちゃんと最後まで書きたい。どうか書き終わりますように。

自分が長年、申し訳ない思いでいること。それを言葉にしたい。


実家に家族が集まる。それがいちばんの幸せ。

私が結婚して子どもが生まれてから、お盆やお正月、誕生日などの節目は、家族みんなが実家に集まって食卓を囲むことが恒例になっていた。私の両親、夫、2人の息子、それに遠方から妹家族が帰ってくることもあり、それぞれがこの日を楽しみにしていた。

そんなときの両親は上機嫌そのものだ。両親はこの日のために、私たちひとりひとりが好きな飲み物を銘柄別に用意してくれていた。それは、酒好きな両親のこだわりでもあった。父は《キリン淡麗プラチナダブル》、母は《アサヒ クリアブルー》、夫は《スーパードライ》、私は《一番搾り》…というふうに、テーブルにはバラバラの飲み物が並ぶのが常だった。

ふだん「第三のビール」で節約生活を送っている私たち夫婦にとっては、「本物のビール」が飲めることも楽しみのひとつだった。

食事とともに何本目かのビールを空けた父が、私に言う。

「ユカンチ。夫くんのスーパードライとワシの淡麗、もう1本ずつ持ってきてくれい。」

「ユカンチ」とは、物心ついたときから父が私に対して呼ぶあだ名だった。ちなみにアクセントは「スカンク」とか「DA PUMP」とかと同じ、「カ」についている。

私は冷蔵庫からとくに冷えた缶ビールを選びだし、父に手渡す。

「ほい、ビール。」

「どもども。…タロウたち、アイス食べるかい? ハーゲンダッツ、あるよう。」

父は孫のためにアイスを買ってきたらしい。息子らは目を輝かせて、

「食べる食べる!」

「冷凍室にいろいろあるから、食べていいよう。」

父は孫と話すとき、語尾が上がりながら伸びるのが面白いなと思いながら、私が割って入る。

「ちょっとタロウたち! ご飯食べ終わってないじゃん。じいじ、甘やかすのはやめてよね。」

長男は、しまったという顔をする。父は「そっかあ。ご飯の後だってさー。じゃ、ユカンチ、タロウたちが食べるとき、ワシにアイスモナカ持ってきてくれい。」


親子ならなんてことのない、ありふれたやりとり。家族ならごく普通であろう、取るに足らない光景。そこに私は、言いようのない深い安堵を感じていた。

家族がそろって顔を合わせ、大好きなお酒を飲みながら、ゆったりと過ごせる。母は元気そのもの、父はかなりの肥満ながらも特段の不調もない。子どもたちは、上は中学生から下は幼稚園児まで、まだまだかわいい盛りだ。いつしか私はこうして実家にみんなで集まるたびに、「私たちは、いまがいちばん幸せなんだろうな。」と思うようになっていた。そしてこうも思った。ここに来るまで、ずいぶん時間がかかってしまった、と。

「私たち」というのは、もちろんここにいる全員なのだが、もっと言うと、私の両親、さらにピンポイントで言うと、父のことだな、とも思っていた。

それは、ほかでもない私自身が、長きにわたって父にストレスを与えつづけてきたからだった。


私が父を不幸にした

なぜ、自分が父に対して「いまがいちばん幸せ」と思っていたか。理由は、以前は私が父を長いこと避けていたからだ。12歳から、私が結婚するまでの20年間、私は父とほとんどまともに会話をしたことがなかった。

父が嫌になったきっかけ。それは「子どもが生まれるにはどんなことをするか」を小6で知ったことにある。

ある日、仲良しだったまあちゃんが、得意そうに私に尋ねてきた。

「ユカちゃん、子どもってどうやったら生まれるか知ってる?」

私は、知らなかった。学校でも教わらないし、親も教えてくれない。ただ、「赤ちゃんて、どうやったらできるんだろう?」という疑問は持っていた。

けれど私は、何に関してもどこか現実的に考えを詰められないフシがあった。サンタクロースは小6で来なくなったにもかかわらず、「自分には来なくなっただけのこと」と思いこんで、中1まで信じていたぐらいだ。

