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2020年の振り返りと2021年に向けて 社会経済編

新年あけましておめでとうございます、Yu_Seです。令和3年ですね(早い笑)。
2021年、昨年から始まった新型コロナウイルスの猛威によってニューノーマルな生活様式を求められ、まだ世界はそんな状況から脱することなく新年を迎えました。

今まで私はnoteに舞台観劇の感想や、個人活動のシェアを中心に記事を投稿してきました。しかし、自分が抱いている思想についてはあまり触れてこなかったかなと思っています。
そこで今回は初めてnoteに、ポエムではないですが私が日々思い続けてきたことや考えてきたことといった自分自身の思想をつらつらと書いていこうと思います。
もちろん、私の意見が全てではないので反論などもあるかもしれません。そちらに関してはお手柔らかに、あくまで一個人の意見として読んでいただければと思います。

ただ書いていても脈絡のないものになるので、コロナ禍に翻弄された2020年を振り返りつつ2021年へと繋げる形で、自分の思想も交えながら書いてみようかと思います。
「2020年の振り返りと2021年に向けて」も3部に渡って記事を書いており、「社会経済編」「演劇業界編」「個人活動編」の3つを用意しています。社会経済編→演劇業界編→個人活動編の順番に読んで頂けると一番スムーズに内容が入っていくかと思います。

この記事では、「社会経済編」を扱います。
2020年は多くの人にとって決して忘れることの出来ない1年だったかと思います。新型コロナウイルスの猛威による自粛要請から始まり、まるで人類が消えてしまったかのように世界経済はストップしました。それに伴って、多くの産業が苦境に陥りました。
そんな2020年の社会経済について、この記事では私自身の思想も交えながら触れていこう思います。


【映画「パラサイト」は2020年を予言した】

読者のみなさんは「パラサイト 半地下の家族」という映画をご存知でしょうか?韓国映画で2020年1月に日本で公開された話題作であり、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞し、アカデミー作品賞も受賞しているというかなり評価の高い作品です。私もこの作品を映画館で拝見し物凄く衝撃を受けました。その時の感想はFilmarksの私のレビューを参照頂ければと思います。


さて、私はいつも様々な作品に触れていく中でふと思うことがあります。それは「質の高い作品は時代を先行する」ということです。
例えばSF映画の金字塔とも言うべき「ブレードランナー」には高層ビルに備え付けられた電光掲示板が登場しますが、渋谷駅にある電光掲示板はその「ブレードランナー」がきっかけで建設されたと言われています(町山智浩さんがおっしゃっていた)。
そしてなんといっても記憶に新しいのが、映画「コンテイジョン」という作品が2011年に公開された映画であるにも関わらず、新型コロナウイルスによって世界がロックダウンする様子をまるで知っているかのように予言して描かれているということです。
また、舞台でいうとKAKUTAという劇団の「往転」という作品は高速バスの往転事故を取り扱った作品ですが、この脚本が書かれたのが2011年であり、その5年後に日本で高速バスの往転事故が起きています(軽井沢スキーバス転落事故)。
このように優れた作品で描かれる内容は、現状からこんな事が起こりそうというフィクションを描くことが多いので、上記の例のように未来を予言したかのような作品になってしまうことがよくあります。


私がなぜ、映画「パラサイト 半地下の家族」を取り上げた後にこのような話をするかと言いますと、勿論この作品も未来に起こりうることを予言した作品だと感じているからです。
ネタバレとなってしまいますが、この映画の途中にこんなシーンがあります。状況は、貧しい一家キム家の主人公ギウが裕福な一家パク家に寄生しようとしたがある事件によって失敗し、洪水級の大雨によって家が浸水した時に、キム家の父であるギテクと共に体育館へ避難した時のシーンです。
ギテクはギウにこう語りかけるのです。


誰がこのような災害を予期できただろうか? 一時が万事、人生は計画通りにはいかない。「だから、そもそも計画しなければ失敗することはない。絶対に失敗しない計画、それは無計画だ」


私はこのシーンが凄く胸に突き刺さって印象に残っています。そしてここで言われていることがコロナ禍によって現実になってしまったと思っています。


2020年に入った当初は誰もが東京でオリンピックが開催されるものだと思っていました。2013年にオリンピック開催地が東京と決まってから、2020年に向けて「おもてなし」を進めてきました。ホテル施設の拡充、新国立競技場の建設、それからオリンピックのレガシー効果として外国人観光客によって落とされていく多くの資金。これらは全て、2020年に東京オリンピックが開催されることを前提とした計画でした。
しかし、新型コロナウイルスの猛威という未曾有の事態によって2020年のオリンピック計画は崩壊しました。「パラサイト」で描かれていた計画どおりにいかないという不条理はこんな形で予言されることになろうとは思ってもいませんでした。

