個人的幕末3大イケメン 〜 榎本武揚 武士の魂を持ったイノベーター

個人的幕末イケメン、ラストは榎本武揚。戊辰戦争で北海道に独立共和国を創ろうと目論みながら敗れ、その後敵であった新政府で能力を発揮することになるという数奇な運命を辿った男だ。

元々は江戸の幕臣の家に生まれ、長崎海軍伝習所に学んだ後オランダに留学する。滞在中、観戦武官としてプロイセン・オーストリア戦線を視察するという経験をし、西洋には例え戦争中であっても秩序を保つための万国共通の法(=国際法)というものが存在することを知る。
帰国後は幕府の軍艦頭並となるが、すぐに大政奉還を迎え、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は上野寛永寺に蟄居する。これにより徳川譜代の旗本3万人は事実上無職となる。

榎本は旗本達の受け入れ先として蝦夷地に独立共和国を創るという画期的なアイデアを生み出し、幕府の戦艦8隻を率い蝦夷地に向かい、函館を占領する。新選組の土方歳三はじめ幕臣達が集まり、共和国司令部が作られ、日本初の選挙によって榎本が総裁に選ばれると、国際法の知識を元に、欧米に対し自分達を独立国家として認めさせるよう手を尽くす。
が、頼みの軍艦海陽丸の座礁など数々の不運に見舞われ、函館五稜郭にて降伏する。降伏前夜、敵の新政府軍・黒田清隆にオランダから持ち帰った「海律全書」を「これからの日本に必要な物だから」と送り届け、その気概に黒田が感動し、降伏後榎本の助命に奔走したと言われている。

榎本は東京に戻され、2年半の投獄の後釈放される。そして黒田清隆に請われ、蝦夷地の開拓使の職につく。元々彼は海軍伝習所に入る前、函館奉行の従者として蝦夷地を視察し、その豊かな大地に強い魅力を感じていたので、まさしく適任であったろう。その後、関係が悪化していたロシアとの外交で本領を発揮し、後進国日本が大国と渡り合える国だということを世界に証明する。
最終的に榎本は農商務大臣、外務大臣、文部大臣、逓信大臣を務めることになる。その実力は各省で引くてあまた、といったところだったのだろう。

だがそれだけ要職を務めながらその頃の榎本の活躍は語られることがない。何故だろうか?

武士の時代は主君を代えることを「二君に見え(まみえ)る」といい、武士として最も軽蔑されることだったという。榎本はまさしく二君に、しかも自分の主人であった徳川家を追いやった新政府に重用されたのだ。新政府、といいながら実は薩摩と長州の利権の奪い合いの中で、元幕臣でしかも新政府に対抗して戦った人間に風当たりが強くないはずはない。裏切り者、と馬鹿にした者さえいただろう。
榎本の心の中にも当然大きな葛藤があったに違いない。しかし西洋を直に見てきた彼は、敗者となったら自ら命を絶つのが最も潔いとされる武士道に疑問を持っていたのかもしれない。自分が死んでも何も変わらない。それより何を言われようが、自分の能力を新しい世のために発揮し、良い国を作ること、それが彼にとっての武士の道だったのではないだろうか。

そんな彼の生き方は当時では決して理解されるものではなかっただろう。しかし榎本は自分の役目を立派に務め上げた。近代化しようとする日本において、精神的な意味でも「近代化」した初めての人物であったかもしれない。「二君にまみえる」というが、結局彼の主君はずっと「日本」という国そのものであっだのだろう。その唯一の主君のために不条理に耐えながら役目を全うした彼を、私は「武士の魂を持ったイノベーター」だったと思っている。

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