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学校を設立し、挫折を通してあり方に気づいた話

最初にお読みください。

このnoteをお読みくださり、ありがとうございます。
自分を語ることはあまり得意ではありませんが、noteをお読みくださる方々に、筆者の田中善将(たなかよしまさ)について、少しでも透明性のある情報をお届けするべく、作成しました。

私は、恥ずかしがり屋で、あまり群れる事を好かず、一つの事をやると決めたら、徹底的に集中するしてしまう人間です。

そんなやつが、教育界で二本足で生きる道を開き、教育に携わる方々に役に立つヒントをお伝えできれば幸いです。

私のnoteを読む事で得られること

私は教育現場におけるテクノロジーについて、情報発信をします。具体的に皆様にお届けできるメリットは、

・現場の厳しい環境下で、悩みながら働かれる教員の方・・・先進的なテクノロジーの活用ノウハウ

・これから教員を目指す方・・・今の教育現場ではなく半歩未来のニーズ把握

教育系のサービスに従事している方・・・コラボレーションの具体的可能性

です。
このnoteは冒頭でお読みいただくものですので、なぜ私がここまで教育現場のテクノロジーに拘っているのかをお伝えします。

「納得が行く教育」が見えなかった25年間

兵庫県神戸市の片田舎に生まれ、3人家族で愛情を一身に受け、わがままに育ちました。裕福なわけではありませんでしたが、生活に必要な物や勉学に必要なことは、両親が全てサポートしてくれました。

小さい頃からスポーツが好きで、野球やバスケットボールに打ち込む学生生活。

ただ、内向的な性格だったため、目立っている友人を見ると、羨望の眼差しを送っていた少年でした。

小学校に入学してすぐ、学校が好きになり、友人や先生にも恵まれ、大人になったら学校の先生になりたいと考えるようになりました。

小学校2年生の頃から両親の薦めで学習塾に通うことになりました。習い事は他にも習字や水泳、野球などをしていましたが、この学習塾が週に2回あり、当時スパルタ教育で有名な塾でしたので、幼いながらに「勉強は怖いもの」というイメージを持っていました。

両親が中卒で苦労してきたため、毎日「勉強だけはしなさい」と耳にタコができ、中学3年を迎える頃には、学校や塾での学習に飽き飽きしていました。

勉強では塾で苦労していた分、受験も人並みに乗り切ることができた私は、大学から上京し、卒業後、教員になる道を掴み取りました。

ここから、そんな私が「納得の行く教育」を探し、働き方を再定義したエピソードを、文調を変えてお伝えします。

参考資料:ストレングスファインダーより筆者(GT)の資質

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学校を設立した経緯

自分が求める教育を実現する学校を創ってみたい

大学生の頃から、当時の私は、自身が受けてきた教育に納得感を得てなかったことを棚に上げ、こんな風に意気込んでいた。

初めて勤める先となった学校は、生徒の夢に寄り添う熱い先生ばかりであった一方で、自分の浅さを隠し、書物を読み漁り、背伸びをすることに必死であった

「好奇心をくすぐる面白い授業をする教師」になりたいと意気込むものの、オーソドックスな授業手法を、いわゆるアクティブラーニングに変容させることを一年目からチャレンジしたが故に、生徒には耳が痛いことを言われた経験が忘れられない。

そんな教師一年目の12月、教員研修で理事長からの重大発表があった。

「一年後、バングラデシュで小中一貫校を開校することに決めた。モデルとなる学校だ。生徒の夢に伴走する教育をベースに、他校に真似してもらえる形で体系を組み、教育水準の向上を図る。この学校から3名送り、学校創設から運営までこのチームがこなす!行きたい奴は手を挙げろ。」

背筋に電撃が走ったのを覚えています。立候補すると確信した。理由は自分の納得いく教育を研究し、それを実現するチャンスが、今目の前に来たからだ。

手を上げてから選んでもらい、渡航するまでは一瞬で、気付いたらバングラデシュの地に家を借りていた。

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現地に降り立って

圧倒的にSDGsとはかけ離れた持続不可能に向かう社会。度肝を抜かれる毎日でした。写真は、首都ダッカの、工業用水が流れ込む池。魚は死に絶え、異臭が漂う。先進国が安い賃金を求めて工場を設置し、人々は雇用を求めて都心に集う。インフラが不十分な中で、産業が展開され、解が見えない環境汚染が進んでいた。