東京オリンピックだけではありません。例えば学校の年間スケジュールに関しても、新型コロナウイルスの猛威によって計画が崩壊してしまったと思います。
現状の教育制度による年間スケジュールは、学生が学校に通うことが出来ることを前提に敷かれた計画になっています。学生が学校に行けなくなってしまったことで、授業スケジュールが遅れ夏休みが短くなる、もしくはなくなるという事態が発生しました。
さらに、突然の臨時休校によって卒業式が出来なかった学生、夏のインターハイ中止や甲子園中止によって青春を奪われた学生も沢山います。
誰もが上手くいくと思っていた計画が、こんなにも容易く崩壊することになろうとは思ってもみませんでした。

「パラサイト」で語られる、計画は必ずどこかで失敗するというメッセージ性に、これほどまでに悲劇的に時代を先行して実現してしまったものはなかったと思っています。
そして、今後コロナ禍のような状況が起こりうることを想定した新たな社会モデルが確立されるのだろう(少なくともそうであって欲しい)と思いますが、この「パラサイト」のメッセージ性を素直に捉えると、そのニューノーマルな社会においても必然的に計画が立てられ、またその計画が失敗する未来が来ることを暗示しているように思います。
人間社会は永遠に無計画でいることは出来ないと思っています。それは裏を返せば、常にいつかは崩壊するような計画を立て続けて生きていくことを意味します。そんないたちごっこのような状況を永遠に続けていくことになるのでしょう。「パラサイト」と2020年に起こった出来事を照らし合わせると、なんとも虚しい持論にたどり着いてしまったのだろうかと思ってしまいます。



【人は自分事になると差別してしまう】

新型コロナウイルスが蔓延し、私たちは不要不急の活動を自粛することを余儀なくされました。しかし、そのような不要不急の外出を自粛せずに外へ出歩いたり、反抗する人々も見受けられました。そのような反抗する人たちを取り締まろうとする人々も現れました。「自粛警察」と呼ばれる人々です。
「自粛警察」のような新型コロナウイルスに対する過剰な反応は、2020年4月や5月といった緊急事態宣言下で且つコロナ禍序盤で特に顕著でしたが、夏頃になっても新型コロナウイルスに対する過剰な反応はあったかなと思っています。私が印象に残っている出来事としては、青森県で玄関先に帰省することを中傷するビラが置かれていたことです。東京に住む人間をバイキン呼ばわりして田舎から追い出そうとしている過激行為の良い例かと思っています。勿論これは青森県ですが、他の地方でもこれと似たケースはあったのかなと思っています。


新型コロナウイルスの恐ろしい点は、勿論新型の肺炎で致死率がやや高く高齢者が重症化する病気という点もそうなのですが、個人的には人間の本性を凄く都合の悪い形であぶり出したという点の方が恐ろしいと思っています。
この新型コロナウイルスは、無症状の患者もいるため自分が病気であることに気づかず無意識的にウイルスをばら撒いている可能性があり、知らず知らずのうちに自分が高齢者に新型コロナウイルスを移して重症化させていることだってあり得ます。
だからよそ者はもしかしたら新型コロナウイルスの保菌者かもしれないと疑います。感染者の多い東京周辺に住む人々であれば尚更保菌者の確率は高いです。そして人間はみんなこの新型コロナウイルスにかかりたくないと思うので、よそ者を追い払おうとするのです。自分たちは新型コロナウイルスなんかに巻き込まれたくない、自分たちさえ良ければそれで良いと。

私は「赤鬼」という舞台作品を観劇しました。この作品は1990年代に野田秀樹さんによって書かれた戯曲なのですが、テーマが人種差別と偏見でした。作品が書かれた当時は外国人を差別し遠ざける日本人をモチーフにして描かれていましたが、今回の再演では新型コロナウイルスにあやかってアベノマスクをした村人が部外者を村八分にして追い出そうとしていた演出がとても印象に残りました。
これだけなら「たしかに村八分ってあるよね」くらいで終わるのですが、ネタバレをしてしまいますがこの作品の最後のシーンがなんとも残酷なのです。この作品には女と赤鬼が登場して、赤鬼は心優しいのに村人たちから差別されていて、女がずっとその赤鬼をかばい続けるのですが、最後みんなが瀕死状態になった時に女は赤鬼の肉を食べてしまうのです。つまりこれは、人間が極限状況に陥った時は自分の生を優先して一番差別しやすい存在を犠牲にしてしまうという人間の残酷な深層心理を描いているのです。
自分では差別は良くないことだと頭で分かっていても、いざ生死がかかわるような極限状態に陥ってしまうと自分の命を優先してしまい、よそ者を見殺しにしてしまうのです。