「どうやったら子どもが生まれるか」について、当時こんな風に考えていた。

「“結婚した男と女“を空から神様が見ていて、よし、あの2人は結婚したから子どもを授けよう、と決める。そうしたら女は妊娠して、子どもが生まれる。」

我ながら幼稚にもほどがある。奥手というのだろうか、私には性についての関心も、免疫も何もなかった。クラスでそういう話をする友だちもいないし、テレビなどで情報を得ることもなかった。「精子」とか「卵子」という単語すら聞いたことがない(かろうじて生理については学校で習ったが、妊娠との関連を理解していなかった)。

一方、まあちゃんの態度は、どこかお姉さんぽい自信に満ちていた。まあちゃんは、私が夢中だった『りぼん』とは明らかに雰囲気が違う、大人っぽい漫画を読んでいるような子だ。

私が「知らない。子どもってどうやって生まれるの?」と素直に尋ねると、まあちゃんはこう答えた。

「女には、おしっこする穴と、うんこする穴の間に、もうひとつ穴があるのね。で、男と女で裸になって、女のその穴に、男のアレを入れると、赤ちゃんができるの。」

何のことかわからない。“もうひとつの穴”って何? 自分にもそんなものがあるのだろうか? そこに“男のアレ”、つまりおちんちんを入れるなんて、気持ち悪すぎる。なぜそんなものを、わざわざ入れにくそうな所に入れるのだろう。

「噓でしょ?」

ほんとうに嘘だろうと思っていた。まあちゃんは私を騙そうとしているんじゃないか?とも思った。まあちゃんは、つづける。

「ほんとだってば! その穴にはね、ビール瓶ぐらいの太さだって入っちゃうんだって。」

何という衝撃だ。クラクラしてくる。そして具体的な“収容範囲”を示されると、その穴の存在はにわかに真実味が出てくる(しかしいまになってみると、まあちゃんにこんなアブノーマルなたとえで女性の体や子どもの作り方について教えたのは、一体どこの誰なんだという疑問が浮かぶ)。

いわば、“3つ目の穴”が自分を含む女にある。そこに、男のおちんちんを入れることで、赤ちゃんができる。精子も卵子も知らない自分は、何がどうなってそうなるのか、皆目見当がつかなかった。

「じゃあ、私たちもそうやって生まれたの?」

「そうだよ。みんな、そうやって生まれたんだよ。」


その日を境に、私は父と一緒にお風呂に入るのをやめた。赤ちゃんができる方法を知ったことのショックがすべて、父に向かったのだ。

いや、その日を境にしなくても、小6にもなったら父親とはお風呂に入らないほうがいいのだ。すでに身長は160cm近くあった。しかし、体だけが成長して心は小学校低学年のままの私は、それまで何の抵抗もなく父とお風呂に入っていたし、むしろ父が早く帰宅した日の入浴タイムを楽しみにしていた。

それが、まあちゃんの話で180度変わった。「パパって、いやらしい男だったんだ。」「ママになんてことをしたんだ。」「そんなひどいことをしたのに私に隠していたのか。」

子どものころの私は、男性は「いやらしい人」と「いやらしくない人」に分かれる、と思っていた(もちろんいまは、男はほぼ全員いやらしいのはわかっているし、いやらしい人が嫌いでもない。)。そのなかで父は「いやらしくない人」のほうだと信じて疑わなかった。それなのに、女の裸やおっぱいが好きな「いやらしい人」の側だった、という事実が受け入れがたかった。

また、まあちゃんは「それをセックスっていうんだよ。」と教えてくれたが、私は父と母の合意のもとの行為ではなく、なぜか「ママがやられた」という解釈をし、私のなかで母は“かわいそうな人”になり、同性として被害妄想のような気持ちを抱いた。

