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愛情と屈辱と、そして成長へ。

私が父の会社に入って、21年になる。
地元の零細企業である。
若き自分は何かしら、愛する父の仕事をサポートできればと思ったゆえの結論だ。案外軽くも考えていた。
「社員で」という約束で入ったが、なぜか半年以上他のスタッフとは別で、月額15万の固定として働いた。しかもそれは税引き前の話なので、アルバイトの最低賃金並みの給料またはそれ以下という話だ。たぶん古参の正社員に対するケジメというか、親族に甘いと思わせないよう、使用期間的な考えが父にはあったのだとは思うが、生活に大きなダメージはあった。
また、定年退職後再就職で入ったご高齢の男性がいる経理部は、なんとほとんどの帳簿が手書きであり、データ化されていなかった。パソコンはあっても、表データがないことに驚愕した。経理ソフトすら入っていないのだ。そのためアルバイト給とは思えない莫大な残業時間を使って、決算までに過去の帳簿や資料を付け合わせ、データ化する日々が始まった。
彼とは、早々にそりが合わなくなり、いろいろな経理処理の落ち度を矢継ぎ早に伝えると、挙句の果ては喧嘩となり「お前には何も教えてやらない!」と言われてしまった。前職で経理をしていたが、建築経理は初めてだったため苦戦しながらも夜会社に残り、泣きながら過去の資料を引っ張り出し照合し、独自の月別表計算表をつくり、入力すれば差異の有無がわかるようにした。
こういう時、私はどうも爆発的なエネルギーを発するらしい。
普段が80%としたら、おそらく200%くらいの集中力を発揮する。
これは、人間に隠された能力なのだろうか。
窮地に立たされた時に、眠っている脳が数%起きるのではないだろうか?
と思うほどの能力を発揮した。
こうして入社して初めての決算は、連日会計士に怒られながら半べそで夜中までかかり、なんとか間に合わせた。あの時の辛さは今でも忘れないし、すでに引退された担当者には、いまだに感謝している。

1年以上かけて、経理部の致命的なシステム改善はひとまず整理がついた。
そのころには、ようやく正社員に起用されてきちんとした給料も支払われるようになると、気持ちにもゆとりがでたことで他の改善点が目に付くようになってきた。がしかし、新参者のスタッフである。次期社長として入ったわけでもないが、皆は何故今頃娘が入ってきたのか不快にも思ったことだろう。私も社長になりたかったわけでもないが、どうしても目についてしまう物事を「改善ノート」というものに書き留め、自分の中でシミュレーションなどを始める。
しかし、ことが大きく動く事態があり、なんと5年経たないうちに私が社長に就任することとなった。もちろん父は健在で会長として、その当時はまだまだ大黒柱として活躍もしていた。
要は、株主や取引先からの後押しで、今後の後継者問題についていろいろと話があったのだろう。父が社長にすると言い出した。私自身にも取引先からは強く後押ししていただいたが、社内は冷ややかだったのは、言葉を聞かなくても手に取るように分かった。
私は経理はやっていたが、建築の専門家ではない。
ゆえに、いわゆる経営専門になるわけだ。
そこでまず経費面でも懸念していた宣伝広告関連は、私が広報関係をすべて管理することにした。そのほか入社当時からの違和感など、改善点を考えていたことについて突然声を上げだすわけだから、いつの間にか社内に向けたネゴシエイターのようになり、特に古参の女性スタッフからは面白がられないのも無理はない。
思いもよらない屈辱的な発言を浴びせられたり、空回りばかりの30代を過ごしたが、経理以外にも広報の仕事の経験値が当然上がってくる。どのくらいまで費用を抑えたら逆効果なのか、どんな風に広告作りをしたらいいのか、内部に協力者が現れないのならば外部の仲間を増す方法もわかってきた。初めてのことでも、たいていの仕事は5.6年もやれば要領もつかむものだ。それは、実践で得た経験だから強い。