写真に見える軒並みはスラム街。トタンでできたハリボテの家に住む子どもたちは、満足な教育が受けれず、スラムから抜け出せずにいる。

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この地域のために私ができることは何であるか。

降り立ち、この地を見てまわったこの日から、答えのでない自問を続ける日々。

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学校は写真のような都心からは離れた農村地帯に設立した。環境汚染は都心とほど無いものの、貧しさと闘っている家庭は多かった。そんな中に、無償で高品質の教育を提供する学校を建てた。

子どもたちの幸せを願う、夢を後押しする学校。人気が出るのは自明の理だった。

順風満帆な教育事業のはずが

学校が始まり、順風満帆にプロジェクトが進んでいるように見えたが、痛烈に自分の無力感に打ちひしがれた出来事があった。

学校が始まって3年がたち、生徒数も400を越えた時、何名かの生徒が、学校を去ったのだ。

「勉強したいのに、結婚しなければいけないです。家族のために、夢を諦めなきゃ。でも諦めたくないです。」

そういう女児たちの悲痛な叫びだった。

バングラデシュでは、女児たちは10代で結婚することはよくある話。早い場合、10代の前半で結婚するケースも稀ではない。嫁に出せば家には結納金が入る。

結婚すると当然のように子どもを育てることになる。学校に通う女児たちは、先の如く、一人の人間としての将来性に蓋をせざるを得ない経済状況があるのだ。

学校は、家庭の意思決定に関わることができない。教育は、今まさにその時、お金を産まないのだ。

「貧困」

教育はなんと無力なのか。独立した学校そのものは、貧困を解決するすべを持たない。少なくともこの時は、学校の運営に奔走しており、こういった女児たちの声に耳を傾けるものの、助けとなることはできなかった。

またある日、ある小学4年の男児から「相談があります」と呼び出された。

なんでも、此度の洪水で、父親の商いで飼っている鶏が全滅し、借金を返せなくなった父親が夜逃げしたのだそうだ。(バングラデシュでは、たびたび洪水が起き、甚大な被害が出る)

家庭の混乱は火を見るより明らか。いなくなった父親が見つかることはない。母親が幼い子どもたち3人を育てるため、月給3千円のレストランの掃除の仕事に通う。しかしそんな薄給も借金の取り立てにとられてしまい、明日食べるものがない。

幼い兄弟姉妹を食べさせるため、この小学4年生の子は、責任を感じ、私に相談を持ちかけたのだ。

「僕が働くしかないんです。家族を養うために、学校に通いたいけど、もう今すぐ力仕事をするしかないんです。先生、どうしたら・・・」

お金をください、と言われたなら、まだいくらか気が楽だったかもしれない。この子はお金をくださいなどと言わず、どうすれば自分に力がつき、この問題を今すぐ解決できるか、真剣にかつ主体的に相談にきたのだ。

またもや、自身の無力感に打ちひしがれた。

貧困の世代間継承モデル

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どうやらバングラデシュには貧困の世代間継承モデルがあるようだ。おそらく世の貧困状態にある家庭には同様の状態が見て取れるのではないかと思う。

お金がないから、十分な生活が送れず、教育も良いものが受けられない。

良い教育が受けられないから、スキルが付かず、良い雇用にも巡り合わない。

良い雇用にも巡り合わないから、お金がない。

教育だけ提供しても、この負のスパイラルからは抜け出せないのだ。

これが私がバングラデシュで味わった挫折である。

「ごめんな、一緒に考えることはできても、俺には何もすることができない。」

借金取りへのお金の工面だけ肩代わりし、逃げるような心持で、任期の終わりを迎えてしまった。

答えの見えない、貧困へのアプローチ

読者の皆様ならそういった時に、どうするだろうか?

一人を助ければ、同じ境遇の子どもたちはどうするのか?

こぞってやってきたら全員分助けるのか?

