見出し画像

noteの詩人の人々と、チャーリー・パーカー

noteを始めてから数ヶ月、という身だが、このサイトを通じて幾人かのすぐれた詩人の存在を知る事ができた。私の見るところ、この一握りの人々の作品は、日本の近現代以降の文芸史で、たぶん最も優れている、と感じる。

ある方は詩と短歌で宝石の様な美しい幻想を紡ぎ、ある方は簡潔な詩風のなかに「今の若者の心情をとらえる」メッセージを描き、ある方はロックソングやヒップホップのリリックにもなり得る豊饒な詩作をされていた。(微力ながら当方、この方々をフォローさせて貰っています。)

どうして「最も優れている」と云えるのか。それは、私なりの言い方になるが、この「現在」という何もかもが窮まった時代のなかで「言語の息吹き」を追求しているからだ、となる。

とにかく、人間が息をしにくい時代である。何故ちっ息しそうになるのか。そのような環境の中に生きざるを得ないのか。これは深刻な論点であるが、詩人はそれを意識しなければならない、という事はない。ただ、おそらく必須なのは、この困難さと、そこに曝されていることを体の(頭の、ではない)何処かで感じ取っている、ことではないか。…

このときに、今、潜在的に最も強い人々は確かに「詩人」である。何とかコンサルタント…でも株主でもない。間違いなくそれには理由がある。

詩的言語は機能的言語に捕らえられない。がちがちに(システム authority→power と結託しながら)言語の機能性以外のものを切り棄て、消し去ろうとしてゆくが、「人間」が居るかぎり、言葉の有するこの特性(力)は、そこに絡め取られる事はない。つねに風穴を開けながら、まさしく鳥のような飛翔をくり返すだろう。

飛躍するが、ジャズのチャーリー・パーカーは「バード」と渾名をつけられた。鳥はまた「システム」との間断ない駆け引き、闘いでもあったのだ。(小杉武久「鳥が石を通過する」参照 「音楽のピクニック」(書肆風の薔薇 1991年刊)より)

この論点において、パーカーのアルト・サックスは、ひとつの詩だ。かれの残した記録は私(達)に示唆をあたえた。レコードは音の軌跡をそのまま記録している。それを「再現」したとしても、やはり鳥の飛翔する姿は見える。

AIも詩作する時代に入った。併し、人工「知能」とは比喩であり、実際に「脳」がそこにある訳ではない。コンピューターであり、徹底的なデータ計算の世界である。基本的な事だが、AIは肉体を欠いている。人間は、脳で処理するが、脳だけで考えているのではない。

私も詩作する身なのだが、詩的言語について考え巡らすと、この文を書き始めた当初は考えもしなかった、多くの示唆があることに気づかされた。