そしてもっとも不快に感じたのが、セックスをした結果に生まれたのが、自分と妹、ということだった。汚らわしいセックスというのをしたおかげで自分たちがこの世に存在している。もう自分をやめたいぐらいだが、そういうわけにもいかない。

なんてことを本気で考え、父に対する生理的な嫌悪と怒りが猛烈な勢いでわいてきた。お風呂に入らないだけにとどまらず、話すのもイヤ、同じ空間にいるのも我慢ならず、「パパ」と呼ぶこともやめ、父がいるときは食事中もそっぽを向くようになっていた。

父にしてみれば青天の霹靂で、一体なぜ自分が「ユカンチ」から突然避けられるようになったのかと動揺したのではないか。いま思うと思春期の始まりだったのだろう。女の子ならば、多かれ少なかれ起きていた現象だったのではないか、といまは思う。

けれど私の場合は、父と話さない状態が異常に長くつづいてしまった。

もっとも、“セックスをした父”を気持ち悪い、と思っていたのは小学校いっぱいだった。中学生以降は性的にどうこうよりも、“なんだかわからないけど嫌な存在”に変わっていった。本格的思春期がやってきたのだろう、とにかく父のあらゆることが嫌だった。

お酒を飲むと、「ユカンチは何を考えてるんだ?」と絡んでくること。ふだんはわりと無口なのに、酒乱の気があり、深夜に酔っ払って帰宅すると、家族が寝静まっていることに腹を立てて大声を出すこと。

機嫌がいいときは「この話は、内容がないよう!」「ゴマがないぞ、ゴマかされたー!」などと、寒いダジャレを連発していること。冬になると、暖房がついているのに作業用のモコモコした防寒着を着たまま食事をすること…。どれをとっても「こんな恥ずかしいお父さん、うちぐらいだろうな」と疎ましく思っていた。

この気持ちは、高校、大学、さらに社会人になってからも変わらず、恥ずかしいことに私が結婚するまでつづいてしまった。

父のことが嫌になってからの私は、父と何かを話し合った記憶がない。覚えているのは、父が酔っているときにお説教されて反論しているか、あるいは素面のときに何かを尋ねられて「うん」とか「そうだよ」程度を返したことだけだ。それが20年。進路や人間関係などの相談はおろか、ちょっとした軽い会話すら「ゼロ」と言っていいほど、ほとんど何も話さなかった。


“父のことが嫌な自分”が嫌になった日

そんなに父が嫌ならさっさと家を出て一人暮らしをすればいいのに、大学を卒業してからも私は実家に居座っていた。

仕事が長つづきせず、転職ばかりしていた私は収入も上がらなかった。それを察してか、両親からは「家を出なさい」的なことも言われない。

通勤にもそこそこ便利で、朝晩のご飯も出てくる完全なぬるま湯のなかで、私は父を避けながら勝手気ままに過ごしていた。


社会人になって何年目のことだっただろうか。ある日の出来事が、私は忘れられない。

幹線道路に囲まれたわが家のある下町の一角にしては珍しく、車通りの少ない、シーンと静まり返った休日の午後だった。なぜかは忘れたが、母と妹と私は、3人で家の前の大通りに出てきた。

母は言った。「きょうはパパがまたどこかにお金を借りられないか、お願いに行ってて…。そろそろ帰ってくるんじゃないかしら。」

父が、金策のため外に出ている。それは父個人としてではなく、会社を代表として、だ。

うち、というか、私の家の“つくり”と、父の仕事上の立場は、少し変わっていた。そして家と父の仕事は、密接に関わっていた。

私の家は、運送会社だった。それ自体は普通のことだが、問題は経営者=社長が父ではなく、私の母方の祖父だったことだ。なので祖父は父にとって舅であるが、上司でもあったのだ。