当時は社長というよりも、経理の立場から各部署への改善・提案も多く、少しずつシステムを構築していくなかで、最後に「ラスボス」がいる営業部への改善策にとりかかる。
そこで、ラスボス会長の登場だ。
当然のことながら、神聖なる営業部へのメスは、到底受け入れられなかった。それはなぜか。
親子であるがゆえに、父親のこれまでの功績に対する尊敬を特に口にすることなく、改善策ばかりを連射したためだと後からは気づくのだが、当時はスタッフに認められる実績をつくらねばという気負いもあったのかもしれない。親子だから当然わかるだろうという、思い込みもあったかもしれない。
また68歳を過ぎたあたりから、父に変化が起きていたことへの焦りが、私を急かした。
そう、私は父の評価が目に見えて落ちていくことに焦っていたのだ。父に愛情があるがゆえに、裏で不満を耳にすることにも耐えられず、また父の物忘れ、体力の衰え、顧客との年齢の開きなどが顕著に出始めたことで、大黒柱としての立ち位置が、揺らぎ始めていたことが数字にも表れていた。岩のような父の存在に綻びが見え始めるが、私自身が建築を知らない。会社の中でも、まだまだ一部で認められていない存在である自分。空回りしていくばかりで、父との議論は悪化の一途をたどる。
父は父で、70歳で引退すると言っていたが、まだまだ現場を愛し、時代の変化をあまり気にかける様子もない。老いに気づいていても、経験値でカバーできると信じ切っていた。だからこそ、娘の提案など容易に受け入れるはずもない。「親を愚弄するな」と何度も怒鳴られた。
昔窮地に立たされて、エネルギーを爆発させたころと違い、経営者通しの議論ではなく、最終的に親子喧嘩に終始するため心が折れ始める自分。組織の改善・対策・システム構築が案外得意だと自分でも気づいていたが、最大の抵抗勢力が、まさか最高の協力者と思い込んでいた身内に出てくるとは思いもよらず、四苦八苦したせいだ。

でもそれは、後々分かったことだが、私の改善策が悪かったわけでもない。父の抵抗が悪かったわけでもない。もっと単純なボタンの掛け違いからはじまった。


要は、そこに尊敬の念からくるコミュニケーション能力の未熟さが、まさに問題を引き起こしていた。
長いその行き違いのすえ遠回りをしてしまったが、「コミュニケーションを諦めない」「議論を諦めない」ことこそが、経営をする上で重要なことと知る。組織を構築することにとどまらず、あるプロジェクトを成し遂げるという行為は、企業の成長に最も欠かせない。
また、ブランドの行く末は数年後の立ち位置の目標を設定し、常に状況に合わせブラッシュアップさせ、どのようなストーリーを歩み、そのブランドを手にした人々がその価値をどう感じ、それに対してどう組織が応えていくか。そういう組織づくりを考えている時間が、とても好きである。こういう作業中が、私の天職であると感じる瞬間だ。

そこからというもの、良いことばかりでなく耳の痛い苦言やクレーム、または問題点課題点などなど、相手に対して誠実にコミュニケーションを取る、最後まで議論をし尽くすことにも、きっと私は向いていると考えられるようになれた。時折心が傷むことも人間だからあるが、議論を諦めなことは大事なことだと認識しているし、それがブランドをまたひとつ成長させる一過程でもあると知っている。

経理という裏方の仕事ばかりをしてきた自分。それが5年足らずで社長となり、経営手法も知らなかった。未成熟でもあったし、特に専門職の知識がないまま経営者になってしまったことで長い歳月をかけてしまったことゆえの、実戦での体験や年齢を重ねたことでの知恵もつき、これらを将来へ生かしていくことが私の次なる仕事と考え、今は少しずつ、地域文化や企業のブランド継承や事業承継について語っていく活動を始めようとしている。これからが、私の本当の意味での天職の始まりなのかもしれない。

#天職だと感じた瞬間

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