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梶井基次郎の「檸檬」から

梶井基次郎「檸檬」の中に、筆者の印象に残っている言葉がある。

その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。

「檸檬」

或るときからこの箇所が浮かびあがってきたのだが、今回再読してやはりそれを感じた。梶井のこの表現は、強い、と思った。どうしてそうおもうのか。

梶井は、知られているように、肺病(肺尖カタル。肺結核)を患ってい、その苦難のなかで作家(表現者)として立っていた。かれの、重要な作品系列(「冬の日」「交尾」「器楽的幻覚」「冬の蠅」など)では、やはり、呼吸器の深刻な疾患を抱えていること、と、そのとぎ澄まされた鋭敏な思考は分かちがたいものだったのだと感じさせる。

檸檬は、記録上では梶井の処女作になる。(1925年。ウィキペディア参照) また、これは梶井が、しばらく前(あるいは、かなり昔)のことを追想して書かれた文章であることがわかる。(何処から何処までが虚構なのかは分からない。実話だと思う。)

「檸檬」を書いた時の作者の心情は、もうこれを追想した作品内容の時と大分違っている事が、作中で何度か言いあらわされているからだ。(「ここももうその頃の私にとっては…」とか「その日私はいつになくその店で…」、「それがあの頃のことなんだから。」など)

「檸檬」は、梶井が、かつてある時の心境や行動を心の中に浮かび上がらせようとして書いている。自己の思考の痕跡を冷徹に凝視している。この“観察する視線”の焦点はこの人の作品でぶれる事がない。後年(晩年)の「闇の絵巻」などはそれだけで成り立っている一編だ。言葉が、ある一点に集中しているかんじだ。また、それゆえに、梶井の作品を読むと、つらくなるところがある。

梶井にとって、手にとったレモンの冷たさは「たとえようもなくよかった」のだ。何か、ここを読むとき、読者も梶井のようにレモンを手に取って、その冷たさと量感を味わっているような気にさせられる。肺を病み、たびたび喀血をし、神経衰弱がおこり、それゆえの不眠に悩み、というなかで潮の満ち引きのように発熱を繰りかえしている。

そのような肉体がレモンに触れたときの感触というのか、それが彼の言葉を通して読者に伝わってくる。この表現は強いと思う。

彼が感じた檸檬という果実の実在感が作品には刻み込まれている。鋭く、さわやかな酸味をもった清涼な柑橘のレモンには、さらに云えば、かれの重い病苦をひとしきり、ささやかに浄化するイメージも託されているようだ。

私は何度も何度もその果実を鼻に持って行っては嗅いで見た。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻をつ」という言葉がれぎれに浮んで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとばしりが昇って来て何だか身内に元気が目覚めて来たのだった。…

同上

続くこの記述を追うのは愉しい。この、一時(だけ)のここちよさも、読者は文を追いながら半ば追体験するのかもしれない。

梶井の文学には、風景の荒涼(特に晩年の作)や、(病からくる)心理的な圧迫がたえずあるわけなのだが、「檸檬」にはまた涼しい風も吹いている。

梶井基次郎の言葉は、彼自身の血肉化された言葉という気がする。彼が綴るどのような思考も、全く“抽象的でない”のだ。

この力を、今の私達(の時代)は持つ事ができるのか、どうか。