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たけのこは日常以上ハレ未満

春の味覚といえば、と聞かれたとき、答えはいつも何となく桜餅だったのが最近はめっきり筍だ。歯触り以上歯ごたえ未満の食感が本当に美味しく感じる。えぐみがすっかり抜けたあとには柔らかな美味しさしかなくて、どんなお料理に入っていても嬉しくて美味しいからすごい。

筍を食べるときは何となくいつもちょっと特別だ。ケーキほどの非日常やスペシャルではないけれど、日常的になんとなく食べるものではない。いつもなんだかくすぐったい喜びがある。

家で筍を煮るとき。店頭で一番モサモサと大きいやつを選んで、でも剥くとスルスルスル…っと小さくなっていってしまって、そのおかしみがいつも愛しい。適当に切って、ちょっとの生米と一緒にたっぷりの水からふつふつグラグラと煮て、しばし待つ。仕込みはそれだけと言えばそれだけだが、とろ火がなんとなく気忙しい。大丈夫かな、とコンロに目をやることもまた地味を極めた特別な動きだ。生米と一緒に長時間何かを煮ることは普段ない。そんな行程もまた特別さに関わってきてくれている気がする。

そしてすっかり煮上がったやわらかな筍を、煮物なり筍ご飯なりにするあの楽しさよ。自炊の良いところは沢山入れたり大きく切ったりできることだが、従って我が家の筍ご飯は筍がたっぷりだ。流行りの表現でいうなら、とっても筍リッチである。それを食べる時のあの雰囲気、夜でも春の日差しが満ちるみたいなゆるゆる加減が好きだ。

これが育つと竹になることをいつもちょっぴり信じられない。筍を取ったことのある友人に聞いたが、1日経つと食べるには育ちすぎて固くなっちゃったりするのだそうだ。限られているのは旬だけじゃないんだな…と八百屋さんの筍たちを前にしみじみ感謝の気持ちでいっぱいになる。

外で食べる時もやっぱりちょっと特別だ。私にとって外食の筍は、なんか美味しいもの食べたいね、というときに選ぶお店にあるもので、かつなんか美味しいもの選ぼうか、というとき目に止まる。昨日も和食居酒屋さん的なところで筍食べちゃったのだが(えへへ)、シンプルに「焼きたけのこ」、もうとりあえずこれである。アラサーの面々、誰も悲しまない。細く縦長に切られてちょっと端が焦げるくらいにグリルされた筍は、多分良いであろうまろやかなお塩がちょっぴりあしらわれてて、ワカメが添えられていた。素材の、味…!としみじみ味わって食べた。きっと来月会ってたなら、このおいしさをこの面々と楽しめなかったんだよなぁと思ってしまうほどに美味しかった。

山盛り、はち切れるほど食べよう!という感じじゃないのも個人的には結構好きで、せいぜい「いっぱい」くらいというか、あるなら必ず食べたいけれどないならないでかまわなかったりする。付かず離れずの距離感(?)が心地よい。時期は毎回お買い物で買う!とか、一年中食べたくて仕方ない!とか、筍のためにお店を選ぶ!…とかいう感じでも正直ないのだが、しかし入った場所であるならば絶対にいただきたい。比較的仲の良い同僚とたまたま自販機の近くで「あ、どーも…!」となってお喋りしたくなる感じは割と近い。

本当に嬉しくて愛しくて、定期的に巡り会えるけどずっとは存在してなくて、だけどものによっては思い出せないくらい淡くなって記憶を過ぎ去るくらいの、ささやかな特別。他に何があるだろう。意外と筍は存在感が唯一無二かもしれない。あと何回今年は食べられるだろうか。

筍、大好き。

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