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【年齢のうた】安全地帯●18才の頃の笑顔を!「ジョンがくれたGUITAR」

そろそろあったかくなるかと思いきや、雨や春風でまた寒くなったりの東京です。ん? 雨も春? 春雨? 濡れたら風邪ひきそう。

今日は弟の誕生日でした。Tくんおめでとう。
ちなみにTくんとは、ここであえてイニシャルで呼んでるわけでなく、ふだんからの彼の呼称です。それも昔から。
対する僕は、Mくんです。何でMくんなんでしょうね~。ええ。

このところの僕のインタビュー取材はベテランの方が続いておりますね。まあ、たまに若い人にも会ってますが。はい。お仕事いろいろ、お待ちしています。

そんな3月中旬の今回は、安全地帯の曲について書こうと思います。

安全地帯は、自分にさほど近いバンドでもないのですが、過去にライヴを観ていますね。もちろん再結成後ですが。
あ、再結成はたびたびしてるのか……ええと、2011年頃のタイミングでした。この時は妻子も同行していまして、玉置浩二が発するエネルギーがあまりにすごく、カミさんはその熱に当てられていました。ムリもない気がします。玉置、すごいもん。

それ以前に僕は、彼がソロでやっているライヴも何度か観ています。そういえばその当時、同業の知人である音楽ライターの志田歩さんが玉置の本を書いて、それを読ませてもらったことがあった。力作でした。

そして先ほどの安全地帯のライヴのしばらくあと、僕はこのバンドのインタビュー取材をしたこともありました。その時はメンバーからギターの矢萩渉とベースの六土開正が来てくれて、来たるコンサートツアーの話を聞きましたね。イベンターであるディスクガレージの部屋で、雨が降った日だった記憶。ただ、フリーペーパーの『DI:GA』だったので、もう入手は難しいですね。
取材の席でふたりは、北海道でのアマチュア時代は洋楽ロックを強く意識しながらバンドをやっていたことと、今でも玉置浩二が曲作りモードに入るとその場の衝動で急遽メンバーに召集をかけることがあって、制作現場にすぐに駆け付けるようにしていることなどを楽しく話してくれたのを覚えています。

「ジョンがくれたGUITAR」で描かれる18才の衝動


今日紹介する安全地帯の楽曲「ジョンがくれたGUITAR」は、1991年リリースのアルバム『安全地帯Ⅷ~太陽』の収録曲。今から33年前の作品になる。
時期的には、その数年前にバンドが最初の活動休止をして、メンバーそれぞれが個人での活動を経験したあとの段階。彼らはこの前作『安全地帯Ⅶ~夢の都』から活動を再開し、その後に『安全地帯Ⅷ~太陽』とシングル「ひとりぼっちのエール」を出して、無期限の活動休止に入っていった。

本アルバム『安全地帯Ⅷ~太陽』は、すべての作曲を玉置浩二、そしてすべての作詞を松井五郎が手がけている。

シングル曲では、「いつも君のそばに」を収録。

件の「ジョンがくれたGUITAR」は、このアルバムの8曲目に置かれている。
快活なビートが走るナンバーだ。アコースティックギターの音色も聴こえながら、バンド・サウンドが一体になって響いている。とても聴き心地のいいナンバーである。

玉置浩二は、ギターをモチーフにした音楽への情熱と、青春時代にあった野心を回想する主人公の心を唄う。
その男は、街のショーウィンドーの中にギターを見つけ、そこのガラスに反射して映る自分が18才のような笑顔になっていることに気付く。
つまり実際の彼は、もっと大人の年齢になっているということである。

ショーウィンドーに飾られたギターを起点に、若かった頃、野心に燃えていた頃を思い出しながら、歌は続く。自分の何もかもを懸けて夢に向かい、仲間たちと一緒に、捨て鉢で突進していったような日々。
この描写の中で……詩的な言い方になるが、微笑む彼女は大人になっていたり、消えていく幻に飛び込み、そして愛ばかり捜していたり。さまざまな出来事があり、経験を重ねてきたことが唄われていく。

曲名にあるジョンとは、一般的な連想をすればジョン・レノンということになるだろう。ただ、そうであると断定しているわけでもなさそうなので、想像をふくらませてもいいと思う。どんなジョンであろうと、ギターと重なるミュージシャンであれば。

作詞をした松井五郎からバンドへのメッセージ?