私が選んだ答えはNo。この負のスパイラルの全てを打開する仕組みを準備することが私のできること。貧困を解決する、なんてことは、究極は当事者でしかできない。ならば、せめてその環境を・・・

これが今の私の教育者としての課題観だ。学習だけでなく、職業観を育む経験、教育を後押しする資金、この三位一体のサポートを実現する環境を構築できれば、バングラデシュのあの子たちには遅くとも、次に同じ思いをする子どもたちには届けられる。

なんとかせねばならない、と今だにその子どもたちが夢に出てくる。

帰国してからの教育現場で

3年の任期は気づけば一瞬で、日本に帰国した。バングラデシュでの経験を、日本の子どもたちに良い形で組み込められれば。

今度は中学の担任をしながら、そんな風に考えるも、日本のとりわけ東京はバングラデシュで味わった「貧困」とは程遠い。目の前の子どもたちに全力で関わりながらも、何か暖簾に腕押し感があり、納得できないモヤモヤが心にある。

教員も、生徒も、保護者も、バングラデシュの子どもたちと比べれば、みんな抜群に裕福だ。あらゆるものや体験が充実している。

SDGsと昨今では流行っているが、本当に持続不可能な問題に直面している現場に行かねば、温度感や納得感はなかなか得られないように思う。

場所という制約。経済という制約。

これらを取り払う仕組み。

私が今、教育分野のICTソリューションで起業したバックグラウンドは、全てこのnoteで書いた事に詰まっている。

ネットワークとPCさえあれば、高品質の「情報」にリーチできる。世界中の人と繋がることもできる。そこに信頼できるファシリテーターがいれば、生徒は安心して学ぶことができる。

これは、バングラデシュの子どもたちにとっては、あり得ないくらいのチャンスだ。

だが、現地では、まだまだチャンスだと「認知」ができていないし、日本でもこの当たり前がどんな影響を産むのか、語られはせども、とりわけ教育分野には入りが遅い。

ならば、今ここで本腰を入れてやろう。

いろいろな出会いや、私個人のタイミングもあり、気づけば学校での働き方を整理していた。今は非常勤講師という働き方で授業をしつつ、教育ICTコンサルタントとしても働いている。これは、私にとって、一番の働き方。

気づいた「あり方」と起業の想い

私は、何不自由なく、育てられました。学校では勉強さえしてればよかった。学校が好きで教員を目指した。だが、私が所属してきた学び場は、本当に自分探しができる場ではなかった。

すでにある恵まれた環境、一方で全然足りてない安全な環境。手が届く場所にあるリソースに、リーチしようとしない。それが今の教育現場。

『良い学び場をつくろう。』

スクールエージェント株式会社はそうやって、居てもたってもいられず設立した会社です。

弊社は、教育現場で、先生が最も得意とする語りかけや設計で子どもたちにアプローチし、教育効果が最大化されるように、変容の手助けをします。

先生たちがもしも技術的に困っていれば、必ず変容していただけるまで、横でサポートする。

そうすれば、多くの子どもたちが、良い学びを享受できる。

世の中には素晴らしい先生方が、たくさんいる。教育の必要性が賛否両論語られているが、私は、バングラデシュでの経験から、「ベースアップ」の大切さを痛感している。啓き育てる新しい教育の価値観と、ベースアップの教育と、セグメントに合わせた提供があって良いと考える。

子どもたちは、側で見てくれている信頼できる人の温かみを感じながら育ちます。心理的、経済的安全を担保しながら、子どもたちの考えに耳を傾けるプロが先生方です。そんなプロが日本にはたくさんいる。これは紛れもない事実だ。

今では結婚し、都内に家を持ち、子を持った。

親になり、子どもの顔を横で見て、愛すべき次世代の子どもたちに教師としても、親としてもできることを、人生をかけて取り組んでいきたい。

未熟ながらそんなあり方に気付き、教員をしながら多くの学校に関わらせていただいています。
熱い方々と繋がり、まずはここ日本で、教育×ICTで、三位一体の良い学び場をつくる。

さあ、今日も学校にいこう。

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いつも応援してくださる皆様に田中GT善将は支えられ、幸せ者です。ありがとうございます!