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小説「うつ病障がい者社員の夢」


2015年の7月、とある墓地にある、1基の墓石の前で、手を合わせている1人の女性がいた。もう、かれこれ15分以上、目を閉じ、手を合わせ、何ごとか祈りを込めている。

細い木陰が墓地をやさしく覆い、風がそよぐたびに、心に涼しさを運んでくる。

故人への想いが、花の香りと共に、静かに漂っている。

やがて彼女はその目をゆっくりと開くと、

「もう、『あの日』から“1年と1日”・・・かあ・・・」

と呟いた。

目の前の墓石を穏やかな表情で、まだしばらく見つめていると、何かの思い出が頭の中によみがえってきたのだろうか、彼女の目から自然とこぼれ落ちてくるものがあった。

やがて彼女は持っていたハンカチでそれをぬぐうと、

「やだ、私ったら。何、泣いているんだろう・・・」

とまた呟いた。そして墓石に向かって、

「・・・また、来ます」

と声をかけ、静かに立ち去っていった。


第一章


***2年前***



「・・・あの、うつ病で1年も寝たきり状態だった私がこんなことを言うのも何ですが。嘱託社員から正社員に登用していただける可能性ってあるのでしょうか?」

今年で34歳になった高橋康平が質問すると、面談者としてその場に同席していたスマートバイト社人事部長の田村は笑顔で答えた。

「今のところ前例はないですが・・・しっかりと仕事をやって、正社員と同等の成果を出してもらえれば、可能性がないということは決してないですよ」

田村の横に同席していた、同社の常務取締役で管理本部統括兼総務・人事本部長の西山が笑顔で続ける。

「まあ、とりあえずは、ムリのない範囲でやっていってください。何よりも、高橋さんの健康が第一ですからね。とにかくまずは体調を優先に。無理をしない範囲でゆっくりやっていってもらえればそれで大丈夫なので」
「そうおっしゃっていただき誠にありがとうございます。」

前職で、3度目のうつ病に罹ってしまい休職。半年間経っても復職できず退職扱いとなり、さらに半年間、ほとんどの時間を寝込んで過ごしていた康平。

合計、1年間の療養生活を経て、ようやく気力と体調を取り戻してきた。
社会復帰をするにあたり、心療内科の医師からは『障がい者雇用』で働くことを勧められた。

障がい者雇用とは、『障害者の雇用の促進等に関する法律』に基づき、一般雇用とは別枠で、企業や自治体などが、障がいのある人を雇用することである。

康平は初めてうつ病を発症してから8年になるので、病状も含めて、障がい者としての認定要件は満たすことができていた。

そうして、障がい者専門の人材紹介会社から紹介されたのが、アルバイト求人サイト『バイトへGO!』を運営する東証一部上場企業のスマートバイト社だった。

求人広告業界では老舗の企業であり、インターネットのアルバイト求人サイトが主流になる前の、紙媒体、いわゆる『パート・アルバイト求人誌』と呼ばれていた頃から、自社で求人雑誌を発行し、この業界の最大手企業であるS社の長年のライバルとして、確固たる地位を確立している従業員数約1500名の、東京は秋葉原駅近くに本社を構える大企業だ。

特に『バイトへGO!』を立上げて以降は、求人情報の豊富さと、サイトの使い勝手の良さでアルバイトを探している求職者に大人気となり、会社の業績は急上昇。

テレビCMも積極的に打ち、世間に広く認知されると共に、財務面では東証一部上場企業の中でも“優良カンパニー”として位置付けられていた。

康平はスマートバイト社の2回の選考面接を通過、無事に内定を取ることができ、今回、条件面談に臨んでいた。

しかし、そこで提示された月額給与が額面で『13万円』、『賞与なし』、雇用形態が『嘱託社員』であったため、手取りの金額を考えると『これでは生活面が厳しい』と感じ、正社員登用の可能性を聞いてみたのだった。

スマートバイト社の『正社員』の待遇の良さは有名だった。

企業には『障害者雇用率』というのが法律で課されていて、一定規模の大きさの企業では身体・知的・精神のいずれかの障がい者を雇う義務がある。
康平がスマートバイト社の選考を受けた2013年当時は、従業員数の1.8%の障がい者を雇うことが、法律で義務付けられていた。

障がい者雇用で企業側が一番、採用したがるのは、『軽度の身体障がい者』である。

普通に働けてキャリアも積んできているけれど、足など身体の一部が悪いだけ、というのが企業にとっても一番ありがたい。そのため、『軽度の身体障がい者』の採用はそれこそ『争奪戦』になることが多い。

一方で、『知的障がい者』、『精神障がい者』というのは、正直、企業からの人気は高くなかった。

『知的障がい者』は仕事の割り当て方などが難しいし、『精神障がい者』は康平のような『うつ病』などの精神疾患を抱えていて、いつまた発症・再発するか分からないからである。

だがスマートバイト社はあえて、採用するのが難しい『軽度の身体障がい者』ではなく、うつ病や統合失調症、躁うつ病などを持つ『精神障がい者』を積極的に採用していた。

康平は前職では、全国1500店規模の飲食チェーン企業に在籍し、人材採用の統括責任者を勤めていた時期があった。

当時はこの『障がい者採用』も、康平の担当業務だったが、康平の当時の上長であった人事部門長は、『精神障がい者』の採用を嫌がっていて、

「うつ病などの『精神障がい者』はダメだ。何としても『軽度の身体障がい者』を採用するんだ」

と厳命を受けていた。当然、採用は熾烈を極めたので、その都度、かなり大変な想いをしたものだった。それもあり、康平は

(精神障がい者を積極的に採用するなんて偉いなあ。さすが東証一部上場企業の中でも“優良カンパニー”と呼ばれる会社は違うなあ)

と感銘を受けていた。しかも、前例はないとは言え、正社員と同等の成果を出せば、正社員登用の可能性もあるという。

(ここはすごく良い会社なのではないか)

と感じた。

康平には、自信があった。

当面は給料が低いのは仕方ないけれども、正社員に登用してもらえれば、待遇も大きく改善される。

康平の今までのキャリアでは、法人向け営業、リスクマネジメント(危機管理)、人材採用など、どこの会社でも、どんな仕事でも、しっかりと成果を出してきた。

きっと、ここでも正社員と同等の結果は出せるはず。そうなれば、東証一部上場企業の正社員として、うつ病で“完全崩壊”した自分の人生を建て直せるかもしれない。

(もしかしたら、息子の亮介と再会できる機会も持てるかも・・・)。

康平の目は久々に輝き、その場で決断した。

「ぜひよろしくお願い致します!」

提示された条件を受け入れて、スマートバイト社への入社を決意し、意向を伝えた。

やがて入社日である2013年11月1日の3週間ほど前になると、康平のもとに1通の郵便物が届いた。スマートバイト社からの『入社手続き書類』だった。

早速、開封して雇用契約書を見てみると、条件面談時に提示されていた通りの『額面13万円』の月額給与。そしてこれも提示されていた通りの『賞与なし』『雇用形態:嘱託社員』の文字が記載されていた。そして配属先は・・・

『総務部』

と記載されていた。

(確か・・・1次面接で『リスクマネジメントは総務部の担当業務です』とか言っていたな。ということは・・・俺の担当はそれか!)

康平は、ギュっと拳に力を込めて握りしめた。
“リスクマネジメント(危機管理)”とは、製品事故、法令違反、サイバーテロなど、企業を取り巻く様々な危機に対して、それらを発現しないための予防策や、発現した場合の損失を最小限に抑えるための備えをしておく業務で、康平の得意分野だった。

(これであれば・・・人事部長の田村という人が言っていた『正社員と同等の成果』は出せる自信はある。そうすれば、東証一部上場企業の正社員として待遇も改善され、人生を建て直せる!)

「よし!やってやるぞ!」

康平は独り暮らしをしている、東京・上野の外れの狭いワンルームマンションの中を、ソワソワと歩き回った。1年ぶりに仕事の現場に復帰できることを考えると、表情もより明るくなった。

もう間もなく・・・3週間後から、第2の人生がスタートする。

・・・しかし、その時点で、康平はスマートバイト社の『裏の意図』までは気付けていなかった。

***入社初日***



送られてきた入社手続きの書類には、

『入社日の11月1日は、8時50分までにお越しいただき、14Fオフィスフロアの出入り口前でお待ちください』

と書いてあったので、スマートバイト社にはその15分前に到着した。

1Fの受付で、氏名と本日から入社する者である旨を伝え、案内されたエレベーターホールから14Fまで上がると、オフィスフロアの出入り口らしきものはすぐに見つかった。

緊張の面持ちでその場に立っていると、社員と思われる人たちが次々とエレベーターから降りてきて、康平を見かけるとペコッと頭を下げながら通り過ぎ、オフィスフロアに入っていく。始業開始は9時からだ。

8時50分ぴったりになると、オフィスフロア出入り口のドアから人が出てきた。
スマートバイト社の選考を受けた時、一次面接で人事部長の田村の隣に同席していた、中岡という社員だった。

「お、高橋くん。もう着いていたか。今日からよろしく」
「先日はありがとうございました。こちらこそ、本日からよろしくお願い致します」

丁重に一礼すると、オフィスフロアに入ることを促され、中に足を踏み入れた。

(うわ、広い・・・)

全体で100席くらいはありそうな広いオフィスフロアを見渡して、
(さすが東証一部上場の大手企業だなあ・・・)
と目が輝いた。しかもこのビルは賃貸ではなく、自社ビルだという。14Fが最上階で、管理系の部門が入るオフィスフロアとなっていて、その上は屋上になっているとのことだった。

オフィスフロアに入ると早速、康平は総務部のセクションに連れていかれた。中岡は、

「あ、総務部のみなさーん、おはようございます。今日から入社の高橋さんをお連れしました」

と大きな声で伝えると、

「あ!そうそう、9時から始業開始なんだけど、最初に紹介するから、とりあえずみんなの前であいさつのスピーチしてくれる?」

と唐突に告げてきた。

「え!?・・・あ、はい。分かりました。」

突然そんなことを言われて、康平の声は少しうわずった。初めて訪れた100人規模のオフィスフロアで、いきなり『10分後にみんなの前でしゃべってください』なんて言われたら誰もが面食らうだろう。

(入社手続きの書類に書いておいてくれれば良かったのに・・・)

そう思うや否や、総務部の社員たちは中岡の声に反応し、康平を確認すると、みんなが椅子からパッと立ち上がった。まじまじと康平の顔を見ながら、

「おはようございます。よろしくお願いします」

と笑顔を見せ、頭を下げた。康平も、
「はじめまして、高橋康平と申します。本日からよろしくお願い致します」

と一礼した。顔を上げると、中岡が
「じゃ、総務部の皆さん、あとはよろしく」
と言い残し、隣の人事部と思われるセクションに戻って行った。

すると、上長席にいた、スラっとして爽やかな雰囲気を醸し出す、背の高い男性社員が、こちらにツカツカと歩いて来た。

(この方が部長さんかな?自分より5―6歳年上、40歳くらいかな?)
などと考えていると、あっという間に康平の目の前にやってきた。

「はじめまして、総務部課長の真田といいます。高橋さんですね。これからよろしくお願いします」

クールな笑顔であいさつし、一礼した。顔立ちもいわゆる「イケメン」という感じで、一見、非の打ちどころのない好青年、という第一印象だった。

「そこが高橋くんのこれからの席ね。じゃあとりあえず、もう間もなく始業だから、座って待っていてくれるかな。人事部の中岡課長代理も言っていたけど、最初、みんなの前で一言あいさつしてもらうんだけど、大丈夫そう?」
「あ、はい・・・なんとか頑張ります・・・」

「お、頼もしいね。じゃあ、あとでまた。よろしくね」

爽やかな笑顔でそう言うと、真田はクルっと振り返り、自席に戻っていった。康平も指示された通路側の末席に座った。どうやら、康平の隣席の社員はまだ出社していないみたいだ。

すると突然、真向いに座っていた1人の男性社員が『ヌッと』顔を乗り出して、声をかけてきた。

「はじめまして、小竹と言います。高橋さん、でしたよね?よろしくお願いします。」

「あ、はい。高橋です。よろしくお願いします」

「あの・・・高橋さんは嘱託社員と聞きましたが・・・」

「はい、そうです」

「あ、僕もなんです。よろしくお願いします。またあとでゆっくりお話ししましょう」

まるで自分が入社してくるのを心待ちにしていたかのような満面の笑みだった。嘱託社員ということは、同じ『障がい者雇用』ということだろう。
康平はとりあえず自分を歓迎して仲良くしてくれる人がいそうなことに安堵した。

それからしばらくすると、突然、男性の声がマイクの音でフロアに響き渡った。

「みなさま、おはようございます」

時計に目をやると、ちょうど9時。始業時刻だ。

(・・・誰が、どこからしゃべっているんだろう?)

と周りを見渡すと、隣の人事部と思われるセクションからだった。マイクを持っていたのは、一次、二次面接と条件面談で合計3回、顔を合わせた部長の田村だった。

「本日より、お一人、嘱託社員の方が仲間に加わります。総務部の高橋康平さんです。それでは高橋さん、前方の登壇台の上で、一言、ご挨拶をお願いします」

とそつなく促された。田村が腕を差し出している方向が、登壇台の場所を示していた。

(登壇台なんてあるんだ・・・。)

上席側のさらに奥のスペースに置かれた少し高めの登壇台へ向かい、そこに乗り、パッとオフィスフロア全体を見渡してみると・・・やっぱり、広い。康平はより一層、呼吸が早くなってきたが、

(なんか面白いことを言えてみんなに笑ってもらえたら、名前と顔をすぐに覚えてもらえるかな…。)

と思った。
何しろ、ただ働くことだけが目的ではないのだ。しっかりと仕事で成果を出し、正社員の待遇を得て、うつ病で“完全崩壊”した人生を建て直すために、ここに入社したのだ。

(・・・ちょっとした自虐ネタだったら、みんな笑いやすいかな)

康平はふと思いつくと、登壇台に向かう途中で田村に渡されたマイクを持ち、努めて明るいトーンで話を始めた。

「・・・皆さま、はじめまして、本日からお世話になります高橋康平と申します。前々職、前職とちょっとムリして働き過ぎてしまいまして、そしたらなんとまさかの、『うつ病』に罹ってしまいました。仕方ないので、1年間ほど寝込んで充電していました。目が覚めたら、すっかり充電満タンになっていましたが、その間に奥さんが息子を連れて出ていってしまいまして、『あれっ?』と気づいたら、いつの間にか自由気ままな旅人のような身となっていました。こんな私ではございますが、一生懸命頑張りますので、ご指導・ご鞭撻の程、何卒よろしくお願い致します!」

と笑顔で元気にあいさつし、深く頭を下げてお辞儀をした。

(・・・笑い、起きるかな??)

と思いながら顔を上げ周囲を見渡すと、オフィスフロア全体に、シベリアの凍てつく港町のような空気が漂っていることに気付いた。

(あ、マズい・・・)

シーン・・・。

視界に入った数名が、康平から目を逸らしているのが見て取れた。100名近くの社員がいる広いオフィスに、気まずいにも程がありすぎる沈黙が続いた。

しばらくするとようやく、乾いた拍手の音がどこからともなく、そして力なく聞こえて来た。康平は慌てて登壇台から降りると、その場から逃げ出すように、自席にいそいそと戻った。途中でマイクを受け取った人事部長の田村が、何ごともなかったかのように、

「それでは今日も一日よろしくお願いします」

とだけ言った後、全員が何ごともなく仕事に取り掛かり始めた。

いきなりスベりにスベった恥ずかしさで耳元まで真っ赤になった康平が、おそるおそる向かいの小竹を見ると、小竹は、

「高橋さん、チャレンジャーですねー!」

と小声で呟いた。すると、少し離れた席から、一人の男性社員が康平の近くに来て、声をかけてきた。

「・・・高橋君、はじめまして。総務部課長代理の館山です。」

「あ、高橋康平です。あ、なんか、申し訳ありません。よろしくお願い致します」

(これは・・・いきなり怒られるな)

と覚悟した次の瞬間、館山は、

「・・・康平くんか!いい名前だ。康平くん、君、面白いねー!あんなインパクトのある初日あいさつ、初めて聞いたよ!俺、衝撃受けたわ!ハハハハ!!」

と周囲に気遣うように小声で、でも豪快に笑ってくれた。

館山は、真田とは対照的に、少々恰幅が良く、見た目はいかにも『普通の中年のおじさん』というイメージだったが、相手の心を包み込むような笑顔と優しさ、そして人情味のある温かい性格が一瞬で伝わってくるような人間的魅力を持つ人だった。

海に滑って落ちて溺れているところを、館山と小竹に救助されたような気持ちでいると、館山は小竹の方を向いて呼びかけた。

「タケ!お昼は康平くんと3人で行こうぜ!」

「はい!もちろんです!高橋さん、いいですか?」

「あ、もちろんです、ぜひお願いします」

引き続き、館山がその場をてきぱきと捌いていく。

「じゃあ、早速だけど、総務部員たちを紹介するよ」

「あ、はい。よろしくお願いします」

康平はまだ真っ赤な耳のまま答え立ち上がった。康平は過去2回、転職経験があったが、このような親切な人がいるのといないのでは、安心感が大きく異なるものだ。

「真田―!高橋くんに総務のみんなを紹介しておくよ」

すると真田も、

「あ、すみません。よろしくお願いします。じゃあその後、僕の方から業務内容を説明しますね」

「おう!了解!」

一瞬、『あれっ?』と思った康平だったが、館山はまず真田の席に康平を連れていき、

「えーとまず、総務部長は総務・人事本部長の西山常務取締役・・・面接で会ったろ?が兼任しているから、実質的に総務部の現場を取りまとめているのが課長の真田。さっきあいさつしていたけど。俺の4つ後輩で、俺はいつの間にか追い越されちゃったんだ。ハハハ!」

「館山さん、そんなこと言わないでくださいよー。よろしくね、高橋くん」

という2人の会話になったので、『あ、なるほど』と大まかな事情が分かった。

「えーと、次は・・・と。そうだな・・・株主総会の業務を専任で担当している清寺課長だ。ウチの顧問弁護士との窓口役もやっている。俺も含めてこの3人が総務部の管理職って感じかな」

「清寺です。よろしく」

総務部メンバーの中では最年長のようで、『定年前くらいの方かな?』と康平は思った。寡黙だが、人柄の良さが身体から自然と滲み出しているような雰囲気の方だった。

「で、総務部女性メンバーを取りまとめているのが、リーダー・・・あ、役職名ね。リーダーの立花美香」

立花美香は丁寧な所作で、ゆっくり席を立つと、

「高橋さん、立花と申します。さっきのごあいさつ、実は笑いをこらえるのに必死でした。面白かったですよ。これから楽しみです。よろしくお願い致します!」

と入社早々、見事に失敗した康平を、適切な言葉でフォローしつつ、笑顔であいさつをしてくれた。

(性格も良くて、仕事もすごくできそうな感じだ…。俺より少し年下くらいかな…。)

館山はどんどん康平を連れて歩いていく。

「次は、同じくリーダーの北沢大輔。こないだ30歳になったばかりの、総務部男性社員のホープだ。ガタイ良いだろ。大学のラグビー部出身だぜ」

北沢は、ぶっきらぼうな性格なのか、先ほどの立花とは対象的に、面倒くさそうに席から立ち上がると、ほとんど康平と目を合わさず、『北沢です。よろしくお願いします』とあいさつも最低限で済ました。

「よし。じゃあ次は・・・、ここは席がまとまっているから、女性社員3人を一気に紹介するわ!と思ったけど、黒須さんは午前半休か。じゃあ2人、いいかー?」

「はい!」
2人が返事をして席を立つと、

「まず、こちらが荻原香。荻原さんは入社4年目。それで、こちらが宮澤静香。そして今日は私用で午前半休だけど、黒須美津子。宮澤さんと黒須さんは、4月に入社した今年の新卒社員だ。3人ともみんな、めちゃくちゃ優秀な人材なんだ!」

「館山さん、やめてくださいよー!プレッシャーかかるじゃないですかー!」

と元気な笑顔で返した荻原香に続き、宮澤静香も名前を告げ、そつなく挨拶をこなした。

荻原香は明るい笑顔であいさつをしてくれたが、宮澤静香は、無表情で、康平と視線を合わせることなく

「よろしくお願いします」
と小声で呟いただけだった。

「あと総務部には、1F受付の3名と西山常務の秘書の北川幸恵がいるが、北川さんは、今日は体調不良で休みなので、また明日、紹介するよ。受付の3人には、昼メシに行く時、あいさつしよう。今の時間は来客対応で込み合っているだろうし」

「あ、はい、了解しました。」

「そして最後に、すでに会話していたようだが、小竹久、『タケ』だ。タケは康平くんと同じ嘱託社員での雇用だ。愛想のよい奴だから、わからないことがあったら何でも聞くといいよ」

通称「タケ」が続く。

「高橋さんも『タケ』って呼んでください。よろしくお願いします。僕も、高橋さんのことを下の名前で呼んでいいですか?」

「あ、はい、もちろんです。」

「康平さん、よろしくお願いします。」

その後、館山とは

「じゃあとりあえず、これでメンバー紹介は以上な」

「お手数をおかけしてすみません。皆さんをご紹介いただきありがとうございました」

「おう、じゃあ、また昼メシで!」

と会話を交わし、最初のあいさつ回りが終了した。

(全体的には、雰囲気の良さそうな部署だなあ)

康平はそう思い、館山への感謝と共に、ホッと胸をなでおろした。あとはどうやら、正社員の役職名は、本部長、部長、課長、課長代理、リーダー、そして役職なし、といった具合に別れているらしいことも分かった。


***担当業務***


康平が自席に座ると間もなく、課長の真田が声をかけてきた。

「高橋くん、早速だけど、業務内容の説明いいかな?」
「はい!」

真田は立ち上がり、周囲を見渡すと、

「そうだな・・・じゃあ。あそこの打ち合わせ席で」

と指を差した。

康平の席から少し離れたところに丸テーブルと椅子が2つ。ちょっとした打合せをする時に使う席なのだろう。
康平は立ち上がりノートとペンを持つと、そこに颯爽と向かっていく真田の後を追い、椅子に座ると二人は向き合った。

(担当業務は・・・やっぱりリスクマネジメント関連の業務かな?どんな難しい内容でもしっかりとやって、成果を出すぞ!)

康平がそんなことを考えていると、真田から思わぬことを告げられた。

「・・・えーとじゃあ、高橋くんの担当は・・・小竹くんと一緒になるんだけど、新卒社員の黒須さんと宮澤さんのアシスタントをやってもらうね」

「え?・・・あ、はい」

「一番大変なのは・・・郵便物の仕分けと、各部門への配達かな」

「郵便物の仕分けと各部門への配達・・・ですか」

「そう、あそこに置いてあるんだけど」

真田が指を差したその先には、総務部のセクション1つと同じくらいの、かなり広いテーブルの上に、郵便物らしきものが無造作に、そして山のように積んであった。大きめの荷物も、いくつかある。

「1日2回、始業後すぐと14時くらいに、本社宛ての郵便物が全部、総務部に運ばれてくる。朝はあのくらいだけど、14時はもっと多いんだよね。それらをすぐに仕分けて本社の各部門・・・30部門くらいあるかな・・・にいる事務社員に1日2回、届けに行く業務があるんだ」

「あ・・・はい」

「なにせ、量が多いのと、各部門へ運ぶのが大変でね」

「そうですね・・・結構、大変そうですね」

「それ以外には、黒須さんと宮澤さんのデスクワークの手伝いもしてもらいたくて」

「はい・・・どのような仕事が多いのでしょうか?」

「どうしても多岐に渡っちゃうんだけど・・・お願いすることが多くなるのは、文書の整理・ファイリングとか、コピー取りとか、データ入力とか、倉庫整理とか・・・量が多くて、黒須さんと宮澤さんが、手が回らないところを助けて欲しいんだ。あとさらに余裕があれば、他の社員の『作業系』の仕事も手伝って欲しい。これらが、高橋君の仕事内容になる」

(・・・そうなんだ)

郵便物の仕分けと各部門への配達、文書の整理・ファイリング、コピー取り、データ入力、倉庫整理など、いわゆる「作業系」の仕事は、康平はそこまで苦手意識はなかった。

でもどうやら、いわゆる「考える系」の仕事は正社員が担当し、「作業系」の仕事は嘱託社員が行う、という大まかな区分けがあるようだった。

(田村人事部長が言っていた『正社員と同等の成果を出せば、正社員登用の可能性もある』という条件を満たすには、「考える系」の仕事に携わる機会がなければ、そもそも同じ土俵に立てないということか・・・)

康平はてっきり『リスクマネジメント業務』を担当するとばかり思っていた。でも、与えられた役割は『新卒社員のアシスタント』だった。まだ大学を出たばかりの新卒社員のアシスタント。『もう34歳の自分が…』と正直、思ってしまった。

(これがうつ病になり、1年間も療養して、ようやく復帰した現在の自分の社会的価値や評価なのか・・・)

そう思うと、その現実を目の前に、小さなため息をついて、肩を少し落とした。

「じゃあ、もう小竹くんが郵便物の仕分けを始めているから、早速、教えてもらいながらやってみてくれるかな?慣れてきたたら、仕分け・配達業務は小竹くんとそれぞれ1日1回ずつ、交代制でやってくれる?」

「はい、分かりました。ご説明いただきありがとうございました」

康平は、出来る限り心の中を悟られないように、努めて明るいトーンで返答した。

小竹がすでに作業を始めている。康平は、大量の郵便物が置いてある広いテーブル席に向かいながら、最初のあいさつで情けなくスベり、与えられた業務内容を聞いて、いきなり沈んで来た気持ちを早めに建て直そうと気を取り直した。

(・・・そう。まだ入社したばかりだし。それに1年ぶりの社会復帰だし。1からスタートするつもりで少しずつやっていけばいい)

「・・・康平さん、真田課長からの説明、終わりました?」

康平が近くまで来たのに気づくと、小竹の方から話しかけてきた。

「はい。終わりました。よろしくお願いします」

「そういえば、康平さんって34歳ですよね?俺も同い年なんです」

「あ、そうなんですね」

「はい、なので・・・お互い敬語を使うの、やめませんか?あと『さん付け』も」

「え、あ、はい・・・うん」

「じゃあ、これからよろしくね!康平。俺のことは『タケ』って呼んで」

タケは満面の笑みで嬉しそうな顔をしている。

「あ、はい・・・よろしく・・・タケ・・・ね」

強引な距離の詰め方に少々、抵抗感を感じたものの、『いやです』と言うわけにもいかないので、受け入れた。

「あ、あとさ。この14Fフロアには全部で6人の嘱託社員、要するに障がい者雇用の人がいるんだけど、そのうち2人、芹沢さんという方と佐々木さんという方は、仕事と関係ない社員とは距離を置いているみたいで、あまり会話できないんだけど…。あとの2人は仲良いからさ。業務部の橋沢くんと経理部の西口くんっていうんだけど。2人とも、まだ20代後半くらいで若いよ。そのうち、4人で康平の歓迎会やろうよ」

「え、いいの?うん。ありがとう」

(歓迎会かあ。総務部全体での歓迎会とかはあるのかな・・・)

以前に在籍していた会社ではどこも、部門に誰かが出入りするたびに、歓迎会・送別会と開催されるのが当たり前だった。

(この会社は歴史のある会社だから、当たり前のように自分の歓迎会があると思っていたけど、実際はどうなんだろう・・・)

そう康平が考えていると、タケがふと呟いた。

「正社員は部門で歓送迎会があるけど、嘱託社員は、そういうのはないからさ」

(・・・障がい者雇用の嘱託社員だと、そんな扱いなのか)

康平の視線は下がり、沈んだ表情になってしまった。

とはいえ、わざわざ他の2人に声をかけて歓迎会を開いてくれるというタケはいい奴だ。さっき、強引な距離の詰め方に抵抗を感じてしまったことを申し訳なく思っていたら、2人の後ろから、突然、鋭い声がかかった。

「おしゃべりしているヒマがあったら、作業進めてくれませんか!?時間ないんですけど!」

『ドキッ』として後ろを振り返ると、宮澤静香がそこにいた。新入社員の。

(あ、怒られた・・・)

と康平が思った次の瞬間、タケが、

「あっ、宮澤さん、申し訳ありませんっ!」

と深く、深く頭を下げた。
康平は口をぽかんと開けた。タケは自分と同じ34歳。34歳の人間が、22~23歳くらいと思われる新卒社員にひれ伏して許しを請うている。

(確かに悪いのはこっちだけど、宮澤さんって人もいくらなんでも偉ぶり過ぎだし、タケって人もプライドがないのか・・・)

とはいえ、康平も逆らうわけにもいかず、『すみません』と軽く頭を下げた。

『フンッ』っと鼻を鳴らして、宮澤が自席に戻っていく。

「ごめん、ごめん、つい雑談しちゃったね。じゃあ業務を進めよう。ここに郵便物仕分けマニュアルがあるから、基本はこれを見ながら、まずは各階ごとに大まかに仕分けして、その次は各階の部門ごとに仕分けして・・・」

いそいそとタケが作業を進める。康平もそれに倣った。郵便物の量は多く、大きめの荷物もいくつかあり、思っていた以上に大変な作業だった。

一通り、仕分けが終わるとタケは、

「仕分けが終わったら、正社員の人に間違いがないか、チェックをお願いするんだよ。基本は黒須さんか宮澤さん。いらっしゃらなかったら荻原さんでも良いし、立花リーダーでも大丈夫。えーと、今日、黒須さんは午前半休だから、宮澤さんだな」

と言い残し、宮澤の座る席へ向かうと、斜め後ろのところで片膝をつきながらしゃがみこみ、宮澤の目線の下側に位置を取り、手をこすりながら『てへらてへら』と媚びへつらうように声をかけた。

「・・・宮澤さん、お忙しいところ、大変申し訳ありません。郵便物の仕分けが終わりましたので、チェックをお願いしてもよろしいでしょうか?」

宮澤は機嫌悪そうに振り返り、冷たい視線をタケに送ると、面倒くさそうに席を立ち、ツカツカとこっちに向かってきた。そして康平には一瞥もくれることなく、部門ごとに仕分け終った郵便物のチェックを始めた。

康平には信じられない光景だった。

(雇用形態が嘱託社員だったら、障がい者雇用の社員だったら、新卒社員にでもここまで媚びなきゃいけないものなのか?というか、これは社風なのか?タケさんがやり過ぎているだけなのか?いずれにせよ、まだ大学を卒業して1年にも満たない宮澤さんにとっても、明らかにこれは良い教育とは言えない・・・)

そんなことを考えている間に、二人のやりとりは進んでいく。

「・・・これ、間違えています。」
「あ、申し訳ありません!」
タケが深々と頭を下げる。

「あと、これはこっちの部門です。あと、これも・・・」
「あ、申し訳ありません!」
また、タケが深々と頭を下げる。

康平はめまいと吐き気がしてきたが、とりあえず業務を覚えないといけないので、2人とは少し距離を置きながら、何がどう間違えていたのかだけはメモしておいた。

「うん、あとは大丈夫です。では配達をお願いします」

「かしこまりました。ありがとうございました」

「っていうか、おしゃべりしていたせいで、だいぶ時間が押しているので、1時間以内に配達してきてください」

「申し訳ありません!かしこまりました!」

またタケが深々と頭を下げる。

(いやいや、タケさん・・・。いくらなんでも媚びすぎでは・・・)

そう思っていると、タケは何ごともなかったかのように次の作業に移る。

「じゃあ、急いで配達に行こうか。配達はあそこにある台車を使うよ」

「・・・台車?」

タケが指さした方を見ると、「倉庫」という文字のプレートが貼ってあるドアの近くに、スーパーによくある買い物かごを2つ乗せられるワゴンカートが、もう二回りくらい大きく、そしてごつくなったようなボロボロの台車があった。

「これで郵便物を運ぶの?」

「そうそう。午前中はそうでもないけど、午後は山のような量になるから、運ぶ時に落ちないようにするのが結構、大変なんだ」

タケが苦笑する。

「あと、外にも出るから、雨の日とかはカバーをかけないといけないんだ。今日は晴れているから大丈夫だけど」

「え?外に出る?なんで?」

「この本社ビル1Fの出入り口を出ると、目の前に大きい道路が通っていたでしょ?その向こう側にあるビルに4つ、部門が入っているんだよね。社員が増えて、本社ビルに入りきらなくなったから、近くに借りたみたい。本社の出入り口からその道路を渡る横断歩道まで距離があるから、正直、面倒だけど」

(こんなに大量の郵便物を、外のビルに入っている部門にまでも運ぶのか・・・)

かなりの力仕事になりそうなだけに、康平は1年間も寝込みっぱなしで休んでいた自分の体力が持つか、不安を覚えた。

「あ、この14Fオフィスフロアの郵便物は、それぞれの人に直接、渡すから、先にそっちをやってから各部門に行こう。と言っても、康平はまだ顔と名前が一致しないだろうから、これを・・・」

タケはそう言うと、14Fオフィスフロアの座席表を取り出した。
それを見てみると、この14Fには経理部、業務部、社内システム部、広報部、秘書室、人事部、総務部があり、14F全体で『管理本部』となっているようだ。その統括として、常務取締役の西山の名前が書いてある。

「俺はもうだいたい顔と名前は一致するから、康平はしばらくこれを使って」

「あ、いいの?ありがとう」

2人で14Fを回りながら、各社員に郵便物を渡していく。

気になったのは、郵便物を手渡す際、皆、『ありがとうございます』や『ご苦労さま』などと、基本的には優しく声をかけてくれるものの『目があった瞬間に、微妙にその目線を逸らされてしまう』人たちが少なくなかったことだった。

悪意や敵意を持って避けているというわけではまったくないけれども、無意識的に、なんとなく、目が合うと微妙に逸らしてしまう、そんな感じの印象を受けた。

(・・・俺が最初のあいさつで、余計なスピーチをしたからかな?)