もう一つ、キ上の空論という劇団が手掛けた「脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。」という作品についても似たようなテーマが描かれているので触れさせて頂きます。この作品は男女の恋愛物語なのですが、途中で男性は実はゲイであること、女性は実はアニメキャラクターに恋するタイプの人間であることが互いにバレてしまい険悪ムードになってしまいます。
その時発せられた女性の一言に、「普段同性愛の人間に対してどうこう言うことはなかったが、いざ自分の彼氏がってなった時に本能的に拒絶した」的な台詞があります。これはまさしくテーマとしては「赤鬼」と同じものを扱っていて、自分毎になると異質なものに対して拒絶反応を起こしてしまう深層心理を描いていると思っています。


自分が極限状況に陥ったり自分の身に直接的に関わる事柄になると、人は反射的に異質な存在を差別してしまう。人間の持つ残酷な性質として以前からずっと作品にされ続けてきたわけですが、それが新型コロナウイルスによってあぶり出されたのだと思っています。私自身ももし自分が周囲に意識を向ける余裕がないような極限状況に立たされたら、新型コロナウイルスが身の回りで発生したら、全く差別することなく他人に接することが出来るかというとその自信はありません。そして、そこに対して100%自信を持てる人っておそらくいないんじゃないかと思います。
そんな人間の残酷な性質をあぶり出してきた新型コロナウイルスが、病気の症状以上に恐ろしい点があると思ったのと同時に、その残酷な性質があることを自覚しながらなるべく他人を差別せずに接していくことが重要なのだと思いました。



【「利他的」であることの重要性】

先ほども触れたように、新型コロナウイルスは無症状の患者もいるため自分が保菌者であることに気づかず無意識的にウイルスをばら撒くことがあると書きました。ですから、自分が媒介者となって高齢者にウイルスを移してしまうかもしれないという状況を考えて、他人のことも考えながら行動をしていかなければならないという風潮になりました。
私は、NewsPicksというソーシャル経済メディアのYouTube動画をよく見るのですが、そこで国立環境研究所の五箇公一さんがおっしゃっていた「利他」という言葉が非常に印象に残っています。生物は本来利己的な存在であり、自分が生き残るために行動すれば良かったのです。しかし人類は社会性を手に入れたことによって、利己的に生きることだけでなく利他的に生きるということも重要になってきました。お互い協力して助け合うこと、相手を思いやることは生物の中では人類しか成し得ることの出来ない行動精神です。
そして今回の新型コロナウイルスの蔓延によって、人類がいかに利他的に行動できるかが収束の鍵になっていると五箇さんはおっしゃっています。外出するときは、万が一自分が保菌者であった場合を考えて、しっかり鼻までマスクをしているか、三密をなるべく避けて生活を送れているかどうか。そういった一個人の利他による意識が、このコロナ禍においてもっとも重要なマインドであると思っています。


「利他」を意識しなければならないのは、何も個人という視点に限った話ではありません。地域、もしくは国家という単位でもこの「利他」を意識して行動しないといけないと思っています。大ベストセラーである書籍「サピエンス全史」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏が、今回の新型コロナウイルスの蔓延に対する提言において、グローバリズムとナショナリズムは矛盾しないと唱えています。
ハラリ氏は記事の中でこう説明しています。

今回のパンデミックを含めて現代社会が直面している苦難はグローバル化が原因であり、解決するためには脱グローバル化を図り、自国ファーストの路線を突き進むべきだということになりかねない。だが、それはポピュリズムを煽る利己的な指導者や独裁者を利するばかりで、パンデミックや地球温暖化のようなグローバルな問題の解決にはけっしてつながらない。
ハラリがこれまで繰り返し主張してきたように、グローバリズムとナショナリズムはけっして矛盾するものではない。ナショナリズムは同国人を思いやることであり、外国人を憎んだり恐れたりすることではないし、グローバルな団結が人類と地球環境の安全や繁栄に不可欠な時代にあって、脱グローバル化は自殺行為に等しいからだ。

