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「お兄さん、俺、プロになりたい」夢を抱いた少年に背中を見せた2年間と、意外な展開

大学1、2年生の2年間、近所の小学校で毎週末サッカーを教えていた。といっても、コーチという立場ではない。

当時、ぼくは暇があれば小学校のグラウンドへ行って、壁に向かってひとりでシュート練習をしていた。

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いつものように練習に打ち込んでいたある日、サッカーチームの保護者の男性から、「良かったらお兄さんも、一緒にゲームに混じりませんか?」と誘われたのが、その少年たちとサッカーをするようになったきっかけだった。以後は保護者がいなくても、自然と彼らとサッカーをするようになった。

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日曜の午後には、だいたいその子たちがいた。定期的に集まっていたのは、10〜15人くらい。みんな、とてもうまかったけど、なかでも小学5年生の三明風生(みあけぶい)くん(写真左から2番目)は、その技術で頭ひとつ抜けていた。

最初に会ったとき、彼は真剣な表情で「お兄さんはプロの人ですか? どこのチームですか?」と聞いてきた。

「お兄さん、俺、プロになりたい。どうしたらプロになれるんですか?」

「ごめんな、お兄さんはプロでもなんでもなくて、ただのサッカー好きの大学生なんだ」

ぼくも昔は、本気でプロサッカー選手になりたいと思っていた。自分には到底叶えられなかったが。しかし、彼には大きな可能性がある。

自分にできることは、少しでも彼の手本になることだった。ぼくが小学生のレベルに合わせてプレーするのではなく、自分に見せられる最上級のプレーをする。体力の差、身体能力の差、技術の差は当然大きなものがある。しかし、あえて一切手加減せず、全力でぶつかるのがこの子のためになると思った。

風生は、同年代ではズバ抜けてうまかったけど、横須賀は狭い。ライバルや自分より上の選手が周りにいなかったら伸びなくなると思ったから、ぼくが本気で相手をして、圧倒的に勝って、圧倒的に悔しい思いをさせることにした。2年間、ほぼ毎週末。

みんなで試合をするときは、必ずぼくと風生が別のチームになるように、チーム分けをした。それは、風生からの提案だった。

「俺は絶対お兄さんと同じチームにはならない」といつも頑固だった。彼はぼくのドリブルを止めようと何度も食らいついてきた。そして自分がボールを持てば、ぼくを目がけてドリブルを仕掛けてきた。毎週末の勝負を本当に楽しみにしてくれていた。ぼくもまた、会うたびにうまくなる風生の様子を見るのが楽しみだった。

一流のプレーから学んでほしいと願い、帰りにうちに寄っていかせて、マンチェスター・ユナイテッドのゴール集のDVDを貸したこともある。家まで送っていくと、風生のお父さんから「中村さん、いつもありがとう。風生のこと、よろしく頼むな」と言われたこともある。お父さんとは何度か飲んだ。

2年間で、風生はとにかく成長した。彼が中学に進む手前の頃には、もうぼくが本気でやっても、負けることがあった。それなりにサッカーを続けてきた大学生が小学生に負けるなんて、普通はありえないのだ。これからどこまで伸びるのだろう? 底知れぬ彼の可能性に、ぼくは恐ろしささえ感じた。

「風生、お前、プロになれよ!」

と最後に言って、別れた。その後、彼はぼくの母校でもある浦賀中に進み、サッカー部ではなく、クラブチームに入った。それ以後は、彼らが週末にサッカーをしに小学校へ来ることはほとんどなくなった。部活やクラブの練習で忙しかったのだろう。ぼくもぼくで、大学3年生になり、自転車旅やブログに夢中になり始めた時期だった。小学校へ行く機会はめっきり減っていった。

ぼくが風生との交流を思い出したのは、それから6年が経った2015年のことだった。ある日突然、サッカーメディアのニュース記事で、大きくなった風生の姿を見つけたのだ。

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「え・・・? 風生だ、風生じゃねえか!」

ピンクのユニフォーム。風生は、サッカーの名門・日大藤沢高校に進学していた。

強豪揃いの神奈川県予選で見事優勝し、全国大会への切符を手にしたとき、彼は左サイドバックの重要な選手になっていた。中学まではフォワードだったのだが、高1のときに、50m5秒台のスピードとスタミナを買われて、サイドバックにコンバートしたという。「日藤の長友」として、強豪チームの中でも埋もれなかったのだ。

「1対1のスペシャリスト」と紹介されたその記事を読みながら、ぼくは彼と1対1の勝負を繰り返した小学校のグラウンドでの日々を鮮やかに思い出し、ひとり涙を浮かべていた。