と思い、配布し終わった後、タケに

「・・・ねえねえ、俺らと目が合うと、逸らしてしまう人が結構いるのはなんで?俺が変なスピーチをしたからかな?」

と直球で聞いてみた。タケは、

「あ、それはね。さっき話した・・・あ、そういえば今日は両方とも休みたいだな・・・嘱託社員の1人の橋沢くんが前に言っていたけど、『うつ病とかを持っている人と、どう接して良いか分からないからじゃないか』って」

「・・・そういうことか」

康平は納得した。
要するに、本人は意図していなくても、その人が発した言葉が原因で、うつ病を持つ人が傷ついて、寝込んでしまったりでもしたら大変だから、そうならないように必要以上に深くは関わらない。そんな意識がどこかに、というか無意識レベルであるのだろう。
その結果、
『目が合うと微妙に逸らしてしまう』
という現象が起きる、ということか。

(・・・同じ人間なのだから、別に普通に接してくれればいいのに)

なんだかうつ病を抱えている自分がこの世界から疎外されているような気がして、康平は、今度は胸がチクチクと痛んだ。

グルグルと、様々なネガティブ感情が頭の中を高速回転して、やがて
『これが今の自分か』
と卑屈な気持ちに変わっていった。

出社した時は晴れ模様だった心の中に、ここまでの一連の出来事で、急激に雨雲が覆ってきたのを感じながら、しばし呆然としていた。入社して、まだ半日も経っていないというのに。

「・・・さて、早く各部門の配達に行かないとだね。宮澤さんから『1時間以内で』って言われちゃったし」

タケの声で我に返ると、2人は、大量の郵便物を、例のボロボロの台車に乗せる作業を開始し、全て詰め込むと、各階の各部門への配達を開始した。

14Fオフィスフロアから1階ずつエレベーターで降りていき、各階オフィスフロアにある各部門に配達に回る。大量の郵便物や大きめの荷物が積んであるので、とにかく台車が重い・・・。

(午後はもっと大量になるのか・・・)

深いため息を何度もつきながら、台車を押して各階を回った。

各部門で郵便物を受け取る事務社員は、全員が若手の女性社員だった。康平は郵便物を渡す際、

『自分はどう見られているんだろう』
『また目を逸らされるのではないか』

などと考えてしまい、その事務社員たちと、もうまともに目を合わすことすらできなくなっていた。

外のビルにある部門まで渡しに行き、ようやく戻ってくると、案の定、1年間、寝込んでいた身体はクタクタに疲れ果てていた。そして、そもそもの疑問を持った。

(この業務って・・・。郵便物を総務部で部門ごとに仕分けして、あの総務部の横の広いテーブルに置いておいて、各部門の事務社員の人たちに取りに来てもらった方がよっぽど効率的なんじゃないのかな?1つ1つの部門に分けたら、そこまで多い量じゃないんだし。まあ、大きめの荷物は別として・・・)

だが入社初日から、会社の業務のやり方・進め方に文句を言うわけにはいかないので何も言わなかった。

その時は、こんな末端の業務が、大きな権力争いの縮図となっていて、やがて康平もその大きな渦に巻き込まれることになるとは、この時点では知る由もなかった。

(これを毎日やるのか。大丈夫かな、俺・・・)

そんなことを考えながら、総務部のある14Fオフィスフロアに戻り始めた。宮澤には『1時間以内に配達してきてください!』と言われていたが、30分以上オーバーして、時間はお昼近くになっていた。タケが

「まずいな、かなり遅れちゃった。また宮澤さんに怒られちゃう」

と不安がっていたが、そもそも1時間以内で配達を終えるのはムリ、ということは初めての康平でもよく分かったので、

「宮澤さんも1時間じゃ終わらないって分かっているでしょ。もし何か言ってきても、適当にあしらっとけば大丈夫だよ」

と、言外に『あんまり媚びへつらいすぎるなよ』というメッセージを込めて返した。

***黒須美津子***



そして総務部に戻ってくると、康平の席の隣に人が座っていた。宮澤静香と同じ新卒社員で、今日は私用で午前半休だった黒須美津子が出社したようだ。康平がアシスタント役をする、いわゆる康平の上司だ。

「あの、はじめまして。今日から入社した高橋です」

黒須美津子は康平に気づくと、『パッ』と席を立ち、

「あ、はじめまして。黒須美津子です。すみません、ご入社日に遅れてきてしまって」

「あ、いえいえ、とんでもないです。これからよろしくお願いします」

と挨拶をしたあと、少し会話を交わした。

「こちらこそ、よろしくお願いします。あの、こんな未熟な私たちのサポートをしていだけるなんて、本当にありがとうございます。何か至らぬことがありましたら、どんどん叱っていただいて構いませんので」

「そんな。とんでもないです。こちらこそ色々とご迷惑をおかけしてしまうと思いますが、ご指導の程、よろしくお願いします」

「いやいや、ご指導だなんて、とんでもないです。ホントに。あ、郵便物の配達、早速行かれたのですね?」

「はい、行ってきました。思っていたよりずっと大変で、もう午前中でクタクタです」

「わかります!私も何回かやらせていただきましたが、翌日、筋肉痛になっていまいました」

「ハハ、僕も明日は筋肉痛、確定です」
「アハハ、ホントですよねえ。でもご無理はされないでくださいね。キツい時はいつでも仰ってくださいね」

「そうおっしゃっていただけると救われます。ありがとうございます」

(・・・良かった、黒須さんと言う方は、すごく良さそうな方だ)

キー局のアナウンサー選考試験でも内定を取れそうなくらいの黒須美津子の美貌に康平は一瞬、たじろいだが、それよりも、黒須美津子がすごく性格が良さそうなことに安心した。

もし彼女も宮澤静香と同じような性格だったら、そのうち精神的にノックアウトされてしまいそうだ。最初に総務部のみんなを紹介してくれた課長代理の館山のように、屈託なく接してくれる黒須美津子に感謝の念を抱いた。

昼食は、その館山とタケが、朝、約束した通りに誘ってくれた。
雑談をしている中で分かったことは、タケは『躁うつ病』の精神障がい者であること、そのタケがさっき話していた業務部の橋沢さん、経理部の西口さんという人たちは、両方とも、『うつ病』と『軽度の統合失調症』を抱えているということ。

入社したのはタケが4カ月前、橋沢さん、西口さんはちょうど1年ほど前で、総務部には以前、もう一人、障がい者雇用の人がいたが、うつ病を再発し退職。その後任として康平が採用された、ということだった。

***エリート社員***



昼食後、仕事に戻ると、午後の郵便物の配達は康平が一人で行き、タケは黒須と宮澤のデスクワークの業務サポートに回ることになった。

午後分の郵便物は午前中よりも量が多く、やっとの想いで配達を終え、クタクタになった康平は、ため息をつきながらエレベーターに乗り、総務部に戻ろうとしていた。そんな時だった。

途中の階でエレベーターが止まると、一人の男性社員が乗って来た。

若手、おそらく30歳くらいだろうか。お世辞にも美男子とは言えないが、自信に満ち溢れているかのような表情が印象に残る青年だった。身体に纏っているエリート風のオーラが、どうも康平には苦々しい。

一瞬、目が合うと、康平は失礼にならないくらいに目を逸らしながら、軽く頭を下げた。先方はこちらをじっと見つめている。

(どうか、話しかけられませんように・・・)

そう思った矢先だった。

「・・・新しく入られた方?」

(あー、きちゃった・・・)

このエレベーターに乗ってしまった不運を嘆きながら、か細い声でしぶしぶ返答をする。

「あ、はい。ええ、高橋と申します」

明らかに年上の人間にタメ語で話しかけてくる人間と、それでもこちらは敬語を使ってしまう自分に嫌悪感を覚えながら康平が返答すると、

「嘱託の人?」
「はい、そうです」
「ああ、そういうことね」
「はい、そういうことです」
「あ、俺、営業5部の石川幸弘って言います。よろしく。」
「よろしくお願いします」
「何歳なの?」
「34歳です」
「34歳で郵便物の運搬係かあ。パソコンとか使えないんだ」

康平は台車を押す手すりをギュッと強く握りしめて、ただ一刻も早くこの場が過ぎ去るのを待つ。でも、言い返さずにはいられなかった。

「僕が手に障がいを負っていたら、かなり問題になる発言ですね」
「おっと、それは失礼。実際は?」
「うつ病の精神障がい者です」
「あー、うつ病。あの、休んでいても給料もらえる羨ましいやつだ」

康平は我慢ならなくなった。石川を『キッ!』とにらんだ。

「うつ病の辛さは・・・なってみないと分からない」
「“落ちぶれた奴”の言い訳ですか」
「・・・・・・」
「まあ、そんなに怒るなよ。せいぜい頑張って。運搬係さん」
「・・・・・・」

エレベーターが営業5部のあるフロアに着くと、石川は颯爽と降りて行った。

ここまで露骨に攻撃してくる奴は珍しい。あんな人間に言われたことはいちいち気にする必要はない。だが康平の心の中には敗北感がじわじわと広がってしまっていた。

あの自信に満ち溢れた表情。おそらく営業成績も良いエリートなんだろう。悔しくも、彼の人生が輝いて見えた。

(あいつは、エリート街道の華々しい道を順調に歩んでいる。なのに俺は・・・)

先ほどの怒りはすでに虚しさに変わり、石川に言われた

『落ちぶれた奴』

という言葉が頭の中をこだました。そして、それを、愚かにも自分で認めてしまった。

(・・・どうせ俺は、落ちぶれた人間だよ。でも、別に望んでこうなったわけじゃない。人生っていうのが不公平なだけだ。俺は、“くじ運”が悪かっただけだ。)

そうして入社初日は終了した。1年ぶりの仕事で、想像以上に身も心もクタクタになった。

定時の18時になると、タケが『駅まで一緒に帰ろうよ』と言ってくれたので、一緒に会社を出た。

聞けば来月、12月は会社の『全社総会』と『忘年会』があるという。そのあたりで機会を見つけて、今日は体調不良で休みだったという橋沢さん、西口さんの4人で飲もう、という話になり、秋葉原の駅に着くとそれぞれの自宅方面に別れた。

なぜ来月かというと、12月はボーナスが支給されるからだという。

雇用契約書には『賞与なし』と書いてあったので、どういうことか聞いてみると、常務取締役である西山の厚意で・・・と言っても3万円くらいだが・・・障がい者雇用の社員にも支給をしてくれている、とのことだった。
月給13万円の身では、歓送迎会を1つ開催するのも一苦労、というわけだ。

タケと駅で別れて一人になると、ふと考えた。

初日を終えて感じたのは、過去、在籍したいくつかの会社では、どこも正社員として雇用されてきたが、障がい者として雇われると、これまで見てきたどの会社とも全く違う景色が広がっていたこと。
そして

『正社員登用されて“完全崩壊”した人生を建て直す』

というゴールは、思っていたよりも、ずっと遠いところにありそうだ、ということだった。

(正社員登用どころか・・・来月、4人で飲む時までいられるのかな、俺…)

クタクタに疲れてしまった身体を引き摺り、すっかり卑屈な気持ちになってしまった気持ちを吐き出すように溜息をつきながら、帰りの電車に乗り込んだ。いつものようにドアは閉まり、康平をガタゴトと自宅の最寄り駅まで運んでいった。

***社員総会***



入社して1か月ほど経過し、12月に入った。入社初日にいきなり身も心もボロボロになった康平だったが、まだ何とか仕事を続けられていた。

相変わらず、郵便物の各部門への配達に回ると疲れ果て、宮澤静香の人を見下す態度に辟易としながらも、何とか1日1日をこなし、少しずつだがペースもつかみかけてきた。

困ったのは、1週間のうち、だいたいタケは体調不良で2日間は欠勤することだった。タケはとても良い奴だが、どうも欠勤が多いようだった。

そういう日は、午前と午後、郵便物の配達を2回、行かなければならない。体力が追い付かないので、康平はいつも以上にクタクタになってしまう。

また、自席で作業をしている時に、総務部を見渡していて、いくつかのことも分かった。

まず、課長代理の館山。

面倒見の良さと優しく明るい性格で、総務部の実務にも精通しており、何よりも部下からの信頼がとても厚い。総務部員たちは、何か業務で困ったことがあると、まずは館山のところに相談へ行くようだ。

それに対して館山は、どれだけ自分がバタバタしていても、いつも嫌な顔1つせず、丁寧に相談に乗っている。

だからといって、自分の権限を逸脱するようなことは決してせず、『うん、ここは真田に判断してもらうところだな。真田に相談して、最終ジャッジを仰いでくれ』といった具合に、自身の役割を適切にこなし、それは結果的に、課長の真田の顔をしっかりと立てることに繋がっていた。

一方で課長の真田。

総務部全体を統括しつつ『西山常務から総務部メンバーを守る』役割もこなしている。というのも西山は、自身に割り当てられている、7Fにあるという専用の取締役室に籠ることはほとんどせず、14Fの総務・人事本部長席に座っていることが多い。

14F管理本部全体のトップでもあるが、総務部・人事部はかなり細かく仕事を見ていて、少しでも至らぬことがあれば、新卒社員の黒須・宮澤以外の社員は容赦なく呼びつけ、叱責を始める。

しかし真田は適切なタイミングで『すみません、それは私の指示不足でした』などと割って入り、いつの間にか西山の叱責を引き継いでいる。

人事部長の田村が、人事部員が西山に叱責を受けていても『知らぬ・存ぜぬ』を決め込み、その場をやり過ごしているのとは、きわめて対照的だ。

真田と館山の仕事に向き合う姿勢、役割分担、コンビネーションは本当に見事だなと康平はいつも思う。阿吽の呼吸なのか、まめに相談しあっているのか、いずれにせよ2人の間には厚い信頼関係を感じる。

それが総務部員たちの意欲の高さの基盤となっているようで、部内の雰囲気はとても良かった。

なぜ4つ後輩の真田が課長で、館山が課長“代理”という下の役職なのかは、理由がよく分からなかったが。

その一方で、真田と館山のリーダーシップの元、モチベーション高く、和気藹々と働く総務部員たちを見るたびに、康平は自身の現状と比べ、劣等感を覚えてしまう。

もう34歳なのに、安月給の嘱託社員で、『新卒社員のアシスタント』が与えられた役割。仲間外れにされているわけでも何でもないのに、勝手に疎外感を覚えてしまい、そう感じれば感じる程、

『正社員登用されて”完全崩壊”した自分の人生を建て直す』

というゴールがますます遠く感じられてしまう。康平はそんな自分が嫌で仕方なかった。

その頃、会社は毎年12月中旬頃の恒例行事である『全社総会』と『忘年会』を迎えようとしていた。

スマートバイト社では毎年この時期に、地下1Fにある1000人規模が収容できる大きな会議室で『社員総会』を開催、その後、本社各階・各支社・各営業所に別れて、それぞれ手配した飲食店へ向かい、忘年会を開催するということだった。

スマートバイト社の会長、社長は毎年、本社各階のどこかの忘年会に出席するのが決まりらしく、管理本部が入る14Fオフィスフロアは、今年は会長の林達郎が出席するとのことだった。

林はすでに80歳を超えて一線を退き、現在の社長である豊中一平に全業務を移管。唯一携わっているのは正社員採用の最終面接だけだった。人材採用には、かなりのこだわりがあるようだった。

だが、障がい者採用はノータッチのようで、康平が面接を受けた際、林に会う機会はなかった。

とはいえ、スマートバイト社を立ち上げて1代でここまで発展させたカリスマ経営者であり、未だに大手新聞社などからもインタビュー取材などを受けている立志伝中の人物であったため、康平も林の名前だけは入社前から知っていた。

社員総会の運営担当部門は総務部である。

さらに林がその後の14F管理本部の忘年会にも出席するとなって、そのトップである常務取締役の西山の気合いは最高潮に達していた。

「真田!!」
「館山!!」
「立花!!」

と総務課長の真田や課長代理の館山、女性社員の取りまとめ役の立花を中心に、1日に何度も呼びつけては、細かい指示出しをして、少しでも落ち度や業務の滞りがあれば容赦なく罵声を浴びせる、そんな日々が続いていた。

やがて社員総会・忘年会の詳細が正式に社内に通達された日に、真田から14F管理本部の障がい者社員6名、橋沢、西口、小竹、芹沢、佐々木、そして康平が会議室に呼び出された。

芹沢と佐々木は、タケから以前聞いた、業務と関係ない社員とは一線を引いて、深い付き合いを避けているという2人だ。

(・・・一体なんだろう?)

と思っていながら席に着き、他の皆も着席すると、真田が心から申し訳なさそうな顔をして唇を噛みながら6名に告げた。

「みんなは申し訳ないけど、社員総会は出席せずに、自席で待機をしていて欲しい」

橋沢、西口、芹沢、佐々木は昨年も経験しているので、理解しているようだった。タケが尋ねる。

「え、そうすると、僕たちは忘年会も出席できないのでしょうか?」

お酒好き、飲み会好きというタケは忘年会に参加できるかを気にしたようだった。

真田は笑顔で、

「それは大丈夫だよ。ちゃんと、忘年会は出席できるように手配したから。定時になったら忘年会会場に向かってくれれば、大丈夫だから」

「わー、良かったです!」

忘年会には出席できるようで、タケは満足したようだった。会社とは距離を置いているという芹沢、佐々木はそれぞれ、

「私は、忘年会も欠席させていただきたいです」

「あ、私も」

と、忘年会の参加を断った。真田は

「うん、もちろんそれは自由だよ」

と了承した。橋沢、西口は、出席するようだ。

タケは忘年会に出席できると聞いて喜んでいたが、康平は社員みんなが集う『社員総会』に障がい者雇用社員が出席できない、というのが残念でならなかった。

社員として認められていない、扱われていない。そんな感じがする。正社員ではないので、それはそうなのかもしれないが、まるで、

『君たちは会社の戦力として見なされていないから、いつ辞めてくれても大丈夫』

とでも言われているかのような気持ちになり、うつむき、肩を落とした。すると真田は

「康平くん、申し訳ない。理解してくれるか?」

と全てを察したかのように聞いてきてくれた。こういう心遣いはさすがだと思わされる。

「はい、わかりました。大丈夫です。忘年会に出席させていただけるだけでもありがたいです」

康平は受け入れて、そう答えた。

だが、その忘年会でもあらためて傷つくことになるとは、橋沢、西口、タケ、そして康平の4人は、その時点では予想していなかった。


***忘年会***



社員総会と忘年会の日を迎え、4人は言われた通り、社員総会の時間は自席で待機。定時になると、忘年会の会場に向かった。

会場に着くと、受付は、康平の入社日は体調不良で休んでいた西山常務秘書の北川幸恵と新卒社員の黒須美津子が担当していた。4人が到着すると、北川と黒須は

「あー!お疲れ様です!お待ちしていましたよー!」

と笑顔で出迎えてくれた。席順が決まっているようで、座席表を渡された。

6人掛けのテーブルが18席ある会場のようで、真ん中のテーブル席には会長である林の名前があり、そこには常務取締役の西山と総務課長の真田、あとはそれぞれ、経理部、広報部、業務部の女性社員3名の名前が記載されていた。

康平が驚いたのは、橋沢、西口、小竹、そして康平の4人の席の配置だった。
会場のそれぞれ四隅のテーブル席に、林の席に背を向けて座るように配置されていたことだった。ずいぶんと、あからさまだった。

(これは西山常務からの指示・・・だろうか?)

おそらく、4人をなるべく林から離して、しかも背を向けさせて、できるだけ顔すら合わせないようにしたいのだろう。

(何も、そこまで露骨にやらなくても・・・)

さすがに橋沢、西口、タケの3人もこれには気づいたらしく、座席表を見つめたまま、呆然と立っていた。受付の北川と黒須もやはりこれは気付いているらしく、何と言っていいかわからない表情をしていた。
その場に漂う気まずい雰囲気が余計に4人の心を締め付ける。

康平は、

「北川さん、黒須さん、ありがとうございます。受付、ご苦労さまです。」

と伝えたあと3人に、

「さ、行こうよ」

と力なく声をかけ、さっさと中に入らせた。

忘年会は滞りなく始まり、正社員の余興の出し物などでひとしきり盛り上があった。康平もそれらを見つつ、同じテーブル席に座った人たちと雑談を交わし、気持ちを切り替えて楽しもうとしていた。

やがて終盤に突入すると、突然、林がマイクを取った。

「みんな、今日は忘年会のプレゼントで現金10万円を持ってきたよ。じゃんけん大会で最後まで勝ち残った人にあげよう!さあ、全員席立って。あいこの人と負けた人は座って」

林からのサプライズプレゼントタイムだった。

『ワー!!!』

っとこれまで以上に会場が沸くと、林とのじゃんけん大会が始まった。これには康平も少し、気持ちがたかぶった。

(もし10万円もらえたらかなり嬉しいし、何より、林会長に顔を覚えてもらえるかも。まあ、100名以上いる中で勝つのは無理だとは思うけど…。)

と考えながら席を立った。林からの、

「では、いくぞー!!」

という掛け声とともに、じゃんけん大会が始まった。

「最初はグー!じゃんけんポン!」

・・・1回目のじゃんけんで、康平は勝った。

(お!やった。勝った!)

すると、会場にいた7~8割があいこか負けだったようで、残ったのはいきなり十数名だけになった。『あー残念!』という声や大きなため息の音と共に、多くの人が席に座る。

それでも、会場は沸きに沸いていた。

(え?これ、もしかしたら、もしかするかも…)

康平はさらに気持ちが盛り上がってきた。橋沢、西口、タケはあいこか負けだったようで、もう席に着いていた。
林は、

「お、いきなり減ったなあ。じゃあ次いくぞー!最初はグー!じゃんけんポン!」

と2回目のじゃんけんをした。
康平は
(勝ってくれ!)
と力を込めた。

結果は・・・ここも勝ちだった。

康平を含めて8名が勝ち残り、立っていた。『おおー!!』っとさらに沸きに沸く会場。林は、

「ハハハ、みんなじゃんけん弱いなあ。次かその次あたりで決まるんじゃないか?じゃあ次いくぞー!最初はグー!じゃんけん・・・ポーン!」

・・・なんと、ここでも康平は勝った。

康平は1番後ろの席だったので、宴会場全体が見渡せた。残っているのは自分とあと1人、つまり康平を含めて2名だ。

(うわっ!これ、もしかしたら、ホントにもしかするかも!)

もう1人、勝ち残っていたのは、林と同じテーブルにいた経理部の女性社員、峰松礼子だった。郵便物の配達で何回か直接、手渡しをしていたので、名前を憶えていた。

「ウソ―!キャー!また勝っちゃった!!どうしよう!!!」

峰松もテンションが最高に高まり、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら嬉しい悲鳴を上げている。会場もますます大いに盛り上がる・・・
と思った次の瞬間だった。林が、

「おお、残ったのは2名か!峰松くんと・・・ん?あれ、えーと、君は・・・??大変申し訳ない。私も老いぼれたせいか、名前を失念してしまったようだ」

(・・・会長が、謝っている??)

皆が『え?』となり、会場が一瞬、『シーン』と静まり返った。

林の視線の先を追うように皆が後方を振り返ると、康平がそこに立っていた。

静寂は続く。誰もがこの空気感にどう対応すれば良いか分からなかった。西山が、目玉が飛び出さんばかりに目を開き、口も張り裂けるのではと思うほど大きく開いているのが康平の目に入った。

康平はようやくここで、自分がこのゲームでは
”勝ってはいけない存在”
だったことに気づいた。西山が慌てて立ち上がる。

「あ!あれは・・・!嘱託社員の高橋でございます!」

大声で会長の林に伝えて席に着くと、隣の席の真田にすさまじい怒りの形相で、でも小声で、でも怒鳴っていた。

『なんであいつをゲームに参加させたんだ!!!』

とばかりに。この余興は林のサプライズだったから、事前対応はムリであることは分かっていながらも…。

一方で、林はすぐに事情を理解したようで、

「おー、そうか。高橋くんか!はじめましてだね。いやいや、西山君、勝負には正社員も嘱託社員も関係ないぞー!さあ!最終決戦だ!!」

真田を小声で怒鳴り散らしている西山をたしなめると、80歳を超えた林が、静まり返った会場を再度、盛り上げるように力いっぱい声を張り上げた。

『オオーー!!!』

という大きな歓声と共に、会場の盛り上がりが息を吹き返す。ただし今度は『なんとかみんなで盛り上げなければ』というカッコ付きで。

(まずい、まずい、どうする・・・!?まさか、こんな事態になるとは・・・)

康平は動悸が高まり、息が荒くなり、足がガクガクと震えた。

「じゃあ最終決戦だ!いくぞー!!最初はグー!じゃんけん・・・」

誰もが峰松礼子の勝利を願っているのが良く分かった。
その方が、『つつがなく』この宴会を終えることができる。
康平も、心の底からそう願った。

「ポーン!」

みんなが緊張の面持ちで見守る。結果は・・・

会長の林は「グー」・・・
峰松も「グー」・・・
康平は・・・

「パー」

だった。

(・・・なんてこった)

運が良いのか悪いのか。まさかの事態となってしまった。峰松礼子が勝ってくれれば、彼女が嬉しさをいっぱいに表現し、最高の形で終わったはずなのに…。

今度は、静寂は訪れなかった。みんな大人だ。もう最善の対処方法を見つけ出していた。

『オオオーーー!!』

という盛大な声と拍手が大きな音量で響き渡った。
林は、

「おおー、高橋くんが最終勝者か!おめでとう!さあ、前へおいで!!」

と康平を呼び出す。最終勝者の康平は、真っ青になった顔を引き連れながら前方へ向かう。林の前に来た。

「はい!じゃあ、おめでとう!こちらを」

と10万円の入った封筒を笑顔で手渡した。康平は絶望の中、それを受け取り一礼した。

「じゃあ、こちらのマイクで、一言」

(うわっ・・・)

康平にとってそのマイクは、まるで死刑宣告のようだった。でも、林だって、そうせざるを得ないだろう。この宴席で最高の賞を受け取って、何もあいさつしないというのはあり得ない。

マイクを受け取って前方を見渡すと、もう皆は次の対応方法を理解して、康平の締めの言葉を待っていた。それを受けて、あとは盛大な拍手と歓声を送り、会場を盛り上げれば、無事にこの場を終えることができる。

だが康平は、頭が真っ白になり、もう何をしゃべっていいのかも分からなくなっていた。そしてようやく絞り出せた言葉は、

「あ、ありがとうございます。と、とにかく・・・申し訳ありませんでした。」

だった。最悪の締めの言葉が会場に響き渡る。またしても一瞬、場が静まりかけた。

「そんなことないぞー!!」

誰かが大声で叫んだ。その言葉に乗り、みんなが盛大な歓声と拍手を送った。康平は何度も頭を下げながら、林へマイクを返した。

林は、

「そんな、謝ることなんてないよ、高橋くん。ハハハ、めでたいじゃないか!それではみんな、1年間本当にご苦労さま。来年もよろしく頼むね!」

とあいさつをした。盛大な拍手と共に悪夢のひと時が終わりを告げた。

この会社の創業者であり会長である林が出席する宴席の、一番の盛り上がりの部分で、その林が謝り、沈黙が流れ、気を使わせ、さらには微妙な空気感で締めくくられるという事態を引き起こしてしまった。

康平は急いで自席に戻る。途中、西山の顔が目に入った。

目は合わなかったが、会長を謝らせ、気を使わせる事態になってしまったことに対する怒りと、せっかく綿密に準備してきた、社員総会から始まった今日という1日が、最後の最後でぶち壊しになってしまった絶望感のようなものを必死に押し込めているのがありありと分かる。

・・・間違いなく、後で真田に激怒するだろう。

「台無しじゃないか!今後、嘱託社員をゲームに参加させるな!」

とばかりに。

(障がい者社員を林会長の目に入らないように配置したのはやっぱり西山常務・・・)

とふと思い浮かんだが、もうそんなことはどうでもよかった。

康平が自席に戻ると、同じテーブルの人たちが

「おめでとうー!!」

と拍手で出迎えてくれた。

「・・・本当にすみません」

康平はそれしか言えず、ずっとうつむいていた。とにかく一刻も早く、この場から逃げ出したかった。ようやく、大量の冷や汗が背中を流れていることに気付いた。

もし峰松礼子が最終勝者になってくれていれば、

「えー!勝っちゃった!!信じられない、嬉しいです!!」

などと喜びの声を上げて、会場は『純粋に』大いに盛り上がったはずだった。

林も、

「おお、峰松くんが最終勝者か。うんうん、良かったねえ」

と笑顔いっぱいの表情で、峰松礼子に現金10万円の入った封筒を渡し、峰松は、はしゃぎながらも、会長へのお礼と、仕事に対する想いや来年の抱負を立派に語り、嬉しそうに席に戻ったはずだった。

峰松は林と同じテーブルだったから、当然、その後も、その席は大いに盛り上がって、そこにいた西山も満面の笑みを浮かべて大満足、という感じだっただろう。

(なんて結果になってしまったんだ。最初の方の、まだみんながじゃんけんに負ける前の目立たないところで後出しでもして、さっさと負けて席に座っていれば、こんなことにはならなかったのに・・・)

康平が激しく後悔していると、司会役の社員から
「2次会の会場も用意していますので、お時間がある方はぜひお越しください!」

とのアナウンスがあった。するとすぐに、真田をはじめとした総務部員たちが2次会の出欠を取りに各テーブルを回った。

真田が康平のテーブルにやってきた。康平は、

「真田課長、本当に申し訳ありません…。」

と小声で謝り、頭を下げた。すると真田は、

「いや、これは康平くんのせいじゃない。誰のせいでもないよ。後は上手く処理しておくから、大丈夫。心配しないで」

と笑顔で返してくれた。自分のせいで真田がこれから西山に激怒されるのかと思うと、胸がひどく痛む。

康平は重たい気持ちを抱えたまま会場を出ると、タケと橋沢、西口と合流した。3人は康平をねぎらうように、

「4人で二次会やろうよ。ボーナスもらったら、高橋さんの歓迎会やろうって言っていたしね」

と言ってくれた。そして、3人の行きつけだという上野駅近くにある居酒屋『みょうらい』へと向かった。


***『みょうらい』***



店へ到着し、案内されたテーブルへ着席する。重たい空気が4人を包んだ。

上野の安居酒屋『みょうらい』は、建物は古く、店内も広くはない上に、お世辞にもオシャレなお店とは言えなかったが、個人オーナーと思われる店長の接客は丁寧で、どことなく、サラリーマンの疲れた心を癒してくれるような雰囲気と、何よりも良心的な価格が嬉しい、居心地の良さそうな居酒屋だった。

タケ、橋沢、西口の3人は、先ほどの宴会でそれぞれ会場の四隅に、会長の林に背を向ける席配置となっていたことに、そして康平は、どうしようもなかったとはいえ、とんでもない『やらかし』をしてしまったことに心を暗くしていた。

タケが、ふとつぶやく。

「康平、すごいことやっちゃったね」

「ハハ。うん、もうノックアウト寸前。ていうか、真田課長にホント申し訳ない」

橋沢、西口が

「あれはもう、仕方ないですよ」

と苦笑しながらフォローすると康平は、

「うん、まあ、もう考えないようにするしかないね」

と力なく返し、しばらく沈黙の時間となった。やがてタケがまた呟いた。

「ねえねえ、橋沢くん、西口くん・・・あの座席の配置、去年もあんな感じだったの?」

「いや、去年は会長とか社長はいなかったから、あそこまで露骨な席の配置ではなかったですよ」

橋沢がポツリと答えると、注文していたお酒がテーブルに運ばれてきたので、あらためて4人で乾杯をした。今度は西口が話し始めた。

「やっぱり、芹沢さんや佐々木さんみたいに、会社はあくまで最低限の生活費を稼いでいく場所として、こういう宴会とかには参加しないで、変に欲張らずに『無理せず、ほどほどにやっていく』という感じの生き方・働き方をしていくべきなんですかね、僕らは」

それを聞いて、康平は胸の内を話した。

「ん、まあ、生き方とか働き方に『唯一の正解』っていうのはないとは思うけど…。俺らみたいにうつ病に罹ってしまった人が何よりも優先すべきなのは『再発しないこと』だからさ。2人のブレない働き方は、ある意味たどり着くべき境地なのかもしれないね。うつ病って、真面目で、自分に厳しい人が、頑張り過ぎてしまって罹ることが多い病気だから。でも…」

「・・・でも?」

「自分でもよく分からないんだけど…。俺はどうしても、『もっともっと社会で活躍できる人になりたい』って想いが捨てられない。誰からも認められる存在になりたい。なんでだろう、ホント。自分でも意味が分からない。それが実は一番、自分を苦しめているのかも。でもどうしても…正社員と同等の仕事を任されて、正社員に負けない成果を出して、なんとかまずは正社員に登用されたい。その想いが捨てきれない」

康平は子供の頃からずっと続いている

『誰からも認められる存在になりたい』

という、なぜか自分でもよく分からない謎の渇望感を吐露しつつ、

『正社員になりたい』

という目標を口にした。すると西口が続いた。

「僕は大きな野望とかはないんですけど…。結婚して家庭を持って、せめて健常者の人たちなみに生きていきたいって夢があって。でも今の給料だと、結婚なんて夢のまた夢だし…。だから、僕も、なんとか正社員になりたいんですよね」

橋沢は、

「僕はまだ将来の夢とかは分からないですけど、正社員の人たちがやっているような仕事も任せられるくらいになりたいかなって…。いわゆる『作業系』の仕事も欠かせない大切な仕事だけど、もっとたくさん、色んなスキルを身につけたいから」

と呟いた。その時、タケが『えー!?』と驚いたような声を上げた。

「みんな、そんなに真剣に将来のこととか考えていたの!?俺なんて今まで特に何にも考えて生きてこなかったから、なんかお小遣い稼ぎのアルバイトみたいな感覚で仕事していたわー、ハハハ」

3人がつられて笑う。

「タケさんの生き方が、ある意味、最強かもですね!」

橋沢がそう言うと、ようやく、明るい雰囲気になってきた。康平は、もう少し胸の内を打ち明けてみた。

「うーん、それにしても…。俺は、まだ体力が完全には戻っていなくて、毎日の仕事をこなすだけでも精いっぱいだから、もう少し先の話になってくるだろうけど…」

「はい」

「今って正社員と嘱託社員、というか、障がい者社員の仕事って区分けされているじゃん?『考える系』の仕事が正社員で、『作業系』の仕事が障がい者雇用社員で、という感じで。どうやったら少しだけでも、いわゆる正社員が担当するような仕事を任せてもらえるのかなってちょっと考えていて」

すると西口から、思いもよらぬ言葉が出てきた。

「そこ、問題なんですよね」

「え?どういうこと?」

「僕、入社して1年経ちますけど、3か月前に部長に相談したんです。『作業系の仕事も大切だと思いますけど、もっと正社員の方々の担当する仕事も任されたい』って。」

「うんうん、そしたら?」

「部長は『そうか、わかった。仕事の配分をもっと考えるよ』と言ってくれて。僕、すごく嬉しかったんですけど」

「うん」

「そこから3か月間経っても、何の変化もなしで。部長にも、もう1度、聞いてみたんだけど『ああ、今、考えているところだよ』とだけしか言われないんです」

業務部の橋沢も同じようだった。

「僕も、まったく同じです。僕の場合は直属の上司ですけど。なんとなく、会社として、『障がい者社員には、正社員が担当するような責任のある仕事は一切任せない』っていう方針なんじゃないかなって思うんです。」

「え、なんでそう思うの?」

康平が驚いて尋ねる。

「会社側が、僕たちにあまり負荷やプレッシャーをかけないように配慮してくれている可能性もありますけど…」

「うん」

「正社員の仕事をやらせて、『正社員と同じ仕事をしているんだから、正社員に登用して欲しい』とか『給料を上げて欲しい』とか言い出されでもしたら、よく分からないですけど、面倒なんじゃないですか?」

「え…」

康平は絶句した。以前、入社前の条件面談で、

「正社員登用の可能性はあるのでしょうか?」

と質問した康平に対して、人事部長の田村は、

「前例はないけど、しっかりと仕事をやって“正社員と同等の成果”を出してもらえれば”、可能性はないということは決してないですよ」

と言っていたが、そもそも

『正社員が携わるような仕事は最初から一切与えない』

方針だった、という可能性もあるのか…。

もちろん障がい者社員の人たちにも色々な考え方があって、芹沢や佐々木のように、ムリのない、プレッシャーの少ない仕事で、細く長く働いていきたい、という人も多いだろう。

しかし、中には、この4人のように・・・タケは分からないが・・・正社員を目指したい、仕事の幅を広げていきたい、という人もいる。
後者のような障がい者社員は、その方針だと、いずれ辞めていってしまう。

でも、スマートバイト社は、障がい者雇用市場の中では当時まだ採用しやすかった『精神障がい者』に採用ターゲットを絞り、逆に採用するのが難しい『軽度の身体障がい者』を最初から採ろうとはしていない。

それであれば『採用コスト』つまりお金は、多少はかかるかもしれないが、採用にかける『手間』は限りなく減らせるし、雇った障がい者が辞めてしまっても比較的、簡単に穴埋めができ、業務に支障をきたさない。

逆を言えば

『待遇が良くなくても、変に欲張らずに、ムリせず細く長く働くことを希望する精神障がい者社員』

が全員になれば、会社にとっても障がい者社員にとってもWin-Winの関係性が築ける。

もちろん断言はできないが、最初からそういう方針だったということなのだろうか?

