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手を加え過ぎない面白さ

技術とは、手を加えるところにある。どのように手を加えるか、人様と違う手の加え方をして個性を出す、とか。
写真で言えばレタッチなのか。私は、写真でほとんどレタッチをしない。iPhoneカメラでフィルターを掛けて撮影して、デフォルトのカメラ機能で自動補正をするかどうかで済ませている。最近は、自動補正をしない方がいいのではないか、とまで考え始めている。

RICOH R10で撮影して、iPhoneで自動補正をした写真
iPhoneカメラでフィルターを掛けた写真

オールドコンパクトデジタルカメラのR10。写りが地味である。この写りがいいのではないか。自動補正以外のレタッチをする必要が、あるのだろうか。

ボトムズのスコープドック。プラモデル。塗料を混ぜずに、瓶生で筆塗りを行った。希釈をしていないので、塗料に厚みがある。ある種、野暮ったい。これが私にとっての「エモ」なのかも知れない。
写真の場合、私はあまり手を加えない。スナップフォト。そのまま撮ればいいじゃない。

近所を散歩しつつiPhoneで撮影

原付を動かさない、花びらを動かさない。目の前にあった物を撮る。
プラモデルフォトの場合、物撮りだし、自分で作った物なので、手が加わっている。プラモデルのパーツを組み合わせて、筆塗りをする。仕上げにトップコートを塗布する。

私にとって、写真は無機的で、プラモデルは有機的な行為である。写真撮影はボタンを押せばいい。大体のことは、機械がしてくれる。それでは味気ない、と思って、レタッチとか、エモいとか、手を加える人も居るけど、私はレタッチをしないし、所謂、エモさを写真に入れないようにしている。
プラモデルを撮影することは、無機と有機が入り混じって、面白い。

プラモデル作りも、私はそれほど手を加えていない。塗装をするぐらいで、パテ埋めや改造などをするつもりはない。合わせ目消しもしない。
塗料の色は、必要がなければ混ぜずに、市販の色をそのまま塗る。私は、プラモデル作りで、手を加えて個性を出そうと考えていない。
私が手を加えると、野暮ったい感じになる。この野暮ったさを消そうとも考えない。

BANDAIの猛者、モササウルスのプラモデル
自分で模写した鉛筆画(iPhoneのカメラで複写)

絵を描く。これは、純然たる有機的行為と言える。デジタルではなく、鉛筆で描く。エモい。
その結果が、これである。落書き。
技術を用いず、純然たる有機的クリエイトをすると、私の場合、こんな絵になってしまう。

・写真は、無機的なクリエイト

・プラモデルは、無機的と有機的が入り混じったクリエイト

・絵は、有機的なクリエイト

写真撮影もプラモデル作りも、絵を描くことも、私1人の行為で、私の中には、無機と有機が混在している。どちらの面をより出すかによって、作品が変わってくる。

例えば、絵。もうちょっと何とかしよう、と考えない。もうちょっとマシにならないものか、つまり、上手くならないか、上達しないか、と考えず、むしろ、1枚の絵の描く時間を短縮しようと努力をしている。
ディテールの省略、線や色の描き方。

テクニックがあって、上手くなるコツのようなものがある。もうちょっとマシになりたくて、ネットで調べたり、誰かの教えを乞う。
そうやって、「自分」から離れていって、嘘つきの作品になっていく。あるいは、モットモラシイ自分、モットモラシイ作品になっていくだろう。
人が生きていく上で、モットモラシサも大事で、ホンネだけでは生きていけない。ただ、ホンネを作品で表現したいのならば、モットモラシサを疑う必要がある。

手を加えないことで、ハミ出すところがある。写真に手を加えないことで、ハミ出すところがあって、それは情緒であり、私にとっての音楽である。人並みに言えば「エモ」だろう。
エモい写真を撮るのも、何だかマニュアルがありそうだけど、テクニシャン・エモは、私にとって押し付けがましい。

私にとって、写真とは、具をハミ出させない為の抑圧で、それでも滲み出るものがある。

私にとって、絵は、抑圧からの解放なので、ハミ出るどころか、モロ出し。

私にとって、プラモデルは、ハッキリした指針と自由が混在している、半出し。

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