コミュニティとアイデンティティ: 鶏が先か、卵が先か

こんばんは、初めましてから5分でENTPと見抜かれ、なんとも言えない気持ちになった22歳です。

今日は授業で考えておもしろかった、コミュニティがアイデンティティを形成するのか、アイデンティティからコミュニティを選択するのかという話を書こうと思います。
結論、コミュニティを一度忘れて孤独に個人としての過去と未来を思い描いてアイデンティティを定義することが、フレッシュな気持ちで世界を見つめ直して迷わず進める人になることになって楽しいんじゃないかな?って話です。
(多少推敲しつつもクイックに書くのでガバ議論です。突っ込みたくなった人、面白いと思ってもらえた人はぜひお話ししましょう!)

コミュニティを起源とするアイデンティティの獲得

アイデンティティのわかりやすい形成要因の一つに、コミュニティの中でのロールやメンバーとの比較による、相対的な自己認知や評価によるものがあると思います。
「私はとりあえず口が動くから場の空気を作りに行かなきゃ」、「私はあの人より時給が低いからこの生産性が低い仕事を積極的に引き受けよう」みたいな。(そんなネガティブなものに限らないけど)
ロールとして引き受けたものをアイデンティティとして解釈することで、おそらく最も手軽にアイデンティティを獲得することができます。

人は生まれながらにして親がいて、生まれた土地があるので自認するか否かはさておきアイデンティティのタネを獲得するのは最初はコミュニティからでしょう。これが一般的なアイデンティティの発生・決定要因と考えて良さそうです。

アイデンティティから選ぶコミュニティ

では逆に、アイデンティティをすでに獲得している場合、それをもとにコミュニティを選択するという考え方・行動はありうるのでしょうか?
アイデンティティは相対認識から生まれ、運用されるのか、それとも個に根付き定着しうるのか。

日本人は海外に行っても同じ日本人同士でコミュニティを形成する傾向にあるという話を読んだことがありますが、これはアイデンティティからコミュニティを選択する事象の一つですね。
自分とは異なる(と思ってしまう)環境要素に対して、安心感を得るための防衛意識とも捉えることができますが、それもまた国籍や出身以上の強く人類という括りで普遍的なアイデンティティを擁していないからでは?と考えることもできます。

中学校で自然と進学の選択を想定する人が多いことのように、人はコミュニティからアイデンティティを獲得する形質があるので意識しない限りコミュニティ→アイデンティティの流れがあるのかなと思います。

孤独のすすめ

いきなりな見出しですが、ここまで読んで確かに自分もそうしてきたかも!と思ったあなたに孤独のすすめです。その矢印、逆転させてみませんか?

コミュニティに基づくアイデンティティの形成は所属感と確かな存在感が得られるとても良い方法でおそらく社会生物人間として自然ですが、時にコミュニティの性質や目的に迷った時、環境に大きな変化があった時(進学や転職などもそれ)に迷ってしまったり、自分の人生を語ろうとした時に繋がらなかったり(語る必要がなかったり、人間の現在起点で物語る習性とかさておき)、すると思います。
そんな時におすすめなのが、一度コミュニティから離れ、誰からも要請されない状態で過ごしてみることです。

自由の風に吹かれたことはあるか?

「大学生になると君たちは自由の風に吹かれることになるでしょう」
高校生の時に現代文の先生から言われた言葉です。
実際に大学生になってみると、確かに自由でその気になれば家でずっと寝てることもできるし、朝から晩まで研究することもできるし、自由だなと思いました。
ただ、風に吹かれている実感はありませんでした。

家でずっと寝ていても授業に行っていないという実感があるし、朝から晩まで課題や論文に取り組む日を送っても学生というロールをやり切った感覚しかなく、サークルにのめり込んでそこにしかない無二の幸せを感じても、どこか自分が何かに押し出されて動かされているような感覚がありました。(どれもかけがえのない時間で、今も大切に思えるものでなくてはならなかったとも思っています)
僕にとって大学生活は、自由なようでいて、従う束縛条件の選択肢が豊富な不自由な暮らしになってしまっていたのでした。

風に吹かれて

僕が風に吹かれることができたのは学部卒業のタイミングでした。同じ大学院に進学しますが、このまま環境に動かされる生き方では自分は後悔すると思い、続けることができたサークルから離れ、他人の影響で自分の行動が決定するような要因を徹底排除しました。(授業や研究・バイトはあったけど、学生としての本分や社会的責任は折り合いつけつつ最低限に、かつ放棄可能な心理で過ごしました)

3ヶ月と決めていましたが、自分が何もしなければ今日の行動はもちろん明日の行動は決まらず、1週間後も1ヶ月後も何もしていないかもしれないという時間を過ごすのは刺激的でした。
自由の風はそこに吹いていたのに、自分を環境から定義した結果、色とりどりの建物を建ててしまい、その街をただ彷徨っていたのだなと気づきました。

3ヶ月の孤独期間を経ての気づきは二つあります。
1、信じて取り組む人のヤバさの実感
2、周りに人がいることの有り難さ

もう長くなったので広げません。
1、必要に迫られるのでなくやりたい・やらなきゃいられないで動く人間の本質との向き合い方、生み出すアウトプットの質と深淵はエグいってこと。ロールに定義されてやることを決めているようではこの孤独と向き合い行動している人と同じレベルの世界は見れないなと思いました。
2、孤独の強さを理解し、それに向き合おうと思った一方で、周りに人がいる有り難さにも気づきました。「有り難い」と書くのは、まさにそこに人がいるのは偶然でもなく、その人の選択があるか奇跡のような偶発性によって同じ環境にたどり着いた結果だなと思いました。些細な出会いも大切にしようと思った。

長くなりましたが、今日はそんな感じです。
曖昧さで絡め取ろうとする安易な指示語、やめたいな。


説明が下手と言われ続けて10年超。文章に自信なし、思考止まりで実行ハードルが高い人が毎日noteを書くことで修行しています(from 2024/01/13)。
X(Twitter): @yutoumetsu


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