しかも私たち家族の住む家は、祖父の住まいと隣り合う敷地にあった。私の家は小さなビルの3階だったが、そのビルの1、2階には父の勤める会社の事務所とトラック用の車庫があった。

『サザエさん』の一家でたとえると、マスオさんは波平さんが経営する会社に勤めていて、住まいも、フグ田(マスオ)家は磯野(波平)家の隣にある。しかもマスオさんの家と会社は同じ建物内でつながっている、というイメージだ。24時間365日、仕事においても家庭においても、マスオさんは波平さんとフネさんの存在を意識しながら生きている。ということになる。

これは、マスオさんはちょっとたまらないんじゃないか。

ちなみに『サザエさん』の波平さんとマスオさんはとても良好な関係のようだが、私の祖父と父は、そんな風にはいっていなかった。

祖父は年をとるにつれて、困難な会社経営よりも、運送業界の古株として機嫌よくいられる会合に精を出すようになり、仕事のことは父に丸投げ状態だった。

けれども、なぜ父がこんなに特殊でストレスフルな環境を受け入れてきたのかは、なんとなくわかる気がしていた。

父は苦労人だった。戦時中に岩手県の人里離れた山奥で生まれた父は、兄弟が多かったために高校進学をあきらめ、中学卒業と同時に親元を離れて上京。集団就職で一度入った会社を辞めたが、高度経済成長期の追い風なのか、祖父が戦後に開業した下町の運送会社に再就職できた。

16歳の少年の仕事は、トラックへの積み込みや荷下ろしなどの助手から始まったが、数年後には大型トラックの免許を取得して日本中を走り回った。

母によると、実直で寡黙な父の働きぶりは、祖父をはじめ年長者から信頼されたという。年齢が上がるとともに、父の仕事場はしだいにトラックから事務所のデスクに移っていった。そして得意先とのやりとりや配車(依頼された積み荷の重量や距離などにあわせて適切なトラックを割りふり、効率よく稼働させる)など、全体を仕切る番頭的な役割を果たすようになった。父が、会社の手伝いをしていた母と結婚したのもこの頃だ。

なので私は子どもの頃から毎日父の働く姿を目にする環境にいながら(なんてったって会社と同じ建物内に住んでいるのだ)、トラックを運転している父を見たことがない。

学歴がない父にとっては、自分の能力を買って会社を任せてくれた祖父に対する義理や感謝の気持ちが、少なからずあったのではないか。それにもちろん「社長の娘を妻にもらった」というのもあるだろう。また、入社以来、苦楽を共にしてきた同僚や後輩に対する責任感もあったように思う。

そんな父は40代、50代…と年齢を重ね、いつからか高齢の祖父とともに、あるいは祖父に代わり、銀行に融資のお願いに行くようになっていた。

会社がよかったのはバブルまでだった。90年代に入ってしばらくすると、仕事の量は減り、会社にはバブル期の莫大な借金が残り、経営を圧迫した(例に漏れず、バブル期には銀行は融資をバンバン勧めていたのだ)。私は母からその額を聞き、気が遠くなった。会社は当時、数十人の従業員を抱えていた。


話がだいぶ逸れてしまった。いや戻ったような気もする。それはそうと、ずいぶん長い。


とにかく、そんな倒壊寸前の会社で父は、会社を存続させ、従業員とその家族の生活を守るため、さまざまな手立てを講じていたようだ。

そしてこの日、何度目になるのか、父は祖父に代わってお金を工面するため、どこかに頭を下げに行っている。休日に、一体どこへ? という疑問が脳裏をかすめながら、日ごろ父を避けている私でさえ、気の毒に思っていた。

