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なんとかなるさ17共生の模索•✼•イタリア・ボローニャ滞在記第❼回の所感•✼

2022年11月23日に行われた『オンライン・セミナー「イタリアのフルインクルーシブ教育の現状と課題」イタリア国立カリアリ大学教授アントネッロ・ムーラ氏をお招きして』の様子はyoutubeで視聴できる。こちらの動画には、大内進先生も登壇されている。視覚障がいの方のための「触る教材」は重度重複障がいのある子どもたちにとっても大変良い教材でもあるので、美術館の作品に触ってもいいという気配りは本当に嬉しいな。
ふむふむ、イタリアの「留年制度」については、おそらく私たち日本人には馴染まないかもしれないな。
へえ~。イタリアの「学校群制度」(⇦今回の記事の重要ポイント!)は初めて知ったなあ。

とある勉強会で一緒になった青年のノートより
「学校群」…幼稚園、小学校、中学校が地域単位で連続してつながっている

そうやって、社会的、制度的、文化的背景の違いを慎重に押さえながら、それぞれの国の事例を知っていくことが大事なのだと思う。私は日本語しかわからないので、フルインクルーシブ教育を実践しているイタリアの様子を日本語に翻訳して伝えてくださり、たいへん感謝している。

イタリアの様子を知ることができ、感謝多謝

それにしても教育制度は国によって本当に違うんだなということを改めて感じさせる、今回の大内紀彦氏の記事である。
各国の「教育関連基本法・基本計画の関係についての類型」という面白い図表があったので、転載する。

教育の基本的法律と基本計画の関係(文部省科学省HPより)


ところで、日本では改正教育基本法に示された理念の実現と、我が国の教育振興に関する施策の総合的・計画的な推進を図るため、同法第17条第1項に基づき政府として策定する計画が教育振興基本計画で、第一期H20~24、第二期H25~29、第三期H30~R4、そして現在第四期R5~が2023(令和5)年6月16日に閣議決定された。
ご周知のとおり、日本では「多様な教育ニーズへの対応と社会的包摂」は【多様な学びの場(通常の学級/通級による指導/特別支援学級/特別支援学校】を整備していくことに重きをおいている。
ここで改めて通常の学級に焦点をあてると、とある資料によれば、小学校35人学級の中に、特異な才能のある子0.8人(2.3%)、発達障がいの可能性がある子2.7人(7.7%)、不登校の子0.4人(1.0%)、不登校傾向のある子4.1人(11.8%)、学力の低い傾向の見られる子10.4人(29.8%)、日本語が第一言語ではない子1.0人(2.9%)が在籍しているという。こういった報道を耳にすると、日本で半世紀近く実践を積み重ねてきた特別支援教育の「一人ひとりの子どもに合わせる」という視点を通常の学級にも少しずつ取り入れていけるといいなと思う。フルインクルーシブ教育のイタリアの具体的実践を知るたびに、いつも思う。

〇20人前後の少人数クラスの編成
〇複数担任制(チームティーチング)
〇グループ学習、個別学習が行いやすい教室環境

というふうに、少しずつ少しずつ舵を切っていけるといいな。
しかし、現状はやや違う。。。

2021(令和3)年度約30万人と過去最多となった不登校の子どもたち。
私の兄も不登校傾向にあった(もう昔のことであるが)。

私の兄の場合。

私の兄は、乳児期の頭部打撲の後遺症により、身体的な障がいは残らなかったが、成長するにつれ感情コントロールの不得手さや同年代の仲間との関係づくり及び集団行動の弱さが顕著化し、小学校高学年の頃より登校拒否状態となってしまった。登校を嫌がる兄を、母が背中を押してなんとか高校まで通わせてきた。周囲から奇特な目で見られて、いつも恥ずかしかった。

私の兄のことはほんの一例であり、学校に行かない・行けない・行きたくないという背景は多様である。人間関係などにちょっと疲れて羽を休めてるだけであったり(少し休めばまた戻れたり)、思わぬ病気が隠れていることがわかったり、発達障がいによる生きにくさであればその特性を理解した上での関わりが重要になってきたり、300,000人いれば300,000通りあり、それを十把一絡げにすることはしたくない。
だが、2005(平成17)年の学校教育法施行規則改正で、不登校児童生徒の実態に配慮した特別の教育課程を編成して教育を実施する学校が誕生している。正式名称は「不登校児童生徒を対象とする特別の教育課程を編成して教育を実施する学校」。通称として用いられてきた「不登校児特例校」は、2023(令和5)年8月より「学びの多様化学校」となり、現在全国24校 から 300校の設置を目指すとの報道があった。
ゆえに、私は困惑し始めている。
うん?「学びの多様化学校」???「通常の学級」から‘こぼれ落ちた’不登校の子を地域単位で呼びかけて集めて囲うことは、現状では有難いと感じる人もいるかもしれないし、気持ちが前向きになれそうなネーミングにしようという気遣いもありかもだけど、「地域社会の中で包摂する」という視点から見てどうなのだろうか?多様と包摂の方向へと早急に見直すべきなのは、あくまで知識重視で均一化/標準化されている「通常の学級」の方ではないのか?

なぜなーぜ?

大内紀彦氏のイタリアからのレポートを読み進めていくほど、日本の「学びの多様化学校」という通称一つ、報道ひとつに、ただただ困惑し、私の中の「地域社会の中にある多様性を包摂する」ことへの模索の在り方に、ひとり頭を抱え込んでしまっている。


人はカラフルなのだ。
人の内面もまたカラフルなのだ。


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