お正月にテレビ中継される全国高校サッカー選手権で、神奈川県代表の日大藤沢は快進撃を続け、初のベスト4に進出した。準決勝では本田圭佑の母校・星陵(石川県代表)と激突。実は不運にも、この大会直前に風生はインフルエンザにかかってしまい、1回戦から3回戦までは自宅のテレビで試合を見守っていたそうだ。

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しかし、準決勝の埼玉スタジアムのピッチに、彼(15番)は立った。結局、その試合で負けてしまったのだが、全国4154校中の3位に輝いた。「本当によくやったよ」と頭をなでてやりたい気持ちでいっぱいだった。

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そしてその年の5月、突然風生から、

「お話聞かせてくれませんか?」

とLINEが届き、有楽町で6年ぶりの再会を果たした。たくましい顔つきになっていたが、素直さや謙虚さは当時のままだった。

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「星陵とか、同世代の日本代表クラスと戦ってきたわけだろ? 実際どうだった? 風生でも、戦えた?」

「うん。みんな確かにうまいけど、全然やれた。うちにもほぼJリーガーになるのが決まっている選手がいたけど、普通に止められたし。だから、全国大会でも、やれる自信はあった」

淡々と言うから、本当にすごいやつだなと思った。

「でも俺、大学生になってみて思ったけど、コーチでもないのに、勝手に小学校のグラウンドに入ってきて、小学生を相手にサッカーを教えていた中村さん、意味不明だった。すごいことしてましたよね。俺なら、絶対できないもん笑 だけど、小学生に本気でぶつかってくれる大人なんていないじゃないですか。だから良かったですよ。あの時間は、すごくためになりました」

「3年前だったか、浦賀中サッカー部が初めて県大会で準優勝したときがあったよな。あれは快挙だったけど、もしかして、お前が中3のときだった?」

「そうです。でも俺はクラブチームだったから、出てないんですよ」

「あ、そっか」

「けど、準優勝したときの主力メンバーは、みんなあのとき中村さんにサッカーを教えてもらってた奴らですよ。覚えてますか? ハルとか、りょうとか、タカとか......」

もちろん、みんな覚えていた。

「そうか、あいつらが。それは嬉しいな......」

ひとりひとりの顔とプレーの特徴が目に浮かび、ジーンとしてきた。

「で、お前は日大に進んだわけだけど、プロは目指さなかったんだ」

「うん。たとえばJ3とか、海外でならやれるかもしれないけど、そこまでして続ける気にはなれなかった。もう、サッカーでは完全燃焼したんだ。でも、大学生になって、目標が見つからなくて、このまま4年間何もせず過ぎちゃう気がして、なんとなく中村さんに相談したくなった」

「そうか。時間はたっぷりあるんだから、好きなことやれよ」

「でもサッカーしかしてこなかったから、何していいかわからなくて。で、前に俺の学校にGREEの創業者が来たことがあって、起業したときの話を聞いたんだけど」

「へえ」

「俺、起業とかよくわかんないけど、なんかその話がおもしろくて、興味持って、中村さんなら何か知ってるかなと思って。中村さん、大学生の頃、何してたんですか?」

「そうか、お前と別れたのが大学2年の終わりだったから、何も知らないんだよな。ぼくはあのあと、自転車で鹿児島まで旅したり、スポンサーを集めて自転車でヨーロッパを旅したりしてたんだよ」

「は???」

「日本地図があるだろ? 本当に日本って地図通りの形になってるのかなって疑問に思って、自転車で旅して確かめようとしたんだ」

じっと聴き入る風生の目は、とてもイキイキとしていた。2時間近く、話をした。

「俺、今日会えてよかったです。やる気が出てきました。素朴な疑問と真剣に向き合うこと、ですね。それと、好きなことを極めます。旅もしてみたいし、色々やってみよ。何かおもしろい企画があったら誘ってください」

「もちろん。サッカーでは全国3位だったけど、今度はサッカー以外で、日本一になってみろよ」

それまでサッカーしかしてこなかったとしても、プロになることだけが成功ではない。人生は長い。


あれから、さらに6年が経った。少し前に、風生から連絡があった。

「大阪で、お笑い芸人になりました」

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コンビ名は、赤リトル。意外な展開に驚いたが、経緯などは聞かず、ぼくはただ「頑張れよ!」と伝えた。以後はときどき、SNSで彼の様子を眺めている。

この秋、M-1グランプリの2回戦を突破し、明日10月26日(火)「よしもと漫才劇場」で3回戦に出場する。すごいじゃないか。

風生の第二の人生を、これからも見守っていきたい。ぼくに夢を見させてくれた、せめてものお礼に。

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