母と妹と私は、トラックの出入りもない静かな大通りのはじっこで、しばらくの間、父を待つともなく待った。

どのぐらいたった頃だろう。数十メートル先の曲がり角から、あまり見かけないベージュのステンカラーコートを着た父が姿を現した。妹が「あ、パパ。」と呟いた。

けれども、誰も次の言葉が出てこなかった。父があまりにも悲しそうに歩いていたからだ。私たちに気づいていないのか、背中を丸め、肩を落とし、うつむいたまま、トボトボと歩いている。“トボトボ”という表現以外見つからないぐらい、全身から負のオーラが出ていた。あの大柄な父が小さく見える。歩みは遅く、なかなか私たちのところにたどり着かない。西日のオレンジ色が父を包み、疲れきった表情が照らされた。

ダメだったんだ。お金は借りられなかったんだ、と私は思った。おそらく母も妹も、同じことを考えていたのだろう。3人とも言葉を失っていた。

すると私には突如、父に対する同情と罪悪感がわいてきた。

父はなぜ、ここまでつらい思いをしなければいけないんだ。そして私はなぜ、父にひどい態度をつづけているんだ。

父が母方の祖父母のそばで、あれこれと気を遣いながら暮らしていること。祖父が経営への興味を失ってから、父が祖父のぶんまで働いていること。経営のことに関して頼れる相棒的な存在がいなく、孤軍奮闘していること。

それらは「私が父を避けていること」とはまったく関係がないのに、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

こんなに必死な父に、感謝やねぎらいの言葉ひとつかけられない。それどころか会えば顔をそらし、話しかけられてもいい加減な返事しかしない。

なんて最低な娘なんだろう。いい年して、自分は何をやっているんだろう。

この瞬間、もっとも深刻かつ重要なポイントは「会社がどうなるのか」なのに、私の頭のなかは「自分の父への接し方」で占められていた。

父がようやく家の前に着くと、母と妹は父を両脇から挟むように並び、3人で自宅のあるビルへ向かった。私もそれにつづいたが、呆然としていた。母がわざと明るい声で父に何か話しかけている。でもまったく耳に入ってこない。ただただ、自分のいままでの愚かさを思っていた。

父と話そう。自分は何に対して意地を張っているのだろう? 話すんだ。会話をするんだ。それだけでも父は少し疲れが取れるかもしれない。そんなことを反芻しながら、自宅への階段を上った。

けれども実際は、これが自分のダメなところなのだが、なかなか行動に移せなかった。急に私が父と話すようになったら変じゃないか。ふだん「なんでパパと話さないのよ?」と心配している母や妹もびっくりするだろう。父は父で「ユカンチが、ワシと話すようになった」と顔をほころばせるかもしれない。

それを想像するだけで照れくさく、気恥ずかしく、一体どんな自分でいればいいのかわからず、逃げ出したくなる。

結局、父への同情と罪悪感とともに抱いた改心は、心の中だけで終わった。

数年後、私は結婚して家を出たが、実家にいる間、父との関係はほとんど変わることがなかった。


時間の流れのなかで変わったもの

私はいつから父と“自然に”話すようになったのだろう。多分、長男が生まれてからだ。長男は片言を話すようになると早々に父のことを「じいじ」と呼んだ。それに便乗して私も「じいじ」と呼ぶようになった。

それまで「ちょっと」とか「ねえ」としか呼んでいなかった私にとっては、ありがたい呼び方だった。「じいじ」と呼ぶようになったことで、父と私の会話は徐々に増えていった。

私は図らずも、わが子に自分の親子関係を修復してもらったのだ。

まったく調子のいい話なのだが、気がつくと、自分のなかの父に対する妙なこだわりは蒸発したみたいに消えていた。

父と自分の間にあったぶ厚い壁(といってもその壁を作っていたのは自分自身なのだが…)がだんだんと薄くなり、そして消えて、なくなった壁のぶんだけ距離が縮まったような感覚がある。


一方で、父の会社(というか祖父の会社)は、私が結婚して出産、育児をしている間にいろいろなことがあった。祖父も祖母も亡くなったし、会社は都外へ移転した。私たち家族が住んでいたビルもなくなり、両親は、会社の移転先の近くに引っ越していた。

