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五月の樹に触れて


もうじき五月が終わろうとしているが、梅雨入りした今、この一月をふり返って最も鮮やかにイメージされるのは、やはり「陽光の輝き」だ。慌しくストレスの多い日常のさなかにあっても、その都度澄みきった五月の光の美しさを感じることができた。

寒冷に沈み込んだ長い冬の眠りから醒めて、街のあちこちで緑が映え、躍動する。目一杯の光を吸い込んだ植物の彩りをどう言葉で言いあらわしたらいいんだろうか、と、考えながら歩く時間は愉しく、それ自体が休息でもあった。

ところで、わたしは今月、街や近所で目にとまった樹の幹に、また枝や葉に、少しのあいだじっと触れるという経験を何度かした。

それにはきっかけがあって、詩人長田弘 おさだひろし(1939-2015)さんの詩集「黙されたことば」と「詩の樹の下で」(何れも みすず書房)を、図書館で借り出して読んだことだった。この二冊から受けた感動があったのだ。…

近所の散歩道には一本の樹が立っている。マンションに囲まれた中で、何らかの理由があって伐採されずに残った樹のようにも思える。

ところがこの樹は非常な大木で、重く垂れ下がる数本の太い枝と、そこにびっしりつけた葉でまわりが埋まり、時には近所の子供たちの格好の遊び場にもなっているのだ。

その日は週末だったが、不思議と静かで、子供も見えず、乾いた風が特に強く吹いていた。たえずながれていく車道の車の音が少し ものういような一刻だった。

一面葉をつけて、まるで房のようになって垂れ下がった緑に囲われて樹の真下に立つと、ちょっとこの樹に守られているような感じの心地にもなった。

そこで思いきって幹に手をあててじっとしてみたのだが、そのとき、鮮やかな葉の緑と暗く太い幹の対照が不思議に感じられた。こんな風にこれまで思ったことはない。…

手をあてて感じたことは、樹の持っている生命の深さや大きさ、だった。幹の内側では私(達)の鼓膜に直接響くような音が鳴っているわけではない。だが、決してそれは「静寂」と云うものではなかったように思う。

樹木という生命体がその内部に宿している時間とは、やはり、人間には容易にはかれない気がする。鮮やかな葉をつけて躍動する枝々の、元の幹は、威厳を感じさせるほど暗い。

樹とは、あたたかいだけではなく、美しいだけでなく、畏怖を感じさせるような存在でもある。生命の尊厳をこんな風にして、慌しい日常のなかで感じられる機会が、また今年の五月の中にあった。

何よりそのきっかけを、私は長田弘さんの著書を通して受け取ったのだった。

この二冊の作品集と出あえた事が恵みだった。