ここまで楽曲「ジョンがくれたGUITAR」について自分が感じた事実を述べてきたが、あれこれ書けば書くほど、僕はこの歌詞に託されているように思える感情について触れずにいられない。
作詞を担当した松井五郎は、当時の安全地帯のメンバーたちを見ていてこの詞を書こうと考えたのではないか?ということだ。

1991年時点で、安全地帯のメンバーたちは30代前半になっていた。先ほど書いたとおり、曲が作られたのは彼らがしばらくのインターバルを置いて活動を再開した時である。そして結果的に、このアルバムのあとに休止に至る。

松井五郎は70年代から歌謡曲やニューミュージック、ロックやポップスの数多くの歌詞を書いてきた作詞家。職業作家と言っていい人だ。しかしこの歌に息づく世界は、職業的な感覚だけで書けるものではないと思う。大人の男が青春時代に抱えていたパッションを思い出して、自分の心に再び炎を灯すような気持ちなのだから。

そう。松井は、安全地帯のメンバーたちに、

あの頃の自分を思い出せよ!
君たちにはあれぐらい熱い気持ちがあったはずだろう?

この詞を通じて、そう言っているように思えてならないのだ。

聴いての通り、とてもイキイキとした曲である。当時の安全地帯および玉置浩二がどういう曲の作り方をしていたのかはわからないが、80年代から90年代にかけては、ほとんどのアーティストは先に曲から作るのがスタンダードになっていた。つまり歌詞はメロディのあとに付けられるのが現代の作り方である(もちろん例外もあるが)。
もしこの曲がそうであったなら、作詞の行程は、出来上がったメロディを聴き、曲調を理解した上での作業になる。松井は、まさに一体になったバンド・サウンドがぴったりハマりそうなこの曲を聴いて、歌詞を書いていったのではないだろうか?
ただ、これは僕の想像でしかない。安全地帯のファンや関係者には、もしかしたらこの答えをご存じの方もいるかもしれない。
そうだ。今度、もし志田歩さんに会うことがあったら、聞いてみよう。この曲について。

それにしても、これが安全地帯のメンバーたちが30代前半だった頃の曲である。その年齢から思い返す18才という年齢は、かなり遠い出来事のように感じるのではないだろうか。とくに彼らのように、大成功も、その後の困難も経験している人たちならば、なおさらだ。
あの頃に比べたら、そりゃあ仕事もしているし、できているし、お金だってある。世間のことも、社会の厳しさも知った。
だけど、若い時の……18才の頃の野放図さは、夢を追っていた情熱は、今の自分にあるだろうか?
そんなふうに思うのではないだろうか。僕個人にそんな経験はないが、想像するに、そうではないかと考える。

「ジョンがくれたGUITAR」の主人公は、ギターによって若かった頃の情熱を取り戻そうとする。ただ、きっとその後、あらゆる壁や現実に向かうことになっただろう。
だけど、それでも、この歌が示してくれる感情は、とても尊いもののように感じる。

18才の時の安全地帯は、まだ結成する前夜。それぞれのバンドで、北海道の地で、ヤマハのポプコンなどに出ていた頃だろうか(このへんは僕のインタビューの時にも振り返ってもらった)。まさに夢に向かって燃えていた時期だろう。
それからここまで、やってきたのだ。もっとも亡くなったメンバーもいるなど、それは決して楽な道ではなかっただろう。

こうして彼らのことを考えていると、ひとつ思うことがある。
このバンドについては、とくにシーンに現れた80年代は、ビッグセールスの一方で音楽的な評価が得られず、音楽好きの間でも意見が分かれていたものだ。僕個人も、今ひとつつかみどころに困るバンドでもあった。何しろあの頃はフォークからロック、ニューミュージックという混在した流れがあって、その上で歌謡曲的なメロディや歌詞にどう向かえばいいのかに迷う時代でもあった。J-POPなんていう(かなり乱暴にくくる)言い方も、誰しもがジャンル関係なく聴くようになったのも、もっとあとのことだ。
それが今では玉置浩二のカリスマ的なヴォーカルとともに、多くの人が彼らのサウンドのクオリティを認めている。

安全地帯はこの後、何度かの復活劇や休止がありながら、2024年現在も続いている。先月には40周年のライヴアルバムがリリースされたばかりである。

彼らには、これからも唯一無二のバンドとして、いい歌を、そしてスケールの大きなサウンドを、もっと鳴らしていってほしい。


前回のビュッフェに続いて
名古屋でのカフェ、珈琲元年で食べた
ハンバーガーのモーニングセット。
なんと13時までオーダー可!
さすが名古屋モーニングは食べ応えがあるわ

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