会社は危機を乗り越えた。父は従業員を犠牲にせずに、会社を守ったのだ。

そんななかで父自身も高齢の域に入ったが、幸運なことに、絶妙なタイミングで信頼できる後継者が見つかった。父は新しい世代に会社をバトンタッチすることができた。

60年にもわたる長い長い会社勤めを終えた父は、重すぎる荷物をようやく下ろすことができた。母も妹も私も、父がこれまで会社を存続させ、従業員とその家族の生活を守り抜いたことを心から誇らしく思っていた。


父のすい臓がんがもたらしたもの

昨年の春、父がすい臓がんと診断された。退職から約3年たっていた。ヘルニアの手術をした経過観察の検査で、偶然判明したのだ。

すい臓がんといったら「亡くなる人が多い」イメージはあったけれど、難治性というだけでなく「がんのなかで最も生存率が低い」というのは、後から知った。

父方も母方も長寿家系だし、がん家系でもない。日本人男性の平均年齢にも満たない父を含め家族全員、「いきなりすい臓がんと診断され、余命の話をされる」状況が飲みこめない。それに父も、体調が悪いというほどでもなかった(自覚症状がなかなか現れないのも、すい臓がんの特徴のひとつだ)。なので私はいまいちピンと来ていなかった。

ただ、父や母の誕生日はもちろん、何かといえば実家に集まって飲み、食べ、笑っていた“日常”は、ぷっつりと途絶えた。

ちょっと前まで自分が感じていた「いまがいちばん幸せなんだろうな」の“いま”が永遠につづくとはもちろん思っていなかったが、予想していたよりもずっと早く、しかも突然、終了した。

父が病気でも、一応は誰かの誕生日などに実家に集まって食事をする。けれども何かが違う。父や母の周りの背景はいままでと同じはずなのに、なんとなくぼやけて見えて、頼りなさのようなものを感じた。

何より、あれだけ大酒飲みだった父がアルコールを口にしない。父は言葉にしないまでも、相当なショックを受けていたに違いなかった。


父のがんは「ステージ3」で、かなり進行していた。手術は不可能だったので抗がん剤治療を受けるため、月に数回通院することになった。

病院までは、実家から車で片道30分。父はもう免許を返納していたので、私が仕事を休める日は車で送迎することにした。受診にも付き添った。世の中はすでにコロナ禍にあり、「付き添いは1人まで」と制限されている。そのため母は家で留守番、となった。

この「車で送迎が必要」と「病院の付き添いは1人まで」という条件によって、思いがけず、「何十年ぶりに父と私が2人きりで車で移動する」ことになった。

高校生のころ、大雨でバス停に行くのがめんどくさい日、よく父に「ねえ。車で送ってよ」とまるで命令するみたいに頼んで、学校まで送ってもらったっけ。でも車に乗ったら一切話さず、自分は助手席に座り、大粒の水滴を弾くワイパーの動きを見つめるだけだった。そんなことを情けない気持ちで思い出す。

父と2人きりでの移動だと思うと若干緊張したが、いざ通院が始まるとそれどころではなく、「話さなければいけないこと」と「話したいこと」で、毎回時間が足りなかった。

私がネットや本で調べたすい臓がんの情報や、抗がん剤の効果、想定される副作用。主治医の説明で父がわからなかった点はどこか(主治医は専門用語を多用するので、ちょっと難解だった)。抗がん剤治療のほかに、先進医療を受けてはどうか、など。