『やる気のあり過ぎる障がい者社員はさっさと辞めてもらいたい』

それが会社の方針なのだろうか?もちろん、あんまり退職率が高くなると、障がい者人材の紹介を手がける人材エージェントの会社から敬遠されてしまうので、そこは気を配らないといけないが。

(だとすると、この会社に長くいてもしょうがないかもしれない。でも、あくまで推測なだけで、断定できるわけではない・・・)

頭が混乱してきた。康平の飲むお酒のペースが速くなる。酔いがますます、深くなる。深くなればなるほど、絶望感に心が覆われてくる。

橋沢がふと康平に質問をしてきた。

「ところで全然、話変わるんですけど、康平さんって、今まで聞いたことなかったんですけど、なんでうつ病になったんですか?」

康平は急に話を振られて我に返り、

「ああ、うん、うつ病になったきっかけね」

と説明を始めた。

「俺は今34歳だけど、最初にうつ病になったのは26歳の時だったかな。当時はリスクマネジメントのコンサルティング会社にいてさ」

「大学を卒業してそこに入社したんですか?」

「いや、大学卒業時はレバレッジフォンっていう携帯電話会社だよ。そこで法人営業をやっていた」

「え?レバレッジフォンって大手の外資系企業じゃないですか。康平さんが就職活動していた頃って、いわゆる『就職氷河期』だったと思うんですけど、よく内定取れましたね!」

「たまたまだよ。運が良かっただけ。ただ、入社してみたら想像以上に外国人幹部層の権力争いとか、足の引っ張り合いがすごくてさ。末端の社員はいつもそれに振り回される毎日で。なんかバカバカしくなって、2年で退職して、興味のあったリスクマネジメントのコンサルティング会社に転職したんだよね。未経験だったけど、いわゆる第二新卒っていう採用枠で、これもまた運良く採用してもらえたんだ」

「へえ…」

「でもその会社は、それはもう、忙しくてさ。毎日、朝7時から終電くらいまで働いて、休日出勤も当たり前で。残業代が出たから、年収は20代にしてはずいぶん良かったけど」

「だいたいどのくらいもらっていたんですか?」

「20代後半の平均年収の2倍くらいかなあ」

「すげー!!」

3人が口をそろえる。

そう言われて少し良い気分になった直後に、強烈な自己嫌悪が襲ってきて、手のひらで額を覆い強く目をつむった。

康平は若い時から、居酒屋などで

『昔、俺はすごかったんだぜ』

といった、いわゆる

『過去の栄光を語るサラリーマン』

が嫌いだった。そんな人には絶対になりたくないと、いつも思っていた。

でも、今まさしく居酒屋で『過去の栄光』を語って、『すごい』と言われて、ちょっと良い気分になっている自分がそこに、いた。

(・・・俺もずいぶん、落ちぶれたな…)

もうこの話を切り上げたかったが、『なぜうつ病になったのか』について返答できていなかったので、説明を続けた。

「ただ、あんまりにも仕事がハードでさ、やっぱり身体と心にガタがきていたみたいで、ある日突然、全身の電源が『バツンッ』て落ちるような感じになって、仕事が何も手につかなくなってさ。冷や汗もすごくて。それで病院行ったら『うつ病』って診断されたんだ」

「それがきっかけだったんですね」

「そう。その時は1か月くらい休んだら復帰できたんだけど、それから数年後に、取引先のクライアント企業が、ある事件を起こしちゃってさ。3日3晩、先方に行って徹夜で緊急対応していたら、緊張と過労で、またいきなり全身の電源が『バツンッ』って落ちたような感じになって、仕事が何も手につかなくなって。うつ病が『再発』しちゃったんだよね。それでさすがに、もう退職しようってなったんだ。5年くらいの在籍期間だったかなあ」

「それからこのスマートバイト社ですか?」

「いや、その後しばらく休んでいたら、そのコンサル会社で俺が担当していたうちの1社だった、大手外食チェーンの企業から、リスク管理室を立ち上げたいから、そこの室長としてウチに来て欲しい、みたいな連絡があって」

「ヘッドハンティングされたんですか?」

「そんな大そうなものじゃないよ。ただ、その会社は俺がメインで担当していたから声がかかっただけ。それでその会社に転職して、しばらくしたら、リスク管理室と兼務で人材採用の責任者もやって欲しいって」

「それもすごいじゃないですか!」

(なにを言っているんだ、俺は・・・)

言えば言うほど、自分で自分が嫌になってくる。でも、なぜか口から、いかにも自分を大きく見せるような言葉が出てきてしまう。普通に『その後、飲食チェーンの会社に転職した』と言えば良かったじゃないか、と後悔の念が湧いてくる。

「で、そこで3年くらい心療内科に通いながら働いていたんだけど、そこでは評価や待遇とかの不満が色々とあってね。ずっと耐えながらやっていたけど、最後の最後に精神的にガタが来て、また突然、仕事がまったくできなくなってね。そこで一気にうつ病が爆発したような感じだったかな。半年間休職して、会社規定の休職期限が切れて、退職して、さらに半年寝込んで・・・。合計1年休んで、それで今に至るって感じだよ」

「でもなんか、エリートって感じですね。すごいなあ!」

西口が興奮気味に言う。ようやく今の『卑屈モード』の康平に戻って来た。

「・・・でも、残念ながら今、西口くんの前にいるのは、落ちぶれたどうしようもない酔っ払いだよ」

「いや、康平さんなら、もっとできますよ!」

「そうですよ、康平さん、突破口、開いてくださいよー!」

「ホントホント!頼むよ、康平」

橋沢、西口、タケが発破をかける。言われれば言われるほど、今度は自分が情けなくなってくる。『昔と今の自分の差』に。

ということは、昔の『ちっぽけな栄光』にすがっている、ということじゃないか、と考えると、また自己嫌悪感も重なってきた。

こんな時に、

「突破口って言っても・・・。まあ、とりあえずできることは、目の前の与えられた仕事をひたすら一生懸命やることだよね。でも、それは俺らみんなができることだからさ、とりあえず前向きにムリし過ぎずやっていこうよ。いつか会社が『コイツを採用して良かった』って思ってくれるようにさ。うつ病の人に『頑張ろう』って言うのは厳禁だけど、うつ病同士だからいいでしょ?」

などと冗談めいて言えたら良かったのかもしれない。しかし、20代、30代前半でそれなりの企業で活躍していた頃の康平はもういなかった。
康平の口から出てきた言葉は、

「・・・ムリだよ、俺にもうそんな気力は残ってない」

だった。3人は言葉を失くすと、また重たい雰囲気が漂ってしまった。

康平は、“勝ち取ってしまった10万円の封筒”を憎むように見つめ、その中から1枚を取り出すと、

「せっかくだから、今日はこの中から払おう」

とポツリとつぶやき、会計を済まし、お釣りを財布の中に入れた。3人はお礼を言ったが、

「どうせ俺の稼いだお金ではないし」

とまた卑屈な言葉を発すると、4人は居酒屋を出た。

解散すると、康平は一人、自宅に向かって歩いていた。元気なくうつむく3人の様子が思い浮かぶたびに、目をぎゅっと閉じては、首を左右に振り、

「いいんだ、もう、どうでもいいんだ」

とつぶやいた。

***帰り道***



とんでもない『やらかし』をしてしまった忘年会、そして康平が重たい雰囲気にしてしまった4名での2次会が終わった。

自宅まで帰る道すがら、康平の携帯電話のメールの着信音が鳴った。離婚した元妻からのメールだった。

康平が前職でうつ病を再発し、ずっと寝込んでいた時、元妻の母親、つまり義母は

「こんな弱い男に娘を嫁がせるべきではなかった!」

と激怒した。

当時、2歳になるかならないかの息子、亮介がいたが、

「物心がつく前の今のうちなら父親をすり替えても大丈夫なはず」

そう考えた義母は、再婚の見合い相手を早急に探して、ちょうど良い相手が見つかると、元妻と子供を実家に引き上げさせた。

元妻も、寝込んでばかりの康平に愛想が尽きたらしく、義母に勧められるがままに、離婚届を残して、自宅を出ていった。

そんな元妻からの久々のメールだった。
開いてみると、息子の亮介が保育園の制服らしきものを着ている写真だった。写真の隅々から滲み出てくる可愛さと愛おしさ。そして守ってあげないと今にも崩れ落ちていきそうな弱さと儚さ。メールの文面には、

「保育園に入ったよ」

との文字がそっけなく添えてあった。

(何もこんな日に突然送ってこなくても・・・)

康平は両手で顔を覆い、ガードレールにへたへたと寄り掛かった。街灯に照らされた歩道は、その弱り切った姿の影を容赦なく映し出していた。

(亮介に会いたい・・・)

外だったので、なるべく抑えていたが、家に着いた瞬間に、締まり切っていない蛇口から水がポタポタと溢れるように、康平の目から流れるものがあった。

「うつ病なんっ・・・かに・・・なりたくなかったっ・・・」

そんな言葉がふと口からこぼれたのを合図に、蛇口から流れる水は勢いを増し、声の限りなき叫びが部屋の中をこだました。

よく、

「うつ病になる人は甘えていて、弱い。だからうつ病なんかになるんだ」

と言われる。でも、実際のところは、うつ病は“甘え”ではなく、“甘えられなかった”人の病気である。うつ病は“サボり”ではなく、“サボれなかった”人の病気である。

また、うつ病の人にとっては、家族や身近な人の理解を得ることも難しいケースが多い。その典型が、康平の父親、高橋圭だった。

圭は、高度経済成長期に業界トップの大手商社に入社し、そこから出世コースの先頭をひた走り、それこそ、かつて流行語だった『24時間、闘えますか』を地で行っていた頃の猛烈サラリーマンだ。

社会的地位もあり、待遇も日本最高峰に良いスーパーエリートの圭にとって、息子がうつ病という意味の分からない病気になったことは、耐えがたい屈辱だったのかもしれない。
それもあってか、圭は康平に容赦なく厳しくした。

康平がスマートバイト社に入る前の休職・失業期間の一年間のある時、ずっと寝込んだまま働けずにいると、康平の母親、満子は、康平に

「実家に戻ってきて、少しリフレッシュしたらどうか」

と勧めてくれたことがあった。

康平は少し体調が良くなると、横浜市にある実家に戻り、圭と満子、康平の3人で一時期を過ごした。比較的、調子が良かったので、康平はしっかりと食事も摂れて、表情も明るかった。

しかし逆に、父親の圭には、それがまったく意味が分からなかった。

「康平、元気じゃないか。なんでまだ休んでいるんだ。早く就職活動をしたらどうだ」

「今は本当に少しだけ、気分が優れているんだけど、これは今がそうなだけで…」

「本当は働きたくないだけなんじゃないのか。病院の先生は何と言っているんだ」

「まだ今はしっかり休んでください、って」

「そんなのは甘えだ!そんな気持ちだからダメなんだ!だいたい全然、治らないのにいつまでもその病院に通い続けるなんて、康平からも『絶対に治すんだ』という意欲を感じないぞ!」

満子が止めに入る。

「あなた、やめて!康平は病気なのよ!」

「病気じゃない!甘えているだけだ!本当に治したかったら、いつまで経っても治せない医者のところなんかにダラダラ通ったりしない!」

「あなた、いい加減にして!」

「満子も康平を甘やかすからだ!」

そして圭の怒りの矛先は、また康平の方に向けられた。

「とにかく早く治せ!治らないなら病院を一刻も早く変えろ!どんどん変えろ!」

その日の夜中、圭は睡眠もろくに取らずに東京・横浜近辺の心療内科を20近くも調べた。翌朝になると、

「康平、これらの病院にどんどん行ってくるんだ。費用は全部、こちらで出すから」

と告げた。

うつ病は病院で治る病気ではない。そもそも、うつ病の明確な発症メカニズムは、現代医学でもまだ解明できていない。

そのため心療内科などでは、対症療法で症状に応じた薬を出すことが基本となる。うつ病の治療でできることは、処方された薬を飲んで、しっかりと休んで、気力と体力、体調が回復してくるのを待ち、社会復帰した後は

『いかに再発させないか』

に気を配りながら仕事をしていくことだ。

というのも、うつ病は再発する可能性が高い病気であり、その再発率は約60%だといわれている。

また、再発を繰り返すたびに、より再発率が高まる病気でもあり、2回目は70%、3回目は90%にまで確率が上がってしまうことがわかっている。

康平で言えば、過去に2回再発しているので、残りの人生は、70%の再発危険性を常に抱えながら生きていかなければならない、というわけだ。

康平には20近くの病院に行っても、特に意味はないことは分かっていたが、それを今の父親に言っても

「それは甘えだ!ふざけているのか!」

と怒鳴られるだけだろう。

康平はできれば少しでも休んでいたかったが、それから3週間ほどかけて、重たい身体を引き摺って、20近くの病院を回った。案の定、いつも通っている病院と似たような薬が出されて、安静にしているように、としか言われなかった。

その上で、圭にその結果を伝えた。すると圭は、

「要するに、康平のメンタルが弱いからこうなるんだ。早めに上野の自宅に戻って、1人でしっかりとやっていきなさい。家賃はこれまで通り、父さんの方で出すから」

と実家から出ることを勧めた。

『メンタルが弱いからうつ病になる』

これもこの病気の大きな誤解の1つで、うつ病や適応障害などに罹患する人は、メンタルが弱いのではなく、

『辛くても我慢しすぎて、自分にだけやたら厳しい』

性格であることが多い。

だから『メンタルを強くする』ではなくて、逆に『頑張り過ぎないスキル』を身につけることが必要なのである。

しかし、高度経済成長期、バブル期とバリバリ働き、会社の出世コースを突き進んできた父親の圭にとっては、それがまったく理解できなかった。
『うつ病』というのが、まるで宇宙からやってきた異次元の生命体でもあるかのように感じられたのかもしれない。

どうしても康平のことを理解できない圭と、その康平の味方をする妻の満子。

圭には、満子が康平に甘いことも1つの原因なのではと考えた。そう考えると、満子に対する不信感も募り、長年、おしどり夫婦でケンカらしいケンカをしたこともない二人が、最近はよくぶつかるようになり、一時期は別居の話すら出るほどになってしまった。

これも、康平の心を深く傷つけた。自分が原因で、何十年も仲の良かった両親に、別居話まで出てきてしまったのだ。

(俺は・・・生まれてこなかった方が、よっぽど良かったんじゃないか…。)

康平は何度も、何度もその罪悪感に苦しめられていた。

自分のために、会社のために、誰よりも一生懸命に頑張って働いたのに、うつ病になって、休職し、失業し、妻に愛想を尽かされ離婚され、愛する息子と離れ離れになり、両親の仲をも引き裂いて、それでもただ休んでいることしかできず、1年間も寝込んだ後は、障がい者雇用の嘱託社員として、34歳にして新卒社員のアシスタント役となり、卑屈な気持ちで毎日を過ごしている。

ただでさえ今日は落ち込んでいたが、そこに元妻から何気なく送られてきた息子の亮介の写真をきっかけに、これまでの様々な苦しい思い出までもが一気に蘇り、康平は打ちのめされた。

「もう、嫌だ!」「もう、嫌だ!」「もう、嫌だ!」

何度も、何度も連呼した。

しかし、嘆いているだけでは、誰も助けてくれないし、何も問題は解決しないことは自分でもよく理解していた。しかし、理解はしていたが、そこに立ち向かう気力がもう出てこない。

その時だった。胸が苦しく、動悸がどんどん高まっていくと共に、康平は衝動的に

『もうこの苦しみから逃げたい。とにかくこの世から、消えてしまいたい』

という考えに頭と心が支配された。お酒の酔いが、それに拍車をかける。

『希死念慮』
と呼ばれる、自らの命を絶ちたいという衝動が発作的に起きた。

「・・・終わっているんだ。もう俺の人生は終わっているんだ。」

康平は、小さなワンルームマンションの一室で、洗濯ひもで輪っかを作り首にくくると、余った反対側の端を、洋服をかけるフックに引っ掛け強く結んだ。足元には9万円の札束が入った封筒が落ちていた。

何の迷いもなく両足を前に放り投げ、全体重をかけると、一気に洗濯ひものロープは閉まり、康平の首を圧迫した。すさまじい力で首が閉まっていく。康平の意識は一瞬で薄れた。


第二章



***翌朝***



・・・翌朝、康平は、出勤電車の中にいた。

しかし、心は完全に真っ暗闇に覆われてしまっており、灰色の目でボーっと考えごとをしていた。

昨日、衝動的な『希死念慮』に襲われて、首つりをした康平。

洗濯ひものロープが一気に閉まり、意識が一瞬で薄れてきたが、次の瞬間、洗濯紐を結んでいた洋服のフック自体が「バキッ」と音を立てて壊れた。

「ゲホっ!ゲホっ!ゲホーーーっ!」

強烈にむせた勢いで、胃の中に入っていたものが全部、床面に巻き散らかれた。

「ハーッ!ハーッ!ハーッ!」
「ハーッ!ハーッ!ハーッ!」

涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、しばらくボーっとしていた康平。

「・・・俺・・・死のうとしたのか」

すっかり酔いは覚め、『死にたい』という欲求は消えていた。

「スーッ」と心が楽になっていくのを感じた。少しだけだが死に近づくことができて、欲求が満たされたからなのか。何となく、リストカットを繰り返す人の気持ちが分かったような気がした。

少し落ち着いてから鏡を見てみると、洗濯紐が首に絞めつけられた跡がくっきりと残っていた。

翌朝、康平の気分の落ち込みは酷く、起きようと思っても起きられない状態だった。布団から出ようと思っても、身体がどうにも動かない。胸が苦しい。気分も悪い。

(・・・二日酔いか?)

と一瞬思ったが、明らかに症状が違う。これはうつ病のそれに近い感じがする。

(昨日、衝動的にあんなことをしてしまったし、もしかしたら『再発』してしまったのかも・・・)

なんとか起き上がらなければ。でも、どうしても身体が起き上がらない。

(・・・とはいえ、以前に寝込んでいたほどひどくはないかな)

これでもまだ、1年間休職して寝込んでいた時期よりは、ずっと軽いような気がした。

宴会の次の日に会社を休むのも決まりが悪い。心を無にしてもう10分ほど横になってから、

(せーの、よし!)

と最後の力を振り絞って起き上がってみると、なんとか起き上がれた。

(・・・・・・)

なんとか起き上がると、会社に行く準備を始めた。首筋に洗濯ヒモの跡がくっきりと残っていたが、なんとかネクタイで上手く隠すことができた。

しかし、出勤電車には乗れたものの、康平は、

(・・・やはりもう、退職しよう)

と考えていた。それだけでなく、

(・・・自分の人生を、もう終わりにしよう。俺にはもうこれ以上、この病気を抱えたまま生きていくはムリだ。今日か明日あたりにでも退職の旨を伝えて、最終勤務まで何とかやり終えて、一人になり、年末、大晦日あたりに冬山にでも行って、処方されている睡眠薬を飲んで静かに眠ろう・・・。)

といったところまでネガティブな思考が飛躍していた。

会社に到着すると、タケは出社していなかった。どうやら体調不良のため、午後に出社する旨の電話が朝、かかってきたようだった。総務部の何人かが、康平の顔色がいかにも悪いのを見ると、

「大丈夫ですか?キツい時はムリしないでくださいね。私たちもそうですから」

と言ってくれた。隣席にいる新入社員の黒須美津子も

「高橋さんおはようございます。ご体調、あまり良くなさそうですけど、大丈夫ですか?どうかご無理はされないでくださいね」

と心配の声をかけてくれた。一方の宮澤静香は、

「高橋さーん、昨日、社員総会でほとんど仕事できなくて溜まっちゃっているので、今日の郵便、早めによろしくお願いしまーす」

と言いに来て、郵便物が大量に置いてある机を指さした後、自席に戻って行った。

黒須は宮澤の気遣いの一切ない態度に少し慌てたように、

「小竹さんもまだ来ていらっしゃらないですし、配達時間までに間に合いそうになかったらお手伝させていただきますから、ご遠慮なく声をかけてくださいね!」

とフォローしてくれた。

「ありがとうございます」

と返答すると、

(同じ新入社員の仲良し同士でも、性格が180度、違うなあ)

と少し微笑ましく感じ、業務に取り掛かった。

(本当に総務部の人たちは良い方々ばかりだな。人生、最期の働く場所で、こんな温かい人たちに囲まれて良かったな・・・)

そう思いながらいつも通り郵便物の仕分けを行い、黒須美津子にチェックをしてもらうと、各部への配達に向かった。


***伊達真由美***



康平がいつものように配達で各部門を回っていると、いつも郵便物を受け取ってくれる営業4部の女性事務社員・伊達真由美の顔色が少し悪く、マスクをしていた。

(・・・あれは、確か、伊達さん、だったよな)

気品のあるたたずまいで一見、近づき難そうなのに、郵便物を渡す際は

『いつも本当にありがとうございます』

と毎回、心のこもった笑顔で丁寧に接してくれる、どこか不思議な雰囲気の、目鼻立ちの整った綺麗な女性。

そんなイメージを抱いていた康平は、彼女の名前を漠然とだが、覚えていた。いつもは自分から目を合わせられない康平だったが、ふと、

「伊達さん、今日は体調が優れなさそうですね。大丈夫ですか?」

話しかけてしまった。真由美は、話しかけてきたのが康平だと分かると、少しだけ目を丸くしていた。

「あ、すみません、話しかけてしまって・・・」

蚊の鳴くような声で康平がうつむきかけると、真由美はニッコリと笑い、

「あ、いえいえ。少しだけ、鼻かぜ気味で。熱とかはないんですけどね」

と返した。ここから、少しの雑談が始まった。

「え、本当ですか?悪化しないといいでんですけど…。」

「ありがとうございます。今日で今週は終わりなので、週末しっかり休んで快復しますね」

そう言うと真由美は、

「高橋さんも、顔色があまり良くないですね」

と少し心配そうな表情をした後、またニッコリと微笑むと、

「でも、そんな中でもこうやって話しかけて、心配してもらえると、嬉しいものですよ」

と続けた。康平は『え?』と思って、少しだけ上ずった声で返した。

「え、僕みたいなうつ病の障がい者にも・・・ですか?」

真由美は少しだけきょとんとした顔をした後、

「ウフフッ」

とニッコリ笑った。

「そんなの関係ないですよ、高橋さん。私に言う資格はないかもしれませんが・・・少なくとも私は、人の価値とかって、障がいがあるとかないとか、そういうものでは決まらないと信じています」

「え・・・じゃあ・・・何で決まると思われますか?」

「うーん、私的に、価値のある人とは・・・“不運とか困難とかで何度倒れても、最後は何度でも立ち上がれる人”とか、かな?」

「・・・何度倒れても、最後は何度でも立ち上がれる、か。“ロッキー”みたいな?」

「ウフフッ、そうそう!まあ、あくまで私は、ですけど」

「そっかあ…」

「そうですよー!なんか、変な考え方に縛られ過ぎちゃっていませんでしたか?」

・・・その言葉を聞いた瞬間、なにか今まで康平の心を縛り付けていた、得体の知れないどす黒いものがスーッと消えていくような気がした。

(・・・あれ?この感覚は・・・何だろう??)

「あ、なんだかお顔が少し明るくなった・・・かも。ウフフッ」

「あ・・・はい。上手く言葉にできないんですけど、なんか少し気持ちが軽くなりました。ありがとうございます。伊達さんも体調が悪い中なのに」

「いえいえ、お声がけいただいて嬉しかったですよ。色々と、大変なことも多いのではと思いますけど、できるだけその高橋さんでいてくださいね」

「はい、ありがとうございます!では」

郵便物を受け取る事務社員の人と話をするのは入社以来、初めてだった。フロアを離れて一人になると、真由美の

「変な考え方に縛られ過ぎちゃっていませんでしたか?」

という言葉が頭の中で反芻した。

(・・・たとえば最初、俺は
『みんな、うつ病の障がい者なんかにどう接していいかわからない』
とか思っていた。でも、みんなにどう接していいかわからなくさせていたのは、他ならぬ自分自身だったのかもしれない。今までの色々な出来事にも言えるけど、
『どうせうつ病だから』
とか
『障がい者雇用の自分なんかが』
とか、自分で自分を勝手に卑下するその考え方こそが、自分を取り巻く世界を酷いものに変えてしまっていたのかもしれない・・・)

康平はなんだか少し、気持ちが楽になってきた。今の状況を変える糸口が、わずかに見えたような気がした。

「もしかして、すべては自分の“考え方”次第?・・・。まだ、やれるのかな、俺・・・」

康平は小さくつぶやいた。

だが、思いもよらぬ出来事が起きたのは、総務部に戻った後だった。


***やりがいのある仕事をください!***



康平が少し元気を取り戻して業務をこなしていると、タケが出社してきた。

もうお昼休みも過ぎた13時過ぎ、始業から4時間ほど遅刻での出勤だった。タケは、出社してくると、まず総務部員たちに

「今日は遅れてしまい申し訳ありませんでした。」

と頭を下げながら回った。そして自席に戻り座ると、業務を開始するのかと思いきや、しばらく何かを考えた後、また立ち上がり、課長代理の館山の席に行き、驚くことを言い放った。

「館山さん、俺、正社員の皆さんがやっているような、もっともっとやりがいのある仕事がしたいんです。もっと責任のある仕事を俺にください!!」

と、いきなり大きめの声で詰め寄った。康平は、

「え?タケ??ちょっと落ち着けよ。いきなり、どうしたんだ?」

と声をかけたが、じっと館山を見つめたままで返答はなかった。タケは躁うつ病である。

(基本は落ちついているけど、躁もあるから、ちょっと上がってしまったのかな?)

館山はしばらくタケを見つめると、

「タケは『やりがいのある、責任のある仕事』というのが、したいのか?」

と聞いた。するとタケは

「はい、やりたいです!!もう、こんな『雑用ばかりの仕事』はイヤです!!」

と大声で答えた。部内に緊張が走った。すると館山は何ら動じることなく、

「タケ、体調の問題はあるだろうけど、あまりにも頻繁に欠勤したり、遅刻をしたりしているようでは、はっきり言って任せるのは難しい。もちろんムリをしてはいけないけど、タケの場合は、まずはそこから変えないとだな」

と厳しめの言葉を、優しさのトーンで包み込みながら返した。

タケはそれでも、

「もっとやりがいのある仕事を任されれば、遅刻や欠勤したりなんかしません!」

とやり返したが、館山が

「タケ、逆だよ。『雑用』のように思える仕事の毎日であったとしても、それに穴を開けずにしっかりと欠かすことなくできる奴が、徐々に、より責任のある仕事を任されるようになるんだ」

と返すと、もう、タケに言い返す言葉は残っておらず、トボトボと自席の方に肩を落として戻ってきた。


康平は『ハッ』とした。

(・・・俺も、だ)

まだ入社して2か月も経っていないので、遅刻・欠勤こそまだなかったが、正直、仕事にやりがいを見出せず、
『もう今日は休んでしまおうか』
と思うことは何度もあった。

でも確かに、健常者だろうと、障がい者だろうと、そもそも勤怠がしっかりしていない社員には、より責任のある、重要な仕事を任せることなんて、会社としてもリスクがあってできない。

そして館山は、

「『雑用』のように思える仕事の毎日であったとしても、それに穴を開けずにしっかりと欠かすことなくできる奴が、徐々に、より責任のある仕事を任されるようになるんだ」

と言っていたが、それは要するに

『周囲からの信頼の蓄積』

だ。みんなから信頼されなければ、より責任のある、重要な仕事など任せられるはずがない。

康平自身、

『どうすればいち早く今の仕事から外れて、正社員の担当するような仕事を任されることができるか』


ばかり考えて、解決策が見出せず、空回りばかりしていた。
でもそんなことで悩んで時間をムダにするよりも

『どうすれば総務部のみんなの役に立てるか』

という視点で業務に取り組んだ方が、よっぽど生産的ではないのか。
そのために『今』できることは・・・

まずは郵便物の仕分けと各部門への配達業務を、自ら進んで、一切の愚痴も文句も言わず、遅刻・欠勤もせずに、淡々とやり続けること。

毎日、大量の郵便物を仕分けて、各部門へ配達することは、はっきり言って『キツイし、誰もやりたくない業務』
だ。

でも、自分やタケがちゃんとやらないと、この業務の責任者である黒須や宮澤に迷惑がかかってしまう。

さらに、この郵便物が届くところに届かなかったら、多くの社員に迷惑がかかってしまう。それは黒須や宮澤だけではなく、総務部にも、会社全体にも迷惑をかけることになる。

だったら自分が、それをしっかりとやり続ければ良い。もちろん、誰も見てないかもしれないけど。

そして、黒須や宮澤だけに限らず、業務に困っている総務部員がいたら、どんどんサポートしていくこと。

与えられている役割はコピー取りや文書のファイリングなど『作業系』のサポートをすることだから、そこはしっかりと守りながら、そこから見えてくる業務改善や効率化のアイデア出しなどを、厚かましくない程度にやってみて、とにかく

『総務部のみんなの役に立つ』

こと。そして、焦ることなく

『信頼』

を少しずつ、少しずつ蓄積していくこと。

その先はまだ見えないけど、やがてそれが、より責任のある、重要な仕事を任されることに繋がってくるのではないか。今のままあれこれ悩んでいるよりも、可能性はずっと高いのではないか。

そんなことを考えた。康平は黒須美津子に、少し席を外すことを伝えると、館山のところへ行き、

「館山さん。上で少しだけ、お話してもいいですか?」

と聞いてみた。

「お、どうした康平。もちろんだ。行こうぜ!」

と館山が了承してくれたので、2人で屋上へ向かい、昨日の4人の二次会で話したことや、これまで思っていたこと、今、館山の言葉を受けて考えたことなどを伝えてみた。館山は『ふむふむ』とうなずくと、

「うん、さっきも言った通り、今の勤務状況だと、タケに正社員が担当するような仕事を任せることはできない。遠目で見ているだけだけど、多分、橋沢くんや西口くんの上司も、同じように考えているんじゃないかな。康平は遅刻や欠勤はないが、まだ、入社したばかりで、今言った『信頼の蓄積』がないから、やっぱり、まだ任せることはできない」

「おっしゃる通りだと思います」

「うん、でも・・・」

「・・・でも??」

「いや、康平。さっきの一言だけで、よくそこまで自分で考えついたな。康平の言う通りだ。やるべきことは決まりだな。『会社は、本当はどういう方針なんだ・・・』とか、いくら考えても答えの出ないことを、いつまでも思い悩むのは時間のムダだからね」

「はい、その通りです」

「そうじゃなくて、その答えを引き摺り出すんだ。自分の力でな。康平なら、できるよ。ただ、康平はうつ病を患ってしまったことは、残念ながら変えようのない事実だ。だから、ムリはするなよ。そこはちゃんと自分で調整するんだ」

「ありがとうございます、館山さんのおかげでやるべきことが見えてきました。タケにも伝えて、軌道修正して、しっかりやっていきたいと思います」

「そうだな、あいつも心配だ。康平の方からも伝えてやってくれ」

・・・一瞬、康平の中で『ある疑問』が湧いた。

「あの。館山さん、もしかして…」

「ん?」

「・・・あ、いや・・・なんでもないです」

「おう。応援しているからな、康平」

「ありがとうございます!」

康平は、今やっている黒須や宮澤のサポート業務、そして、毎日うんざりしながらイヤイヤやっていた郵便物の仕分け・各部門への配達業務が、急に『宝の山』のようにすら思えてきた。

なぜなら、

『みんなが、誰もがやりたくない業務』

だから。

(そうだ、この業務を『総務部のみんなの役に立つために』最大限に活用していけばいいんだ。)

そして、

( 『どうすれば正社員になれるか』なんてチマチマ狭い視野で考えているからすぐに行き詰まるんだ。それよりも、『どうすればみんなの役に立てるか』を考えて、それを少しずつ地道に広げていけばいいんだ)

と考え直した。

***雪の日も風の日も***



館山と共に屋上から戻ってくると、タケはいなかった。

真田の話では『やっぱり、体調が優れない』と言い残し、早退してしまったとのことだった。

康平は『大丈夫かな…』と心配になったが、『きっと明日からはまた元気に出社してくれるだろう』と、タケのことを考えるのは一旦置いておき、気持ちを新たにして業務に取り組み始めた。

午後分の大量の郵便物をいつもよりテキパキと仕分けると、配達時間までに余裕をもってきっちりと準備し、宮澤にチェックをお願いしたあと、各部門への配達に向かった。

翌日もいつも通りに出社すると、タケは『今日も体調不良で休む』という旨の連絡があったようだった。これで今日も、午前、午後の2回とも、康平が郵便物の仕分・配達業務をやることになった。

今までは、この状況になると、心底うんざりしていたが、今日はまったく気分が違い、前向きに取り組むことができた。

(自分の気持ちの持ち方ひとつで、ここまで違うものなのか・・・)

と感じた。昨日まで、正直、まったくやりがいを感じていなかったこの業務が、内容も何も変わっていないのに、まるでまったく違う業務のようにさえ思えた。

また康平は、少しでも空き時間ができると、自分の“上司”である新入社員の黒須や宮澤に

「今、何か手が回っていないことありますか?」

と聞くようにした。

今までは『そうしなきゃ』と分かっていてもプライドが邪魔をしてできず、言われたこと、指示されていたことしかやっていなかった康平だったが、もうそんな余計な気持ちはなくなっていた。

二人が『今は、大丈夫です』ということであれば、他の総務部員のところにも聞いて回り、サポ―ト業務をこなしていた。

そうしていくうちに、誰がどんな業務を担当していて、どんな課題を抱えているのかが、おぼろげながら分かってくるようになった。

例えば、新入社員の黒須美津子と宮澤静香は、各種データの入力と分析に使う表計算ソフトにあまり慣れていないようで、業務効率が悪くなっているような感じがした。

ある日、雑談がてらに隣席の黒須美津子に話をさりげなく話を振ってみると、

「実は大学時代もあまり使う機会がなくて・・・よく分からなくて苦戦しているんです」

ということだった。そこで、

「今は何の業務で使っているんですか?」

と聞いてみると、パソコン画面上で開かれている表計算ソフトを見せてくれた。

「実は・・・各部門から月に1度総務部に提出されてくる、ボールペンや修正テープ、ホッチキスなどの各種備品の発注履歴と在庫のデータを取りまとめて分析して、もっと経費削減ができないか、効率的な運用ができないかなどを提案資料として作るように言われているんですが・・・。そのデータの取りまとめが上手くできなくて・・・」

ということだった。

康平が見てみると、いくつかの関数式や、たまたま知っていたごく簡単なマクロを組んであげるだけで、だいぶデータの取りまとめが効率的になりそうだったので、

「差し出がましくなければ・・・」

と断りを入れた上で、フォーマットを作ってあげたところ、いつもなら1時間ほどかかっていた作業が、ものの20分で終わったようだった。黒須はこれに大喜びで、

「高橋さん!すごいです!本当にありがとうございます!」

とお礼を述べると、

「実は静香も、表計算ソフトが苦手なんです。良かったら、見てあげてもらえませんか?」

と宮澤に声をかけに行った。

「高橋さん!高橋さん!」

とすぐに黒須に呼ばれたので、宮澤の席に行って見てみると、彼女も同じような感じだった。

そこで、これも改良してあげたところ、いつもかかっている時間が半分以下に短縮できたようだった。宮澤がめずらしく少しだけ笑顔を見せて、

「わぁ。高橋さん、すごいですね…」

と小声ながら言ってくれたのが印象的で、嬉しかった。

するとそれを聞きつけた萩原香が、今度はプレゼンテーションソフトの使い方について分からないことを聞いてきたので、やり方を教えているうちに、いつの間にか、プレゼンの内容まで相談に乗っていた。

その後も、萩原、黒須、宮澤を中心に、パソコンや各種ソフトの使い方について相談を受けることが増えてきた。

とはいえ康平は特別、パソコンや各種ソフトについて、そこまで詳しいわけではなかったので、その場ではすぐに答えられないことも結構あった。

しかしその時は

『すみません、それは分かりません』

では終わらせずに

『ちょっと調べておきますね』

と伝えるようにして、その調べた内容をフィードバックするようにした。

そんなことをしていると、それがまた、立花に広がり、北沢に広がり、という具合に、徐々に守備範囲が広がってきて、だんだんと、

『パソコンや各種ソフト関連で分からないことがあったら高橋さんに聞いてみる』

という雰囲気ができて、相談を受けることが増えてきた。康平は純粋に、総務部員のみんなの役に立てるようになってきたことが、何よりも嬉しかった。

その後も、自分よりずっと年下の新入社員である黒須や宮澤も含めて、全員が上司だと思うようにした。

部下として、何をすれば上司たちの仕事の助けになるかを色々と考え、出しゃばり過ぎないように慎重に気を配りながら、少しずつ信頼を積み上げられるように立ち回った。

そして1日2回の郵便物の配達の時間になったら、自社ビル、そして道路を挟んだ向かいのビルにある各部門を、精力的に台車を引いて回った。

タケは館山にたしなめられて以降、すっかり会社に来なくなってしまったので、本来なら午前分と午後分、1日2回を交代で配達するはずが、康平が2回とも回るのが日常になった。

すでに年が明けて1月に入っていたので、特に外で台車を引いて歩くのは、寒さできつかった。その年は特に寒い日が多く、雨もよく降ったし、時には雪がチラついたりもした。

実は、『秋冬の日照時間の短さ』も、うつ病を抱えている人には、精神的に意外と重くのしかかることが多い。

太陽の光を浴びることは精神衛生上、非常にプラスに働く。そのため、日照時間が短くなり始める秋や、すっかり短くなった冬に、精神的な調子や体調が崩れ気味になる人がよくいるのだ。

1月のように日照時間の短い時期は、康平が2回目の夕方の配達に行く頃には、すっかり日が暮れかけている。

そんな些細なことでも、それが心の重荷となり、気分が徐々に落ちていき、体調不良やうつ病再発のきっかけとなってしまう可能性だってある。

康平にもその実感はあり、夕暮れ時に一人で2つのビルにまたがる各部門に、ひとり台車を引いて回るのは精神的に重たいものがあった。

さらには、凍えるような寒さもまた、心に負荷がかかったが、『絶対に文句や愚痴は言わない』と決めたので、文句も愚痴も、一切言わなかった。

(できるだけ、前向きにやっていこう)

そう決めていた康平は、各部門に配達に行く際、今まで、自分が情けなくて目を合わすことすらできなかった郵便物を受け取ってくれる事務社員たちに、1日1度は、

「今、何か総務部にできることで、お困りのことなどはありませんか?」

などと聞くようにした。そして例えば、

「そういえば、ちょっとコピー機の調子が悪いんです」

と言われることがあれば、都度、館山に報告した。
館山は

「おお、そうか、じゃあ早速、見に行こう。康平も、付いてこいよ」

と、一緒に連れて行ってくれて、だんだんと社内設備など関する知識も身に付いていった。

時には、精神的には問題ないものの、体調があまり良くない日もあった。
1年間、ほぼ寝たきり状態だった康平は、免疫力・抵抗力も弱っていたせいか、寒さで少し鼻水が出たり喉がやられたりしてしまうことがあった。

本来、うつ病を抱える人は、このような時はムリをせずにあえて

『ムリして頑張り過ぎない』

ことがとても大切である。

こういう時に自分に優しくできない人、上手に手を抜けない人こそ、うつ病になってしまいやすいのだから。もちろん康平もそれは十分に承知していた。 

しかし、康平は久々にしっかりと前向きに働けている楽しさ・嬉しさの方が、だんだんと上回ってきていた。

寒さにやられて少し風邪気味なのに、ちゃんと業務をこなせている自分がちょっとだけ、誇らしかった。いつも自信なさげに丸まっていた康平の背筋は少しずつピンと伸びてきて、笑顔で他部門の社員たちと挨拶をしたりすることも増えていった。


・・・だが、タケ。

年が明けて、1月、2月に入っても、タケは欠勤が続いていた。毎朝、

「今日も体調不良でお休みします。申し訳ありません」

という電話が始業5分前にかかってくるのが日課となっていた。

康平は時折、タケにメールで様子を伺いつつ

「毎朝、電話するのも大変だろうから、一定期間、休職とかにしてもらった方がいいのでは?」

と何度か聞いてみたが、その度に

「それだけはしたくない。毎朝、ちゃんと電話したい」

という返事が返ってきた。その意図はよく分からなかったが、特に深くは聞かなかった。

また、業務部の橋沢、経理部の西口も、体調不良による欠勤や遅刻が・・・タケほどではないものの・・・目立ってしまっていた。

体調不良は仕方のない事だが、

『この会社では、どれだけ一生懸命働いても、報われる日が来ないのではないか』

という想いがモチベーションを下げ、遅刻や欠勤に繋がってしまっている側面もあるのではないかと感じた。

そこで康平は、時には橋沢や西口を『みょうらい』に飲みに誘って、何とかモチベーションを上げられないかと試みた。年末の忘年会後の4人での二次会で、康平自身がネガティブな言葉を吐いてしまったことを心から申し訳なく思いながら。

しかし、そうは言っても、康平自身もゴールの見えない毎日だったため、
「遅刻したり欠勤したりしなければ、きっと、もっと責任のある仕事を任されるよ」

などといった安易なことは言えなかったし、ましてや

「体調が優れない日でも頑張って出勤しようよ」

などということは、口が裂けても言えなかった。橋沢、西口はうつ病だけではなく、軽度の統合失調症も抱えているのだ。

結局、2人の気持ちをあまり高めることはできず、欠勤、遅刻はたびたび発生してしまっていた。タケの連続欠勤も、ずっと続いていた。そのことに思いを馳せた時だけ、康平は弱々しく肩をすくめてしまう日々が続いた。


***真田課長***



4月に入り、いつも通りに仕事をしていたある日、午前中の郵便物の各部門への配達から戻ると、突然、課長の真田に声をかけられた。

「康平くん、お疲れ様。終わったらお昼、一緒に食べに行かない?」

「え?あ、はい、ぜひ。ありがとうございます。」

真田に昼食に誘われるのは入社してから初めてだった。

真田と共に、総務部の双璧である館山は人当たりが良く、度々『康平、昼メシ行こうぜ!』と声をかけてくれていたが、真田と2人だけで昼食を食べに行く、ということは今までなかった。

(何だろう?何かやらかしてしまったかな?)

