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風と桜の道を歩く

毎年、桜の季節になると私は、近隣のあちこちを巡って桜をみる。といっても、スケジュールによっては花見に時間を割くことができず、満足に散歩できない年もある。

そうした時は、街並みのなかに見えてくる一本二本の桜を眺め、しばらく風情を味わって、そのまま歩いていくばかりになる。

ところが、不思議なのだが、そんな年でも少なくも一度は、何処かの町の美しい桜の姿を味わう日ができている。

今年は、「あまり時間ができない年」に該当した。一日時間のできる日もあったのだが、自分の体調や気分のために、いざ出かけようとならないのである。

ところが、四月六日。その日がやってきた。気持ちを定めて電車に乗り、想っていた場所まで出がけ、桜を見てきた。

この日出たのは、もう散りゆく「桜」をみる、そのためだけだった。タイミングとしても葉桜なのは分かっていた。今年はすでに何度か雨降りや強風の日を経験している。多くの花弁は散ってしまっているかもしれない。…

六日は、終日重い曇りだった。妙に気温が高く、この季節にしては湿度すらあった。そんななかわたしは出かけ、やがて町に辿り着いて、そこから独り歩いていった。

その、目あての一画は駅からでもかなり歩く場所にあった。ベッドタウンの市であり、住宅地のなかにひっそりと存在している。少し、懐かしい昭和の風情が残っている所なのだ。筆者はこうした町々を愛好している。

平日の昼過ぎで、 みちを通る人もまばらだったのだが、ここにはたくさんの桜や、また様々な樹、花が植えられていて季節を問わず一帯を彩り、いつも淡い静寂にみたされている。

駅から歩いて商店通りを過ぎ、車道を越えて裏道へ入り込み、やがてその場所に辿りつく。遠目からでも満開の桜が包み込んでいるように見えた。嬉しかった。そうして桜たちは、鮮やかな緑の葉をいちめんにつけていた。

私がそこへ近づいたとき、にわ かに強い風が吹きはじめ、葉桜の花弁をあらいおとした。薄紅の羽があちこちで風に舞っていた。風はなおも吹き続け、濃緑の樹木を揺らした。目に視えない河の流れがここにあった。

かすかに吹奏楽の音が館の奥からきこえてきた。ここは体育館が立っている一画なのだ。あらうように美しく、水を打った静寂が包み込む。この一時には「永遠の印象」があった。

曇り日であったのだが、そのとき淡い陽が射し、既に緑におおわれた樹木を輝かせた。また、ところどころ黄に色褪せ始めている道沿いの並木の葉をも、薄い光が一刻、染め上げ、やがてまた翳った。まるで夢のようだった。

この、一時の印象は、写真に収めることがどうしてもできない。筆者もこの時数枚の写真を写したが、今それを見ていても、もう違っている。

翌日、七日は終日大雨になった。風も吹いた。私が赴いて、見、味わい、体験した桜と町角の風景はこれで消え去ったはずだ。

自然の営みについて考える。私が今年見た「桜」は、それが息づいている直前の日だったとおもう。自然の景観にまさる宝は、人間にはあたえられていないのではないか、と。