ここまで急速にそして全世界に新型コロナウイルスが拡大してしまったのはグローバル化が原因ではあったのだが、だからといって脱グローバル化(国境を封鎖して自国の利益だけを追求すること)することが、新型コロナウイルスの早期収束に繋がるという訳ではありません。同国人を思いやるナショナリズムを大事にしつつ、他国と協力してグローバルに団結する国家間の利他的な外交政策こそが、環境問題の解決や新型コロナウイルスの収束に繋がるとハラリさんはおっしゃっています。
個人というミクロな視点においても国家というマクロな視点においても、利他的に考えて行動することはニューノーマルな生活様式において非常に重要なことであり、そういったマインドを忘れずに暮らしていくことが2021年で大事なことだと思っています。



【コロナ禍を戦禍と捉えられるか】

先ほどのNewsPicksの動画において、慶應義塾大学法学部教授の細谷雄一さんがおっしゃっていたのですが、国際連合やWHOといった国際協調は常に戦争による反省から生まれた組織だったということが挙げられています。人類の歴史の中で、グローバル化などの大きく人間の社会変革が起きた要因となったのは全て戦争であり、人間は大きな痛手を追わない限り変革することは出来なかったのです。
しかし、国際連合が機能して世界大戦を起こすことが出来なくなった今、私たちは大きな社会変革を起こすことが出来るのでしょうか。今世界中で起きている新型コロナウイルスによるパンデミックを、戦禍と捉えて社会を大きくアップデート出来るかが重要な鍵となります。
細谷さんは、戦争によって多くの後世に伝えられるべき文学作品は誕生しているが、スペイン風邪のような過去に起きたパンデミックを契機に優れた文学作品は誕生したもののその数は戦争によって生まれた作品数よりも圧倒的に少ないとおっしゃっていました。

これは下手すれば、コロナ禍によって人類は相当に苦境に陥ったにも関わらず、何も社会を変革出来ずに終わってしまう可能性さえあることを示唆していると思います。本当に人類は、このコロナ禍によってどう対処するかを試されているのかもしれません。戦禍以外で社会変革を起こしてきた例が歴史上存在しないのだから。
今起きているコロナ禍を戦禍と同等の非常事態と人類が捉えて、今の状況と向き合っていかないと本当に何も変われずに終わってしまうのかもしれません。そうならないためにも、全人類がこの問題に正面から向き合って自分が今出来ることは何かをしっかり考え、「利他」を意識した行動改革を個人単位と国家単位で実行することで、全員でこの問題を乗り越えていかないとならないのかもしれません。



【2021年はさらに厳しい1年になるかもしれない】

中国武漢から始まった新型コロナウイルスの猛威は、結局2020年の間には収束することはなく2021年以降に持ち越されました。ワクチンの開発も進んでおり一部の国ではワクチン摂取も始まっていますが、コロナ収束の兆しは全く見えていません。
さらに2020年末には、イギリスで従来の新型コロナウイルスよりも感染力が強いとされている変異株が出現し、日本だけでなく他の国や地域でもその変異株が確認されています。そしてこの変異株に関しては、未だ分かっている情報が少なく、致死率はどれくらいなのか、若年層にも症状が出やすいのか、ワクチンが効くのか分かっていません。事態はもしかしたら悪化に向かっているかもしれないのです。

日本でも2020年12月には陽性者数が急増し、大晦日には過去最多の1日の感染者数が4000人超、東京都では1300人超となりました。1月2日には東京・神奈川・千葉・埼玉の知事が政府に対して、緊急事態宣言を発令するよう要請していました。近々緊急事態宣言が出されてもおかしくないでしょう。事態は2020年4月の状況、いやそれ以上に深刻な状況になっていると思っています。

正直、私は2021年は2020年以上に深刻な1年になるんじゃないかと危惧しています。私がこの2021年に入って心配していることは、単純に日本国内の陽性患者数が増えているからという訳ではありません。昨今のニュースや情報を目にしていると、2021年が本当に厳しい1年になるだろうと思っている要因として2つ挙げられます。