少し不安になったが、真田の表情は柔らかで、穏やかだったため、余計な心配をする必要はなさそうだった。2人で定食屋に入り、注文を済ますと、真田が驚きの事実を話してくれた。

「実は俺さ、入社して15年以上経つけど、最初の配属からずっと総務部で、1回も人事異動をしたことがないんだよね」

「・・・え!?そうなんですか?それはすごい。それだけ総務の実務に精通されているから、こんなに若くして総務部のトップを勤められるんですね」

真田は康平の6歳上、まだ40歳である。

康平は純粋に驚いた。康平は今まで何社か渡り歩いてきたが、大学を卒業して新卒として入社してから、15年以上、ずっと1つの部門で、しかも総務部で、他部門への異動を一切経験したことがない、というのも珍しいケースだと思った。

「トップって言っても、西山常務から怒られる役割くらいだけど」

少し自虐気味に笑うと、また驚きの話が出てきた。

「康平くんが今、1人でやってくれている郵便の仕分けと各部門への配達業務、実は俺もずーとやっていてさ。確か・・・入社5年目くらいまでやっていたかな」

「え、そうなんですか!?あの配達業務を5年も・・・それは本当にすごいです。よくモチベーションが途切れませんでしたね」

「アハハ、何度も途切れたよ。でも、康平くんも今、そうだと思うけど、もう吹っ切れて淡々とやっているでしょ。それと同じような心境でずっとやっていたよ」

「そうなんですね、5年も・・・」

「うん、だから、あの業務の辛さというか、しんどさは誰よりも理解しているつもりだよ。総務部に入ってきた正社員も、みんな必ず何度かは経験させているけど、すぐにみんな『もうあの業務だけはやりたくないです』って2~3回目くらいで音を上げてしまうからね」

真田は笑いながら言った。

「だから、あの誰もが嫌がる業務を・・・もう半年間ほどか・・。文句の1つも言わず、しかも無遅刻、無欠勤でやり続けてくれている康平くんには、本当に感謝している。各部門の事務社員からの評判もすごく良いよ。今日はそのお礼が言いたくてさ。本当にありがとうね」

「・・・いやいやいや、もう、とんでもないです。でも、そう言っていただき本当に嬉しいです。誰も見てないと思っていたので」

「見ているさ。みんなも、康平くんの姿をしっかりと見ているよ」

康平は素直に嬉しかった。
誰も、自分の仕事なんか見ていないのではと思っていた。

それが、まさか、総務部の部長役を勤めている真田が、実は誰よりもあの業務の辛さを知っていて、康平が毎日コツコツと続ける姿をしっかりと見ていてくれたとは夢にも思っていなかった。これまでの努力が報われるようで、涙が出そうになった。

「ぜひ、これからもムリしない範囲でやっていって欲しい。いつか必ず報われる日は来るから。感謝しているし、期待しているよ」

「僕なんかにはもったいないお言葉です。ありがとうございます」

と康平が返すと、真田は話題を変えた。タケ、だ。

「逆に、小竹くんは、あまりにも休みが続き過ぎて、人事部からも目を付けられるようになってきてしまった。障がい者社員の労働時間の積み上げが足りなくなるから、これ以上、休みが続くなら、そろそろ契約を終了して、別の障がい者社員を雇わなくてはならない、という状況になってきたんだ」

「・・・実質的なクビ、ということですか」

「まあそうなってしまうね。彼は、人柄はいい奴だし、できれば頑張ってほしかったんだけど・・・」

康平はタケの状況を見ていて『そのうち人事部から突っ込みが入るだろうな』と予測はしていたが、ついに事態は契約終了の話にまでなってしまったか、と思った。

(何とか、クビだけは回避できないだろうか…)

康平は考えた末、

「今からしっかり勤務できれば間に合いますかね?僕、一度、あいつとしっかり話をしてみたいのですが…」

と聞いてみた。すると真田は

「ありがとう。実はその言葉を待っていたんだ。もしそれで立ち直れるようなら、人事も採用コストを節約できるし、総務部としてもまた1から受け入れをしなくていいから助かるんだ。ダメ元で構わないから、一度、話をしてみてくれないかな?」

と、康平に想いを託した。

「分かりました。やってみます。うつ病って、発症してしまうと、もう本当にどうしようもなく何もできなくなるんですけど・・・僕の場合、症状が重くなる前でしたけど、ちょっとしたきっかけで、気持ち的にどこか楽になって、何とか持ち直したこともあったんです。あくまで経験的なもので、医学的にどうなのかはよく分かりませんが」

「そう、そういうところが俺にはどうしても分からないんだよね。だからぜひ康平くんに一度、小竹くんと話をしてみて欲しい。何度も言うけど、ダメ元で構わない。変にプレッシャーを感じたりしなくていいからね」

「ありがとうございます。了解しました。やってみますね」

真田とのランチが終わり、康平は仕事の合間に少し考えてみた。

「タケの心を再起動させる『キー』は何だろう?」と。

タケは康平が入社した時から、しつこいくらいに色々と話かけてくれて、正直、ちょっとウザいと思う時もあったが、スムーズに仕事に馴染んでいけたのも、全部タケのおかげだった。

タケは基本的に社交的で、同じく人当たりの良い館山とも仲が良かった。それもあって、時には3人で飲みにったりする仲にもなれた。

タケには、大きな恩がある。康平は何とかそれを、少しでも返したいと思った。そして、真田からの期待にも応えたい、とも。

それが自分の仕事をしっかりと見ていてくれた彼への恩返しにもなるからだ。康平は

『難しいかもしれないけど、タケが復活して会社にまた来られるように頑張ってみよう。なんとか復活してくれますように』

と祈るような気持ちだった。

***タケ***



康平は、まずはタケとしっかりと話ができる機会が必要だと考えた。

タケとはあまり、病気の症状については話したことがなかったが、以前に、

『調子が悪くなると、朝、だるさで起きられない』

と言っていたことがあった。それはおそらく、うつ病の症状でよくある

『日内(にちない)変動』

というやつだろう。

日内変動とは、朝起きた時に調子が悪く、午後から夜にかけて徐々に改善するという、うつ病によくある典型的な症状だ。
とすると、夜に、しかもタケはお酒が好きなので、『2人で軽く飲みにでもいかない?』と誘えば、出てきてくれるのではないかと考えた。

康平は早速、タケにメールを送ってみた。

「タケ、体調はどう?良かったら、2人で軽く飲みにでもいかない?夜、上野まで出て来られたりする?」

しばらくするとタケからは、

「ありがとう!大丈夫だと思う」

と返信がきた。

「じゃあ、いきなりで申し訳ないけど、今日なんてどう?19時に『みょうらい』で」

「わかった、了解!」

その答えを聞いた瞬間だった。

(飲みにいけるくらいなら、ちゃんと仕事も来いよ、タケ)

と不覚にも少し腹が立ってしまった。

康平自身も、『日内(にちない)変動』は何度も経験しているので、朝から夕方くらいまでずっと体調や気分が優れないのは、誰よりもよく分かっている。

夜になったら、調子が悪くなければ、外出したり、飲みに行ったりできるのもすごくよく分かる。

でも、それでも

(飲みにいけるくらいなら、ちゃんと仕事も来いよ)
と腹立たしく感じてしまった。

よく分かっているつもりの康平でもそう思ってしまうのだから、健常者の人たちからしてみたら

『会社はずっと休んでいるのに、飲みにはすぐに来られるってどういうこと!?』

と思ってしまうのは当たり前だろうなと思った。

それもあって、真田には『今日、早速、タケと飲みに行ってきます』とは言わなかった。まずはタケとしっかりと話してから、事後報告にしよう。そう考えた。

そして、夜。仕事が終わると、康平は上野駅の『みょうらい』に向かった。10分前に着いたが、すでにタケは来ていた。

「おー、タケ。久しぶり。大丈夫か?」

「康平!久しぶり!いやー、なかなかダメだねえ」

「日内変動かな?まあ、うつ病ってそんな感じだからね。」

「今日は誘ってくれてありがとう。久々に飲めて嬉しいわー!」

「じゃあ、さっそく注文しようか」

二人とも生ビールを注文し、早速運ばれてくると、タケは大好きな飲み会を久々に楽しむように、一気に1杯目を飲み干した。

「うん!ウマーい!おかわりしよう!康平も早く飲めよ」

「アハハ、分かったよ。なんだよ、元気じゃん、タケ」

「お酒を飲む時だけは元気いっぱいなんだよ、俺は」

「じゃあ明日の朝は反動でますますダメだな、困ったもんだ」

その元気な姿を見ていると安心したものの、同時に少し『イラっ』とした感情もまた芽生えてしまった康平だった。

タケがいない分、1日2回の郵便物の仕分けと各部門への配達を全部やっているのに。その他、正社員のサポートも。

今の康平は以前とは違い、それらの業務を前向きにやっていたが、それでもイラっとしてしまった。

(・・・お前、そのことに対して、まずは謝れよな)

そういうふうに思ってはいけないと分かっているのに、思ってしまった。

「で、どう?仕事は順調?」

タケが聞く。

(・・・どの口が言ってんだ。いい加減にしろよ)

タケにしてみれば悪意のまったくない、様子を尋ねるだけの一言だったが、康平のイライラはさらに増してしまった。

「全然、順調じゃないよ、タケがまったく来ないから、俺は大変だよ。酒は飲めるのにな。困ったもんだよ」

皮肉っぽく、そして棘のある言葉を吐いてしまった。早いペースで飲んだ分、急に回った酔いがさらに、康平のイライラを助長させる。

「申し訳ないとは思っているよ。時間はかかるかもしれないけど、そのうち出社できるようになるからさ」

「その時間が・・・ないんだよ。」

「・・・え?どういうこと?」

「タケ、今のままじゃクビになっちゃうぞ。うつ病の人に『頑張れ』と言ってはダメだけど、せめてなるべく、欠勤はせずに、できる限り出勤はしようよ」

いきなり本題を切り出してしまい、かつ説教っぽくなってしまった。タケは、

「いや、障がい者雇用は企業の義務だから。大丈夫でしょ」

と答えた。ついに、康平のイライラは頂点に達してしまった。

「雇用だけしていれば良いわけじゃない。ちゃんと働いた実績がないと。タケがずっと休んでいて、障がい者社員の労働時間の積み上げが足りてないから、タケとの契約は終了して、他の障がい者社員を雇う必要があるって話に人事部でなっている」

「え・・・そうなんだ」

「というか、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて!!」

康平のめずらしく強い声に、タケが目を丸くする。

「タケ、館山さんに言ってたじゃん『もっと責任のある重要な仕事を任せられたい』って。でもこんなままでは、いつまで経っても任せられるようになれないよ!」

「・・・いや、だから休んでいるんだよ」

「・・・は?」

「会社にちゃんと気付いてもらいたいんだよ。『小竹には、もっとやりがいのある仕事を任せないと出社してもらえない』って」

「は?じゃあ・・・休職とかにしないで、毎朝、毎朝、休みの電話を入れているのも・・・」

「自分をアピールするためだよ。まあ実際、体調もあんまり良くないけど」

「・・・タケ、何を言っているんだ?館山さんに『雑用のように思える仕事の毎日であったとしても、それに穴を開けずにしっかりと欠かすことなくできる奴が、徐々に、より責任のある仕事を任されるようになるんだ』ってちゃんとアドバイスもらっただろ?なんでそんな真逆の方向に行っちゃうのさ!」

康平のイライラが伝染したのか、タケも口調が強くなった。

「俺は躁うつ病だよ?障がい者だよ?うつの時の辛さとか、分かってんの?!『穴をあけずに』なんてムリに決まってるじゃん!うつになると、起きるのも、お風呂に入るのも、メールに返信するのも、着替えるのも、普段は楽しめることも、全部、全部、できなくなるんだよ!?」

康平も同じような口調でやり返す。

「俺だって、イヤというほど味わったよ!頭は回らないし、胸は苦しいし、突然、涙は出て来るし、日常生活の何もかもができなくなるし。それを周りの人に理解してもらえないことだってたくさんあるし。同僚にも、友だちにも、奥さんにも、家族にも・・・『甘えているだけ』とか『怠けているだけ』って言われるし。辛い、辛い病気だよ!でもな?タケ!」

「・・・・・・」

「うつ病になった人が、まず覚えなければならないのは『時には逃げることの大切さ』だと思うんだけどさ。同時にさ、『うつ病を抱えていたとしても、勝負しなければならない時』だってあるんじゃないのか?それが今じゃないのか?だって、クビになっちゃうかもしれないんだよ!?」

「俺は康平とは違うんだよ!とにかく!・・・会社からもっとやりがいのある仕事を与えられない限りはムリ!出社しない!」

(・・・やってしまった)

何とかタケを再起動させる『キー』を会話の中から探っていくつもりが、自分のイライラをぶつけてしまい、タケが殻の中に閉じこもって出てこなくなってしまうような、そんな会話の運び方をしてしまった。

だが、康平は、タケのふがいなさ、タケが出勤しないことで、自分の負担が増えていることへのイライラ、そしてそれを助長させる早いペースの飲み方で、自分を律することができなかった。

「・・・ちょっと、ちょっと待ってくれ。うん、ごめん。いきなり言い過ぎた。ちょっと一服していいか」

「・・・あ、うん。俺も吸うわ。1本もらっていい?」

(買ってきておいて良かった・・・)

普段、康平はタバコは吸わないが、どうしてもイライラした時は1本だけ吸う。そうすると、少しだけ気分が落ち着く。今日はもしかしたら、必要な展開になるんじゃないかと考えて、1箱買ってきておいたのだった。

タバコをお互いに1本吸っている間、重たい沈黙が流れる。康平は少し落ち着きを取り戻した。そしてまずは謝った。

「ごめんタケ、ちょっと言い過ぎた。」

「あ、いや、俺も・・・」

「俺はさ、まだ入社して半年しか経ってないから、何とかみんなからの信頼を積み上げようとして、今の業務をコツコツ続けている。そしたらさ・・・。タケは『雑用だ!』って言うけど、郵便物の各部門への配達も、ちゃんと時間通りやらないと、総務部にも、会社全体にも迷惑がかかる、大切な仕事だってだんだんと思えてきたんだ。正直いまだに、キツく感じる時もあるけど、そんな時にでも毎日きっちりとできている俺、ちょっと偉いなーってやりがいすら感じてきたよ、ハハ」

笑いながら言うと、タケは、

「そっか。うーん、俺はもう感じないなあ。他の人がやれよって思っちゃう」

と返した。

康平はまた『カチン!』と来た。だが、『冷静に!』と自分の頭に言い聞かせた。

「じゃあさ、逆に聞きたいんだけど、『やりがいのある仕事』ってタケは言うけど、タケは総務部の仕事で何かできる仕事とか、やりたい仕事ってあるの?」

「特にないよ、俺、パソコンもろくに操作できないし、スキルとか経験もないしね」

「なんだよ、じゃあそもそもダメじゃん」

「だからさ、会社がそこをちゃんと1から教えてくれてさ。大卒の新入社員だって、最初は何もできないけど、ちゃんと会社が教育してくれるじゃん?そういうのをしっかりと、障がい者社員にも、会社が責任を持ってやって欲しいんだよね」

「・・・タケ、俺らは中途入社で、もう今年35歳になる、障がい者雇用の社員だよ?しかも、法律で、国の定めで、雇われている社員だよ?なんで会社がそこまで面倒見なきゃいけないのさ。やりたいなら、自分でスキルを上げて『こういうことができるから、こういう仕事やらせてください』って具体的に言えないと。漠然と『やりがいのある仕事をやらせて欲しい』って言われても、会社だって困っちゃうじゃん」

「そんな努力をするのはムリだよ。俺は躁うつ病だからできないし、したくない。あくまで会社が与えてくれないと」


・・・康平はもう、我慢ならなくなってしまった。

「・・・いい加減にしろよ、タケ。いくら何でもちょっと甘え過ぎた考えじゃないか?」

「でもさ、康平。可哀そうだと思わない?世の中のほとんどはみんな健常者なのに、なんで俺らだけ、こんなうつ病とか躁病とかになって、苦しまなきゃいけないの?」

確かにそうだ、と康平も思った。でも・・・

「それは確かにそうだよ。俺たちはハンディキャップを運悪く負った。別に何か法律を犯したわけでもない、特段、悪いことをしたわけじゃない。人生は不公平だよ。でも、だからと言って、そこで卑屈になってばかりいたって、何も起こらないし、変わらない。障がいがあったって、ほとんどの人は働いて生活していかなきゃいけないし、生きている以上は人生諦めるわけにはいかないんだよ!」

「何度も言うけど・・・康平には、俺の気持ちなんて分からないよ!」

「ああ、分からないよ!自分の気持ちなんて、他人は誰も分からない。自分だって自分の気持ちがよく分からない時も多いからね。とにかく、ムリはしちゃいけないけど、そういう、『人生の被害者モード』で生きていくのはやめようよ。それにさ、芹沢さんや佐々木さんのような働き方だって素晴らしいと思うんだ。会社とはある程度、一線引いて、あまり面白くはない仕事ばかりかもしれないけど、淡々とこなして、『頑張りすぎないことを頑張る』っていうスタンスで、ちゃんとやっているじゃん?体調悪い時は無理せず休んでいるけど、基本的にはちゃんと出勤している。立派な働き方だと思う。だからタケも、まずはそういう働き方で、やっぱりちゃんと出勤だけはしてみたらどう?」


康平は、淡々と細く長く続ける働き方を選択している芹沢や佐々木の話を出してみたが、タケは聞く耳を持ってくれなかった。

「俺はもっとやりがいのある仕事がやりたい。嘆いていれば、きっといつか誰かが助けてくれる!俺はそれを待つ。いつまでも、待つ!」

「そんな都合の良いことは起きない!人生はそんなに優しくない!」

「康平とはこれ以上は分かり合えないな!やっぱり康平は俺なんかとは違って優秀だから、優秀じゃない上に障がい者の俺の気持ちなんて康平には分からないよ!」

「俺も、れっきとした障がい者なんだけど!それに、別に優秀なんかじゃない!」

「もういいよ!うつ病とか、そういう障がいを持っちゃったら、人生は詰んだようなものなんだよ!誰かが助けてくれるのを待つしかないんだよ!」

康平はタケをもう呼び止める気力もなくなった。タケが席を立つ。黙って康平の横を通り過ぎると、足音が遠ざかっていった。康平は振り返ると、大きめの声で呼びかけた。

「・・・タケ!」

一瞬、タケが立ち止まる。

「・・・人はうつ病になってしまっても、人生が終わるわけじゃない」
「・・・俺は、必ず、証明する」

タケはその言葉を背中で聞いていたが、何も言わず去っていった。

(何やっているんだよ、俺は・・・。もっと、上手い言い方があっただろう・・・)

康平は1人テーブルに残りながら、頭を掻きむしった。

***日本酒***


タケが『みょうらい』を出て行ってしばらくした後、康平もお店を出た。そしてお店の向かいのガードレールにぐったりと腰を預け、しばらくうつむいていた。

「・・・高橋さん?」

聞き覚えのある声に『ハッ』として顔を上げ、声の聞こえた方に視線を向けると、そこに立っていたのは営業4部の伊達真由美だった。

「伊達さん・・・今、お帰りですか?」

「ええ、今日は上野で部門の飲み会があったんですけど、私あんまり会社の宴会好きじゃなくて。『こないだ風邪引いてまだ病み上がりなので、少し顔出すだけで』って言って、1時間で切り上げてきちゃいました」

「あ、そうだったんですね」

「高橋さんこそ、どうされたんですか?飲み会??」

「いや、総務部の小竹と飲んでいたんですけど、その・・・。ケンカになっちゃって」

「ああ、小竹さん。最近、郵便物の配達にいらっしゃらないからお休みされているのかと思っていました」

「はい、ずっと休んでいたから、何とか元気になってくれないかと思って、呼び出したんです」

「そうだったんですね。あの・・・もし良かったら、お話、聞かせてもらってもいいですか?もちろん、お話できる範囲内で構いませんので」

「え?」

真由美は『みょうらい』の方に視線を向けると、

「・・・ここで飲まれていたのですか?」

「あ、はい。障がい者雇用の同僚たちと飲む時は、いつもここで飲んでいます」

「そうなんだ。ねえ、もし良かったらこのお店に入り直しません?」

「え、でも、古い安居酒屋で、女性をお誘いするようなお店じゃないですよ」

「ウフフッ」

真由美は笑うと、

「高橋さん!私が『高級レストランとか素敵なバーじゃないとイヤ!』なんて女に見えますか?」

「いや、見えないです」

「でしょ?ウフフ。私は、高橋さんが普段使っているお店を見てみたいの。ねえ、いいでしょ?」

「あ、もちろんです。でも、体調は大丈夫ですか?まだ病み上がりですよね?」

「大丈夫!実はもうすっかり万全です。さあ、入りましょう!」

2人は『みょうらい』に入った。店長は康平が違う人を連れてまた入ってきたので、少しだけ『あれ?』という顔をしながらも、何ごともなかったかのように『いらっしゃいませ』と声をかけ、2人を席に案内した。

店は少し込み合っていたので、入口の近くの席だった。2人がお酒を注文すると、込み合っている割には、すぐに注文が運ばれてきた。

「じゃあ、乾・・・」

と言おうとしたその瞬間、横開きのお店のドアが『ガラララッ!』と強く乱暴な音を立てながら開いた。

康平は『えっ?』と思わず声を出し、目を見開いた。そこにいたのは、営業5部の石川幸弘だった。

康平が台車を引いてエレベーターに乗っていた時に乗り合わせ、

『落ちぶれた奴』

と見下し、馬鹿にしてきた入社6年目の営業5部のエリート社員だ。

真由美は何ら動じることもなく冷たい目線を送っている。すると石川は、

「・・・伊達さん、何でこんな奴と、こんな店で、2人で飲んでいるの!?」

と明らかにイラついている声で問いかけた。

「・・・こんな奴?こんなお店?相変わらずだね、石川くん。別に私が誰と、どのお店でお酒を飲んでいようと、勝手でしょ!?」

意外なまでの真由美の鋭い口調に、康平の姿勢が思わず少し後ろにのけぞった。

石川は眉間に寄せていた皺をもとに戻しながら一度目線を逸らし、深呼吸をすると、今度は一瞬、短く鼻で笑いこちらを見た。

「・・・まあ、それはそうだけど。これだけは言っておくよ。そいつは嘱託社員で給料も激安の貧乏人だよ?どう、そそのかされたのかは知らないけど、そんな奴とは関わらない方がいいと思うけどね。まあ今日のところは失礼するよ」

と捨て台詞を吐き、また『ガラララッ!』と強く乱暴な音を立てドアを開き、外に出ていった。

「高橋さん、本当にごめんなさい。あいつ、信じられない。ありえなさすぎる・・・」

弱々しい声で頭を下げた。康平は慌てて、

「あ、気にしないでください。彼には前に一度、口撃されたので『ああ、またか』くらいの感じでしたよ。たまにいるタイプなので、まったく平気です」

と笑いながら返した。

「・・・彼、伊達さんに気があるんですかね」

「石川君は同期なんです。入社2年目くらいの頃から時折、アプローチしてきてて」

「・・・伊達さんの嫌いそうなタイプですね」

「本っ当に!ああいうエリート然とした奴、本当に嫌いです!ギャンブル狂いだし」

「ギャンブル?」

「そうなんです。もう一人、ギャンブル好きの同期社員がいるのですが、その人と毎週、競馬だのパチンコだの麻雀だの・・・遊びまわっているって噂です」

「へー、そうなんですね。ホント、伊達さんは嫌いそうですね」

康平は笑うと、

「僕は本当に、まったく気にしてないんで。伊達さんもお気になさらないでください。さ、乾杯しましょう」

「そう言っていただいて、本当に救われます。じゃあ、気を取り直して・・・乾杯」

と、真由美が笑顔に戻ってくれたので、康平はホッと胸をなでおろした。

「・・・あ、そうそう。小竹さんとのお話。何があったんですか?」

「そう、実は・・・」

康平はタケとの会話の内容を真由美に話した。先ほどの記憶がよみがえり、うつむきながら自分の膝を見つめた。

「説教をする気などなかったし、もちろん、ケンカなんてする気もなかったんです。でも、最後には結局、ケンカ別れで終わってしまった・・・」

「小竹さん、ご病気を持たれていることは本当にお辛いかと思います。私なんかでは到底、理解できないくらいの苦しみを抱えていらっしゃるとも思います」

「僕は以前、伊達さんと少しお話をしただけで、すごく元気が出てきました。僕もあいつを元気づけようと思って、呼び出して話したら、彼の言葉に『カチン!』と来て、ベラベラ喋った挙句、あいつをさらに追い詰めてしまいました。自分が嫌になります、本当に」

「・・・でもね、高橋さん」

康平が力なく真由美の目を見ると、真由美は穏やかに、でも芯の強さを感じさせる声色で、話し始めた。

「確かに今回、ケンカ別れになってしまったことは、一見すると悪い結果のように見えます。小竹さんはもうこのまま、会社をお辞めになるかもしれません。でもね、それは人間のちっぽけな頭だけで考えて『悪い結果』なだけで、必ずしもそうではないかもしれないですよ」

「え?・・・どういうことですか?」

「スマートバイト社は小竹さんのお力を発揮できる場所ではなかったのかも。小竹さんもいずれは再就職されるでしょう?もしかしたら、その再就職先がすごく合っていて『今、振り返ればあの時、ケンカ別れして、会社を辞めることになって本当に良かった』となるかもしれないですよね。もちろん、同じような結果を繰り返してしまう可能性もありますけど」

「・・・確かに」

「それに、高橋さんにとっても、小竹さんが会社をお辞めになった後、職場で何らかの変化が起きてくるかもしれません。それが良い変化で、高橋さんにとってプラスになって、小竹さんは小竹さんで、違うところで力を発揮し活躍している。そうなる可能性だって、あるかもしれないじゃないですか」

「・・・おっしゃる通りです」

「そうしたら、いつか再会して『あの時はお互い、最悪だと思っていたけど、今振り返ると、ケンカになって良かったよね』って笑い合えるかもしれないじゃないですか。もちろん、そうならない可能性だってありますけど・・・。でも、未来がどうなるかは誰にも分からない」

「・・・・・・」

「起きた“現象”の良い悪いを、人間のちっぽけな頭だけで決めつけるべきではないと思うんです。だから私は、悪いことが起きた時はむしろ『一見、悪いことのように思えるかもしれないけど、きっと長い目で見ればこれが最善の結果なんだ』って考えるようにしています。いつか将来、振り返って、その時、初めて『あー、あれで良かったんだ。正解だったんだ』って分かる日が来る、みたいな。そう考えた方が、精神衛生上も良くないですか?」

「・・・・・・」

康平は全身が震えるような感覚を覚えた。何かを言おうとしても言葉が詰まり、声を出すことすらできなかった。伊達真由美という女性に神秘ささえ感じた。石川が惚れるのもよく分かる。

(まだ20代後半くらいのはずだと思うのに、どうしてこんなことが言えるんだろうか・・・)

と思った。

「小竹さんも、きっと次の職場では大活躍されますよ。いつか、また笑い合ってお話できる日も、きっと来ます」

微笑みながら真由美が言う。その言葉は康平の涙腺を一気に緩ませ、溢れ出てくるものを堪えるのに必死になってしまった。

「・・・伊達さん、ありがとうございます。でも、もうこれ以上は泣いちゃいそうでダメです」

何とか涙ではなく、笑顔で返すことができた。

「・・・少し、元気出ました?」

「はい、とっても。ありがとうございます」

「ウフフッ。良かったー!そしたら、高橋さんの今までの話も聞かせてくださいよ!」

「僕の今までの・・・ですか?」

「はい、話したくないことは話さなくていいですから、高橋さんのお話を、たくさん聞かせてください」

「分かりました。そうしたら、伊達さんのお話も聞いていいですか?」

「もちろん!じゃあ今日この後は、明るくいきましょう!あ、それとそろそろ2杯目いきますか?もしお嫌いじゃなければ、日本酒を飲みませんか?」

「日本酒?お好きなんですか?」

「はい、日本酒が大好きで。女友達との飲み会ではよく『日本酒好きのおじさん』って言われます。ウフフッ」

「ハハ、おじさんにしては美人すぎるな。僕も好きですよ、日本酒」

「ホント?嬉しい!じゃあ、選びましょう!」

そうして選んだ宮城県産の日本酒を頼むと、楽しいひとときが過ぎていき、最後に連絡先の電話番号とメールを交換した。駅まで真由美を見送ると、康平も帰路についた。

このまま1人で帰っていたら、また落ち込み過ぎて、自宅で良からぬ行動を取っていたかもしれないと思うと、真由美に命を救われたような気さえした。

(タケとはいつか、笑い合える日が来る。きっと来る)

真由美が言ってくれた言葉を思い出して、康平はその日、何とか落ち込まずに眠りにつくことができた。

翌日以降も、タケは引き続き会社を休んだままだった。康平は事の顛末を真田と館山に報告した。

「これは仕方ないね。康平が悪いわけじゃないから気にするな」

2人は半ば諦め気味に呟き、数日後、スマートバイト社は、選考を進めていた障がい者社員1名の雇用が新しく決まり、タケには翌月末を以て契約終了の旨が告げられた。

タケは会社を去ることになった。
康平は、結局は自分がその決定打を打ってしまったことに強い責任を感じていた。胸が苦しくなるたびに、

「起きた“現象”の良い悪いを、人のちっぽけな頭だけで決めつけるべきではないと思うんです」

という真由美の言葉を思い出しては、罪悪感で心が折れそうになるのをこらえていた。

それと同時に、新しい障がい者雇用の社員が入ってくることで、自分は少しステップアップでき、そろそろ他の仕事も回ってくるのではないかとも思い、少しながらも期待していた。

しかし、その期待とは裏腹に、新しい障がい者雇用の社員は、総務部への配属ではなく、西口と同じ経理部となった。1日2回の郵便物の仕分け・各部門への配達は、引き続き康平一人の仕事となった。

康平は

(ウソだろ・・・)

と正直、思った。

でも、人事部としても、タケ抜きで康平が一人で仕事をしっかりと回していたので

『総務の嘱託社員は高橋一人で問題なし』

他の部に割り当てよう、という結論になったのかもしれない。

(それはそれで、会社から少しでも評価された、ということじゃないか。ようやく1歩、前進できたと考えよう。きっとタケの件も含めて、『これが実は1番良い結果だったんだ』と言える日が、きっと来る)

そう信じて、康平は引き続き目の前の業務に励んだ。とはいえ・・・

(入社時の条件面談で、人事部の田村部長は、正社員登用の条件として「正社員と同等の成果を出せば、可能性はある」と言った。でも、正社員の担当する仕事を任される機会がなければ、同等の成果を出すための土俵にも上がれない。徐々に総務部のみんなからの信頼は積み上がってきたと思うけど、これから先をどうするべきか・・・)

という悩みがまた大きくなってきた。

さらに、徐々にではあるものの、精神的な調子が悪くなってきていることに、気付いた。

康平が今までうつ病を発症したのは、いずれも仕事中だった。いきなり全身の電源が『バツンッ』と落ちたような感じになって、仕事が何も手につかなくなった。

そうなる前には・・・康平特有の症状なのかもしれないが・・・胸の中に重たい鉛があるような、そんな違和感と苦しさを覚えてきて、それがだんだんと大きくなり、ついには頭がボーっとしてきて、呼吸も苦しく感じる日々が続き、ある時いきなり『バツンッ』と電源が落ちた。

その『胸の中の鉛』が、まだ小さいとはいえ、あることに気付いた。

(これは・・・ちょっと危なくなってきた。3度目の再発をしたら大変なことになるし、でも、ここで何日も休んだりしてしまったら、今まで積み上げてきたものが崩れ落ちてしまうかもしれないし・・・)

