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中山道“風の旅”2024〜第6ステージ、エピローグ

これまでの旅路は↓

5月5日

【第6ステージ】武佐宿〜三条大橋 43km

いよいよ最終ステージを迎える。残り43kmだけど、昨夜中断した7km手前の地点からスタートするので50km。7km多くなってしまうが、それでも全ステージの中で最短なので気分的には楽だ。

毎日長距離走ってると段々と疲れが溜まって走れなくなるのかと言うとそんなことはなくて、ひと晩寝れば100%とは言わないがかなりリカバリーする。それが人間の本能(ポテンシャル)ってものなんだろう。そんな生活してたら勝手にそんな本能が目覚める。ただそれだけのことで特別な能力ではない。もちろん今日やって明日目覚めるわけではない。長く続けてる中で徐々に目覚める。また、故障するしないはそれとは関係なくて、身体のバランスや走り方次第。故障したら体力があっても走り続けることはできない。そもそも歩くより走る方が故障リスクは高いわけで、昔の人は獲物を捕らえるとか逃げるとか、必要も無いのに走ったりはしなかったはず。食べ物だっていつでもどこでも手に入るわけじゃないんだから無駄に走ってエネルギーを消費してる場合じゃない。
その辺りのことに興味のある方はぜひこの本読んでみて下さい。(上下巻あり)

ずいぶんと前置きが長くなってしまったがそろそろ旅を始めよう。

昨日の中断地点まで末房さんに車で送ってもらう。武佐のホテルからスタートしてもいいんだけど、やっぱり完踏への執着はある。初日に17kmほどエスケープしてるのでもはや完踏ではないのだけれど・・・
このように柔軟な対応をしてもらえるのも末房さんのホスピタリティーの賜物なのだ。

8時10分くらいに走り始める。
7kmほど走って武佐駅に着く。

武佐駅

昨夜あのまま走ってたら、この7kmはとても長かったろうなと思う。

旧道に立つ看板。地域の人がちゃんと整備してるからこそ道として残ってる。感謝しかない。

暑いのでセブンカフェでアイスコーヒーと軽食をとる。距離が短いので気持ちにも幾ばくか余裕がある。

守山宿に入る頃、前方から大勢の人が向かってくる。

祭りの行列だ。子供達が小さな神輿を担いでる。

続いて花笠を被った女の子達の列。見守る大人も大勢いる。守山は伝統を守る意識が高いのだろう。

今宿一里塚

久しぶりに立派な一里塚を見る。植栽の手入れも行き届いていて守山の人達がいかに大切にしてきたかが伝わってくる。

中山道、東海道合流地点

草津宿で中山道と東海道が合流する。合流した後はどっちなんだろうと思うが、調べてみると中山道は「江戸日本橋から京都三条大橋までの六十九次、距離にして約526km。」と書かれているので、ここから先は中山道でもあり東海道でもあると解釈すればいいと思う。

直進方向の高架を潜る道が中山道で右側へ折れているのが東海道。
いつの日か、東海道を踏破したい。 

瀬田唐橋

瀬田の唐橋を渡る。

瀬田唐橋から琵琶湖を望む

摺針峠で遠くに見えた琵琶湖が今は眼前にあると思うと実に感慨深い。

瀬田唐橋を渡ったところでまたもや祭りの人だかり。祭りは旧道の旅に似つかわしい。

大津宿へ向かう途中、石山駅近くの大きなスーパーに入る。コンビニと違って目移りするほど美味しそうな食べ物がたくさん並んでる。カツサンドにカットしたスイカ、豆乳をいただく。コンビニに比べると店内が格段に広いので時間的にはロスになるが、大津から京都までの間に最後の一山を越えるのでしっかりと補給しておきたい。

大津宿へ向かって真っ直ぐに続く道。前回はもうちょっと早い時間で夜通し走った後だったので炎天下、意識朦朧として走れず、フラフラになって歩き通した記憶が蘇る。今回は朝スタートだし夕暮れ時で気温も下がっているので身体は格段に楽だ。

逢坂峠へ向かう道。国道1号線と鉄道に挟まれてなんだか肩身が狭い。

逢坂峠

逢坂峠に到着。
この後、日が沈み急に暗くなる。
暗闇に包まれ写真もほとんど撮らず淡々と走る。峠を越えると基本的に下り基調ということもあるが、ゴールが近づくにつれリザーブタンクに隠しておいたエネルギーが湧いてくるかのように脚が動き出した。身体の不思議。
山科を駆け抜けた後、少し上り返したその先が蹴上だ。

蹴上付近

ここまで来たら着いたも同然!
市街地を歩く人々の間を縫うよう走る。
「見えた!」
声に出さぬともそう叫ぶ。

京都三条大橋

ついに三条大橋に辿り着く。

京都三条大橋

橋の上は走らず、ゆっくり噛み締めるように歩く。そしてゴール!