1つ目は、「コロナ慣れ」が始まっているということです。人々は今まで散々緊急事態宣言の発令等によって、外出を自粛したりなど多くのことを我慢してきました。そして少しずつ元の世界に戻っていくにつれて、GoToキャンペーンを利用しながら今まで我慢していた外出を始めました。しかし一度緩んでしまった感覚を再び締めなければいけないとなると、そこには相当の負荷がかかります。ましてや、新型コロナウイルスにかかっても致死率はそこまで高くないと分かってただの風邪だと捉えてしまったら、余計に外出を自粛してやりたいことを我慢することが馬鹿らしくなってしまいます。
しかし2021年正月、日本中の新型コロナウイルス重症患者を受け入れられる病棟は逼迫しつつあります。私は神奈川県に住んでいて、LINEで毎日のように新型コロナウイルスの陽性患者数と病棟のキャパシティについて通知が来ますが、このままいけば1月中旬には病棟のキャパシティが100%を超える予想が出ています。緊急事態宣言が発令されない、もしくは発令されたとしても人々が今と変わらず外出を続けている状況が続いてしまうと、病棟のキャパシティがオーバーして収拾がつかなくなることは目に見えてますし、そんな状況になってしまう日常はすぐそこまで来ています。
病棟のキャパシティが100%を超えてしまうとどうなるか、まずどの患者を優先して人命を救うかを医療従事者が判断しなければならなくなるということです。これは医療従事者に人命選択を委ねさせていることを意味します。本来だったら助かるはずだった命を止む終えず見殺しにしなければいけないのです。
例えば、新型コロナウイルスによって重症化した60代の男性と喘息持ちの30代の男性が同時に運ばれてきて、病棟が残り1枠しかなかったらどうするのでしょうか。そんな人命の選択を医療従事者が毎度選択していかなければならないことになります。その時、人命選択されなかった方のご家族やご友人はどんな気持ちになるのでしょうか、逆に人命選択されて助かった側の人間は、自分が医療従事者の判断によって生かされたと知ったら、どんな思いで残りの人生を送らなければいけないのでしょうか。
こんな状況を考えてしまうと、いかに病棟のキャパシティオーバーが深刻な事態のなのかが分かると思います。そうならないためにも、そしてそうなったとしてもそんな状況を早く収束させるためにも、先ほど私が挙げた「利他」という考え方が非常に重要になってくると思います。自分がウイルスに感染しないように予防し、マスクエチケットを守ることは、高齢者の命を守るだけではなく、医療従事者に人命選択をさせないため、または感染者に辛い思いをさせないためでもあります。もうコロナに疲れたから自粛なんてしない、マスクなんてしない、好きなことを好きなだけ楽しみたいという思想は、知らず知らずのうちに病棟のキャパシティ問題を深刻なことにしていることを忘れてはいけません。

2つ目は、今度は2020年4月5月と同様に緊急事態宣言が発令されたり、現在と同じような外出自粛モードが2021年いっぱい、もしくはそれ以上長く続いた場合の話になるのですが、いよいよ多くの産業が大変なことになるだろうということです。
私は赤坂にオフィスを構える会社に勤務しているのですが、このご時世なので全て在宅勤務となり、4月の緊急事態宣言発令以降はほとんどオフィスで勤務していないのですが、10月下旬に短期間出社する用事があって赤坂に行きました。その時、昼ご飯を外で食べようと赤坂見附駅周辺の飲食店に行ったのですが、衝撃的なことに半数弱くらいの飲食店、特に個人で経営しているような飲食店が軒並み閉店している光景を目の当たりにしました。
赤坂は地価が高くサラリーマン街であるので、周囲のサラリーマンが在宅勤務になってしまったら即刻お客さんが入らなくなって経営的に苦境になる飲食店が多いです。その打撃を受けて既に2020年の10月時点で閉店している店が多かったです。実に衝撃的でした。
これがあと数ヶ月続いたら本当にどうなってしまうのでしょうか、飲食業界だけでなく観光業界やエンタメ・レジャー業界も同様にお客さんが入らず苦境を強いられている状況です。今までは、政府から給付金が調達されてなんとか頑張れている企業、お店、施設、団体、地方自治体は沢山あったと思います。しかし、政府による資金調達にも限界があります。限界があるからこそGoToキャンペーンによって、自力で各産業を回そうとしているところでした。観光業界等はGoToトラベルを当てにして経営していこうという企業や施設は沢山あったんじゃないかと思っています。
しかし、このままでは新型コロナウイルスの陽性者数が増加を辿る一方で医療崩壊が起きかねないので、外出自粛が強化されて客足が途絶えることは必須だと思っています。元の世の中に戻るまでに時間がかかるのは明白で、それには1年以上かかるようにも思われます。そうなった時に、産業は持ちこたえることは出来るのでしょうか。今までは政府からの資金調達やGoToキャンペーンを当てにして成り立っていた産業は、果たしてこれから先それら無しで持ちこたえられるのでしょうか。
大企業はまだ経済的に余力があるので上手くやれる企業は多いかもしれません。またファンも多いと思うので、クラウドファンディングなどで救ってくれる存在は多いと思います。しかし、中小企業や個人事業といった規模の小さな企業や事業主は大変です。事業を畳むか危うい中でも続けいていくかは本当に苦渋の選択になるのではないかと思っています。