そんな想いを抱えながらも、騙しだましやり繰りしているうちに、2か月が経過した。このあと、事態は急展開を迎えることになる。

第三章



***事件勃発***



「常務!常務!・・・至急お話したいことが!よろしいでしょうか!?」

「どうした?」

「・・・ここではちょっと。会議室へ」

いつも冷静な人事部門長の田村が慌てふためいて、西山の座っている総務・人事本部門長席へ駆け寄ってきたのは、2014年7月のある晴れた月曜日の朝だった。

田村は西山を連れて、近くの会議室へ急いで入っていく。人事部・総務部の社員たちがそのただならぬ様子を察し、2人へ視線を送っていた。

『何かがあったのだろうか?』

という怪訝な顔をしながら。

しばらく時間が過ぎた後、田村が会議室のドアから出てくると、

「真田課長!清寺課長!館山課長代理!いいですか?すぐに!」

と声をかけた。まだ慌てふためいている様子だ。

3人も急いで会議室へ駆け込む。
どうやら、かなり緊急の事態が起きていることを周囲にいる社員たちは察した。

10分ほど経過し、会議室へ入っていた5人が出てくると、西山を先頭に14Fオフィスフロアの出入り口の方へ向かい、急いでドアを開け、姿を消した。

その様子を緊張の面持ちで見ていた人事部・総務部の社員たちが
『なになに?なにかあったのか??』
とざわつき始めた。

5人が向かった先は、1つ下の階にある社長室だった。社長の豊中を含めた6人で、緊急の会議が始まった。

「どうした。何があった?」

慌ててやってきた5人を社長室に鎮座する豪華なソファに座らせると、西山が切り出した。

「実は・・・求人サイト『バイトへGO!』の登録者情報が漏洩した可能性があります」

「登録者情報・・・個人情報漏えいか!経緯と詳細を話せ!」

西山が田村を促す。

「田村、まずは経緯を説明しろ」

「はい。今朝、私だけが見られる『社員相談窓口』のメールアドレス宛に、匿名の内部告発メールが届いていました」

「匿名の内部告発?内容は!」

「それが・・・『バイトへGO!』登録者の個人情報を外部の名簿業者に密売している社員がいる、と」

「密売!?その社員とは・・・一体、誰なんだ!?」

「それが・・・営業5部の石川幸弘・・・だと」

・・・容疑者は、あのエリート社員、石川だった。

「石川が?まさか!『バイトへGO!』の登録者数は約800万人だぞ。漏洩した個人情報は何件だ!」

「それが・・・告発メールの内容にはそこまでの記載はありませんでしたが『確固たる事実ですので、調査すれば分かります』とだけ書かれていました」

「まだ真偽の方は分からないわけだな」

「はい、ですがこの内部告発が事実である可能性もありますので、取り急ぎ、社長にご報告を、と」

西山が田村の話を引き取る。豊中は腕組みをしてしばし沈黙し、やがて口を開いた。

「これが事実だったらとんでもないことになるぞ・・・。まず、この告発情報の真偽と詳細を大至急、調査しろ!一秒でも早くだ!もし事実だった場合は・・・西山常務、個人情報漏えい時の緊急対応のフローは整備されているんだろうな?まず、何をどうするんだ?」

「・・・いや、はい・・・」

「もう数年前から各種緊急事態の対応マニュアルを整備しろと言っていたはずだ!!!」

「あ、いや、はい。大丈夫です。まだ最終完成はしておりませんでしたが、ほぼ出来上がっていますので・・・」

「担当部門は総務部だったはずだな。真田!まずは何をするんだ!」

「・・・・・・」

「貴様ら!!」

「いや!大丈夫です、社長!まずは田村の方でこの内部告発情報の真偽を大至急、調査し、事実であった場合にはすぐに対応できるように、私と真田、清寺、館山で全てを適切かつ迅速に手配しますので、どうかご安心ください!!」

「・・・場合によっては、お前らのクビも飛ぶぞ!わかったな!!」

「・・・かしこまりました!」

5人は深く頭を下げ、社長室を後にした。

攻めの経営で営業成績を右肩上がりに伸ばしていたスマートバイト社だが、インシデント(緊急の事件や事故)に対する備えは、意外なほど置き去りにされていた。

数年前から豊中より西山に、各種緊急事態発生時の対応マニュアル整備の指示は出ていたが、豊中自身、そこまで意識が高くなく、西山に進捗状況を確認することも1年に1~2回ほどであった。

一方の西山も、総務部の管理職である真田、清寺、館山に作成の指示はしていたものの、3人もどう作成すれば良いかよく分からず、それらの整備はほとんど進んでいないままだった。

同様に西山も豊中からほとんど催促されることもなかったため、個人情報に関しては、プライバシーマーク(事業者の個人情報の取扱いが適切であるかを評価し、基準に適合した事業者に”Pマーク”の使用を認める制度)の取得など、事業を行う上で必要最低限の施策しか取っていなかった。

こういう緊急事態が起きた場合に、『誰が何を、どの手順でどうすれば良いか』を誰もが分からなかった。

5人が14Fのオフィスフロアに戻り、また会議室に籠る。
西山は

『なんでこんなことが起きるんだ!!!』
『早く対応マニュアルを整備しろと言っていただろ!!』
『お前ら何をやっていたんだ!!!』
『社長の前で恥をかかせおって!!!』

とひとしきり喚き散らし、ようやく落ち着きを取り戻してくると、

「・・・まず、何をどうするか、だな。とりあえず、内部告発の真偽を調べなければ、だ。田村、すぐに動け!」

「分かりました。でも、何をどうすれば・・・」

「自分で考えろ!真田と清寺、館山は、この告発が事実だった場合の対応方法を大至急、考えろ!大至急だ!!」

「・・・はい」

力なく4人が答える。

そうは言っても、何をどうすれば良いのか。絶望感が全員を重たく包む。その時、田村がふと思いついたように言った。

「そういえば・・・嘱託社員の高橋くん、リスクマネジメントのコンサルティング会社に在籍していましたよね」

真田が続く。

「康平くんは5年くらい在籍していたって言っていました。個人情報漏えい事故の対応経験があるかは分かりませんが」

「・・・・・・」

館山は何も言わなかった。

西山が腕を組み、何ごとかをしばらく考えていたが、やがて口を開いた。

「仕方ない。どこまでできるか知らんが、あいつを使うか。おい館山、高橋を今すぐ呼べ!」

「・・・・・・」

「館山、どうした?早くだ!早くしろ!!」

「分かりました。少しだけ、5分だけ彼と話す時間をもらっても良いですか?」

「5分?なんだか分からないが、早く話してこい!」

「・・分かりました」

館山が会議室から出てきた。総務部員、人事部員が緊張の面持ちで館山に視線を送る。館山は康平の席の前にやってくると、

「康平、今ちょっといいか?屋上にいかない?」

「え?・・・あ、はい、分かりました」

康平は答え、黒須美津子に席を外す旨を告げると、2人で屋上に向かった。

屋上に着くと、館山は人の気配がないことを確認し、さらに奥の方のベンチに座ろうかと康平を促し、そこまで行くと、2人で並び、座った。

「館山さん、なんか・・・もしかして、大変な事態が起きています??」

「・・・そうなんだ」

館山が事情を説明した。

「・・・個人情報漏えいの内部告発ですか。営業5部の石川さんが容疑者・・・」

「康平、リスクマネジメントのコンサル会社にいたって言っていたよな?」

「・・・はい」

「実はウチ、これだけ大量の個人情報を扱っているのに、漏えいした場合の緊急対応マニュアルが最低限しか整備されていないんだ。総務部の仕事なんだけど、日々の業務に忙殺されていて、ほとんど進められていなかった」

「攻めの経営で、業績が右肩上がりの会社では、案外、守りがおろそかになっているケースがありますよね」

「もしこの話が事実だった場合、対応を1つでも誤ると世間から大バッシングされ、社会的信頼を一気に失い、会社が吹っ飛ぶ可能性すらある」

「・・・はい」

「康平、この手の対応したことある?」

「業界は違いますが、リスクマネジメントのコンサル会社にいた時、クライアント企業が個人情報漏洩事故を起こして、先方まで行って緊急対応をした経験があります」

「マジか。いや、渡りに船なんだが・・・多分、これってしばらく激務になるよな?」

「そうですね、もし漏洩数が相当あって、謝罪会見などになれば、しばらくは自宅に帰れないかもしれないですね」

「だけど康平。今、ちょっと精神的な調子、崩れ気味だよな」

「あ、館山さん。気付かれていましたか」

「康平のことは良く分かっているつもりだからな」

「ありがとうございます。実は・・・まさにその個人情報漏えい事故の緊急対応で三日三晩、クライアント企業に泊まり込みで作業して、それでうつ病を再発して・・・最終的に退職となりました」

「そうだったのか。ダメだ、やっぱり。ムリはさせられない。今回もそれで再発してしまったら元も子もない。今の話は聞かなかったことにしてくれ、すまん」

館山が席を立ち入り口の方へ歩き始めたところで、康平が声をかけた。

「・・・いや、館山さん・・・。僕、やらせていただけるのであれば、やりますよ」

「ダメだ。再発して休職とかになってしまったら、クソ経営陣たちに康平の正社員登用の可能性が吹っ飛ばされてしまう可能性がある」

「・・・いや、やります。最悪、もうそうなっても良いです」

「良くないだろ。今まで、こんなにじっくりと信頼と実績を積み上げてきたのに」

「いや、なんだろう・・・僕、総務部のみなさんだけでなく、この会社が好きなんです。正確にはこの会社の社員の皆さんかな。ホント、みんな良い方ばっかりで」

「・・・・・・」

「もし社員の皆さんを守れるのに少しでも貢献できれば、これ以上、嬉しいことはないです。多分、そんな前向きな気持ちでこの緊急対応に取り組めるから、多少ムリをしても、再発の心配は少ないんじゃないかなって勝手に楽観視しています」

「・・・・・・」

「館山さん、緊急の事故は初動が最重要です。急ぎましょう」

「・・・分かった。ありがとう、康平。だが、絶対にムリだけはしないでくれ。それだけは約束してくれ」

「はい、約束します」

「この緊急対応が無事に終わったら・・・」

「・・・はい?」

「俺は西山に康平を正社員登用するように直談判する。刺し違えてでも納得させる」

「ありがとうございます。アハハ、ますます、燃えてきました!」

「よし、行くか!あっという間に片づけてやろうぜ!」

「はい!!」

二人が屋上から階段で14Fへ降りてきてオフィスフロアに入ると、真田が待っていた。

「館山さん!康平くん!社長がいてもたってもいられなくなったみたいで上がって来た。取締役営業部本部長の増田さん、取締役メディア事業統括本部長の岩下さん、社内システム部長の山田執行役員と、広報部の杉浦部長も入ったから、あっちの大会議室に移ったよ」

「真田、了解!すぐに行こう!」

「はい!・・・康平くん、大丈夫かい?体調」

「え?」

「・・・真田も気付いていたのか」

「はい、館山さん。康平くんとはもう付き合いも長いから、見ていれば何となく分かります」

「すみません、ご心配をおかけして。大丈夫だと思います」

「ムリだけはしないで。一番大切なのは、自分だから」

「ありがとうございます、真田さん」

3人が大会議室に入る。社長の豊中を始め、役員クラスの各経営陣が康平の姿を見た。豊中が康平に尋ねた。

「君が高橋くん、か」

「はい。はじめまして。高橋康平と申します」

「リスクマネジメントのコンサル会社にいたっていうのは本当か?この手の事故の対応経験はあるか?」

「はい。5年間ほど在籍していました。その時に一度だけ、取引先のクライアント企業で個人情報漏えい事故が起きて、急遽、先方で対応したことがあります。この緊急対応が、専門中の専門というわけではありませんが」

「・・・この場の仕切りを、任せていいか?」

「分かりました」

今、この会議室にいるメンバーは、豊中社長、管理本部統括の西山常務取締役、取締役営業部本部長の増田、取締役メディア事業統括本部長の岩下、山田執行役員社内システム部長、田村人事部長、杉浦広報部長、そして総務部真田課長、清寺課長、館山課長代理、康平の11名だった。

この11名を取り急ぎ

「アルバイト求人サイト『バイトへGO』登録者個人情報漏えい事件緊急対策本部」

として立ち上げることとなった。

早速、康平が口火を切る。

「最初に我々が心に留めておかなければならないのは、『どうすれば当社が受けるダメージを最小限に防げるか』といったことはではなく、漏洩した個人情報が悪用されることによって引き起こされる『二次被害』をどうやって最小限にとどめるか、です。間違っても『どうやってごまかすか』とか『どう上手く隠ぺいするか』などは考えないでください。その方が、結果的に当社が受けるダメージも少なくなります」

「・・・なるほど、確かにその通りだ」

豊中がうなずく。

「まず・・・清寺課長は、顧問弁護士、光浦弁護士でしたっけ?には連絡されましたか?」

「いや、まだだった」

「取り急ぎ、社員の不正持ち出しによる、個人情報漏えい事件が起きた疑いがある旨、連絡を入れていただいてもよろしいでしょうか。この内部告発が事実で、石川氏が個人情報を渡した名簿業者の社名が判明した場合、即座に“不正競争防止法等”の法的根拠に基づいて、入手した個人情報の利用中止と差し止めを図ってもらうことができますので」

「了解した」

急いで清寺が会議室を出て行く。

「次に・・・『営業5部の石川幸弘氏が登録者情報を不正に持ち出し、名簿業者に密売している』という匿名内部告発の真偽を、大至急、確かめなければなりません。取り急ぎ、石川氏が営業で外回りに出てしまう前に、社内に残るよう指示を出していただきたいです」

「多分、まだ朝礼やっているはず。俺が営業5部へ行ってくるよ」

館山が申し出た。

「館山さん、その際、石川氏のノートPCも押収してきてもらえませんか?あと、事情を話すのは部門長だけにして、他の社員にはまだ口外しないようにお伝えください。万一、共犯者が近くにいたらマズいので。石川氏が捕まえられたら、14Fの空いている会議室などで待機させて、入口のドアはあけて、誰か見張りを付けておいてもらってもいいですか?気配を察して証拠隠滅などをされたら困るので」

「OK、分かった!じゃあ、行ってくる!」

館山が会議室を出ていく。康平は礼を述べた後、山田執行役員社内システム部長に向かって話を続けた。

「山田部長、一人の営業部員が『バイトへGO!』登録者情報のデータベースにアクセスできることはあるのでしょうか?」

「ええ、各営業部に登録者情報のデータベースにアクセスできるPC端末が1台ずつ置いてあります。しかし、それらは、大きなデスクトップPCで、施錠付きの鋼線ワイヤロープで固定してあります。持ち出しは不可能です。もちろんデータベース内にある情報は閲覧だけが可能で、ダウンロードもプリントアウトも、コピー&ペーストすることもできません。情報の持ち出しを防ぐために、USBメモリ等を差し込むこともできないようになっています」

「データベースの管理者権限のあるID・パスワードがあれば、そのPC端末にデータベースをダウンロードしたり、プリントアウト、コピー&ペーストをしたりすることはできますか?」

「それはできますが・・・管理者権限のあるID・パスワードを持つのは社内システム部員だけです・・・あっ」

山田と同時に、全員が『まさか』という顔をした。

「石川に管理者権限のあるID・パスワードを教えた、言ってみれば『共犯者』が社内システム部内にいる・・・ということか?」

豊中が目を丸くしながら呟いた。康平が話を進める。

「山田部長、営業5部の石川幸弘氏の同期入社の人間はいますか?」

「彼は確か、入社6年目・・・」

田村が呟くと、山田が思い出したかのように

「・・・入社6年目だと、内村です。内村和成。入社以来、ずっと社内システム部です」

「いや!ですが・・・」

何かを疑問に思ったか、田村が皆に問いを投げかけた。

「2人がそんなことをする『動機』はありますか?2人とも社内評価は高いし、将来を嘱望されている若手有望株です。そんな犯罪行為をする理由が見当たりません」

「・・・まず、石川幸弘氏は、大のギャンブル好きという噂があります」

「・・・え!!?」

誰もが知らなかったことを康平が告げると、皆が絶句した。

「郵便物の配達で社内の各部門を回っている時に、そんな噂を耳にしました・・・あ!ちょっとだけ、1分だけ待ってもらえますか?ちょっと出ます。すみません」

康平はそう言い残して会議室を出ると、携帯電話を取り出し、電話をかけた。かけた相手は・・・真由美だった。

「・・・え?もしもし、高橋さん?驚いた」

「業務中に突然すみません。すぐ終わります。1つだけ教えてください。前に営業5部の石川さんが、同期の1人とギャンブル仲間ってお聞きしましたが・・・その同期の1人って、社内システム部の内村和成さんって人ですか?」

「うん!そうそう、内村くんです。もしかして、何かやらかしました?あの2人」

「・・・今はまだ詳しく話せないけど、かなりやらかした可能性があります。あの、この情報、経営陣に伝えても良いですか?もちろん、伊達さんの名前は一切出しません」

「うん!もちろんです。私の名前、出しても大丈夫ですよ」

「ありがとうございます。でも極力、出さないようにします」

「ねえ、高橋さん・・・今、経営陣の人たちといるの?」

「そうなんです」

「そうなんだ・・・まだよく分からないけど・・・高橋さん、ファイトね!」

「うん、ありがとう。業務中にごめん。また」

「うん」

康平は電話を切り会議室に戻ると、皆に報告した。

「やっぱりでした。内村氏は、石川氏とギャンブル仲間のようです。」

『え!』と皆がまた絶句する。

「・・・高橋くん、その情報は、誰から?」

田村が問いただしてきたが康平は、

「名前は言えませんが、彼らの同期の社員です。なので、信ぴょう性は高いと思います」

と濁した。幸い、それ以上は追求されなかった。

「まさか・・・内村が・・・」

入社以来、社内システム部で彼を手塩にかけて育ててきたのであろう。山田がうなだれた。

「山田部長、ちなみに、内村氏はどんな性格ですか?」

「性格?彼は、仕事は早いし正確だけど・・・どちらかというと、内向的で気弱な性格、かな。まさかあいつがギャンブル好きだったなんて・・・」

「・・・良かった。石川さんよりは、落としやすい」

「・・・??」

皆が怪訝な顔をして康平を見つめる。

「皆さま、よろしいでしょうか。先ほど申し上げました通り、まずは大至急、匿名告発の真偽を確かめなければなりません。ですが、まだ確固たる証拠がありません。あくまで状況証拠になりますが、1つ目は、石川氏による求人サイト『バイトへGO』登録者個人情報密売の内部告発があったこと。2つ目は、石川氏が登録者情報を抜き出すには社内システム部の誰かが、管理者権限のあるID・パスワードを教えるのが必要なこと。3つ目は、2人が同期でギャンブル仲間であること。もしかしたら、大損などを出して、お金に困っているのかも。この3つを内村氏に突き付けて、さらにこれからサイバー警察にも相談する予定である旨も伝えて、もし彼が本当に共犯者なのであれば、何とか自白を取りたいです。内村氏からの自白が取れれば、石川氏も認めざるを得ない。なんとかそこまで持っていきたいのですが」

「・・・なるほど、勝ち気な石川だと、『あくまで状況証拠ですよね』とでも言い張りそうだが、気の弱い内村ならその3つを突き付ければ、自白する可能性は高い。共犯者ではなかったとしても、何らかの事情を知っている可能性は高い。それが聞き出せる。そしてもし内村が『自分は共犯者だ』と自白したとすれば、それは石川の容疑も固める確固たる証拠となる、ということか」

豊中が話をまとめると、康平は、

「はい、強引ですが。でも、ここでグズグズしているうちに、外部の誰かから『個人情報が漏えいしているのではないか』と指摘されて世間に発覚したとなるよりはマシです。それだと、事実はどうあれ『あの会社は不祥事を隠ぺいしようとしていたのでは』という印象を与えてしまうので、社会的信頼が大きく損失するリスクが高まります」

「・・・確かに。それはダメージが大きすぎる」

「はい、社長。なので1秒でも早く内部告発の真偽を確かめて、真実であれば、また深刻な内容であれば、できる限り早急に、会社側からの公表も検討するべきです。どのみち、『不正の目的を持って行われた個人データの漏洩』は個人情報委員会を含めた各種機関に報告する義務がありますし」

「分かった。内村の取り調べは、社長である私と、西山常務取締役と、増田取締役営業部本部長、田村人事部長、そして山田執行役員社内システム部長の5名で行おう。山田、今すぐ内村を社長室へ連れてきてくれ」

「かしこまりました。皆さま、ご迷惑をおかけし本当に申し訳ありません。すぐに内村を連れて社長室へ向かいます」

山田が言い終わるとすぐに康平は、

「山田部長、その際、内村氏のノートPCも念のため、押収してください。また、誰か他の社員に、まだ事情は話さずに、石川氏、内村氏が不審な時間帯に『バイトへGO!』の登録者情報のデータベースにアクセスしていないか、アクセスログをチェックする指示を出してください」

「・・・了解した」

うなだれながら、山田が会議室を後にした。

「よし、俺らは早速、社長室へ行こう。自白したら何を確認すればいいかな、高橋くん」

「はい、もし自白したら、漏えいした時期・回数、どの名簿業者に密売したのか、犯行に至った動機、氏名や電話番号など漏えいしたデータ項目、件数、どうやってデータベース閲覧用のPC端末から抜き出したのか。まずはこれらを確認してください。あと、共犯者が石川氏・内村氏以外にいないかも必ず確認してください。今、メモをお渡しします」

「了解した。その後の対応は?」

「まずここに残る我々で、最悪の事態、すなわち漏えい件数が膨大であること、さらに漏えいした個人情報の悪用が起き得る状況であるという想定の上に、その後の対応方法を整理しておきます。もし報道機関へのプレスリリースを出すことになれば、問合せの電話が殺到しますので、窓口を決めて対応マニュアルも作成しなければなりません。当社はCMも頻繁に打っていますので、内容次第では、TVのニュース番組などでも取り上げられる可能性もあります。記者会見、というか謝罪会見を開くことになるかもしれません」

「なるほど、厳しい局面だな。分かった」

豊中、西山、増田、田村も会議室を後にした。その後、しばらくすると、館山が戻ってきた。

「石川、いたぜ。今、14Fに連れてきて、会議室に入れたよ。ウチのラグビーマン、北沢を見張りにつけた。ノートPCも押収してきたよ」

「館山さん、ありがとうございます!」

「社内システム部の内村が山田部長と社長室の方へ向かって行くのを見たよ」

館山は、詳細を聞くと、

「そうか。内村、いいやつなんだけどな」

と寂しそうに呟いた。

信頼していた仲間たちが裏切り行為を働いていた、というのはとても辛い。だが康平たちにできるのは、一刻も早くこの問題を解決するために全力を尽くす事しかなかった。

「おそらく内部告発は事実な予感がします。個人的に、気になるのは・・・」

「・・・ん?何が気になるんだ?康平」

「あ、いや。一体、誰が内部告発したんだろう?と思って」

「そうだな。あんまり推理小説みたいに複雑化しないで欲しいものだな」

***解明***



事態はそれから1時間もしないうちに、また大きく動いた。西山から真田に

『内村があっさり自白した。石川は社内にいたか?すぐに社長室へ連れてこい!』

という電話が携帯に入った。 

早速、館山が石川を連れていくと、石川も、もはや言い逃れはできなかったようだ。また真田に連絡が入り、『全員、社長室へ来い!』と呼び出しがあった。

岩下取締役メディア事業統括本部長、杉浦広報部長、真田、清寺、館山、そして康平は急いで社長室へ向かった。到着すると、石川、内村はすでに別の部屋に移されていた。

「だいたい分かったよ」

豊中が皆に告げる。

「高橋くんの情報と推測通り、石川と内村はギャンブル仲間で、特に石川は最近、やたらと大金を使うようになり、短期間で300万円の借金を負ったらしい」

「300万円・・・」

「それで、異業種交流会で知り合った『リーク・グレイス社』という名簿業者の社長である鈴木という人間と裏取引をして、求人サイト『バイトへGO!』の登録者個人情報を密売する約束をした。ただ、登録者のデータを各営業部に置いてあるPC端末にダウンロードするのには、管理者権限のあるID・パスワードが必要だったため、それを知っている内村に教えるよう迫った。内村は、一度は断ったが、気の強い石川に逆らえず、教えてしまった」

山田部長が続ける。

「登録者のデータをPC端末にダウンロードしても、USBメモリなどに移して外部に持ち出すことは不可能な仕組みになっていますが・・・抜け穴がありました。スマートフォンです」

「スマートフォン?最近、流行り出した新しい携帯電話か」

「はい、スマートフォンをPC端末に接続すると、そのスマートフォンに登録者データが移行できたみたいで。それを使って外部に持ち出したようです。そこの対策が抜けていました。大変申し訳ありません」

2014年頃は、スマートフォンが登場し、一気に流行り出した時期だった。

康平が質問を挟む。

「名簿業者『リーク・グレイス社』とのやりとりはいつ始まって、何回、受け渡しをしたのでしょうか?密売した登録者個人情報の件数は?あと、共犯者は2人以外に他の人間はいましたか?」

「今回、初めての取引だったようだ。名簿業者リーク・グレイス社の鈴木に受け渡しをしたのは昨日の夜2時頃。件数は・・・10万件だ。共犯者は他になし、だ」

「10万件・・・」

かなりの件数であることに、取り調べ後、社長室にやってきた全員が驚愕の表情を見せ、青白い顔をしていた。康平が続ける。

「10万件・・・。アルバイト求人サイト『バイトへGO!』には約800万人の登録者がいますが、初回取引ということで、まずは10万件を渡した、という感じでしょうか?」

「そうだ。今回初めての取引だったので、ちゃんと入金してもらえるかどうかなどを確かめるために、その件数から始めたらしい」

「漏洩した個人情報の内容は分かりますか?」

「登録者の氏名、電話番号、メールアドレス、生年月日、性別、住所、現在の職業、顔写真、簡単な職務経験、最終学歴、資格・・・といったところだ」

「念のため確認ですが、クレジットカードなど決済関連の情報はないですよね?」

「ああ、決済関連情報はそもそも『バイトへGO!』では収集していない」

「ありがとうございます。ところで・・・昨日の夜2時に受け渡しをして、今日の朝に社員相談窓口に匿名の内部告発メールが届いていた・・・もしかして匿名の内部告発者は・・・」

「・・・ん?」

「・・・内村氏、ですか?」

「・・・ああ、その通りだ」

(・・・え?)

また皆が押し黙る。豊中が続ける。

「内村は石川に管理者権限のあるID・パスワードを渡し、内村から『名簿業者に登録者データを渡した。報酬が振り込まれたら、分け前を払う』と連絡を受けていた。それで犯行がいずれ発覚するのではという恐怖と、良心の呵責に苛まれたようだ。激しく後悔し、思わず社員相談窓口に匿名で告発メールを送った、というわけだ」

さらに豊中は続けた。

「この後、13時から臨時取締役会を開き、この案件の報告をする。『二次被害の可能性がある』というのを前提に話を進めると、社員にも伝えなければならない。明日の朝9時に、各支店と各営業所をテレビ会議で繋ぎ、本社地下大会議室で、緊急社員総会を開催する。それでいいか?高橋くん」

「分かりました。ただし、まだ今日の段階では、社員には個人情報漏えい事故が起きたことは伝えないでください。あくまで『重大事件が起きた可能性があるから、急遽、緊急社員総会を開催して、詳細を説明する』と。万一、正式に社内で報告する前に、社員の誰かがインターネット掲示板やSNSなどに書きこんだら大変なことになりますので」

「わかった。これからのタスクを整理して皆に指示をしてくれないか」

「はい、まずは漏洩した登録者情報が二次被害、つまり悪用されないために、被害拡大防止策を講じなければなりません。昨日の夜中2時に渡して今、朝10時半・・・。まだ名簿業者『リーク・グレイス社』は手に入れた個人情報に何も手を付けていない可能性もあります。清寺課長、たびたびすみません。大至急、光浦顧問弁護士と協力して、入手した個人情報の利用中止と差し止め、そしてデータの回収を・・・『警告書』というのを光浦弁護士に用意してもらって、できれば現地に行って回収してきてもらえませんか?」

「了解した。光浦顧問弁護士がまもなく当社に到着するので、一緒に行ってきます」

清寺が急いで部屋を出て行く。

「続いて関係各所への報告ですが、本件は、『不正の目的を持って行われた個人データの漏洩』のため、個人情報保護委員会に届け出る必要があります。当社はプライバシーマーク取得企業なので、審査機関への報告も。あと、監督省庁などへの届け出も。真田課長と館山課長代理で、そちらの準備を進めていただいてもよろしいでしょうか」

「了解。何を報告すればいい?」

「はい、報告は『速報』と『確報』の2段階があります。今回はまず『速報』となります。漏洩の発生日、発覚日、事象の経緯、原因、本件が報告対象に該当していること、漏洩した個人データの項目、これは氏名とか電話番号とか、です。あと漏洩件数、そして漏洩した登録者データの悪用のおそれの有無、漏洩してしまった方々への通知を含めた対応の実施状況、公表の実施状況、再発防止の措置、その他、特記事項のうち、現時点で把握・確定しているものを報告します。各機関に報告用フォーマットがありますので」

「了解!」

「次は、報道機関へのプレスリリース、要するに『世間への公表』ですが・・・」

康平が言うと、取締役営業本部長の増田が、

「ちょっと待て・・・もし、石川が個人情報を密売した名簿業者の『リーク・グレイス社』が、まだどこにも渡しておらず、二次被害の恐れもないうちに我々が回収できた、ということであれば、必ずしも公表の必要はないのでは。公表することによって、世間に余計に不安と混乱を与えてしまう可能性もある。豊中社長、もう少し、様子を見たらいかがでしょうか?」

と述べると、豊中が一喝した。

「それを待ってから動いたら、対応が遅れて、万一の場合に世間からバッシングされる材料になるだろうが!もう『二次被害が出る可能性がある』という前提で、今のうちから準備だけはしておくんだ!!」

そして、

「高橋くん、『二次被害が出る可能性がある』となった場合の対応方法は?」

「はい。まず、山田部長。石川氏が漏洩した求職者の個人情報10万件ですが、その10万人は特定できるか、現時点で分かりますか?」

「さっきの石川と内村との話だと、石川は名簿業者に渡した10万人分のデータファイルを自分のノートPCにもコピーして保管していたみたいです」

「石川のノートPCは先ほど押収しておきました。今、総務部に置いてあります」

「館山さん、ありがとうございます。では・・・『二次被害の恐れが出てきた』という想定ですが・・・漏えいした10万人は特定できるので『バイトへGO!』事務局から、個人情報が漏えいしたこと、現状の報告とお詫び等の内容をメールで送信。漏えいしていない約790万人にも、事件の内容と詳細を報告し『〇〇様の個人情報は漏えいしていませんのでご安心ください』という趣旨のメールを送りましょう。『バイトへGO!』事務局のあるカスタマーサポート部はメディア事業統括本部内かと思いますが、岩下取締役、よろしいでしょうか?メール本文は別途、作成します」

岩下が答える。

「もちろん。『バイトへGO!』事務局は、電話対応を行っておらず、全てメール対応なので、メール対応については全て、メディア事業統括本部全体で一括して対応しよう。その代わり、色々と返信や、その他の問い合わせも来るだろうから、できるだけ対応文書をマニュアル化して欲しい」

「かしこまりました。あとは・・・」

「取引先企業か」

「はい、求人広告を掲載した実績のある取引先企業が約12万社あります。そこにも取り急ぎ現状報告とお詫びのメールを送らなければならないかと」

「増田、それは可能だな?」

「はい、一括送信は可能です」

「高橋くん、メール配信の具体的なスケジュールはどうする?」

豊中が聞くと、康平がまた続ける。

「報道機関へのプレスリリース、つまり公表後すぐに、という形になるかと思います。明日の朝、9時に緊急社員総会で伝えるのであれば・・・」

「プレスリリースはその直後か」

「いえ、タイムラグが多少、必要です。プレスリリース後は電話・メールの問い合わせが殺到します。マスコミ、『バイトへGO』の登録者約800万人と、そのうち漏洩の被害に遭わせてしまった10万人、約12万社の取引先企業、約1万4千人の株主、一般人、あとは一部のクレーマーなどからも。本件の専用電話問い合わせ窓口もどこかに集約し、電話番号とメールアドレスをプレスリリース本文内に記載します。その電話・メール対応マニュアルを各社員に読み込んでいただかないといけないため、準備時間が必要です」

「なるほど。では、どんなタイムスケジュールがいいと思う?」

「9時の緊急社員総会で本件の内容・経緯と詳細、電話・メール対応マニュアルを説明し・・・でもプレスリリースは早いに越したことはないので・・・13時にプレスリリース、その直後に『バイトへGO!』の登録者と取引先企業へ謝罪メールを一斉配信、という流れはいかがでしょうか?」

豊中は「分かった」と述べた後、

「電話・メールの問い合わせ対応窓口の集約だが・・・。メール対応窓口は岩下のメディア事業統括本部に置くとして・・・電話対応の窓口は・・・この会社の代表電話が総務部だから、14F管理本部にしよう。西山常務、問題ないか?」

と続けた。

「かしこまりました。大丈夫です」

「専用の電話番号と電話機は準備できるのか?」

「おい、真田、館山。どうだ?」

西山が話を2人に振ると、社内設備に詳しい館山が、説明した。

「使用していない電話番号があるので専用電話番号は準備可能です。しかし、電話機の在庫は60台ほどです」

豊中がすかさず反応する。

「その台数では、対応できないのではないか。マスコミ、『バイトへGO』の登録者約800万人、うち被害者10万人、約12万社の取引先企業、約1万4千人の株主・・・。おい、西山常務、どうなっているんだ」

「いや、その・・・」

「一度でもこの事態をシミュレーションしていたら、あらかじめもっと多くの台数を準備できていたはずだ!くそっ!・・・高橋くん、何か手はあるか?」

豊中と康平の会話がまた始まった。

「電話回線が繋がりづらくなるのは避けられませんが・・・60台でなんとか捌く方法はあるかもしれません」

「おお、どうやるんだ!?」

「まず、『バイトへGO!』の登録者800万人ですが、バイトを探しているだけあって、年齢層は若いです。確か、登録者は10代後半~20代前半くらいがメインだったかと」

「その通りだ」

「若い世代は『電話離れ』をしている、と最近言われ始めています。おそらく多くは、電話をかけてくるより、メールでの問い合わせをしてくると思います。被害者も含めて」

「なるほど」

「問題は、マスコミ、約12万社の取引先企業、約1万4千人の株主、一部の一般人・・・その中でも、約12万社の取引先企業です。こちらは電話問合せが多いでしょう」

「そうだな」

「プレスリリースに記載されている専用電話回線が込み合っていて、繋がらないとなると、本社営業部、各支社、各営業所の営業マンの携帯電話、もしくはそれぞれの部門の代表電話にかけてくると思われます。いきなり、そちらにかけてくる取引先企業もあるでしょう。それらを全部、専用電話問い合わせ窓口の管理本部に回されたら、間違いなく回線がパンクします。なので、イレギュラーケースを除き、基本的な問合せであれば、なるべく本社営業部、各支社、各営業所で対応を完結してもらいます。ただ、そのためには詳細な対応マニュアルが必要です」

「なるほど、12万社の取引先企業をなるべく営業本部内で完結できれば、あとはマスコミ、株主、一部の一般人あたりがメインになり、60回線でも何とか対応できる可能性が高まる、ということだな」

「はい、もっと言うと、営業本部以外の各本部にも、様々な関係者から本件に関する問い合わせが入ると思います。そちらも、何でもかんでも管理本部に回すのではなく、基本的な問合せであれば、各本部内で完結してもらえれば、きっと大丈夫かと」

「よし、それでいこう。・・・ところで、西山常務。電話・メールの問い合わせ対応マニュアルはあるのか?」

豊中が西山に聞くと、西山は痛いところを突かれたとうつむいたまま、

「・・・いえ、未完成です」

と呟いた。

「ふざけるな!!いいかげんにしろ!!」

言うまでもなく、豊中の怒声が激しく会議室内に響き渡った。

「・・・豊中社長!」

「なんだ、真田」

「明日の朝までに、総務部で作成します」

「・・・できるのか」

「はい、高橋くんに指示を仰ぎながら、総務部で責任をもって作成します」

「・・・言いたいことはたくさんあるが、とりあえず分かった。任せる。あとは記者会見、というか謝罪会見だな。光浦顧問弁護士と共に準備を頼む。杉浦広報部長」

豊中は、謝罪会見の方に話を移した。

「はい、手配します。13時にプレスリリース配信であれば、15時から記者会見、という形にしましょうか」

「そうだな。とにかくスピード重視でいきたい。ちょうど先々月、経営者仲間に勧められて、万一の時のための謝罪会見の研修を受けておいて良かった。嫌々だったが」

豊中が呟くと、康平が付け加えた。

「記者会見では、今後の再発防止策をしっかりと伝えることが必須になります。主に、システムのセキュリティ面と社員教育面で。山田部長と田村部長で、今から再発防止策概要の立案をお願いできますか?」

