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すべてがすべての由来となる ◆ 水曜日の湯葉126[5/1-7]

そういえば自慢し忘れてたが、1年ほど前に買った名刺入れがなかなか気に入ってる。名刺を毎回忘れるので「いい名刺入れを買えば忘れないはず!」と思って越谷レイクタウンで買ったもの。レーザー刻印を入れられるというので Twitter ID の @yubais を書いてもらった。なお今でも名刺はたまに忘れる。


 5月1日 水

起きるなり風邪ぎみ。鼻水が無限に出る。どこにこんな大量の水が溜まっているんだ、と調べて「鼻水の由来は血漿成分」という知識を得る。となるとこれは擬似的な大量出血ではないか。でもそれを言い出したら人体の大抵の水は血液を経由しているな。尿だって血液を腎臓で濾し取ったものだ。我々は日常的にすごい量の「血液だったもの」を失っている。

『シドニアの騎士』には尿をろ過して飲料水にするシステムがあって、脱水状態で救出された主人公に対して「乾杯しようぜ 俺由来の水でよければ」という台詞が出てくるが、もともとあの物語の舞台は人類をよその惑星に移住させるための播種船で、水はかなり狭いサイクルで循環してるはずなので、結局はみんな「俺由来の水」を飲んでいる、ということになる。規模は違えど地球だってそうだ。すべてがすべての由来である。日常生活ではそういうのをブラックボックスにすることで気分的な清潔感を得ている。

『ダンジョン飯』の2巻でも、センシが冒険者の糞尿を肥料にして野菜を作ってると聞いて「マルシル そのへんは地上でも同じだろ」「そうだけどなんかやだ」となる話がある。この「なんかやだ」はつまるところ「ブラックボックスをブラックなままにしてほしい」という欲求である。

ダンジョン飯は1話で「妹のファリンを食べた竜を食べていいのか?」という問が登場するが、よく考えると我々も人肉由来の物質を食べている。「人間の死体が微生物によって分解され排出されたCO₂を光合成で固定した穀物を飼料にして育てられた牛肉」みたいな手順で。ここまで紆余曲折すれば誰も気にしない。そういう倫理ロンダリングで我々の社会は成り立っている。

倫理ロンダリングを破壊する例


5月2日 木

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