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【作者解説】短歌50首連作「母の愛、僕のラブ」

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笹井宏之賞は50首の連作で応募する形式だ。短歌の「連作」という形式はあまり、というか、まったく世間一般からの認知度がない。教科書に掲載されている短歌も1首ずつであるし、町おこしや啓蒙活動の一環で開催される短歌コンテストも1首単位の募集がほとんどだ。
連作という形式を理解しているのはそれこそ「短歌に親しみ、取り組んでいる人」くらいだろう。最近は少しずつ変化があるのかもしれないけれど。

50首連作は50首の短歌でもって1作品とする。前回記事にした「ぺらぺらなおでん」は20首で1作品としている。連作には題名を付与して提出する。「短歌新人賞」と呼ばれる、角川短歌賞、短歌研究新人賞、歌壇賞などは、どれも30〜50首連作形式での募集だ。アンソロジー「現代短歌パスポート」では、15首連作を10人分読むことができる。

連作の作り方は、歌人それぞれ大きく異なる。1首ずつすべてホームランを狙うべしという人もいるし、ストーリー性を持たせる人もいるし、ストーリー性など持たせるのは邪道であるという主義の歌人もいるかもしれない。正直、語られる機会が少ないのでよく知らない。ぜひ聞いてみたい。

いずれにせよ私は連作という形式が好きだ。そもそも、私が短歌を好きな理由のひとつは、短歌が「情報量の不足」をいかす文芸だからだ。31音は短すぎて「正しい情報伝達」に必要なデータが充分に含まれない。だからこそ、読者側に考察(読み)を促す「余白」が発生し、読者は「自分自身」に、あるいは「身近な人」に、あるいは「推し」に、引き寄せて解釈する。このライブ感と可能性が好きだ。
余白は、当然ながら余白まで含めて表現となる。つまり自分自身の言葉のみならず、自分自身の言葉が「ない」部分も表現として使用可能になる。
そして、連作になれば一首と一首も間にも余白が発生する。これが作る方としても読む方としても、最高に楽しい。

また前置きが長くなってしまった。とりあえず、笹井賞に応募する50首連作という形式は、連作のなかでも割合ボリュームのある方だということだけ、頭の隅に残しておいてください。後ほど出てきます。

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新鋭短歌シリーズなどで若手歌人に注目されているあの書肆侃侃房が、あの笹井宏之氏の名を冠して、歌集出版権をかけた新人賞を創設した」
これは当時としても大きな話題になった。私も歌集を出版したかったし、応募したくて仕方がなかった。しかし、私事だが、当時はまだわが子が幼く、24時間世話をしている状態だった。突発的に入るライティングの仕事以外は、家事と育児しかできていなかったというか、それすらもままならない状況だった。

応募締め切りは9月だったが(次回から7月になるそうです、注意!)5月半ばまでは「応募するのは無理だな」と諦めていた。そんなとき、子が就学に向けた母子分離の練習を受けることになり、週に2回、2時間だけ保育に預ける時間が発生することになった。

預け先から家までの往復時間を考えると、迎えの間に家に戻るのも微妙だった。ならば、預け先近くの某チェーンカフェに入り、その2時間×締め切りまでの数回だけ、集中して応募作品に取り組んでみよう、と決めた。

なお、夏休みである7月後半から8月は預かりはない。回数は極めて限られている。そこで私は、以前から書きかけ、書ききれずにいた「母の愛、僕のラブ」という連作を仕上げることにした。その時点で20首弱あったと思うが、応募するとして残せるレベルの短歌は10首程度だった。それでも、10首程度は残せそうなことを踏まえれば、ゼロから始めるよりは分がある気がした。なお、「母の愛、僕のラブ」というタイトルはずっと前からつけていた。

この時点での「母の愛、僕のラブ」は、受賞した完成作品とはだいぶ違うものだった。私自身がはじめて母親になったあと、いつ死んでもおかしくないほど何もできない乳幼児を保護し、最善を尽くさなければいけないという自家中毒のような異様なプレッシャーのなかで、そのプレッシャーにつけこんだビジネス、あるいはシステムを目の当たりにし、困惑からことから発生した作品だった。
たとえば、母乳信仰、オムツなし育児、自然派育児、ワクチン拒否、新興宗教、ママ向けサイドビジネス、女を捨てないためのノウハウビジネス。妊娠出産で体調が激変し、寝不足が続き、慣れない新生児育児に社会からの断絶。そこへ近づくものの多さをご存知ですか? もちろん、ひとつひとつを否定はしない。うまく生活に取り入れて日々を充実させている人もいるだろう。しかし、あれもやるべき、これもやるべき、こうするべき、しないと大変なことになる、という脅しのような情報に常に曝されるなかで、少なからず狂う母親はたくさんいたし、私だってあの産後の数年間はかなりおかしかった。