自分がわかる範囲で、父にすい臓がんや治療について理解してもらい、冷静な気持ちで病気と向き合ってもらおうと考えていた。

また、あるときは父が息子たちの様子を聞いてくる。

「どうだ、タロウは受験勉強がんばってるか? 将来何になりたいとか、あるのか? 」

とか、

「ジロウ(次男)はいつもおとなしいな。友達いるのか?」

と、絶えず気にかけてくれる。

私は、「タロウは相変わらず勉強してなくてさーどうしよう。」とか、「ジロウは家より学校にいるほうが元気がよくて、友達もいっぱいいるよ。」と答えたりする。

考えてみると、父と1対1でこんなに長く話すのは初めてかもしれない。父ががんになったことで、いままでになかった類いの親子の会話の時間が生まれていた。

こうして父と話していると、なぜ自分があんなに父を避け、毛嫌いしていたのか不思議だった。もっと早く、たくさん話せばよかったなとも思った。


治療が始まって1年ほどたったある日、父が病院の帰りにぼそっと、「あの先生は、あったかい感じがするよなあ。」と言った。

「あの先生」とは、いつもの主治医ではなく、抗がん剤治療と併せて受けた先進医療の担当医のことだ。

主治医のことも、的確な診断と治療法で信頼はしていたが、父の不安を払拭する言葉をかけてくれるようなケアは少なかった。

先進医療の担当医は数か月に一度しか会わないのに、そのたびに「食欲があるなんて、すばらしいですね。」とか「今回のCTの結果は心配するほどのことはないですから、安心してください。」などと、精神面からも父をサポートしようという姿勢があり、ありがたかった。

なので父が「あの先生は、あったかい感じがするよなあ。」と言ったのも、もっともだと思った。そしてまた、昔から自分の感情をあまり表に出さない父が、私に対して本音を打ち明けてくれた気がして、うれしかった。

逆に言えば、父は心の奥にわずかに生まれたポジティブな感情を声にしなければならないほど、深い不安や恐怖に襲われていたのかもしれなかった。

父がすい臓がんになってから、父との車での移動はどのぐらいあっただろう。ときにはセカンドオピニオンを求めて、片道数時間かけて別の病院へ行ったこともある。それらの時間は、私が父と会話をしなかった20年間を埋めるものに値するかどうかはわからない。でも少なくとも、経験したことのない濃い時間になったのは確かだ。


そう思っていたら、今年の夏、父は亡くなってしまった。主治医から示唆されていた時期よりも早かった。

ある日、父の体調はゴンドラのロープが切れたみたいに急降下した。加速度的に落ちていくゴンドラのスピードを、もはや主治医も家族も誰も止められなかった。

書いていいのかわからないが(不快に思われたら、すみません)、このnoteを書きはじめたとき、父は生きていた。

正確に言うと、父の体調が急変したので、ならばせめて父が命あるうちに、自分のいままでの反省や思いをnoteに書き、私が読んで、父に聞いてもらおうと考えた。

でも、間に合わなかった。半分ぐらいしか書いていないのに、あっという間に父は旅立ってしまった。自分のルーズな性格のために書くのが遅かったことも多分にある。

父が亡くなったことを書く予定などなかったのに、結果的に書くことになってしまった。

父が亡くなって5か月が過ぎた。



私は、父ががんになる前、「いまがいちばん幸せなんだろうな。」と思っていたのは、ほんとうだったな、と痛感している。

当時は「家族のなかで、いま“父が”いちばん幸せなんじゃないか。」と思っていた。でもそれは間違いで、家族全員が一様に幸せだったんだ。

そもそも自分が父と話さなかったせいで、父がずっと寂しい思いをしてきたのに、話すようになったら「父は幸せだ。」なんて思うのはあまりに傲慢だ。

ただ、以前実家でほろ酔いの父が、「幸せだなあ。あー、幸せだなあ。」と大きな声を上げたことがあった。「幸せをかみしめる」という言葉があるが、まさにあのとき、父は最高に幸せな瞬間をかみしめていたのではないかと思う。それはもちろん、私も同じ気持ちだった。父が「幸せだなあ。」と声にしてくれたことが幸せだった。

父に「ありがとう。」と伝えたい。






































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