見出し画像

アイルランドの女性

アイルランド伝統歌のなかに「アイルランドの女性」(Mna na hEireann)という曲がある。伝統歌、といえど作詞作曲者の記載があり、たいていは(O Doirnin /O Riada)となるのだろう。

ドーナル・ラニーが監修したオムニバス作品「魂の大地」(96年)で、ケイト・ブッシュが歌ったことで、おそらく広く世界に知れわたることになった。(こちらで視聴できます。youtubeより)

この曲はそもそも、1969年、同国の音楽家ショーン・オ・リアダ(1931-1971)が、彼のアンサンブル(キョールトリ・クーラン)を率いて出演した「ゲイアティ劇場」でのコンサートの為に作曲したものだった。(これは録音され、アルバム「ゲイアティ劇場のオ・リアダ」としてゲール・リンからリリースされた。国内盤のCD(キングレコード)は廃盤)

歌詞は、十八世紀のアイルランドを生きた詩人パダー・オ・ドーニン(1700-1769)によるものだ。

オ・リアダは、夭逝したが、現代アイルランド伝統音楽の復興運動に先鞭をつけた伝説的な存在(ハープシコード奏者)だった。後に登場するドーナル・ラニーに先駆けて、シーンの礎を築いた人だった。

私は、この「アイルランドの女性」をとりあげた録音として、フランス・ブルターニュ地方でケルト音楽を復興させたアラン・スティヴェル(1944-)のものを愛聴してきた。(「アイルランドに命を捧げたブリアン・ボルー」94年 ESCA 6335)

沈鬱で透明なアイリッシュ・ハープがスティヴェル自身によって奏され、かつ歌われる。これは類いまれな歌唱だった。アレンジも素晴らしかった。荒涼としたアイルランドの海岸に吹きつける風に曝され俯きながら、独りケルトの竪琴を爪弾く気高い男の姿 シルエットがみえる。

ところで、パダー・オ・ドーニンによるこの詩をどう受けとめるのかが、ひとつ考えどころだ。ケイト・ブッシュによって広く世界に知れわたるところとなった歌である。ケイトの歌はすばらしい。…

だが、私は、これはやはり、男性が歌うべき歌だと感じる。オ・リアダが作曲し「ゲイアティ」で初演されたときに歌ったのがショーン・オセイ(Sean O Se)。彼の英雄的で、ビロードの様な歌声もまた一度聴いたら決して忘れる事のできない感動的なものだった。スティヴェルもオセイも、その声質の無二の美しさを特筆したい。(オセイの歌唱の一例。youtubeより)

ここで以下に、詩前半の一部を訳出してみる。

愛蘭 エリンにひとりの女がいる
私に宝石と目一杯の飲物をあたえてくれる
愛蘭にひとりの女がいる
私の竪琴よりも、歌うたうことを気にいってくれる人が
愛蘭にひとりの女がいる
それは、私が、土の中に身をよこたえ、芝の下にこの体を うずめるのではなく
いきいきと躍る事をよろこんでくれる女だ

愛蘭にひとりの女がいる
私が市場で他の女から口づけされたとき、それに嫉妬する人が
奇妙な事だが、私は彼女たち皆を愛しているのだ
愛蘭にひとりの女がいる
私がいつも崇拝している、大戦隊バタリオン の女
まだほかにもいる
そして、そこに震えるような官能の美があるのだが
彼女は醜悪な イノシシに縛りつけられている

「Mna na hEireann」(私訳)

ウィキペディアに掲載されているケイト・ブッシュ訳(ただしケイト自身の手になるかどうか不明)、詩人マイケル・ダヴィット(Michael Davitt)訳、及び手元のアラン・スティヴェルのものを混合して私なりに訳した。極力意訳を避けたつもりだが、上述したように原詩は古く、その意を掴みにくいところがある。(“Mna Na hEireann”wikipedia)

今回、曲の来歴を調べようとウィキペディアをあたったのだが、パダー・オ・ドーニンが生きた十八世紀(1700年代)、“aisling”と称ばれる幻想詩のスタイルがあり、「アイルランドの女性」はその様式を踏んだものであるらしいことが分かった。(なおaislingは、“アシュリン”と発音するのがいいようだ。)

そして、オ・リアダによって作曲されたこれには、当時の英国の支配構造に対する「抵抗音楽」(Irish Rebel Music)という側面があるとの指摘もあった。

ウィキペディアでは、この分類のなかにロックバンド、U2の“Sunday Bloody Sunday”も含めてあるのが興味深い。(“Irish Rebel Song” wikipedia)

(もっとも、歌手ボーノ自身はそれを否定している。だが、歌詞を読めば、この世界の現実への「義憤」と「抵抗」の意志がそこに込められていないという事はどうあっても出来ない。この曲の詞はそれ以外の解釈を許さぬ具体性があるのは一読でも明瞭だろう。そして、この詩表現は傑出している。

これが正解なのだ 僕らは無感覚になっている
事実が歪曲され、TVこそが現実になっている
そして今日、膨大な人々が悲しみに暮れている
明日、彼らが死ぬ そのあいだに私達は食べたり飲んだりしているのだ
真の闘いは始まったばかりだ キリストがもたらした(本当の)勝利を訴えるまで 

「Bloody Sunday」(私訳)

彼は、「アイルランド(反英)抵抗闘争」という狭義の文脈ではなく、もっとより普遍的な問題、「分断」や差別、「暴力(殺戮)」や「抑圧支配」の構造そのものへの抗議(Protest)をこの詩に込めているのだと思う。筆者は“Bloody Sunday”を抵抗音楽 レベル・ミュージックの「名曲」のひとつに数え上げる事を躊躇しない。)

オ・ドーニンの時代のaislingは、幻想詩といえど、その内容にはやはり、英国~愛蘭間の軋轢(分断)が深い影を落としている。両国にみるキリスト教カトリック、プロテスタントの衝突(地域紛争)は現代(というか「現在の“今”」)まで引き続いている。すでに多くの血が流された。「パレスチナ問題」同様、余りにも根深いものである。

ところで、今回の「アイルランドの女性」。英語でも幾つかの訳し方が可能らしく、テクストによって内容に幅が出てきている。十八世紀の作品ゆえに、現存する写本(?)間で記述に相違があるということかもしれない。

また、ゲール語を訳すさい、複数の解釈が可能なのだろうか。例えば上述したアラン・スティヴェルのヴァージョンでは原盤に掲載された英訳(原詩を英語で簡単に要約したもの)から私が重訳すると

「アイルランドに或る女が居て、僕に宝石と飲物をくれる。/この女は僕の弦の音楽より単純な歌のほうをよりよく思っている。/またこの女は僕が死んでいることを好んでいる。…」

…このようになる。ケイト、及びダヴィット訳と意味も内容もだいぶ違ってくる。

幻想詩“aisling”の様式がどうであっても、ただ一読した印象でゆけば、この詩はアイロニカルだと感じる。また、たしかに象徴的な含みもあるとおもう。ただ、このような詩に付されたオ・リアダの旋律は遥かなる叙情を感じさせ、慎ましくも雄大な曲調と相まって「アイルランドの女性」は時をこえて聴者の心に深く響いてくる。

今回、ウィキペディアの情報から、同曲が予想以上に多くのミュージシャン達によってカヴァーされてきた事が分かった。歌手シニード・オコナーからジェフ・ベック。フュージョンのボブ・ジェームス、そしてハードロックのモンテローズまで。

これらジャンル、スタイルをこえた人々が、或いはロックギターで、或いはキーボードで、また打ち込みで、オ・リアダの名旋律を紡ぎだし、また歌い上げているのだ。