第1ステージで右膝の痛みから残り17kmをエスケープしたことについては、その後のステージで意外と走れたりしたので、もしかして無理してでも走り切った方が良かったんじゃないかと旅の途中に思わなくもなかった。だが、無理してたらここへ辿り着けていないかもしれないので考えてもしょうがない。

人生も似たようなもんで後戻りのできない選択の連続。まさに“風の旅“なんだと思う。
だから反省はしても後悔はしないでおこう。

こうして5泊8日の長いようであっという間だった中山道の旅が終わる。

企画&フルサポートしてくれた末房さん、ボランティアでサポートしてくれた皆さん、共に走ったランナーの皆さんに、あらためまして、心より感謝の意を表します。

<完>

〈参考〉

第6ステージトラックログ
(走行距離52km)
標高グラフ
(累積標高+394m-458m)

【エピローグ】

◇家に帰るまでが遠足

無事にゴールしたあと嫁さんに電話で報告したら「家に帰るまでが遠足だからね」と言われた。実は予定を固定したくないので新幹線の予約を取らずに旅に出た。とりあえずその日は烏丸のカプセルホテルを予約してしてるので預け荷物を持ってホテルへ移動。なんでカプセルホテルかというと普通のホテルは異常に高いから。それと大浴場に入りたいから。その点、カプセルホテルは安いし必ず大浴場がある。単に寝るだけだったらコスパが良いのだ。狭いカプセル内で荷物の整理をするのが姿勢的に辛いのが難点だが。

夜、風呂に入って落ち着いたところで新幹線の予約状況を見ると5月6日は終電まで満席。明日になれば少しは空きが出るかなと楽観して眠りにつく。

朝風呂入ってのんびりとチェックアウト。戦闘モードが解除された身体はボロボロで超低速でしか歩けず、歩行者に抜かれまくる。敗戦兵みたいで情けない気持ち。東京から500km越えて自分の脚で走ってきたんだけどなぁ。

預け荷物がこの身体の状態には重過ぎるので一番近いコンビニで宅急便に出す。とりあえず身軽になって京都駅へ向かう。

京都駅で新幹線の空席状況を見ると相変わらず終電まで満席だ。GW最終日を舐めてた。京都を楽しんでもう一泊して明日帰ってもいいのだが、こんなボロボロの身体でそんなモチベーションは全く湧いてこない。

ならば夜行バスで帰ろうと思い京都発の夜行バスの空席を調べてみると全便満席。困った。ふと大阪発ならどうだろうと調べてみたら僅かだが空席が見つかる。うかうかしてると満席になるかもしれないのですぐに予約する。
大阪駅22:30発。

バスの出発時刻までかなり時間があるけど大阪の街をウロウロできるような身体でもないので、駅近くの快活クラブで一眠り。少しスッキリしたところでお好み焼き食べたり、若かりし頃に行った喫茶店(当時の言い方)で珈琲飲んだりして予定外の大阪の旅を満喫。

風月のモダン焼き
神戸の老舗にしむら珈琲

怪我の功名と言うのだろうか。
なんだかんだであっという間に時が経ち、大阪駅から満席の夜行バスに乗って東京へ出発しようやく帰路につく。

だいぶ寄り道したけど、ほんま嫁さんの言う通り。家に帰るまでが遠足だった(笑)

◇和宮のこと

中山道を日本橋から京都へ向かってると至る所で和宮の物語が記されている。「皇女の降嫁」という言い方に悲哀を感じるし、平地が多く開けた東海道ではなく、険しい峠や流れの激しい沢を何度も越えなければならない中山道を何故選んだのか、ずっと疑問に思いながら、和宮さんとは逆向きに中山道を辿ってきた。

なので家に帰ってからChat GPTに聞いてみた。


皇女和宮(和宮親子内親王)が東海道ではなく中山道を使って江戸へ降下した理由は、主に次のような点が考えられます。

1. **安全性と警護の問題**: 東海道は主要な交通路で、多くの人々が行き交うため、道中での安全確保が難しい場合があります。中山道は比較的山間部を通るため、警護がしやすく、安全を確保しやすいと考えられました。

2. **道中の混雑回避**: 東海道は当時最も重要な幹線道路であり、常に多くの大名行列や商人が通行していました。そのため、道中の混雑を避けるために中山道を選んだ可能性があります。

3. **宿場の整備**: 中山道も東海道同様、宿場が整備されていました。特に信濃(現在の長野県)などの地域は古くから交通の要所として栄えており、宿泊施設や食糧の供給も整っていたため、皇女和宮の一行にとって便利でした。

4. **政治的配慮**: 和宮親子内親王の降嫁(徳川家茂への嫁入り)は、幕府と朝廷の間の重要な政治的イベントでした。そのため、ルート選択には政治的な配慮もあったと考えられます。特定の藩や地域を通ることが外交的なメッセージとなる場合もありました。

これらの理由が組み合わさり、和宮親子内親王は中山道を使って江戸へ降嫁したと考えられます。


なるほど。
8日間の疑問に5秒以内くらいで答えてきたのでちょっとびっくり。やるなChatGPT(正確かどうかはチェックしておりません)

で、何日間くらい掛かったのだろう?
これもChatGPTに聞いてみた。


皇女和宮(和宮親子内親王)は、京都から江戸に降嫁する際、約20日間をかけて移動しました。1861年(文久元年)11月15日に京都を出発し、12月1日に江戸城に到着しました。移動は主に徒歩や輿を使って行われ、多くの随行者と共に大規模な行列を成していました。


