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どの道も行けば行くほど狭くなる

 魯山人の終生のテーマは「どうすれば、相手にうまいものを食わせられるか」だった。
 その問いに答える為に、彼は人間の成熟の段階を仮定した。

 第一段階。食事や味覚に対する感性が、開かれていない段階。
 この人たちに喜んでもらうには、どうするか。極論、腹が減っていたら、なんでもうまい。それを言ったらお終いだし、感性が開かれていないとはいえ、ある種の好みは誰にでもあるので、そこに付き合うしかない。

 第二段階。どこの誰それが、これがうまいと言った、という情報に頼っている段階。
 この人たちは、最も真実から遠ざかっている。どんなに真心を尽くしたって、知識で目が曇っているから、本当の美味しさは、わからない。半可通、というやつである。
 半可通には、半可通に合わせるしかない。これは、どこそこの大根ですよ、と、言ってあげれば喜ぶのだから、そうするしかない。

 第三段階。自分の身体的な感性と向き合い、独自の(同時に人類普遍の)価値体系に取り組む段階。
 この段階に入って、初めて相手をもてなすという大テーマは始まる。この段階に入った相手に喜んでもらうには、自分が相手よりも道を深く極めていなければならない。
 ここがゴール、というものは存在しない。ひたすらに精進を重ね続けるしかない。

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 精進を重ね続けた先には、もはや分かり合える同好の士がほとんどいない。道は行けば行くほど、狭くなる。

 最後の最後は食材と自分の対話の世界、三昧の境地に辿り着く、と、魯山人は言う。

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 食事をテーマにするがゆえの結論なのかもしれないな、と、ふと、思った。

 例えば将棋指しもまた、ひとつの道を極めていく世界である。確かにあちらも、極めれば極めるほど、理解者が減る。
 魯山人のような孤独感が、ない、または、薄い感じがするのは、勝ち負けが制度化されていて、対話できる相手が担保されているから、なのかもしれない。

 仏門を訪ねてみると、相手に合わせて教えを説こうよ、ということで、その階梯を徹底的に細かくしている。
 生きるうえでの苦しみをどうするか、という抽象的な問いが、テーマであり、提供するサービスが抽象だからなのかもしれない。

 俳諧は、どうだったのだろう。
 芭蕉の晩年は「軽み」のことでほとほと消耗したという。一定以上の理解者がいないと成り立たないビジネスモデルゆえの、苦しみだったのかもしれない。

 映画の世界は、どうか。
 そもそもほとんどの観客は第一段階なのであり、(おそらく)そんなに葛藤せずに、そこと向き合ってノウハウを洗練させてきたのが、ハリウッドなのではないか。
 しかし、芸事の世界である以上、やっぱり、本物を作りたい、となると、そこには同じ問題が顔を出す。おそらく、志ある人は、やまほどいる半可通の業界人や観客との関わりのなかで、ものづくりをしているのだろう。
 押井守監督は、もしかしたら、メルマガを通して、半可通でない、第三段階の客の存在を感じたのかもしれない。

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