「了解した」

山田と田村が答える。豊中が、

「高橋くん、他に対応することはあるかな?」

と聞くと、康平は、残りの準備についてしばし考えた。

「・・・あとは、田村人事部長。電話・メールの問い合わせ応対が多くなる管理本部、メディア事業統括本部、本社営業部、また各支店・営業所については、産業医・臨床心理士などを手配することはできますか?この手の対応では、精神的な調子が悪くなる人が、必ず出てきます。特に電話対応は直接クレームを受けたりもするので」

その話になると、なぜか西山が少し嫌そうな顔をしたが、それに気づかなかった田村は

「了解。できる限りの人数を、明日までに手配します」

と答えた。


「あと、今は個人情報漏えい事故が他社でも相次いでおり、マスコミの恰好のネタとなっています。そう考えると、本社ビルにマスコミがやってきて、社員に突然、インタビューをする可能性もなくはありません。念のため警備員を手配しておいた方が良いかと思います」

「確かに可能性があるな。西山常務、対応しろ」

「かしこまりました。おい、真田」

「はい、それはすぐに手配できます」

「マスコミから突然、質問された時の対応マニュアルも用意しておいた方がいいな」

豊中が言うと、

「それも総務部で作成します」

今度は康平が答えた。一通り、準備次項が出そろうと、豊中が締めの言葉を紡いだ。

「みんな、この件は非常に重大だ。一歩、対応を間違えれば、当社の社会的信用は失墜するが、スピード感を持って適切かつ誠実な対応ができれば、逆に不祥事を期に、世間からの信頼度が増した企業も過去には存在した・・・必ずこの事態をしっかりと乗り越えて前向きな着地をしよう。また、最初に高橋くんが言った通りに、被害に遭わせてしまった10万人の個人情報が、悪用されないことを最優先に考えて動こう」

「はい!!」

全員が力強く返事をして、うなずいた。

13時の緊急取締役会が終了した後しばらくして、緊急対策本部に『朗報』が舞い込んだ。

清寺と顧問弁護士で名簿業者『リーク・グレイス社』に向かったところ、社長である鈴木と面会でき、販売・転売の停止、今後このデータを利用しない旨の誓約を、光浦弁護士が急遽、作成した『警告書』へのサインにて取り付けることができた。登録者個人情報のデータファイルやそれを入れていたUSBメモリも回収できた。

鈴木は昨日データを受け取ったばかりで、まだどこにも販売・転売などはしていないことも確認が取れたため、これで『二次被害』つまり個人情報を悪用される恐れは、ほぼなくなった。

再び緊急対策本部のメンバーが集まると、そもそも、この案件をマスコミや世間に『公表』するべきなのか、という話になった。

増田取締役営業本部長は『公表しない』という選択肢を推した。

「豊中社長。先ほども申し上げましたが、公表することによって、逆に世間に、余計な不安と混乱を与えてしまう可能性もあります。必ずしも公表の必要はない、という判断もあるかと思います」

「ただ・・・」

豊中が答える。

「外部に漏えいした以上は、二次被害の恐れが『絶対にない』とは言えないだろう。さらに社員が不正に10万件もの登録者個人情報を持ち出す、という不祥事を起こしたにもかかわらず、世間や被害者に対してだんまり、というのが、『これで良いのか』という気を起こさせる」

すると先ほど会社に戻ってきた清寺が、

「光浦顧問弁護士の見解は、『公表すべき』とのことでした。『社員の不正持ち出し』『10万件の個人情報漏えい』は、非公表にするにはあまりにも事象が重大きすぎる、と」

「いや、でも社長。謝罪会見を開く必要も出て来るんですよ?」

山田が増田の肩を持つように、『公表しない』の方に一票を投じた。

「私は企業の倫理観としてどうなのか、という話をしているんだ!」

皆が黙る。そして、いつもの流れで、皆の視線は康平へと集まってきた。康平は沈黙を守っていたが、豊中に

「・・・高橋くんの意見を聞かせてくれ」

と聞かれたので、

「それぞれのデメリットを述べても良いでしょうか」

と返した。豊中が
『もちろんだ』
と答えたので、発言することにした。

「まず『公表しない』のデメリットは、倫理観の問題に加えて、誰かこの件を知っている・・・例えば名簿業者の人間・・・としますが、インターネット掲示板やSNSなどに悪意のある書き込みなどをするリスクがあるということです。『スマートバイト社は個人情報漏えい事故を起こしたのに、それを公表せず、隠蔽している』などと言った具合に。その場合、当社が『二次被害の可能性がほぼなくなったので、余計な不安や混乱をきたさないために非公表にした』と述べたとしても、おそらくその言い分は『社員の不正持ち出し』『10万件の個人情報漏えい』という言葉のインパクトにかき消され、相当なバッシングを受ける可能性があります」

「なるほど。『公表する』ことのデメリットは?」

「はい。例えばマスメディアがこの件に対して、これも悪意を持って取り扱った場合・・・例えばニュースの見出しに大きく『バイトへGO!登録者個人情報10万件流出』とかだけ書かれて、あらぬ誤解を受ける可能性があります。そのため、公表後は、すぐに謝罪会見を開いて『二次被害、つまり悪用される恐れはほぼない』ということと、『それでも万が一、二次被害が起きた場合の対応方針』を詳しく説明する必要があります。もちろん事件の経緯や詳細、再発防止策なども。ただ・・・」

「・・・ただ?」

「謝罪会見のセンシティブさは、社長もご存知かと思います。たった一言や、ちょっとした表情など、様々な要素が、世間からのバッシングの恰好の材料になります」

「さっきも話したけど、ちょうど、先々月、研修をみっちり受けて、たくさん学んできたよ」

豊中はニヤッと笑うと、即決した。

「ならば、『公表する』だ。なぜなら『公表しない』の選択肢を取った場合、『いつか誰かにバラされたら・・・』といつまでも怯え続けなければならない。そしてそれが起きたら、いくら説明しても『隠ぺい体質』というイメージを払しょくするのが難しくなる。それだったら『公表する』を選び、一時的にあらぬ誤解やバッシングを受けたとしても、すぐに会見で詳細を説明すれば、誤解はきっと解消できる。それに自ら潔く公表する方が、第三者によって指摘されて発覚するよりも、ずっとマシだ。これ以上の異論はもう受け付けない。みんな、準備に取り掛かるんだ!」


この豊中の決断で、『明日9時の緊急社員総会』『13時に報道陣へのプレスリリース』『15時に謝罪会見』の実施が決まった。

そこからは関係者全員が多忙を極めることとなった。

もっとも過酷になるであろう専用電話窓口を担当する、総務部を含めた管理本部の社員には、特別に本件の詳細がすでに伝えられて、明日の朝9時の緊急社員総会までは絶対に口外しないよう指示を受けた。総務部員たちは、総会の開催準備を開始した。

真田、館山は、関係各所への報告と、専用電話回線の手配、警備員の手配、康平は明日の朝9時までに専用電話窓口となる管理本部だけでなく、主に取引先企業からの電話が予想される本社各営業部、各支店、営業、そしてメール対応窓口となるメディア事業統括本部の対応マニュアルをそれぞれ、作成しなければならない。もちろん、それ以外の本部の分も。

いくら『二次被害の恐れはほぼない』と言っても、様々な問合せが来ることが予想される。それらの問い合わせを、電話・メールそれぞれにおいてどう対応するか、一晩で出来る限りの言語化・マニュアル化をする必要があった。

それだけでなく、イレギュラーケースが発生した場合は、どの部門のどの役職の誰がどんな役割をして、どう連携を取って、などを考えていくと、終わりがまったく見えない業務だった。

さらに康平には、杉浦広報部長から、報道機関へのプレスリリース文章の相談、謝罪会見の原稿とマスコミからの質問に対する想定問答集の内容相談、さらには山田執行役員システム部長と田村人事部長が急遽、進めている再発防止策立案の打合せにも入るように依頼が来ていた。

今日はおそらく帰宅は難しいどころか、一睡もできないだろう。さらに本番は、明日の報道機関へのプレスリリース・記者会見後から始まる。

どれだけ今、あらゆるケースを想定して準備をしても、ほぼ間違いなく問合せが殺到するため、想定しきれなかったイレギュラーは起こる。その時は、その場、その場に応じて臨機応変な対応が求められる。

さらに問合せ対応が落ち着いた後、今度は被害者への対応もある。なにしろ、10万人もの個人情報が漏えいしたのだ。事後の検証資料の作成なども含めると、まだまだ膨大な、そして早急に対応しなければならない業務が残っている。おそらく2日、3日は徹夜続きとなるだろう。覚悟していたとはいえ、リスクマネジメントのコンサル会社在籍時の嫌な思い出がよみがえる。

(最後まで”心”が持つだろうか・・・)

康平はさすがに不安になってきた。以前みたいに、『バツンッ』と体中の電源が落ち、仕事が一切できなくなる康平特有の『うつ病再発』の症状が起きないだろうか、と。

前回、リスクマネジメントのコンサル会社在籍時、クライアント企業の個人情報漏えい事故で緊急の対応をした時は、会社から康平も含めて3人が派遣されていた。

康平がダウンした後は、同じような経験・知識を持つ同僚が変わりに入ってくれた。しかし、今回は状況がまったく違う。もし今、『うつ病再発』が起きてしまったら・・・。

真田、館山も康平が心配のようだったが、あまりにも様々な業務に忙殺されたため、康平をフォローしたくてもしきれない状態が続いていた。

***再対決***



今回の個人情報漏えい事件を起こし、明日から自宅待機を命じられ、事後におそらく懲戒解雇されるであろう石川が、急遽の引継ぎなどを終えて14Fオフィスフロアにやってきたのは、夜も20時を過ぎた頃だった。

石川は、田村と真田のところへ来て

「この度は多大なるご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんでした」

と力なく謝罪した後、てんやわんやで準備を進めている総務部に向かって一礼し、うつむいた頭のままトボトボと歩き、オフィスフロアの出入り口から出て行った。

康平は石川を追いかけ、オフィスフロアを出た。『石川さん』と声をかけると、彼が振り向く。誰もいないエレベーターホールで、2人が向かい合った。

「ああ、あの時の嘱託さんですか。どうしました?」

「一応、高橋という名前があるのですが」

「どうでもいい人の名前を覚えるのが苦手でね」

(・・・どこまでも、どうしようもない奴だ)

「ちょっと色々とあって、会社を辞めることになりそうでね」

「知っていますよ。おかげさまでみんな今、てんやわんやです」

「そりゃ、ご苦労なこった。まあせいぜい、頑張ってください」

「・・・・・・」

「あ、そうそう。知っていると思うけど、俺、おそらく懲戒解雇でね。あなたたちうつ病の人と同じく、『落ちぶれた奴』になっていまいそうですよ」

「・・・以前にも言われていましたね、その言葉。そのことで、ずっと言いたいことがあったんです」

「・・・あ?何?」

「僕も含めてですが・・・うつ病になってしまう人って、どんな状況でも我慢して、頑張り過ぎて、身体と心が悲鳴を上げて、それでも自分の責任を果たそうと頑張って・・・誰よりも真面目で、努力家で、自分に厳しい人が罹ってしまいやすい病気なんです」

「・・・だから?」

「そうやって病気になってしまって苦しんでいる人、その後ようやくの想いで立ち上がって、職場復帰して、これから前を向いてやっていこうって人が、本当に『落ちぶれた奴』なんですか?」

「・・・・・・」

「欲望に負けて、ギャンブルに溺れて、数百万円も借金作って、挙句、罪を犯してそれを返そうとする卑劣で薄汚い人間なんかに、言われたくないんですけど」

「・・・うるせえよ」

「・・・謝れよ」

「は?誰に?」

「うつ病で苦しんでいる世の中の人、全員に。ようやく快復して、これから前を向いて歩いていこうとしている人、全員に。今すぐ、謝れよ」

「なにを言っ」

「謝れよ!!」

「・・・・・・っ」

「俺が今、聞いておくよ。いつか何らかの形で、こんな馬鹿な奴がみんなに謝っていたって伝えておく」

「・・・・・・」

「謝れ!!」

「・・・・・・すいません・・・でした」

「・・・意外に素直なところもあるじゃん」

「・・・・・・」

14Fにエレベーターが到着した。石川はそれに乗り込んだ。こちらの方を振り返りはせず、背中を向けていた。静かにドアは閉まり、石川は去っていった。

「・・・・・・」

うつむいたまま、康平は目を強くつむって、何ごとかを考えていた。すると・・・

「康平~」

振返ると、館山だった。

「・・・あ、館山さん、もしかして、見ていました?」

「すまんな。途中からな。ちょっと屋上で休憩するか」

「すみません、お気遣いありがとうございます」

いつものベンチに腰掛ける二人。館山はめずらしく何も声をかけず、沈黙の時間が続いたが、しばらくして、康平の気持ちが落ち着いてきたのを見計らうと、それを待っていたかのように話を始めた。

「色々あったんだな、あいつと。相談してくれればよかったのに」

「あ、いや、単に前にエレベーターで乗り合わせて口撃されただけなので」

「・・・リベンジできたか?」

「そうですね。まあ、ずっと、彼に言いたかったことは言えました」

「・・・しかしまあ、生きていると色々あるよなあ」

「なんで、なんですかね」

「分からんなあ。ただ1つだけ言えるのは、今日のお前は経営陣を前にして、マジですごかった。あそこまで的確かつスピーディーに仕切れるのは見事だ。真田も絶賛していたよ」

康平は、その言葉で今日一日の出来事を思い出し、あらためて頭の中で振り返った。

「ありがとうございます。なんか途中から、自分でも自分のことがよく分からなくて」

「あれが本来のお前なんだよ、きっと。みんなが嫌がる郵便物の各部門への配達も、愚痴や文句の1つも言わず、もう9ヶ月もやり続けて。ホント偉いなあ、康平は」

「あ、そうそう。今だから話なんですけど・・・」

「ん?」

「あの業務って・・・。郵便物を総務部で部門ごとに仕分けして、総務部の横の広いテーブルに置いておいて、各部門の事務社員の人たちに取りに来てもらった方がよっぽど効率的じゃないですか?なので、ずっと疑問に思っていたのですが、今日見てて、分かったんですけど、豊中社長と西山常務って、多分、あんまり仲良くないですよね。もしかして、そのことと関係あるんですかね?」

「おー、鋭いなあ。そうなんだ。あの業務は、社長と西山の権力争いの縮図だよ」

「やっぱりそうですか。西山常務は、次期社長の座を狙っている、ということなんですね。そして当然、社長もそれに気付いている」

「そう。その通り。極めてどうでも良い話だが『各部門が西山の管轄下の総務部へ取りに行く』というのではなく『総務部からそれぞれの部門へ持って行かせる』という形を取ることが『俺は西山より上なんだ』という社長自身の権力を社内に誇示するのに都合が良い、というわけ。もちろん、現場の社員たちはそんなことは露ほども感じないけどね。ハハハ、くだらないよなあ。昔から、伝統的に総務部が各部門へ配達する、という形だったんだけど、西山が管理本部の統括に就任してから『業務効率化』ってのを名目に、社長に提案し、社長が猛反発したんだ」

「なるほどですね。長い間の疑問がようやく解けました。アハハ。まあそれは良いとして、でも・・・」

「どうした?」

「あの、会社が危機的な状況の時に、こんなことを言うのもなんですけど・・・被害者の方々にも申し訳ないんですけど・・・」

「・・・ん?」

「なんか、この問題を絶対、解決するぞ!って思って無我夢中になってやっていると、なんだか・・・楽しくて」

「ワハハハ!!!・・・康平、俺も言っていいか?」

「・・・はい」

「俺も実は今・・・最高に楽しい!ハハハハ!! 」

「アハハ!なんでなんですかねえ。危機的状況ですよ、今」

「よく分からないけど、無我夢中になって没頭している時間って人間が一番、幸せを感じる時なのかなあ」

「そうなのかもしれないですね」

「・・・よーし、康平、元気出て来たか?」

「はい!もう大丈夫です!」

「今朝も同じようなことを言ったかもしれないけど、この問題、さっさと解決しちまうぞ!!戻るか!」

「はい!」

館山の後を着いていく康平。

その時、今まで以上の、胸の違和感と苦しさを覚えた。胸の中の鉛がより重くなっている。突然『バツンッ』と体中の電源が落ち、仕事が一切できなくなる前の、康平特有の『うつ病再発』の初期症状だ。

だが、館山には何も言わず、席に戻ると何ごともなかったかのように、仕事を再開した。

(この件が終わるまで何とか持ってくれ・・・)


そう心の中で願いながら。

その後、「緊急対策本部」のうち、取締役以上の経営陣や、高齢の清寺以外のメンバーは、終電の時間を過ぎても仕事をしていた。他の総務部員たちも、ほとんどが終電近くまで明日の緊急社員総会の準備を続けていた。

康平は『胸の中の鉛』がますます重く、そしてさらに苦しさを増してきていた。

まったく仕事が終わりそうにないことも含めて、得体の知れない巨大な何かに押しつぶされてしまいそうな感覚だった。


(ちょっと、休もう・・・)

康平は少し席を外して10Fにある社員食堂のフロアで休憩することにした。

終電も過ぎた時間なので、広々とした空間には誰もおらず、康平の座っている所だけ蛍光灯が付いている他は、暗闇になっていて、空調の音だけが静かに耳に飛び込んでくる。

そんな暗闇と静けさの中で、康平は強烈な不安を感じていた。

(明日からの緊急対応をうまく乗り切れるだろうか。この件が終わるまで、自分の心が持つだろうか。再発しないだろうか・・・。)

真由美からメールが来ているのに気付いたのは、そんな時だった。

「高橋さん、こんばんは。夜分にごめんなさい。今日の夕方、部会が開かれました。明日の朝、緊急社員総会みたいですね。もしかして、まだお仕事中ですか?」

そのメールを見て、康平は臨時取締役会の後、社内に緊急社員総会の開催が無事に周知されたことを知った。

「伊達さん、今日は勤務時間中に突然、お電話してすみませんでした。こちらこそ、メールありがとうございます。はい。明日の資料作りや打合せなどで、とても終わりそうになくて。今日、明日あたりは徹夜になりそうです笑。明日の社員総会まで話せないのですが、ここだけの話、社内中を巻き込む事態になりそうです。伊達さんにもご迷惑をおかけしてしまうかもしれません」

真由美からの返信はすぐに来た。

「大丈夫です!なんとなくですけど、何が起きたか想像つきますし笑。あ、うちの部長が、今日の部会で言っていました。社長も入って緊急対策本部が開かれているけど、そこで指揮を取っているのが、いつも社内で郵便物を運んでいる高橋さんって人らしいって。増田営業本部長がびっくりしていたって。私、それを聞いて、すごく嬉しくて・・・」

「なんか、いつの間にか、そんな感じになっていました笑。伊達さんにそう言っていただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます」

「でも、それよりも私、高橋さんの体調が心配です。今日も明日も徹夜になりそうなんて…。最近、お顔を見ていると少し調子が悪そうだったので、余計に心配です」

「あ、バレてましたか笑。はい、調子は下り気味ですが、大丈夫。乗り越えてみせます」

「あの・・・この件が無事に終わって、調子も良くなってきたら、また『みょうらい』に日本酒を飲みに行きませんか?あのお店に、また行ってみたくて」

「はい、ぜひお願いします!終わったあとの楽しみができて、元気が出てきました。いつもありがとうございます!」

「良かったです!ご無事を願っています」

「ありがとうございます!」

康平が精神的に厳しい状況になると、本当にいつも、絶秒なタイミングで真由美の助けが入る。少し元気を取り戻した康平は、総務部に戻り、気を取り直して仕事に取り掛かった。

やっとの想いで、進めていた各業務に目途がついたのは、明朝6時頃だった。真田、館山も最後まで一緒だった。康平は一旦、シャワーを浴びて着替えるために上野の自宅に戻り、少し食事を摂り、また朝7時には会社に到着した。

他の緊急対策本部のメンバーは、近くのビジネスホテルで少しだけ仮眠を取れたようで、同じく朝7時には到着した。ほぼ同時刻に豊中、西山をはじめとした経営陣も出社し、9時から始まる臨時社員総会に向けて最終調整を行った。

***臨時社員総会***



毎年12月に社員総会を行っているスマートバイト社本社のB1Fの大会議室には、1000人規模が収容できる。そこに本社の社員が皆、集まり、各支社、各営業所ともテレビ会議を繋ぎ、臨時社員総会は定刻通りに始まった。

司会を務める真田の案内により、最初に、社長である豊中が全員に事情の説明を始めた。

「皆さん、おはようございます。今日は緊急でお集まりいただきありがとうございます。時間がないので早速、本題に入りたいと思いますが・・・わが社の存続を揺るがすかもしれない程の事件が起こりました。求人サイト『バイトへGO!』登録者の個人情報、10万件が、外部の名簿業者に漏えいしました。個人情報漏えい事件です」

会場に座っていた社員全員が息を飲み、絶句した。豊中は事件の詳細、経緯、原因などを一通り説明した。石川、内村の不正持ち出しによる密売であったことを知ると、皆、驚きを隠せず、会場が唸りを上げるようにどよめいた。

「幸いにして、事件の全容は早急に解明することができ、『二次被害』つまり漏洩した個人情報が悪用される恐れはほぼなくなりましたが、外部に漏えいした以上は、『100%ない』、とは言い切れません。また『社員による10万件もの個人情報の不正持ち出しと密売』というとんでもない事件が起きたことを、隠ぺいする訳にはいきません。当社は今、スピード感を持って、社会的な説明責任を果たす義務があります。そこでこの後、13時にこの件を世間に報告すると共に、15時から、私を含めた経営陣のメンバー数名による、謝罪会見を行います」

豊中の話が続く。

「現在、他社でも個人情報漏えい事故が相次ぎ、マスコミは積極的にそれらを取りあげています。テレビCMを頻繁に打っている当社ですから、テレビニュースなどでも取り上げられる可能性が高い。報道陣へのプレスリリース後は、電話・メール等での問い合わせが、ほぼ間違いなく会社に殺到するでしょう」

さらにどよめく会場。あまりにも動揺し、不安を覚え、もうこの時点で体調不良になる社員も出てきた。総務部員たちの付き添いにより、数名が会場を後にした。

「少しでも対応を間違えれば、当社の社会的信用が失墜し、会社が吹き飛びかねない緊急事態です。この事態を乗り越えるべく、社員の皆さん全員の力をお借りしたい。誰が何をどうするかの詳細は、この後、説明をします。全社一丸となって協力をお願いしたい」

豊中が壇上で頭を下げる。会場はまだ動揺の色を隠せない様子がありありと伺えた。

続いて、増田取締役営業本部長が壇上に立った。

「社員の皆さま、この度は営業本部の社員の不祥事により、多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません」

増田は壇上にあるスピーチ台から外れ、横に移動すると、社員の座っている方に向かって、土下座をした。深く、深く、頭を下げた。ようやく顔を上げると、遠目からでも目が真っ赤に充血しているのが分かった。

1分ほど、状況について補足の説明をすると、豊中と同じく最後にはまたスピーチ台で頭を下げた。

続いて、司会の真田が

「報道陣へのプレスリリース、『バイトへGO!』登録者や、取引先企業への一斉メールの後には、電話・メールなどで会社への様々な問合せが入ることが予想されます。その際の社員の皆さんの対応について、総務部 高橋よりご説明をさせていただきます。人事部員・総務部員は、会場の皆さんへ資料の配布をお願いします」

と告げると、一瞬、会場が「?」となった。

(総務部の高橋って・・・誰だっけ?)

という雰囲気が会場を覆った。その後、康平が壇上に上がり、スピーチ台に立った。

(あ、あの郵便物を各部門に配達している人・・・)

社内中をいつも郵便物の配達で回っている分、康平の顔を知っている人が多いようだった。

会場の一席に座っていた真由美はそれを見て、

(高橋さん・・・!)

と目を丸くして、両手を口元に当てた。

康平がスピーチ台に立った直後、社長や取締役には物申せなかった不満をぶつける社員が現れた。康平が話を始めようとしたその瞬間に、

「あの!!すみません!!!ちょっと、よろしいでしょうか!?」

中年くらいの男性社員から手が上がった。
近くにいた総務部員が、質疑応答タイムで使用する予定だったマイクを慌てて用意し、手を挙げた人物に手渡した。

「メディア事業統括本部・CRM部門長の清永と申します。少し申し上げたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

康平が

「はい、お願いします」

と答えると、清永が話を続けた。

「先ほどからお話を聞いていたのですが・・・この件は、営業部の社員と、社内システム部の社員による個人情報の不正持ち出しによる漏えい事故、ということでよろしかったですよね?」

「・・・はい、おっしゃる通りです」

「加害者は営業部と社内システム部で、我々は正直、被害者ですよね?」

会場中に緊張が走った。一部、「そうだ!」などという野次が飛んだ。

「・・・おっしゃりたいのは、どういうことでしょうか?」

「つまり、なぜ我々が、それでなくても日々の業務で忙しいのに、この件で対応をしなければならないのか、ということです」

(・・・なによ!こんな事態なんだから、みんなで対応するのが当たり前じゃない!)

真由美が心の中で清永という部長に不満をぶつけた。

「それで・・・具体的にはどうするべきだとおっしゃりたいのでしょうか?」

「それは・・・営業本部と、社内システム部を管轄する管理本部で、全ての対応をすべきである、ということです」

(・・・不満分子、か)

この手の社員は必ずいるものだ。康平は特に心乱れることなく、回答を始めた。

「まず、この件ですが、清永部長は『加害者は営業部と社内システム部で、それ以外の部門が被害者』とおっしゃいましたが、はっきり申し上げますと、それは違います」

「な、何が違うと言うんですか!!」

「加害者は当社、すなわちスマートバイト社で、被害者は、個人情報を漏洩された10万人の『バイトへGO!』のユーザー、すなわち登録者です。世間は皆、そう見ます。違いますか?」

「・・・・・・」

「豊中社長もおっしゃいましたが・・・この件は、対応を一歩誤れば、会社が吹き飛ぶほどの緊急事態なんです。わずかな人数でも『自分は関係ない!』『自分は被害者だ!』などという社員がいたら・・・真剣に世間や本当の被害者の方々に向かわない人がいたら・・・そういった人のたった一言、ひとつの対応で、一気に世間の反発を買う可能性があります。世間の反発を買ったら、行政も司法も、当社を裁く方向で動き出します。そうなれば、社会的信用が失墜し、当社の事業は立ち行かなくなります。もうこの件は、『自分ではない誰かの問題』ではないんです。当社社員、全員の問題なんです。今、社員が心から全員一丸となってこの件に向き合えないのであれば・・・当社はどうなると思いますか?そしてそれ以上に・・・『バイトへGO!』を信頼して、大切な個人情報を登録していただいたのに、それを外部に漏洩されてしまった被害者の方々が、どれだけ不安な思いをするか。彼ら彼女らに、どれだけ申し訳ないことをしてしまったか。当社の一員として、どうすれば、被害者の方々に少しでもご安心いただけるのか。埋め合わせができるのか。そこに想いは至らないのでしょうか?」

会場にほんの少しの間、無言の時間が訪れた。しかしその後、どこかから「パチパチパチ」という小さな音が聞こえてきて、やがてその音量は大きくなり、会場内に響き渡った。清永は何も反論することなく、席に座った。康平は会場に向かって軽く頭を下げた。

「とはいえ、清永部長のおっしゃる通り、日々の業務もある中で、全社員がこの件だけにかかりきりになる訳にもいきません。随時、動いていく最新情報の共有面でも問題が出てきます。そこで、これからこの件への各本部の対応や体制について、ご説明させていただきたいのですが、皆さま、よろしいでしょうか?あ・・・私、名乗りましたっけ?すみません、忘れていました。私、総務部の高橋と申します」

会場から「ドッ!」と笑いが起こり、その後にまた拍手が起こった。

「ありがとうございます。それではお手元の資料をご覧ください」

真由美も、手元に回って来た資料を見た。『本社第1~第13営業部 電話・メール問い合わせ対応マニュアル』と書いてある。まずは今回の漏えい事故の詳細や経緯、最新情報、今後、更新される可能性のある情報がまとめられて、分かりやすく書いてある。

実際の問い合わせ対応においては、電話の問合せは管理本部、メールでの問い合わせはメディア事業統括本部が主体となっているようで、その上で、各部門内での役割・体制図が書かれている。

本社各営業部に主に入ってくると予想される取引先企業からの電話での問い合わせについて、想定される質問と、それぞれの質問に対する返答時のトーク例がポイントをまとめて的確に記載されていた。

その上で、特に電話対応において、どんな場合だったら、その場で対応を完結させ、どんな場合だったら直属の上長、または管理本部に取り次ぐか、また、管理本部に電話を取り次いだ際に回線が通話中だったら、どのように折り返し対応をご案内するか。取引先企業以外からの問い合わせが入ってきた場合の対応方法なども、ポイントをまとめてフローチャートや図も使いながら、読みやすく整理してある。

こちらから話して良いことと悪いこと、実際の電話対応の時の話し方・聞き方のポイント、不当要求には毅然と断ることなどの注意ポイントも見開き2ページ内に見やすく網羅されており、読んでいるだけで自然と頭に入ってくる。メールで問い合わせが来た場合も、索引付きで回答例がそれぞれ記載されている上に、メディア事業統括本部の窓口に転送する質問内容なども詳細な記載がされている。

さらには、1時間ごとの2交代制で対応にあたることや、精神的な不調を感じた場合には、臨床心理士が待機しているので、すぐに相談しにいくこと。万一、本社ビルにマスコミが来て質問された時の対応法なども書かれており、ありとあらゆる情報が網羅されていた。しかし決して分厚い量ではなく、20~30分も読み込めば、しっかりと吸収できる内容だった。

真由美は心の底からその出来栄えに驚いた。おそらく、他の本部、各支社、各営業所もそれぞれの特徴に合わせた内容になっており、また、問合せの主体となる管理本部やメディア事業統括本部ではさらに詳細な対応方法が網羅されているのだろう。

(これを一晩で全部、作ったの・・・??)

周囲を見渡すと、他の部門の社員たちも、対応マニュアルの完成度の高さに舌を巻いている様子が伺えた。会場の誰もが真剣になってそれを読み込んでいた。『このマニュアルがあれば、殺到すると思われる各種問合せも、乗り越えられそう』そんな雰囲気が会場内を包んでいた。

しばらくした後、壇上の康平からいくつか補足説明が加えられた。特に重要なのが、漏洩してしまった被害者の方々から電話・メールが入った場合は、確実に記録を残し、後で総務部 真田課長宛に報告を上げてもらうことだった。

その点が強調された後、質疑応答の時間に入ったが、挙手する人はほとんどいなかった。ほとんどが、このマニュアルの中に網羅されていたため、もうこれ以上、聞くことがない様子だった。

緊急社員総会が終わると、今度は14Fオフィスフロアで、管理本部全体での会議が開催された。そこでも康平は、体制図や実際の対応方法についてあらためて説明し、それが終わると今度は、メール対応の窓口であるメディア事業統括本部のフロアに向かい、同じようにあらためて詳細を説明した。

可能な限りの言語化をしてあったので、緊急社員総会と同じように、ほとんど質問が出ることはなかった。

やがて全ての説明が終わり、全社が対応できる体制が整った。



***開戦***



そして13時を迎えると、予定通り報道陣向けのプレスリリースが打たれた。
その直後、『バイトへGO!』登録者約800万人と、そのうちの漏洩させてしまった10万人、12万社の取引先企業へのメールが一斉配信された。

管理本部の専用回線電話が鳴り始める。少しずつ少しずつ、問い合わせが増えてきた。14時からは、テレビのワイドショーが始まる時間だ。

各フロアにテレビを1台ずつ設置したので、各社員が報道の様子を見ることができたが、康平たちは、その中でも視聴率の特に高いワイドショーに注目し、そのチャンネルを映していた。番組が始まると、いきなりトップニュースとして取り上げられた。お茶の間に大人気の番組司会者が

 「まず始めに、緊急ニュースです。テレビCMでおなじみの『バイトへGO!』を運営するスマートバイト社において、『バイトへGO!』登録者10万人の個人情報が漏洩したとのことです。あ、これ原因が・・・社員の不正持ち出し。スマートバイト社の社員2名が不正に登録者情報を持ち出し、外部の名簿業者に密売した、というニュースが入ってきています。そしてこの後、15時からスマートバイト社による緊急記者会見が行われる、とのことです」

 と番組冒頭でニュース原稿を読み上げた。広報部がプレスリリースに記載した、『二次被害(悪用)の危険性はほぼない』という旨の文章は、コメントしてくれなかった。

さらにその人気司会者が番組のコメンテーターらしき人物に話を振ると、

「あれだけCMを頻繁に流しながら、情報管理体制がずさん過ぎるのではないでしょうか」

と批判的なコメントを述べた。

その直後から、14Fへの電話が殺到した。プレスリリース原文を掲載したスマートバイト社の会社ホームページも、サーバーダウンしたとの報告が、社内システム部から上がってきた。

康平が社内的に一番心配だったのが、電話対応をする社員のメンタル面だった。

この報道だとおそらく、通常のクレームだけではなく、クレームを入れること自体が目的の、悪質クレーマーからの電話も入ってくるだろう。

どの部門も2交代制で対応に当たり、クレームの場合は早めに各部門の上長または管理本部の管理職にバトンタッチする体制を敷いていたが、果たして上手く機能するだろうか。また、気分が優れない社員が出た場合、待機してもらっている臨床心理士が上手くフォローしてくれるか。

あと1時間で記者会見の始まる15時を迎える。あえてワイドショーの放映時間帯に合わせた真意は、それを生中継してくれると考えたからだった。その段階で一旦、この報道に興味を持つ人は電話・メールの問合せではなく、テレビの記者会見に注目する。

記者会見、というよりも謝罪会見は、ほんの些細な一言でも、わずかな表情でも、対応を誤れば、世間からの信頼は失墜し、クレームの電話が逆に殺到することとなる。

ここは先日、しっかり研修を受けてきたという社長の豊中に賭けるしかなかったが、逆に、ここで当社が被害者の方々や世間、マスコミに誠意ある対応を見せることができれば、今までスピード感を持って適切に対応し、早め、早めに、そして正直に公表に踏み切ったことも評価されるはず、と康平も含めた緊急対策本部のメンバーは考えていた。

問合せ専用電話窓口の受付時間は9時から17時まで。15時半~16時くらいまでで中継が打ち切られたとしても、今日の残り時間は1時間~1時間半で、社員みんなの今日の電話対応はとりあえず、終わる。

やがて、最大の山場である記者会見が始まる15時を迎えた。

各テレビ局で放映されていたワイドショーは、記者会見会場に中継を切り替えた。

記者会見の出席者は、豊中社長、西山常務、増田取締役営業部長、山田執行役員社内システム部長、田村人事部長の5名で、杉浦広報部長が司会を務めた。

テレビで中継が始まると、管理本部に殺到していた電話が目に見えて減った。

やはりこの件に興味を持つ人の多くは、記者会見のテレビ中継を見ているのだろう。

康平は記者会見が無事に終わるか、不安で仕方なかったが、真田、館山は、
『豊中社長は、やる時はやる人だから大丈夫。研修も受けたみたいだし』
と言っていた。

電話応対が一旦、落ち着いた各社員も、緊張の面持ちでテレビ中継を見守っていた。

そしていざ貴社会見が始まると・・・豊中の対応は驚くほどに見事だった。

神妙な面持ちで誠実さを感じさせる謝罪から始まり、
『あくまで当社は加害者』
というスタンスを一貫して守った。

そして、一切、言い訳がましさや責任逃れの感がない、分かりやすさと明確さを持った説明を行い続けた。

さらには、被害者への対応と、万が一、二次被害、つまり悪用が起きたと思われる場合の対応、および今後の再発予防プランについても詳細に説明し、それに目途がつくまでは、経営陣一同は無報酬の上で、最重要項目として全力で取り組むこと。その上で、あらためて説明の場を持ち、世間や被害者からの納得や信頼を得られないと判断した場合には、すぐに代表取締役を辞任することを明言した。

そして、記者からの質問にも丁寧に、正直に、的確に、そして制限時間を設けることなく、答え続けた。リスクマネジメントの専門家である康平の目から見ても、文句のつけようのない、見事な謝罪会見だった。