あの時代、行列組んで、御輿担いで、あの険しい山々や沢を越えてたら20日間掛かって当たり前だろうな。その20日間で和宮が目にした景色は、ディテールは違いこそすれ、全体としては時空を越えて共通点がきっとあるはず。そう思うと感慨深い。

で、江戸に着いてからの和宮の人生はどんなだったんだろう?
さらにChatGPTに聞いてみた。


皇女和宮の江戸での生活は、様々な困難と挑戦に満ちていました。

初期の生活

和宮は1862年(文久2年)2月11日に江戸城に入城し、徳川家茂と結婚しました。結婚当初、和宮は慣れない環境や新しい習慣に戸惑い、また幕府内での政争や権力闘争も影響して、精神的に厳しい状況に置かれていました。

政治的役割

和宮の結婚は、徳川幕府と朝廷の関係改善を図るための政治的な婚姻でした。そのため、和宮は政治的にも重要な役割を担っていました。彼女は徳川家茂と共に幕府の安定を図るために尽力し、特に朝廷と幕府の調整役としての役割を果たしました。

家茂の死とその後

1866年(慶応2年)に夫である徳川家茂が病死すると、和宮は深い悲しみに暮れました。未亡人としての生活を余儀なくされ、幕府の終焉が近づく中で複雑な立場に立たされました。

戊辰戦争と明治時代

1868年の戊辰戦争では、徳川幕府が倒れ、新政府が樹立されました。和宮は徳川家を支える立場でありながら、新政府の中での生活を余儀なくされました。明治時代に入ってからも、和宮は東京(旧江戸)で静かに暮らしました。

晩年

和宮は1897年(明治30年)に亡くなりました。彼女の生涯は、多くの変革と政治的な波乱に満ちたものでしたが、最後まで徳川家の一員としての誇りを持ち続けました。


なんかジーンときた。家茂とはたったの6年しか暮らしていないのも物悲しい。
いつの日か、和宮の踏み跡を辿って、中山道を京都から江戸へ20日間くらい掛けて旅してみたいな。むっちゃ浪漫を感じる。

◇“デジカメかスマホか”論争

写真は若かりし頃から好きで、時代とともにカメラ遍歴を積み重ねてきた。なんと言っても近頃はスマホのカメラ機能の性能が上がって、驚くほど綺麗な写真が撮れるようになってきた。通信とカメラが一体であることの利便性もSNS時代にはとても魅力なので、自分も手軽なスマホでの撮影に偏りつつあった。だけど、
・望遠が弱い(機種によるが)
・ソフトウェアの作り込みが過剰(こんな景色だったっけ・・・みたいな時もある
・撮影までのラグ(ロック画面解除→アプリ起動→シャッター)
・タッチパネルが濡れてると操作できない
・スマホの電池とメモリーを消耗する
とかの弱点もあって日常生活では問題無いんだけど、今回みたいな長旅の場合には問題有りだ。
と言うわけで今回はデジカメ回帰。

旅ランとかトレランは走るので、大きくて重いカメラはNG。300g以下くらいが重さの目安。これまでは超小型のミラーレス一眼カメラを愛用してきたけど、マクロとか望遠とか撮影カバー範囲を広げようと思うと馬鹿でかいズームレンズを装着しなきゃだめだし、さもなくば別々のレンズを持って交換しなきゃならない。交換は時間ロスが大き過ぎるし、カメラが軽くてもレンズまで含めると重くなるのでよろしくない。結局、マクロも望遠も諦めて倍率の低い標準ズームレンズの範囲内だけで撮影してきた。

そこで今回はコンパクトデジカメ(通称コンデジ)、それもセンサーサイズが1インチと安価なコンデジより大きい(つまり画質が良い)コンデジ(通称高級コンデジ)を新たに購入した。小さいくせにむっちゃ高いので中古品にしたけどね。レンズ交換無しで広角24mm〜望遠200mmまでカバーしてマクロもOK。重さも300gほど。

で、8日間使ってどうだったか?

大正解でした。
自分の中の“デジカメかスマホか”論争はこれにて終結!
ただし高級コンデジというカテゴリーは衰退しつつあるので次に買い替えとかできない可能性があるのが気掛かりではある。

全行程トラックログ

全ステージトラックログ
(走行距離542km)
標高グラフ
(累積標高+8160m-7929m)

各ステージトラックログまとめ


第1ステージ:日本橋~岩村田宿(164km)
走行距離155km 累積標高+1634〜785m
第2ステージ:岩村田宿〜下諏訪宿(53km)
走行距離58km 累積標高+1549-1494m
第3ステージ:下諏訪宿~木福島(54km)
 走行距離60km 累積標高+1320-1333m
第4ステージ:木曽福島〜中津川宿(56km)
 走行距離57km 累積標高+1263-1727m
第5ステージ:中津川宿〜武佐宿(155km)
 走行距離160km 累積標高+2000-2132m
第6ステージ:武佐宿〜三条大橋(43km)
 走行距離52km 累積標高+394-458m

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