経済を止めて新型コロナウイルスの患者を救うか、医療崩壊を見過ごして経済を回すか、とんでもない苦渋の選択に私たちの暮らしは強いられていると思っています。そしてこれが顕在化するのが2021年まさにこの年だと思っています。
この苦渋な選択を緩和していく唯一の方法は、私たち一人一人が新型コロナウイルスにかからないようにしっかりとした対策をとった上で、しっかり最新情報にアンテナを張りながら適切なタイミングで経済を回していくことしか出来ないのかなと思っています。



【今の頑張りが次の10年を創る】

前の章では、物凄く暗い2021年の展望を書いてしまいましたが、もちろん私たちの暮らしには長い目線で見れば希望もあると思っています。
それはコロナ禍には必ず終わりが来ると思っているからです。たとえ新型コロナウイルスを撲滅する術がなかったとしても、テクノロジーの発達や新しい社会システムの構築によって、新型コロナウイルスと共存できる世の中は実現可能だと思っています。人間社会の適応力や発想・アイデアは無限大だと思っています。新型コロナウイルスによって人類の文明は滅びないと思っていますし、コロナ禍によってさらに柔軟性に富んだ社会を構築出来ると信じています。

しかし、どのくらいこのコロナ禍を経験してより良い暮らしに変革出来るかについては、今の世界を生きている私たちの力量に寄ると思っています。先ほど述べたように、どのくらいコロナ禍を戦禍と同様に捉えられるかも重要ですし、いかにコロナ禍を他人事にせず自分事として捉えられるかも重要になると思っています。
今自分に出来ることってなんだろう、もし出来ることがあるとしたらどう実行したら良いだろう。一人一人がしっかり問題と向き合って自分が出来ることを頑張ることが大事だと思っています。私だったら、自分はデータサイエンティストとして働きながら演劇に関しても知識が明るいので、演劇関係者がこれからも演劇活動を続けられるようなアプリ開発に取り組んでいます(詳細は「2020年の振り返りと2021年に向けて 個人活動編」を参照ください)。今の自分にできることって人それぞれだと思うので、それを見つけて活動することが大事だと思います。
そしてその今の頑張りが、次の10年を創ると思っています。1日、2日頑張ったところで大きな変化は生まれません。継続して頑張り続けることで、結果はこの先10年かけて花開くと思っています。
2021年で10年を迎える東日本大震災も、10年かけてようやく復興出来た部分もあると思います(もちろん、元には戻っていない地域もあると思いますが)。

そして東日本大震災の時もそうだったように、悲惨な状況に陥った後にはみんな必死で頑張るので、私たちが予想もしていないような変革だって起きるかもしれません。
例えば、東日本大震災をきっかけとして、今では日本人の殆どが利用したことがあるであろうLINEアプリが登場しました。LINEは、災害時にも仲間とかんたんにチャットが出来ることを目指して開発されたサービスです。東日本大震災が起きなかったら、LINEはこの世に存在していなかったかもしれません。
また、ブロックチェーン技術はリーマンショックをきっかけにして開発された技術だと伝えられています。ビットコインといった仮想通貨など幅広いサービスに応用されているこの技術は、リーマンショックがなかったら存在していなかったかもしれません。
今回のコロナ禍は、医療業界、教育業界、飲食業界、観光業界、航空業界、スポーツ業界、そしてエンタメ業界と様々な業界を苦境に陥り、その被害は甚大な広さだと思っています。きっと、このコロナ禍をきっかけに様々な業界において新しくサービスが生まれることでしょう。そうであって欲しいと思います。
そして、そういったサービスを立ち上げられるチャンスも同時にコロナ禍においては転がっています。そのチャンスをつかみ取り、いつかは訪れる希望を胸に頑張ってくれる人材で溢れる世の中であって欲しいと私は強く思います。

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