やがて、記者からの質問時間の途中で、各局は中継を続々と終え、ワイドショーのスタジオにカメラを切り替えた。

あまりにも突っ込みどころがなかったため、これ以上、中継をし続けても、批判して盛り上がるネタが出てこない、という判断もあったのかもしれない。

その記者会見の中継を見ていた、とある有力コメンテーターが、

「スマートバイト社の社員が求人サイトの登録者個人情報を故意に持ち出し、名簿業者に販売したことは責められてしかるべきですが、その後の会社の対応としては実に見事だったと思います。早急な対応で二次被害をほぼ防ぎ、迅速で適切な情報公開を行い、記者会見でも経営陣の真摯さが最初から最後まで見て取れました。不祥事を起こしてしまった企業が見習うべき姿勢です」

とテレビ番組で発言してくれたことをきっかけに、世間では『スマートバイト社養護』のムードがテレビやインターネット上で広がった。豊中社長の記者会見での対応を褒める声が多かった。

記者会見後は、しばらくはマスコミ関係を中心にいくつか問合せがあったものの、その日の電話受付終了時刻である17時前にはほぼ、電話はあまりかかってこなくなっていた。各部門からも、もうだいぶ、落ち着いているとの連絡が入った。

あくまで被害者は、個人情報を漏洩されてしまった登録者の方々であり、スマートバイト社は加害者であることに変わりはないため、社内はお祝いムードではなかったものの、安堵感が広がっていた。

誰かが1つでも対応を間違えたら、社内は阿鼻叫喚の地獄絵図となることを覚悟していた康平だったが、約半日で、事態はほぼ収束を迎えることができた。

ただしこの後、真田、館山、清寺、康平は、実際の被害者から入った電話・メールの対応について、1人1人確認し、対応を個別検討することになっていた。光浦顧問弁護士と共に、19時から4名での打ち合わせが始まる。

おそらく今日も夜通しで、徹夜となるだろうが、康平の心も、とりあえずの安堵感に満たされていた。

ただ康平は、肉体的・精神的な疲れがピークに達したせいか、胸の中の鉛はさらに重たく、そして苦しくなっており、ついには頭もボーっとしてきて、息苦しさも感じて来た。

もういつ『バツンッ』と身体中の電源が落ちてもおかしくない。しかし最低限、この個人情報漏えい事故の『被害者への対応』だけはやり遂げたいという想いから、会議への参加は辞退するつもりはなかった。

17時を過ぎると、康平は真由美に
『大丈夫でしたか?』
というメールを送った。真由美からは、

「はい、全然!部門によって違ったみたいですけど、ウチの部の取引先企業からは、営業マンの携帯電話に直接かかってくるケースが多かったみたいで、私たちが電話を取る、部門の代表電話はそんなに鳴らなかったです。やる気満々だったから、もっとかかってきても良かったくらい笑」

と返ってきて、康平は「ホッ」と息を吐いた。しばらく、メールのやりとりが続いた。

「それは良かった。安心しました。全体的にも、記者会見の後は急に落ち着いたみたいです。体調不良者も、特に出ないで終わりました」

「そうなんだ!良かったです。ねえ、高橋さん。あの電話・メール対応マニュアル、一晩であそこまで作ったの?」

「あ、はい。疲れ果てたけど笑」

「すごすぎる!臨時社員総会も、カッコよかったですよ」

「ありがとうございます。会社もなんとか無事でよかったです」

「今日は早く帰れるの?」

「それが、これから被害者からの問い合わせの対応を個別検討する会議があって。今日も、遅くなりそうです笑」

「え!?さすがに倒れちゃいますよ…。お願い、もう無理しないで…」

「心配かけてごめん。今日、なんとかやり切れば、きっともう終わりだから」

「・・・うん。でも、少しでも『限界だ』って思ったら、もうストップして。お願い。これだけは約束して」

「うん、約束する。ありがとう」

やがて19時近くになり、個別検討会議の時間がやってきた。真田、館山も
『康平、もうムリするな』
と言ってくれたが、途中で投げ出す事だけはしたくなかった康平は、
『いや、まだ大丈夫です』
と強がり、会議に参加した。

結局、会議とその後の対応で、仕事が終わったのは朝の4時だった。症状は続いていたものの、なんとかギリギリで、無事に乗り切ることができた。翌朝9時からは、今度は緊急対策本部の会議が始まる。

***収束***


「・・・だいぶ、落ち着いたみたいだな」
豊中は、西山から電話・メールの問い合わせ状況を確認すると、安心したように呟いた。

「社長の記者会見のおかげです」
「素晴らしい記者会見でした」

と数名が豊中を持ち上げたが、

「それよりも、社員みんなの努力を褒めたたえたい。みんな、一丸となって頑張ってくれたた。あと緊急なのは、被害者への対応だ」

「はい、もちろんでございます」

西山が昨日の真田、館山、清寺、康平、光浦顧問弁護士での個別検討会議の内容を報告し、早急な対応をすでに開始している旨を伝えた。
豊中は、

「分かった。後は再発予防策の実行と、まだ多少、入ってきている電話・メール対応、今回の件の事後検証、といったところだな。まだ状況は少し動いているが、一旦、この会は解散で良いだろう」

とコメントし、緊急対策本部は解散された。真田・清寺・館山・康平はその後、残務対応を行い、18時の定時を迎えると、総務部で臨時部会が開催され、真田や館山が、それぞれ社員たちの労をねぎらい、一連の緊急対応は一旦、終了した。

部会の最後に北沢リーダーが、

「いや、みんな大変でしたけど、特に、真田さん、清寺さん、館山さん、そして高橋さん。徹夜続きでしたが、本当にお疲れ様でした!」

と大きな声で言うと、もうボロボロになりきった4人に向けて、全員から盛大な拍手が起こった。

真田は目頭を強く押さえて、館山は、腕を組んで真っ赤な目をしながら上を向いていた。強い緊張感とプレッシャーの中、忙殺される時間が続いたこの場にいる全員も、感極まり、こみ上げてくるものを必死におさえている人が多かった。

康平は、これで何となく、正式にこの総務部の一員として認められたような気がして、誇らしい気持ちに包まれていた。
ふいに真田が、

「みんな気付いていると思うけど、康平くんは今回、緊急対策本部の司令塔として、本当に迅速で的確な動きをしてくれたんだ。みんな、良かったら高橋くんにもう一度、拍手を送ってくれないかな」

と言うと、『すごい!』『わー!』という声たちと共に、盛大な拍手が鳴り響いた。

「高橋さん、立って一言お願いします!」

北沢がはやし立てると、みんながまた歓声と拍手を送る。康平は心の中で

(北沢さん、いきなり振らないでくださいよ・・・)

と思ったが、いつまでも自分のせいで会議が長引いてはいけないので、サッと挨拶を済まそうと思い、席を立った。


・・・その瞬間、だった。視界が『グルグルッ』と回転した。膝に力が入らなくなり、ガクガクと崩れ落ち、下で支えてくれるはずの椅子からも『バタンッ』と転落した。

(あれ・・・?)

皆が驚き、悲鳴も聞こえた。何人かが近くに慌てて駆け寄ってきたが、自分だけは、そことは一線が引かれた別の世界にいるような気がした。意識が遠のいていくのが分かった。

(あれ?どうしたんだろう・・・)

「康平くん!大丈夫か!?」

「康平―!!」

「・・・・・・」

真田と館山の呼びかける声が聞こえたが、もう声が出せなかった。

「マズい!救急車だ!!!急いで!!あと、ご家族に連絡を!」

「分かりました!!」

何名かが、部屋を出ていくのが確認できた。幸いにも、少しだけ意識が戻ってきて、立つことはできなかったが、かろうじて声は出せるようになった。

「あ・・・なんか・・・すみません」

「康平くん、聞こえるか?」

真田の声が聞こえる。

「・・・はい・・・聞こえます」

「良かった。大丈夫、すぐに、救急車が来るから。気持ち悪くはないか?」

「大丈夫です・・・ちょっと・・・フラフラするだけ・・・です。ちょっと、横に・・・なっていいですか?」

「うん、わかった。じゃあちょっと横になろうか」

広い会議室の中で横たわる康平。真田、館山、清寺、立花、北沢、黒須、宮澤の姿が確認できた。

(みんなが自分のことを、心配そうに見守ってくれている。このまま、この素敵な仲間たちに囲まれながら、この生を閉じるのも悪くないかな・・・なんて)

などと呆然とした頭で考えていた。

「救急車、もうすぐ到着するそうです!」

荻原香の声が耳に入ってきた。

「康平、やっぱりキツかったよな…。無理させてホントごめんな。頼む、なんとか無事でいてくれ」

館山の顔が見えた。涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。

(本当に良い人だ。館山さんと出会えて、良かった・・・)

そんなことを思っていると、「スーッ」と意識がまた薄れていくのが分かった。


***病院にて***



病院のベッドで点滴を打たれながら横たわる康平。深い眠りに着いていて、まだ目は覚めていなかった。真田と館山がその横に座り、康平を見守っていた。時間は、夜24時近かった。

すでに誰もおらず、静寂に包まれた待合室の方から、『バタバタバタッ』と人が駆けつけてくる音が、病室の中まで聞こえてきた。

真田と館山は『あ、もしかして』と顔を合わせて、急いで病室のドアを開けた。一人の男性が、激しく息を切らしながら、真田、館山の前に来た。

康平の父、高橋圭だった。

「・・・高橋康平の父です!真田課長さんですか?」

「はい!スマートバイト社総務部課長の真田です」

「同じくスマートバイト社総務部課長代理の館山と申します」

「この度は、康平さんがこのようなことになってしまい、本当に申し訳ありません」

真田、館山が深く頭を下げる。

「康平の容態は!!?」

「幸い命に別情はなく、検査結果も特段の異常はなかったのですが・・・極度のストレスと過労、睡眠不足、軽度の栄養失調により気を失ってしまった、との医師の診断でした。今、点滴を打ちながら、眠っています。しばらくすれば目を覚ますはず、という話でした」

「命に別状はない・・・もうすぐ目を覚ます・・・良かった・・・。いや、こちらこそ、康平が皆さまにご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした」

「いや!お父様、実はこの3日間、極めて過酷な業務を康平さんにお願いすることになってしまいまして、その結果、こんな事態に・・・本当に、本当に申し訳ありませんでした」

再び、真田、館山が深く頭を下げた。

「よろしければ、病室に入ってもよろしいでしょうか」

「はい、もちろんです。失礼致しました。こちらへ」

病室内に入り、康平がすやすやと眠っている姿を確認すると、圭は少しだけ安心したかのようだった。

「すみません、妻に1本、メールを送ってもよろしいでしょうか」

「はい、もちろんです」

圭は館山が用紙した椅子に

「ありがとうございます。失礼します」

と腰をかけ、2人にも座ることを促した後、携帯電話を取り出しメールを打ち始めた。真田、館山も緊張の面持ちで着座した。やがてメールを打ち終わると、

「先ほどおっしゃっていた“この3日間”というのは・・・ニュースで取りあげられていた、例の・・・」

「はい、個人情報漏えい事件です。お恥ずかしい限りですが、社内に緊急対応を指揮できる社員が康平さんしかおらず、一番過酷な役割を任せることとなってしまいました」

「なるほど・・・康平の働きぶりはいかがでしたか?」

「それはもう、康平さんがいなければ、今頃、会社は吹き飛んでいたかもしれません。そのくらい、言葉では言い表せないほど、素晴らしい活躍をしていただけました」

「そうでしたか。それは良かった・・・」

真田と館山は、圭が、その言葉とは裏腹に、どこか寂しそうな、そして申し訳なさそうな表情をしていたのが気になった。圭はすぐに二人の心中を察したのか、話を始めた。

「実は・・・康平がうつ病になった根本原因は、私にあるのではと考えていまして」

「・・・え??でも、康平さんがうつ病に罹患されたのは、社会人になられてからですよね?」

「そうなのですが・・・実は私、康平が生まれて、小さい頃から、一度も彼を“誉めて”あげたことがないのです。どうも、昔から人を褒めるのが苦手でして」

「・・・・・・」

「康平は、中学生になった頃から、勉強に、部活に、受験にと、親から見ても驚くくらいの努力家でした。壊れてしまうのではないか、と心配になってしまうほどの。そして社会人になると、さらに頑張り、頑張り過ぎ、そして、うつ病に罹患してしまいました・・・」

「・・・・・・」

「最近、知ったのですが、親に褒められることのないまま育った子どもは、自己肯定感が低くなり、大人になっても自分で自分を認めてあげることができず、他人から認められることでしか、自分の存在価値を見出すことができなくなってしまう傾向があるそうです。それで分かりました。康平がどうして、こんなにまでして、無茶ばかりするのかが」

「・・・本人も気付いていない心の奥底では、本当はお父様に褒められたくて、認められたくて、自分の限界を超えてまで頑張ってしまう・・・」

「・・・そうなのかもしれません。それが災いして、うつ病に・・・。さらに私は、うつ病に対する理解が足りず、『働きたくないだけ』『甘えている』『メンタルが弱い』など、絶対に言ってはいけない言葉を、康平にたくさん使ってしまいました。本当に、親として・・・」

「・・・あの、お父様」

館山が話を遮った。

「康平さんは、本当に素晴らしい息子さんです。皆に信頼され、慕われ、好かれています。私たちのかけがいのない仲間です。たくさんの苦労をしてきたからこそ、人間としての深みが、優しさがあります。お父様、これからの康平さんの将来は間違いなく明るく、幸せです。どうか、どうかお父様、ご自分を責めないであげてください。お父様の深い愛情に包まれた厳しさこそが、康平さんを立派な人間に育てたのだと、私は確信しています」

「・・・・・真田さんや館山さんのような素晴らしい仲間に恵まれて、康平はようやく報われたのかもしれない・・・」

圭はそう言って立ち上がると、

「康平のことを、どうか、どうか、これからもよろしくお願い致します」

と深く、頭を下げた。二人も慌てて立ち上がり、

「とんでもないです。こちらこそ、康平さんをとても頼りにしています」

と言葉を紡ぎ、深く、頭を下げた。

「・・・うーん」

康平が目を覚ましたのは、その時だった。

「・・・康平!康平!!大丈夫か!!?」

「康平くん!!」
「康平!!目が覚めたか」

「・・・あれ?父さん?!真田さん、館山さんも・・・?あれ?ていうか、ここ、どこだ?あれ?」

「康平くん、体調は、大丈夫?さっき、会議中に倒れて、今は病院だよ。お父様が、すぐに駆け付けてくれた。出張先の札幌から、急いで駆けつけてくれたんだよ」

「え・・・あ!そうだ!フラフラしてきて・・・え?病院!?え、父さん、札幌から来たの?」

「・・・うん、そうだ」

「それは・・・迷惑かけてごめん。真田さんも、館山さんも、すみません」
「なに言っているんだよ、康平。ムチャをさせたのは俺らだ。本当、ごめんな。申し訳なかった。体調はどうだ?」

「あ、いや、身体に力が入らないですけど・・・うつ病の症状とかはない感じがします」

「極度のストレスと過労、睡眠不足、軽度の栄養失調などで、気を失ってしまったみたい。しばらく休めば大丈夫みたいだよ。今、医者の先生を呼ぶからね」

そう言うと、真田は病室のナースコールで看護師に内線をかけた。医師はすぐにやってきて、診察と問診を行うと、

「うん、大丈夫ですね。点滴を打って、しばらく休めば、すぐに良くなるでしょう」

と告げた。

「・・・あれ、ところで今、何時ですか?僕、どれくらい眠っていました?」

「今、夜の24時半だよ。倒れたのは18時半くらいだったから、6時間くらい眠っていたのかな」

「うわー、そんなに・・・。すみません、長時間、付き添わせてしまって。父さんも、ありがとう」

「明日は木曜日だから、2日間、会社を休んで、まずは土日と併せて4日間、しっかり身体を休めて」

「・・・え、いや・・・明日と明後日も出勤します」

「康平、ダメだ。無理はするな。真田課長のおっしゃる通り、まずはしっかり身体を休めるんだ」

圭が心配そうに言うと、康平は拒否した。

「それだとダメなんだ。休んだら、経営陣からマイナス評価をされちゃう」

「大丈夫だ、康平。3日間、寝る間もなく働き詰めだったんだから。1日、2日くらい休んだところで、さすがに問題視はされないよ」

館山がなだめても、康平はまた拒否した。

「ダメなんです。もう少しなんです。もう少しで、ようやく正社員になれそうなのに。絶対に、行きます」

「康平くん、まずは、まずは休もう」

「康平、大丈夫だから」

すると圭が呟いた。

「・・・分かった。康平。出勤しなさい」

「・・・え??」

真田、館山が驚きの表情で圭を見つめる。

「今日、ゆっくりここで休んで、明日と明後日、出勤するんだ・・・でも」

「・・・ん?」

「でも・・・・・・たとえ出勤できなくても、正社員でもそうでなくても。もしまたうつ病で寝込むことになっても。父さんは・・・康平のことを・・・・・・いつも誇りに思っている。昔から・・・いつも、ずっとそうだった」

「・・・父さん?どうしたの?」

「・・・ん?あれ?なんだこれ?」

康平の目から、思いがけず溢れ出るものがあった。

理由は分からなかったが、どうやっても流れ出てくるものを止められなかった。ふと気づくと、康平は、まだ力の入らない身体で、それでも自分を包む毛布を「ギュッ」と握り締め、目を強くつむり、肩を震わせていた。

館山が康平の肩にそっと手を乗せた。

「良かったな、康平」

「・・・・・・」

康平はしばらく、何も言うことができなかったが、心の中で、これ以上ない温かいものを感じていた。ずっと、この温かさに触れていたい、そう願った。しばらくして、「フゥー」と深呼吸をすると、

「父さん、ありがとう。真田さんも、館山さんも、ありがとうございます。明日と明後日、出勤させてください」

「分かったよ、康平くん。でも、絶対にムリはしないで」

「とにかく、今日はゆっくり休むんだ」

「はい。ありがとうございます」

圭は、真田、館山の方に気を配った。

「真田さん、館山さん、もうこんな時間です。康平のために、本当にありがとうございます。もう終電もないでしょうから、私の方で、近くのビジネスホテルを手配させてください」

「いやいや!お父様。ここは、当社の方でご宿泊の手配をさせてください。と言うか、実はもうしてあるのです。康平さんが倒れたのは私たちの責任なので。お願いします、どうかここだけは」

真田、そして館山が深く頭を下げた。

「それは・・・本当に申し訳ない。それでは、お言葉に甘えて。でもこの御礼は、別の機会にまた持たせてもらえませんか?康平が快復したら、私の方で一席、設けさせていただけないでしょうか」

笑顔で圭が提案した。

「御礼だなんてとんでもないです。でも、身に余る光栄です。ありがとうございます。それではこちらこそ、お言葉に甘えて」

(さすがお互い、折り合いをつけるのが上手いな・・・ハハ)

康平はそう思いつつ、皆にあらためて礼を言うと、3人は
『ゆっくり休んで』という言葉と共に、病室を静かに出て行った。
少しずつ身体に力が入るようになってきた康平は、携帯電話を探した。幸い、手の届くところにあった。

携帯電話を開くと、真由美からのメールが来ていたので、開いてみた。

「高橋さん。今日、お倒れになって救急車で運ばれたと聞きました。心配で、心配で、多分、今日は寝れなさそうです」

とだけ書かれていた。時間は、夜1時過ぎになろうとしていた。
『もしかて、まだ起きているのかな?』
と思い、ふと、メールではなく電話をかけてみた。ワンコールで、真由美は電話に出た。

「高橋さん!?大丈夫ですか!?」

「あ、伊達さん、夜分にすみません。先ほど目が覚めまして」

「お身体は!?」

「いやそれが、極度のストレスと過労、あと、睡眠不足と軽度の栄養不足とかが重なって、会議中に意識を失ってしまったみたいで・・・お恥ずかしい限りです。でももう、大丈夫です。今、病院で点滴を打ってもらっているので、すぐに快復するかと」

「良かった・・・もう!心配で寝られなかったんだから!なんてね。ウフフッ」

「ハハ。ごめん、ごめん」

「でも・・・」

「・・・ん?でも?」

「・・・本当にご無事で、良かった。すごい・・・激務だったはずだから・・・」

真由美が鼻をすすっているのが聞き取れた。

「ありがとう。心配かけてごめんね。そうだ。まだ『みょうらい』に行く日を決めてなかったね」

「うん!でも、お身体をまずは快復させないと」

「そうだね。明日は木曜日だけど、さすがに今週はキツいだろうから、来週の金曜日くらいは?その頃にはさすがに大丈夫だと思うので」

「はい、ぜひ!そうしましょう。楽しみ!」

「あの・・・」

「・・・はい」

「その時に・・・きみに伝えたい言葉があるんだ」

「・・・期待していい言葉?」

「・・・きみ次第、かな」

「じゃあ・・・期待しています。って、ようやく安心したところなのに、また寝付けなくなっちゃうじゃない!なんてね、ウフフッ」

「ハハ、ごめん、ごめん」

「高橋さん、今日はとにかく、ゆっくり休んで。どうせ明日も、はいつくばってでも出社するつもりなんでしょ?」

「・・・分かってたかあ」

「分かってますよ!」

「うつっぽかったら諦めようと思っていたけど、単なる過労って医者に言われたからね。でも・・・」

「・・・ん?でも?」

「・・・伊達さんは、俺のことなのに・・・いつも俺よりも・・・詳しい」

「ウフフッ。そう言ってもらえて、嬉しい!来週、楽しみにしていますよ。あ、社内でも声かけてくださいね」

「はい、喜んで。寝れそう?」

「うん、安心したら、一気に眠くなってきた」

「それは良かった。じゃあ、俺も寝るね」

「おやすみなさい、高橋さん。ゆっくり休んでね」

「伊達さんもね。じゃあ、おやすみ」

電話を切ると、康平はそのまま目を閉じた。

すると、スマートバイト社に入社してから今までのことが、なぜか走馬灯のようによみがえってきた。

入社初日のあいさつでの大失敗。
館山やタケとの出会い。
最初に与えられた仕事が、新卒社員の黒須美津子と宮澤静香のアシスタント業務、そして大量の郵便物の仕分と各部門への配達だったこと。
総務部員のみんなのチームワークの良さと意欲の高さを見るたびに、疎外感を覚えていた日々のこと。
エレベーター内で、石川からいきなり口撃されたこと。
忘年会での大失敗。
障がい者雇用社員4人での二次会。
その帰りに送られてきた亮介の写真。
そしてその後の・・・自殺未遂。
真由美との出会いによってはがれていった謎の黒いどすぐろいもの。
館山のタケへの言葉での気付き。
そこから4か月間の地道な仕事の積み重ね。
タケとの大喧嘩。
その後、突然巡って来た個人情報漏えい事件での緊急対策本部での役割。
そして会議中に意識を失い、救急車で運ばれた今。

入社してからたった9ヶ月の間で、本当に色々なことがあった。でも、今回の漏洩事件で活躍できたことで、目標だった『正社員登用』は果たせそうな気がしていた。

当初、正社員へ登用されることは、

『東証一部上場企業の正社員となって、うつ病で“完全崩壊”した人生を建て直すこと』

を意味していた。でも、今は違った。

もちろん、正社員への登用は嬉しいけど、それよりも、とにかくこの会社の役に立って、この会社にずっと在籍していたい。総務部の仲間たち、そして真由美の近くにずっといたい。いつの間にか、そればかりを願っている自分がいた。

真夜中の淵でそんなことをボーっと考えているうちに、康平はいつの間にか安らかに眠りに落ちていた。

この後、予想もしていなかった、最悪の結末を迎えることも知らずに。

最終章



***人事面談***



「おはようございます!昨日は大変ご迷惑をおかけしました」

会議中に意識を失い、救急車で運ばれた康平。それは18時頃のことだったので、翌日は総務部員の誰もが、
『高橋さんは、少なくとも今日・明日は休みになるだろう』
と思っていた。
しかし、8時50分頃に普通に出社してきた康平に、誰もが驚きを隠せなかった。

「大丈夫ですか?」
「ムリしないでください!」

という言葉の数々に感謝の念を感じながらお礼を言うと、いつもと同じように業務に取り掛かった。

個人情報漏えい事故の康平がやるべき残務対応もだいぶ目途が立ってきたため、これまでの3日間と比べると

(いつもの日常は、なんて穏やかで幸せなんだろう・・・)

としみじみと思った。

とはいえ、
『まだ身体が万全ではないのでは』
と皆が配慮してくれて、郵便物の配達業務は北沢が午前、午後と代わりに対応してくれた。

康平はあらためて、総務部の仲間たちに囲まれながら日々を送る幸せを実感し、その日の業務を無事に終えると、翌日も普通に出勤して、週末を迎えた。そして土日はとにかく眠り、ゆっくりと過ごすことができた。

週が明けて、もうすっかり元気になった康平はいつも通り仕事をこなし、定時の18時から10分ほど前に、その日の業務を終えた。

(今日は、割と早く落ち着いたな。帰りの準備でも始めちゃおうかな)

などと考えていた時に、人事部長の田村から声をかけられた。

「高橋くん、定時直前に申し訳ないけど、今日はこの後、少し大丈夫かい?」

「あ、はい。大丈夫ですが・・・」

「実は、営業本部長の増田取締役が先日の緊急対応の後処理で、急遽、いくつか打合せしたいことがあるそうなので、今すぐ1つ下の13FのB会議室へ行って欲しいんだ」

「はい、分かりました」

「それでその後、19時くらいから、西山常務と私と高橋くんで、急遽、人事面談を行いたいんだけど、大丈夫?」

「はい、了解しました。大丈夫です」

「そしたら、真田課長には私の方から言っておくから、今すぐ13Fの会議室まで行ってくれる?終わったら、その足で7Fの常務取締役室に来てくれるかな」

「はい、分かりました」

(・・・ついに来たか)

個人情報漏えい事故の緊急対応では、康平は極めて重要な役割を果たすことができた。館山も
『この件が無事に終わったら、西山と刺し違えてでも、康平を正社員登用させる』
と言ってくれていた。

もう以前ほど、雇用形態にはこだわりはなかったけど、それでもやはり、嬉しい気持ちが湧き上がって来た。

(・・・長かったような、短かったような)

康平はこの9か月間の思い出をあらためて振り返ると、総務部の仲間たちや、真由美への感謝の気持ちが胸いっぱいに広がった。

康平は13FのB会議室へ向かうと、取締役営業本部長の増田がすでに待機しており、『緊急で』と称して、いくつかの相談を受けた。

(・・・これ別に、緊急に打合せしなくても良い内容では?)

そう思うくらいの軽い内容だったが、結局、1時間ほど、打合せを行った。

19時少し前に打合せを終えると、康平はそのまま、田村に面談の場所として指定されていた、7Fにある取締役室、つまり西山専用に割り当てられている部屋へと向かった。

立派な出入口のドアの前に立つと、あらためて気が引き締まる。

19時になったのでドアをノックし『どうぞ』という声が聞こえると、『失礼します』と答え、ドアを開け部屋に入った。

そこには、社長室で見たものと同じく、上場企業の取締役室にふさわしい、高級ホテルのフロントにでも置いてありそうな豪華なソファとテーブルがあり、西山と田村が並んで座っていた。

「高橋くん、おつかれさま。ここに座って。」

「はい、失礼致します」

テーブルを挟んだ向かいのソファに腰をかけた。笑顔をのぞかせている田村から話が切り出された。

「高橋くん、今回の漏えい事故の緊急対応、ご苦労様でした。本当に素晴らしい活躍だったね」

「はい、ありがとうございます」

胸の高まりを隠すように、できる限りの冷静さを保ちながら答えた。

次の言葉は
『高橋くんの正社員登用について、具体的な話がしたいのだけど・・・』
などだろうか。

(そういえば、希望の条件とか担当業務とか、何も考えてなかったな・・・)

そんなことを思った次の瞬間、笑顔だった田村が一転、あきれたような表情を作った。

「・・・でも、さすがにやり過ぎじゃないかなあ」

「・・・え?」

「自分を正社員登用するように、館山課長代理に依頼して、総務部員の署名集めをさせたそうだね」

「・・・は?」

田村が何を言っているのか、まったく理解ができなかった。

(館山さんに依頼して、総務部員の署名集めをさせた?)

「・・・え?どういうことでしょうか?」

「しらばっくれるな!!」

田村の怒号が室内に響き渡る。

「すみません、本当に何を仰っているのか、分かりません」

(・・・なんだ?なにが起きたんだ??)

「じゃあ、これは何だ?!」

田村が1枚の紙を出す。そこには

『株式会社スマートバイト社 代表取締役会長 林達郎殿』
という宛先と、

『嘱託社員 高橋康平氏の正社員登用に関する請願書』

という件名と、

『請願者 有志一同』

の文字。

その下に

『高橋康平氏の正社員登用を強く希望する』

という旨の文章が書かれており、さらにその下には、総務部全員の氏名が手書きで書いてあった。

「・・・な、な、なんですか!?これは・・・え?」

「君が館山課長代理にけしかけて、これを皆に書いてもらうように依頼をしたことは分かっているんだ。こんな露骨で過激な社内政治活動を行う人間を、正社員に登用することは不可能だ!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。こんなこと!こんなことするはずないじゃないですか!」

言い争いの様相を呈してくると、西山常務がその場の空気を整えるように口を開いた。

「この件について、これ以上、話し合いをするつもりはない。君との嘱託社員契約は即刻、終了とする。明日、引継ぎをして荷物を片付けたらすぐにこの会社から出ていきなさい」

「西山常務、ちょっと、ちょっとお待ちください!」

「せっかく、君を正社員登用にするために動こうと思っていたのに。余計なことをしてくれおって・・・まったく」

「私は何もしていません!」

「話す事はない。もう、行っていいぞ」

「出ていきなさい!高橋くん!」

半ば強制的に取締役室から追い出されると、康平は真っ白になった頭の中と共に、口を開いてぽかんと突っ立っていることしかできなかった。

(え、『クビ』・・・?)

その二文字だけが、頭の中で何度もリピートされる。しばらくして冷静さを取り戻してくると、次に浮かんできたのは

(・・・館山さん?)

だった。

(そうだ、館山さんにまず話を聞かなければ)

フリーズしていた頭が突然フル回転しだし、7Fから14Fの総務部に向かって全力でかけ出した。オーバーヒート状態で頭が回転しすぎて、逆に混乱状態に陥った。

エレベーターに乗り、総務部のある14Fへ向かっていると、途中階でストップした。ドアが開くと、たくさんの書類を両手に抱えた真由美が乗って来た。一瞬、笑顔を見せた真由美だったが、顔面蒼白で、息を激しく切らしている康平を見ると、何か重大なことが起きたのをすぐに察知したようだった。

「高橋さん!何があったんですか⁉」

「・・・さっき、取締役室に呼ばれて、西山常務と田村部長から、僕が自分を正社員登用するよう、館山さんに依頼して、総務部員の署名集めをさせた、と言われました」

「・・・え⁉ど、どういうこと⁉」

「僕も全然、分かりません。今、それを館山さんに確認しに向かっているところです。常務からはクビを通告されました。」

・・・バタン!!

真由美が抱えていた書類を全部、落とした。

康平は、その音で少しだけ冷静さを取り戻して、落ちた書類を全部拾い、真由美の腕にそっと戻した。真由美も真っ青な顔をしていた。書類を受け取った認識もないようで、ただただ茫然としていた。

エレベーターが総務部のある14Fフロアに着く。真由美も14Fに用事があったようで、一緒に降りた。ドアが開くや否や、康平がかけ出すと、真由美が声をかけた。

「・・・高橋さん!」

「はい!」

「落ち着いたらで構いませんので、ご連絡いただいてもいいですか?」

「分かりました!あとで連絡します!」

康平が急いで総務部に向かうと、館山を見つけた。康平が駆け寄る。その表情を見て驚いた。館山は呆然として、真っ赤に充血した目で、今にも椅子から滑り落ちそうな状態で力なく座っていた。

「館山さん!館山さん!?」

「・・・康平」

「何が、何があったんですか!!?」

「はめ・・・られた」

「はめられた?誰に?誰に!?館山さん!?」


***取締役室にて***



西山と田村はソファの席に座り、話を続けていた。

「ふう、とりあえず一件落着しそうですねえ」

「いや。やり方が手荒だったので心配だ。もう少し、様子を注意深く観察してくれ」

「はい、分かりました。」

「おい!入ってきていいぞ!」

康平が出入りしたドアとは異なる、取締役室の奥の方にある小部屋のドアが開いた。

「失礼します」

との声と共に、小部屋の中から人が一人、出てきた。



・・・・・・真田。

ソファの方に向かって歩いてきた真田は、西山が満面の笑みを浮かべて腕を伸ばし差し出した席に

「失礼します」

と言って腰を掛けた。先ほど、康平が座っていた場所だ。

「ご苦労だったな。早急に幕を締める形となったが、よくやってくれた」

「ありがとうございます」

「お前は課長から部長代理に昇格させる。約束通り、館山は、地下2階の倉庫フロアにある役員運転手待機室の常駐管理担当として、異動させる。仕事は何もないが、な」

真田はややうつむき加減で、『ニヤッ』と笑みを浮かべた。


***総務部にて***



「康平、外に行かないか」

力なく館山が呟く。

「・・・分かりました。」

焦る気持ちを押さえながら、康平は館山に着いていく。会社近くの中華料理屋に移動すると、館山はビールを2つ頼んだ。注文を終えるや否や、康平は、すぐに話を切り出した。

「館山さん!いったい、何があったんですか?はめられたって・・・誰に?」

「・・・真田だ」

「・・・え!?・・・真田さん??」

「最初から、裏切られていた。西山とつながっていた。真田は俺を排除して、西山は康平を退職に追い込むことが最終目標だったみたいだ。康平、本当にすまない」

康平は頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。

「聞きたいことがあり過ぎて、何から聞いていいか分からないのですが・・・まず、僕が自分を正社員登用するよう、館山さんに総務部員の署名集めを依頼した、っていうのは?」

「今日、突然、真田から会議室に呼び出された。業務のことで、打合せしたいことがあると。そうしたら・・・」

「そうしたら??」

「打合せ後、真田が青白い顔をして言ったんだ。」

「な、なんて?」

その時の様子を館山はこう話した。


***一刀両断***



館山は、真田から
『相談したい案件がある』
と会議室に呼ばれ打合せをしていた。

「よし、これでこの件は大丈夫だな。ちょっと時間かかるけど、あとは俺の方でやっとくよ」

「ありがとうございます。恩に着ます、館山さん」

「ところでさ、康平の正社員登用の件だけど、もう決まったようなものだよな。やったな、真田。あいつは『総務部リスクマネジメント担当』だな」

「いや、実はその件も相談しようと思っていたのですが・・・」

真田が急に深刻な表情になり、顔色も青白くなった。

「・・・どうした?」

「実は今日、常務と打合せがあったので、その話を軽く振ってみたのですが、常務が『高橋の正社員登用はない』と言ったんです」

「・・・は?あれだけの活躍をしたのに!?ありえないだろ!」

「『今回、高橋がマニュアルなどをたくさん作ったから、それをもとに、お前らであとはやれ!』と」

「は!?・・・ふ、ふざけるな!!!」

館山が怒気を強めた。

「いや、真田。ウチの会社はもっと変わらないとダメだって。最初は、障がい者雇用で入社したとしても、キャリアアップを希望して勤怠もしっかりしている人材は、体調も考慮しながらどんどん活躍の場を与えてあげないと。そして成果を出せたら、ちゃんと正社員登用して、待遇をしっかりしてあげないと」

「俺もそう思います。だから、何とか、常務の気持ちを変えて、康平くんを正社員登用する手段はないのかと、ずっと考えていたんですけど・・・」

「どうすれば常務の気が変わるか、か。とりあえず、俺は直談判しにいく。康平と約束したんだ。『西山と刺し違えてでも、お前を正社員に登用させる』ってな」

「それだけだと『ダメだ』の一点張りで終わってしまうと思います」

「くっ・・・何か手段はないものか・・・。」

「俺、常務の態度が本当に腹立たしいです。あんなに、あんなに活躍して会社の危機を防いでくれた康平くんに、そんなひどい扱いをするなんて・・・。」

「俺もだ、真田」

館山が拳を強く握りしめる。全身がワナワナと震え、顔は真っ赤に染まっていた。

「・・・俺、それでさっき思いついたんですけど、もう大勝負に出ようかと。」

「大勝負?」

「『署名集め』です」

「康平の正社員登用に関しての?」

「・・・はい。総務部員と、先日の緊急対策本部の中で署名してくれそうなメンバー。あとは康平くんが郵便物を配達している各部門の事務社員たち。それだけの人たちが康平くんの正社員登用を希望している、と。そうすれば、常務の考えも変わるかも」