一歩間違えれば私も「なにか」へ隷属し、戻れなくなっていたかもしれない。上がりすぎた凧のように、見えない力で攫われそうだった。身近に「攫われた人」もいた。彼女たちをどうして責められるだろうか。私もあなただったのかもしれないし、世の中の母親はみんなある程度「攫われている」ように思えてならない。私は、妊娠・出産については自分なりの理屈で納得していたけれども、衰弱に漬け込んで狙われるなんて、そんなこと微塵も知らなかったし了承していなかった。怖かったし、腹がたった。

それを短歌にしたいと思ったのが「母の愛、僕のラブ」だ。しかし、難しかった。母親の視点だけでなく、子の視点も入れたかった。母親は自分の視界しか見えないし、第三者は母親など「母親」という括りでしか見てないものだ。逃れようがない「子」の視点が必要だ。なにより、私自身も「子」であったのだ。(家族のなかに配偶者がいる場合もあるだろうが、短歌にするには情報が複雑になりすぎて芯が見えなくなるので一切描かないことに決めていた。母と僕だけにしたかった)

短歌にしたい。運良く生きた自分のために書きたい。
書いては放置し、ときどき向き合って書き足したり消したりしてはまた放置していた。

笹井宏之賞に出そう、と決めたとき、自動的にこの「母の愛、僕のラブ」は50首連作になることが決まった。そういう応募規定だったからだ。しかし、50首連作はかなりボリューミーだ。しかも、ゲストを除く選考委員全員が応募作品を「全て」読むという(一般的な文芸コンテストは編集部などによる一次選考が設けられている)。選考委員の労力を想像するだけで気が遠くなりそうだ。とにかく、あまたの作品が次々と読まれていくなかで、まずは一矢報いなくてはいけない。選考委員は信頼されて任じられた第一線の歌人の方々だけれど、それだって新設の賞でペースを掴めずに疲弊するはずだ。仮にどんなに疲れていたとしても、50首最後まで飽きずに読んでもらう必要がある。そういう意味での、工夫が必要かもしれない。

という流れで思いつき、採用したのが詞書(ことばがき)だ。詞書というのは、短歌の前についている文章のことで、だいたいは小さめの字でちょろっと書かれている。日付や、その場にいる人、どこにいるかなど、前提条件を記した上で短歌を読んでもらうことができる。

私は、初めて詞書を取り入れることにした。

① 母と二人暮らしだった。
② 母の家を出た僕は恋人からボクっ娘をやめろと言われた。
③ 母から、母の結婚式の招待状が来た。
④ 友達がいないことを母に隠している夢だった。

「母の愛、僕のラブ」詞書抜粋

50首中に上記の4つの詞書がある。①が母と同居(子供時代)パート、②が恋人との蜜月からの崩壊パート、③④で自立に至る。

この「詞書の導入」という試みが、一気に連作を完成させた。つまり、笹井宏之賞に応募しようと思ったから50首連作となることが決定し、50首連作だから詞書を導入することに決め、詞書を導入したから連作が完成した。笹井宏之賞がなかったら、この連作は完成しなかった。

短歌を詠み、詠み、推敲し、捨て、また詠み、数かそろえば組み替えて、詞書を検討し、直し、また捨て、詠み、推敲し、そうしているうちに、自分が書きたかったことがより深くなってきた。女性性やジェンダーがテーマではあるが、さまざまな側面における暴力性、逃れられなさ、生きるための決断のようなものを書きたかった。これには性別など関係ないはずだ。

笹井宏之賞はGoogleフォームの記述欄にベタ打ちして応募する形式だった。さて、詞書はどのように記したらよいだろうか。書くことに必死で、問い合わせている時間も気力もなかったが、詞書はダメとは書いていないから、なんとか伝わるように書くしかない。確か、3文字くらい下げて詞書を入力し、最後の行に(※3字下げ部分は詞書です)と注釈をつけたように記憶している。

この連作にはとても満足していた。なぜなら、私がそのとき表現したかったものが、少なくともそのときの私のベストな状態で出せたと感じたからだ。ただ、正直、好みが分かれそうだなと思った。

応募できてよかった、と思った。心から思った。応募したあと、しばらく放心していた。

歌集『母の愛、僕のラブ』はこちら→

第1回笹井宏之賞の選考結果、選評が掲載されている短歌ムック「ねむらない樹vol.2」はこちら→


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