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ジュプ・エ・ポァンタロン プロローグ

 大学入学のガイダンスは入学式の前に予定されていた。それも一週間も早く三月中に実施するという。日本全国各地から大学のある東京に新入生が集まってくる。ある者は早々とマンションの部屋を契約し東京での生活を始め、ある者は新しい生活の準備に時間をかけ、ギリギリまで地元にとどまっていた。
 孝子は後者で、まだ実家で準備をしていた。入学式の前日に両親と一緒に東京に着けばいいくらいに考えていたが、入学手続きの時に渡されたスケジュール表を見て、自分で思い描いていた予定表を変更しなければならなくなった。

「私は今、高校生なのかしら? それとも大学生?」
 孝子はふと疑問に思って母親に聞いてみた。
「そうねぇ。高校の卒業式は終わったし、大学の入学式もまだだから、どっちでもないんじゃない」
 母親にとってはどうでもいい話しだったようだ。
 卒業式は三月の初め、入学式は四月初めだから、一か月は立場があいまいな空白期間だ。それでも大学には入学金と学費を払い込んでいるのだから、高校を卒業したら自動的に大学生になってもいいのではと母親は思っていた。

 そういえば、高校の担任が卒業式の前日にこんな話しをしていたのを孝子は思い出した。
『明日は卒業式だけど、みんなは三月末までこの高校の生徒です。何かあったら学校に連絡してもいいし、私の携帯に電話してきても構わないからね』
 三月中だったら先生に相談ごとを持ってきてもいいということだった。それを裏返せば、卒業式が終わったからといって羽目を外すようなことが無いようにという注意のように聞こえたし、四月からは関係ないからねと先生から突き放されたようにも感じた。少し寂しかった。

 そんな話しがあったことを母親に話すと
「ふうーん。それじゃ、四月一日はどうしたらいいんだろう。万が一だけど、たとえば交通事故にあったら誰に連絡すればいいんだろう?」
「え。私が…。縁起でもない。別に話さなくていいわよ。それに四月一日。エイプリルフールで冗談だと思われるんじゃない?」
「高校の担任に連絡すればいいか。高校生でなくても同窓会に入るわけだから、『電話してくるな』って薄情なことは言わないと思うわ。それに、大学に連絡しなければならないんだったら、高校の担任が大学に連絡してくれるわよ」

 新しい生活の場に送る荷造りがやっと終わった。本棚にあった本やノートは持っていくものと捨てるものに分け、持っていくものをダンボールにしまった。机の上にあったデスクライトも持っていくし、引き出しに入れていた鉛筆、ボールペン、消しゴムは大きな紙袋にまとめて入れ、それもダンボールに入れて封をした。
 机の天板は壁に接している角にホコリがたまっていた。ものが置いてあるときには裏にある隅っこのほうまで気を使うことはなかった。小学校から高校までの十二年間、この机を使っていたことに感謝し、心の中で『長い間ありがとう』とつぶやきながら雑巾を左右に動かしていた。

「お母さんたちは入学式の前に東京に来るのよね?」
「ええ。お父さんと一緒に前日に行くから。孝子の部屋に泊めてもらうわね」
「二人とも? 予備の布団は一組しか送っていなかったわよね」
「お母さんは孝子のベッドに入れてもらうわ。もう、一緒に生活することがないから一日くらいいいでしょ」
「お父さんと一緒に布団に寝ればいいでしょ。私は気にしないから」
「いいじゃない。それとも、ベッドをまだ組み立てないで、床に布団を二組敷いて、三人で川の字に寝ようか。ほんとに久しぶりだけど」
「いい。それだったら、お母さんとベッドで寝る」
「そうなの? はずかしがりやさんね」
「小学校の時に、もう大きいから一人で寝なさいって言ったのはお母さんたちのほうでしょ」

 翌日、孝子は一人で東京に向かった。両親と離れて一人で生活しなければならなくなるという不安はあったが、それよりも一人で何かできるという期待のほうが強かった。


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