「・・・いや、待て、真田。それはさすがに過激すぎないか。過激な社内政治活動と受け取られてしまう可能性が高い」

「じゃあ、他にどうやったら常務の気が変わるんですか!!」

いつも冷静な真田が珍しく、声を強めた。

「真田・・・お前の気持ちは分かる。痛いほど分かるが、そのやり方はダメだ。リスクがでかすぎる」

「館山さん、僕は役職こそ上になっていますが、館山さんを先輩として心から尊敬していますし、総務部を一緒に切り盛りするパートナーだと思っています。ですが本当にすみません。『業務命令』を出させてください。僕に協力してもらえませんか?この署名集めはスピード勝負です。館山さんのお力添えが欠かせません。もちろん『業務命令』である以上、全ての責任は全部、僕が持ちます」

「・・・真田。お前、そこまで腹を括っているのか」

「僕も、西山常務と刺し違えてでも、康平くんを正社員に登用したいんです」

「・・・分かった、真田・・・だが最悪、俺らは罰せられるぞ」

「いや、署名集めの起案者を『有志一同』として、誰が発案したのかわからないようにするんです。みんなにも『どこからから回ってきたから署名した』と内緒にしてもらって。そうすれば、僕から西山常務に『この署名が僕のデスクに置いてありました』と切り出せます。その上で僕から『僕や館山さんも同じ気持ちです、何とか康平くんを正社員に登用してもらえないでしょうか』とお願いします」

「うん。だが、それでもやっぱり・・・かなりリスクはでかい。それにスピード勝負だ」

「はい。スピ―ド勝負です。そんな動きをしているってバレた時点で、僕らは処罰を受けます。ですがちょうど今日、西山常務が会食のため、めずらしく定時前に会社を出る予定です」

「ホントか」

「はい、さっき聞きました。なので館山さんは、常務が出て行ったら、総務部のみんなに署名をお願いしてもらっていいですか?みんな不審がるかもしれないけれど、館山さんから言ってもらえれば、みんな書いてくれるはずです。『万一の場合は真田が全て責任を持つ』と言ってもらって大丈夫です。僕はその間に、まずは各フロアの事務社員を回ってきます」

「分かった。じゃあまずは、署名用の用紙を作るか」

「大丈夫です。もう作ってあります」

「お、さすがだな」

「やりましょう。館山さん。この会社、変えてやりましょう」

「・・・わかったよ、真田」

その後、真田の言った通りに、定時少し前に、総務・人事本部門長席に座っていた西山は帰り支度をして、オフィスを出ていった。


「館山さん、これで時間は確保できました。他のフロアの社員は誰もまだ、帰っていないでしょう。俺は早速、各フロアの事務社員のところに行ってきます。その間に、急いで総務部員の署名を!終わりましたら、取り急ぎ僕にメールを入れてください!」

「・・・よし!」

真田が14Fを出て行くと、館山は、急いで総務部員のみんなを回って趣旨を説明して、署名を依頼した。若手社員たちは少し不審がりながらも、
『え、はい。館山さんがそうおっしゃるなら。高橋さん、正社員になれるといいですね』
などと言い、問題なく書いてくれた。

管理職の清寺は、

「館山くん、ちょっとそれは・・・やり過ぎじゃないの?」
と言ったが、
「大丈夫。万が一の場合の責任は全部、真田と俺で取りますから、安心してください」

と伝えると、渋々だが署名をしてくれた。

総務部員全員の署名を取り終わり、真田にその旨をメールをして、携帯電話をポケットにしまった直後だった。館山の携帯の電話着信音が鳴った。

「お?真田かな?」

と画面を見ると、西山からの電話だった。少し驚いたが、冷静さを保ちながら、何ごともないように電話に出た。

「はい、常務。いかがいたしましたか?」

「・・・館山、今すぐ、俺の取締役室に来い」

「え、常務、会食に行かれたんじゃ・・・」

「いいから、早く来い!」

狐につままれたような顔をしながら急いで7Fの取締役室に向かい、ノックして入ると、館山は驚愕した。

西山と真田が、ソファに座っている。

「・・・真田?」

「館山、来い」

「・・・・・・」

館山は最初、訳が分からなかったが
『まさか・・・』
と思った次の瞬間、

「館山、お前、自分のやったことが分かっているな?」

「どうも、不自然な感じはしていましたが・・・。私はそこにいる真田課長からの『業務命令』で動きましたが」

「真田からは『高橋から自分を正社員登用するよう頼まれて、館山が総務部員の署名集めに動いている』と報告を受けている」

「・・・は?!真田、お前、何言っているんだ?おい、冗談だよな!?」

真田は無言を貫く。目も合わさなかった。

「俺を・・・そして康平を、常務と共謀してはめたのか?おい!!真田!!!」

「黙れ!!!!」

西山が一喝した。

「それなりの制裁は覚悟しておけ、館山。高橋も、だ」

「高橋は!康平は!関係ない!!!」

館山は立ち上がり叫んだ。そして頭を深く下げた。

「裁くなら、俺一人を裁いてください。あいつは本当に何も関係ないです!」

「お前の報告ではなく、真田の報告を正とする」

「待ってください!常務!!!」

「うるさい!もう出て行け!!出て行かないなら、お前もクビにするぞ!!家族を路頭に迷わせる気か!」

「・・・・・・」

館山は力なく立ち上がると、さまように出口の方に向かい、取締役室を出て行った。

その後しばらくして、田村が取締役室に入ってきた。真田は、取締役室奥の小部屋に場所に隠れた。

康平が13Fでの増田取締役との打ち合わせを終えて入って来たのはそのしばらく後、19時だった。そして、康平の裁きが、始まった。

一瞬だった。ほんの一瞬で、館山と康平が、西山たちから斬り殺された。

***真相***



3人の会話はまだ続いていた。

「・・・しかし」

「どうしました、常務?」

「高橋の躍進が想像以上で、社内にも正社員登用論が出てきたため、急いで決着を付けたものの・・・。やり方が手荒かったことは否めない。館山が退職して、訴訟を起こしたりしないだろうか」

「その点は問題ないかと」

田村人事部長が答える。

「館山課長代理は義理人情に厚く、愛情深い人間です。そして家族を誰よりも大切にしています。3人のお子さんもいます。さすがに退職して、家族を路頭に迷わせるリスクを取ってまで訴訟を起こすようなことはしないでしょう」

「義理人情に厚い、か。確かに館山はそうだな。それがあいつの長所でもあるが、今回は高橋に入れ込み過ぎた。まあ、館山の気持ちも分からないでもないが、な。今回に限っては」

「・・・確かに」

「館山は1年くらい経ったら戻そう。その頃は、真田は総務部の現場から離して、もう1つ上のステージに置く」

「ありがとうございます」

「・・・しかし、常務。いつ頃から高橋くんを切ろうとお考えだったのですか?」

田村がふと質問をした。

「個人情報漏えい事故の豊中の謝罪会見を見て、だ」

「やはりそうですか。豊中社長を辞任に追い込む絶好のチャンスをふいにしましたからね」

「そうだ。豊中が謝罪会見で説明した、漏えいした個人情報の悪用が万一起きた時の対応策、再発防止策や質疑応答時の想定問答集などの内容がもっと杜撰だったら、ボロが露呈し、豊中は辞任に追い込まれていた可能性が大いにあった。しかし、そのどれもが高橋のアドバイスをもとに、ほぼ完ぺきと言って良い内容に仕上がってしまった」

西山が続ける。

「その高橋が・・・うつ病の障がい者雇用社員であるというのが、私はそれ以上に許せない」

「・・・というのは?」

「・・・俺は、若い頃から営業の第一線で猛烈に働き、40代後半で執行役員となり、やがて管理本部を統括するようになった。その後は、熾烈な派閥争いや足の引っ張り合いを勝ち抜いてきて、今のこの、東証一部上場企業の常務取締役という地位に就いた。そして、現社長の豊中の後釜も狙っている。本当に、本当に・・・過酷な道のりを歩んできたんだ」

「・・・はい」

「だから、うつ病で寝込んで会社を辞めて、障がい者雇用で入社してきた者たちを『どうしようもなく弱い人間』だと思っている。ウチの会社の正社員で、うつ病で休職する者も同様だが」

「・・・そうですね。」

「障がい者雇用社員を正社員に登用するには、林会長に上申して『この人物は素晴らしく優秀です。会社の力になってくれるので、ぜひ正社員登用しましょう』と推薦しなければならない。それだけは絶対にごめんだ。精神障がい者を中心に採用しているのは、単に採用しやすいから。それだけの理由だ」

「・・・ごもっともです」

ここでも、うつ病を持つ人たちに対する悲しい誤解と偏見があった。

「高橋は、明確に正社員への登用を目指していた。その能力もある。だが、どれだけ活躍しようとも、正社員登用となると、話は別。まったくの・・・別!だ!『正社員登用を本気で目指し、かつその能力のある障がい者雇用の社員とは、早めに雇用契約を打ち切る』これが方針だ!」

「・・・正しいご判断かと思います」

「・・・真田も、館山を排除できて良かったろう」

「はい、積年の悲願が成就した気分です。康平くんには、本当に申し訳なく思っていますが」

「大企業で成り上がっていくためには、時には非情な決断も必要だ。成長したな、真田」

「・・・でも、私、知らなかったな。真田課長と館山課長代理のコンビネーションは抜群に素晴らしく見えていたけど、まさか排除したいと思っていたなんて・・・」

田村が意外な表情をすると、西山が笑いながら答えた。

「ハハハ、真田は意外に子どもでな。館山が自分よりも部下に慕われていることが、ずっと気にくわなかったんだよ」

「・・・正直、私は館山さんのように義理人情に厚い人間ではないですし、部下の面倒見も館山さんほどはよくありません。部下たちが私より、館山さんを頼りにして、なついているのを見るたびに、毎日、毎日、腹立たしく感じていました」

「とはいえ館山は頑固なところがあって、時には常務取締役の私にまでも逆らったりする。それに、過去に『汚点』もあるし、あいつがこれ以上、出世することはなかった。だから気にしなければいいだけなのに、コイツは人間が小さいんだよ、ハハハ!!」

「・・・何とでも言ってください」

「まあ自分より慕われている役職が下の人間を、目障りに感じる気持ちは分かる。でもようやく排除できたんだから、良かったじゃないか、真田」

「はい、ありがとうございます。」

「いずれにせよ、これで終わりだ。少々、手荒な手段を講じてしまったが、田村も真田もよくやってくれた。個人情報漏えい事故の対応も、ほぼ落ち着いたし、もうしばらく様子を見て問題がなさそうだったら、近いうちに打ち上げでもやろう」

「ありがとうございます!」

2人が頭を下げた。

***秘密***



「そんな・・・真田さんが・・・。あの真田さんが・・・なんで・・・?」

「・・・多分だけど、俺のせいだ」

「どういうことですか?」

「以前に、西山に注意されたことがある。『真田にもっと気を使え』と。最初はどういう意味か分からなかったが、詳しく話を聞いてみると、要するに『もっと部下たちが真田を頼って慕うように、館山は部下たちともっと距離を置け』ということだった」

「常務から、そんな指示が・・・」

「俺は別に真田に取って代わってやろうとか、そういう意思はまったくなかったが『そんな茶番をするのは馬鹿馬鹿しい』と思って無視した。あの時は西山が勝手に言っているだけだと思っていたが、真田は心の中では、ずっと俺を憎んでたんだな」

「それで、今回の僕の件を利用して、一気に館山さんと僕を排除した、と。じゃあ、僕も真田さんには嫌われていたんですかね・・・」

「いや、それはないと思う。康平を辞めさせたいと思っていたのは、おそらく西山だと思う。真田にとって康平は自分に害を及ぼす存在じゃない。西山と真田が、俺の想像以上に裏でつながっていた、ということだと思う」

「西山常務はどうして僕をそこまで・・・」

「あの事故で社長が辞任に追い込まれなかった、ということと、それ以上に、あいつは、うつ病に罹った人間を、まるで『弱者』のように見なす。正社員でも、うつ病で休職すると、その後はもう一切、昇給・昇格させないんだ」

「・・・そうですか。だいたい理解できました。もう、どうしようもないですね・・・」

「本当にすまない。康平・・・」

館山の目に涙が溜まっている。

「あ、いえ・・・ところで館山さん」

「・・・?」

「館山さんも、うつ病を抱えていらっしゃいますよね?」


***新しい希望***



14F管理本部のオフィスフロアでは、

『高橋が自分を正社員登用してもらうために、館山課長代理にけしかけて、総務部員の署名集めを依頼し、それが発覚し、処罰を受けた』

という噂が、あっという間に広まっていた。

しかし、すぐに緊急の部会が14F管理本部の各部で開催されて

『高橋の個人情報漏えい事故対応での功績を考慮し、せめてもの情けとして晩節を汚さぬよう、この件に関しては他フロアの部門には一切口外しないこと』

と各部門長から指示があり、実質的な、かん口令が敷かれた。これも、西山、田村、真田の手配だった。

各社員の受け止め方は様々だった。
『高橋さんがそんなことをしそうには見えない』
と考える者もいれば、
『汚い奴だな、クビになって当然だ』
という受け止め方をする者もいた。

いずれにせよ、
『この件に関しては口に出さない方が良い』
という認識は誰もが一緒のようで、後は、総務部も含めて
『無関心』
を決め込む雰囲気が支配していた。ここまでも、西山、田村、真田の思惑通りであった。

橋沢、西口の二人は、その日の勤務を終えると、2人で『みょうらい』へと向かった。

「康平さん、大丈夫かな・・・」

西口が呟く。

「康平さんが、そんなことをする人ではないのは、僕らが良く知っている。そもそも、そんなことをするつもりなら、あんなに頑張らなかったはずだし」

「うん。そして、館山さんもそんなことをするはずがない」

「ということは、誰かに“はめられた”ということか。でも、そんなことあるの?なんだかドラマの世界みたい」

「ホントだね・・・」

橋沢が無念の想いを込めて話を続けた。

「康平さん、ついに突破口を開いてくれたと思ったんだけどなあ・・・。結局、力づくで潰されちゃったのかな」

「そうすると、僕らもここにいても、意味がないってことなのかな」

「少なくとも、正社員を本気で目指そうとすると、潰されるってことだよね」

西口はあらためて
『障がい者雇用社員の働き方』
について思いを巡らすと、橋沢に相談を持ち掛けるように呟いた。

「僕たちも、芹沢さんや佐々木さんのように変に欲張らず、無理せず、細く長くやっていくってのが、正解なのかな。それか、一刻も早く転職するか」

「前に康平さんも言っていたけど、どんな働き方をするかに、“たった1つの正解”というのはなくて、その人それぞれなんじゃないかな。とにかく僕らの場合は『体調を崩さないようにする』ってのが、一番、大切だしね。でも、西口くんは、今後はどうするつもり?」

西口はしばらく思案した後、西口としての1つの答えを出した。

「うーん、ちょっと考えていたんだけど・・・」

「・・・ん?」

「あと1年くらい、ここで自分なりに『正社員を目指して』続けてみようかなって」

「え?この会社で?それは意味ないんじゃないの?」

橋沢は驚きの表情で西口を見た。

「うん、なんかさ。康平さんって、絶対に最後まで諦めなかったじゃん。個人情報漏えい事件の時は、うつ病が再発するのを覚悟で、会社を守ろうと本気で闘っていた」

「・・・確かに」

「もちろん、僕らが一番に考えなきゃいけないのは、自分の体調を崩さないようにすることだからさ。同じやり方はできないし、やってはいけないけど、康平さんの姿勢とか生き様っていうのかな。『うつ病になってしまったからといって、人生が終わったわけではない』みたいな。この場所にいて、その空気を毎日感じ取って、しっかりと吸収しておくのも今後の自分のためになるんじゃないかなって思って」

「そっかあ、なるほどね、それは確かにムダにならないかもね」

「その上で、今後の自分の生き方、働き方を改めて見つめ直して、次を探したいなって」

「そっか」

「橋沢さんは?」

橋沢にも、1つのたどり着いた結論があるようだった。

「僕は・・・『ムリに頑張らないことを、頑張る』って感じで、変に『もっとやりがいのある仕事を』とか求めないで、自分の体調を最優先に、淡々とやっていこうかと思って」

「そっか。それが僕らの1番正しい生き方かもね」

西口が答えると、橋沢が話を続けた。

「でもさ、人生って仕事だけじゃないじゃん?」

「うん」

「僕、唯一の趣味が小説を読むことだからさ。思い切って、小説家を目指そうと思って。仕事が終わった後とか週末に、小説の勉強をして、執筆活動をしてみようかなって思っていてさ」

「おー、すごい!」

「小説の執筆を通して、精神障害を抱える人たちに対する色んな誤解や偏見をなくしていくこができればいいな、なんて思っていたりもして」

「いいね、それ!」

「うん、そういう希望を持って生きていきたいなって考えているよ。まあ、色んな考え方や選択肢、価値観があると思うけど、どれが正解かは人それぞれだから。自分たちなりにムリせずやっていこうよ!」

「うん!」

今まではモチベ―ション低く働き続けていた2人も、それぞれの新しい希望を見出し、徐々に目の輝きを取り戻していた。


***別れ***



「・・・康平、気付いていたのか。俺がうつ病を持っていること」

「はい。僕も、館山さんのことは良く分かっているつもりですから」

「どこで気付いた?」

「以前に、館山さんに『今の4人には、正社員の担当する仕事は任せられない』って言われた時です」

「え?あの時?」

「うつ病の人を前にすると、みんな気を使って厳しい事は言わないようにするんです。でも、ダメなことはダメと、やっぱり言って欲しいものですよ。それをスパッとおっしゃっていただけた」

「そっか、そうだったよな、確か」

「そこに怒りの感情とかを強く乗せられると、心がやられちゃったりするんですけど、館山さんはあくまで淡々と事実だけをおっしゃっていただいて。さらにその上で、『それならばどうすればいいのか』もちゃんと伝えて、その上で『康平ならできるよ』と励ましていただけました。まるで、うつ病の人の気持ちがすごく分かっていらっしゃるかのようでした。その時から、『もしかして…』って思っていました」

「そうか、相変わらず鋭いな、康平は」

「それに、実務にも精通されていて、リーダーシップもあって、部下からの信頼も厚い館山さんの役職が『課長“代理”』なのも不自然です」

そこまで話をすると、館山はふいに、昔の話を始めた。

「そっか。いや、もう10年以上前なんだけどさ。一度、九州支社に転勤していた時期があって。」

「え、そうなんですか?」

「うん。支社の社員たちとはうまくやっていたんだけど、そこの支社長が本社の出世争いで負けて左遷された、元取締役の人でさ。俺は本社から来たっていうことで、どうも目の敵にされたみたいで。今で言うパワハラみたいなものを受けたんだ。結構、強烈な」

「それで心がやられてしまったんですね」

「そう。2ヶ月間、休職してさ。転勤も解除になって東京に戻って総務部に復帰したんだけど、会社、というか西山は、もう俺を見放したみたいでさ。そこからもう10年以上、昇給・昇格を一切していないんだ、俺は」

「そうだったんですか・・・。でも、似たようなことを僕も前職で経験しました」

「飲食チェーン企業の時か?」

「はい、僕は入社時に、うつ病のことは伝えていましたが、心療内科に通っていることは特に言わずに勤務していました。でも結局、健康保険症の通院履歴かなんかでしょうか。人事部は知っていたみたいなんですね。人事部長はうつ病持ちの人に対する偏見がすごかったので、僕も人材採用の業務でどれだけ成果を出そうとも、一切、昇給・昇進がありませんでした。ずっと理由が分からず、ずっと我慢しながら働いて。でもついにダウンして。それで休職期限が切れて退職する際に、健康管理担当の人がボソッといったんです。『ずっと心療内科に通院していたもんね、高橋さんは』って。そこで、なぜ自分がどれだけ成果を出そうとも、一切、昇給・昇進できなかったのかが、なんとなく理解できました」

「そうだったのか・・・。まあ俺は、幸いあれ以降、再発とかはなくやってこられたけど、似たような感じだな」

「ホント、そうですね」

「それで俺は、康平が入ってきて『コイツはすごい』と思って、なんとか正社員登用を勝ち取らせて、自分の無念も晴らしたい、といつの間にか考えていた。自分の出世とかはもうどうでも良かったけど。そう考えると・・・」

「・・・はい」

「俺も・・・康平を利用してしまっていたのかもしれない」

「いや、それは違いますよ、館山さん。館山さんがリスクを冒してまで、僕を正社員にしようと動いていただけたことは、むしろ感謝してもしきれないくらいです」

「だけど、こんな最悪の結果になるとは・・・。悔やんでも悔やみきれない・・・」

「館山さんはまったく悪くないです。これはもう『やられた』としか言いようがないですよ、真田さんの名演技に乾杯、です。ハハ・・・」

館山が頭を抱える。康平も無言だった。しばらくして館山がボソッとつぶやいた。

「・・・康平、今後、どうする?」

「常務からは明日を最終勤務日とすると言われました。生活費がないので、その後は一旦、実家に戻って、そこを拠点に転職活動をしようかと思います。あの、差し出がましいですが、館山さんは、辞めたりしない方が良いかと。ご家族もいらっしゃいますし」

「いや、俺も辞める。康平が放り出されたのに、俺だけのうのうと残るわけにはいかない」

「いえ、逆に・・・」

「ん?」

「僕はなんだかんだスマートバイト社が好きです。ちょっと西山常務と田村部長、真田さんにはやられちゃいましたけど、それでも他の社員はほとんどが良い人たちですし、そんな好きな会社だからこそ・・・館山さんには残っていただきたいんです。」

「康平・・・」

館山と別れた帰り道、どうしようもない絶望感が康平を襲った。


(結局、うつ病障がい者は、どこへ行ってもうつ病障がい者なんだ。きっとどこへ行っても、誤解と偏見の目で見られる。こればかりはもう、どうしようもないことなんだ・・・)

やっとの思いで帰宅すると、康平は、今回の出来事の真相、そして明日で退職させられることを、真由美にメールで報告した。しばらくすると、真由美から、返信があった。

「そんな・・・。あまりにも、酷すぎる。悲しいです・・・。」

康平は、すぐに返信した。

「でも、伊達さんに前にかけてもらえた言葉のおかげで、僕はすぐに立ち直れました。これからも前を見据えて歩いていきます」

真由美からの返信は、

「・・・私は、しばらく立ち直れそうにないです。高橋さんに偉そうに言っておいて、自分が情けないです」

だった。真由美が今、ひどく落ち込んでいる。今すぐ真由美のもとへ行って、真由美を強く抱きしめたかった。これまで自分を、何度もどん底から救い上げてくれた真由美を、今度は自分が、真由美が立ち直るまで、いつまでも抱きしめていたかった。
しかし康平は・・・

「伊達さん、どうか気を落とさないでください。僕という人間が一人、伊達さんの日常からいなくなるだけです。これからも、いつもの日々が続くだけですよ」

と返した。真由美からの返信は、なかった。

康平は部屋の片隅で座り込み、両膝を抱え、そこに頭を乗せたまま、一人ひっそりと肩を震わせ続けていた。


***最終日***



康平は、通常通りに業務をこなして、最後の郵便の配達に向かった。営業4部に行くと、午前中の配達でも、そして午後の配達でも、真由美は離席中だった。いつも笑顔で郵便物を受け取ってくれていた真由美は、いなかった。

そのため、郵便物は他の事務社員に渡した。午後の配達が終わると、康平はくるりと向きを変えて、営業4部を後にした。

思えば、康平の今までの人生の中で、真由美ほど、不思議な魅力に満ち溢れた女性はいなかった。だが康平は、

(俺は・・・伊達さんとはとうてい釣り合う人間ではない)

と改めて思った。

(安月給で、自分一人が何とか食べていけるだけの生活しかできない。貯金だってほとんどない。しかもこれからは、その月給さえなくなる。次の職場も、いつ決まるか分からない。そして・・・自分はうつ病で障がい者の身。きっとどの会社に行っても、誤解と偏見の目で見られるし、病気もいつ再発して働けなくなるのかも分からないのだから・・・)

他の誰かと一緒になる真由美を想像すると胸がツキンと痛んだが、真由美にとってはその方が幸せな道だと康平は思った。

(最後の配達で、伊達さんに会わなくて良かった・・・)

と心底思った。最後だと思いながら会ってしまうと、余計に辛くなるから。それくらいなら、このまま、会わないまま、永遠のお別れとした方がいい。

(約束していた『みょうらい』へ日本酒を飲みに行くことも・・・自分の気持ちを彼女に伝えることも・・・もうやめた方がいい。自分なんかとは一緒にならない方が、彼女の幸せのためだ)

そんなことを考えながら、郵便物の配達を終えると、総務部の席に戻った。その後、康平はいつも通り、その日の業務を全て終えると、総務部の皆に

「今までお世話になりました」

とあいさつをして回った。西山にも、真田にも。

西山は、

「ああ、どうもありがとう」

と目を合わさずに小さな声でつぶやいた。真田も目を合わさず、パソコンの画面を見つめながら、

「うん、これからも頑張ってね」

とだけ言葉を添えた。

総務部は、星も凍てつくほど冷え込んだ冬の夜空のような雰囲気に包まれていた。

みんなは康平が回ってくると気まずそうに、でも申し訳なさそうに、
『本当にありがとうございました』
とあいさつをして、それ以上の言葉を発することができる者はいなかった。

館山がいてくれれば、そんな総務部を取り巻く脅しのような雰囲気には屈せず、その場を盛り上げてくれただろう。だがその館山は、もう今日の午後から地下倉庫の1隅をパーテーションで囲われた役員運転手控室に席を移していた。

14Fのオフィスフロア全体にも重たい雰囲気が漂い、それにはじき返されるかのように、橋沢、西口も康平の近くには行けなかった。

康平は、いつも通りに
『お先に失礼します』
と14Fオフィスフロアの出入り口の前であいさつをして、エレベーターホールに出た。
誰もいなかった。ボタンを押すと、いつも通りにやってきてくれた無表情のエレベーターに、康平は唯一の優しさを感じた。そっと乗り込むと、エレベーターホールに背中を向けたまま、ドアが閉まるのを待った。

最後のエレベーターが康平を1Fまで運ぶと、お別れの言葉を発することもなくまたドアは閉まり、無機質な色合いの大きな鉄の塊が、ただ静かにそこに立ちすくんでいた。

受付の人たちにも挨拶をして、いつも通りに会社の出入り口を出た。そこは、康平が毎日のように郵便物をひとり運んでいた道でもあった。

康平は、ゆっくりと後ろを振り返り、スマートバイト社の本社ビルをしばらく見つめた。そして、その場で

「今まで本当にありがとうございました」

と一礼をし、最後のあいさつを終えると、小さく、

「でも・・・それでも・・・ここでずっと働きたかったです」

という言葉を添え、また振り返ると、力なく駅の方へ続くと歩き始めた。

***3日後***



社長の豊中は、5本立て続いた社内会議がようやく終わり、うんざりとした気持ちで社長室の豪華なソファに座り、次の会議までのわずかな時間を過ごしていた。

すると秘書から
『岩下取締役がお見えです』
と連絡を受けたので、部屋へ通すよう伝えた。

個人情報漏えい事件の緊急対策本部メンバーにも入っていた岩下はメディア事業統括本部長を務める、豊中の腹心であり、子飼いの部下だ。

「失礼いたします、社長」

「・・・岩下か、どうした」

「実はご報告したいことがございます」

「・・・なんだ?」

「先日、14Fで不穏な動きがあったようです。なんでも、総務部の館山課長代理が、地下2階の倉庫フロアにある役員運転手待機室の常駐管理担当となったようです」

「そんな報告は受けておらんぞ。館山は相当、部下から慕われている奴だぞ。それに仕事もよくできる」

「同じ総務部内での異動なので、西山常務がご自身の決裁権限内で配置転換をしたようです。それと・・・」

「・・・それと?」

「例の、障がい者雇用の高橋。彼が解雇となったようです。嘱託社員の契約管理も、西山常務の決裁権限内です」

「高橋が?・・・どういうことだ」

「14F内では、各部門長から社員たちに対してかん口令が敷かれていたようですが、どうやら高橋が、自分を正社員登用するよう館山課長代理に署名集めを依頼し、それが発覚して、館山が実質的な社内左遷、高橋が即刻契約解除となったようです」

「・・・あれほどのリスクマネジメントの専門家が、そんなリスクのあることをするとは思えんな」

「・・・ですよね」

「・・・匂うな」

「・・・匂いますね」

「すぐに内情を調べるんだ。これはおそらく、西山を排除するチャンスだ」

「西山常務は虎視眈々と、社長の座を狙っていますからね」

「奴を排除して、管理本部も私の手で掌握する。これが上手くいったら岩下。お前を常務取締役に昇格させて管理本部の統括に据えよう」

「ありがとうございます!」

「西山め。どういうわけかは知らないが、焦ったな。ずい分と手抜かりがありそうだ。これでまた一人、抵抗勢力を排除できそうだ」

「喜ばしい事ですね」

「まずは西山を早急に排除し、後は少しずつ、じっくりと管理本部内の改革を進めていこう。頼むぞ、岩下」

「分かりました!」

***1年と1日後***



とある墓地にある、1基の墓石の前で、手を合わせている1人の女性がいた。もう、かれこれ15分以上、目を閉じ、手を合わせ、何ごとか祈りを込めている。

細い木陰が墓地をやさしく覆い、風がそよぐたびに、心に涼しさを運んでくる。

故人への想いが、花の香りと共に、静かに漂っている。

その女性は・・・真由美だった。

やがて真由美はその目をゆっくりと開くと、

「もう、『あの日』から“1年と1日”・・・かあ・・・」

と呟いた。

目の前の墓石を穏やかな表情で、まだしばらく見つめていると、これまでのことが頭の中によみがえってきたのだろうか、真由美の目から自然とこぼれ落ちているものがあった。

真由美は、持っていたハンカチでそれをぬぐうと、

「やだ、私ったら。何、泣いているんだろう・・・」

とまた呟いた。そして墓石に向かって、

「・・・また、来ます」

と声をかけ、静かに立ち去っていった。

墓地内の道を歩きながら真由美は、

(なんだか、昨日から涙もろいなあ。今まで生きてきた中で、一番、嬉しかった日だったからかな)

と心の中で呟いた。真由美の左手の薬指には、昨日、着せてもらったリングのコートがそっと輝いていた。

(『”あの日”からちょうど1年だよ』なんて、相変わらずキザなんだから。ウフフ・・・)

そしてふと立ち止まると、持っていたバッグから携帯電話を取り出し、メールを打ち始めた。

「もう、仙台駅に着いた?」

しばらくすると返信があり、メールのやりとりが始まった。

「うん、着いたよ。さっきちょうど、東京駅行の新幹線が出発したところ。真由美は?もう出かけた?」

「うん、ちょっと早めに出て、ご先祖様のお墓参りをしてきたの。これからちょっとお買い物をして、恵美と、啓子と合流するよ。気を付けて行ってきてね」

「ありがとう。お墓参り行ってきたんだ。俺も一緒に行きたかったな。同窓会、楽しんできてね!」

「はーい!お墓参りは今度また、一緒に行こうね。館山さんにも、よろしく伝えてね!」

「了解!終わってビジネスホテルに着いたら、電話するね」

「うん!待ってるね!」

真由美とメールのやりとりをしていたのは・・・、
仙台駅から東京方面に向かう新幹線に乗っていたのは・・・

康平だった。

窓際の席に座り、車窓から流れる景色を見つめながら、康平はスマートバイト社での“1年と1日前”の『あの日』のことを思い返していた。


***“1年と1日前”の『あの日』***



スマートバイト社での最終出勤後、本社ビルに向かい一礼し、

「でも・・・それでも・・・ここでずっと働きたかったです」

と呟いた康平。駅の方へ向かい歩いていると、少し遠くに人が立っているのが見えた。

・・・真由美だった。

康平が歩いて近づいていく。二人はそっと向き合った。

「伊達さん・・・」

「・・・・・・」

「今まで、本当にありがとうございました」

「・・・・・・」

「いや、さすがに上場企業の役員クラスは老獪ですね。あっという間にやられてしまいました」

「・・・・・・」

「でも、昨日もメールしましたけど、伊達さんに前にかけてもらった言葉がなければ、僕はすでにうつ病が再発して寝込んでいたと思います。本当に感謝しています。伊達さん、何て言うか・・・すみませんでした。伊達さんは、昨日、大丈夫でしたか?」

「・・・・・・」

「・・・伊達さん?」

「・・・高橋さん、実は、私も退職して、地元の仙台に帰ることに決めました」

「・・・え・・・そ、そうなんですか?」

「はい、今回の件で、なんか私もそろそろタイミングかなって思って。今日、退職する旨を上司に伝え、面談をしていました。急にそんな話をしたので、長引いちゃいましたが」

(それで、郵便物の配達時間も席を外していたのかな・・・)

「そうですか・・・本当に・・・すみませんでした」

康平が頭を下げる。自分と関わってしまったがためにこんな結果にと思うと、胸が痛んだ。

「・・・いや、むしろ、すっきりしています。それで、私の父が仙台で日本酒製造と販売の会社を経営していて。スマートバイト社よりはずっと小さな会社なんですけど、そこで働こうかと」

「日本酒製造・・・ですか」

(それもあって、日本酒好きだったのかな・・・。それに、仙台で『伊達』、か)

「はい、昨年『宮霞』という日本酒を発売したら、それがヒットして、人手が足りてないみたいで」

「え、『宮霞』って、日本酒金賞を取って、今、メディアで話題のお酒ですよね?その会社?」

「ええ、父は、15年以上も試行錯誤しながら研究開発に取り組んで、ようやくそれが実ったって。これからが勝負だって意気込んでいます」

「15年以上ですか。それは大変な道のりだったでしょうね。すごいや。でも・・・」

「・・・はい」

「伊達さん、仙台に行っちゃうんですね・・・正直・・・」

「・・・正直?」

「・・・いや、僕にそれを言う資格は・・・もうないんです」

「・・・ウフフ。あ、そうだ」

「・・・?」
「高橋さんは、仙台はお嫌いですか?」

「え?仙台ですか?いえ、親戚も住んでいますし、むしろ好きな都市ですけど・・・」

「・・・私、昨日、父と電話で話した時に、高橋さんのお話をしたんです。あんなに大活躍して会社の危機を救ったのに、あんなにひどい目に遭って。それで、地元に帰りたくなったって。そうしたら・・・」

「・・・はい」

「『真由美が認める人材なら、一緒に連れて来てほしい』って。『ぜひ自分の片腕として経営のかじ取りを手伝って欲しい』って。というよりも『意地でも捕まえて、連れてきなさい』って」

「・・・え?」

「イヤですか?仙台で働くのは」

「いえ、僕は独り身なので。でも・・・そんなありがたいお話を・・・僕なんかがいただいていいんですか?」

「はい。でも、1つだけ条件があります。なんてね、ウフフッ」

「ん?条件?」

「はい。あの・・・」

「・・・・・・」

「・・・私の方から、言わないとダメですか?」

「・・・・・・え、いや、でも僕はうつ病の障がい者ですよ?またいつ再発するかも分からないような人間ですよ?」

真由美が
『ハァーーー』
と大きなため息をついた。

「なーんかさっきからずっと黙って聞いていたら・・・まーーーーた変な考え方に囚われているな!コラ、高橋さん!もうそろそろ目を覚ましなさい!」

「・・・あ」

「・・・目、覚めました?ウフフッ」

「いつの間にか・・・またやってしまっていた・・・」

「もう!・・・まあ、あんなひどい目に遭ったんだから、仕方ないと思うけど・・・」

「・・・本当にごめん。昨日も・・・」

「・・・高橋さん、人の価値は?」

「・・・障がいがあるとか、ないとか・・・そういうものでは決まらない」

「私が考える価値のある人は?覚えています?」

「不運とか困難で何度倒れても・・・最後は・・・何度でも立ち上がれる人・・・」

「じゃあ・・・高橋さんは?」

「僕は・・・言えることは・・・」

「・・・言えることは??」

「・・・僕は・・・・・・弱い。すごく・・・どうしようもないほど・・・弱い」

「・・・・・・」

「・・・でも」

「・・・でも?」

「・・・僕は・・・君が側にいてくれれば・・・」

「・・・うん」

「君が側にいてくれれば・・・僕は何度転んでも、挫けても、倒れても・・・最後は・・・何度でも立ち上がれる」

「うん・・・いいんだよ、それで」

真由美がうなずくと、康平はそっと、真由美を抱きしめた。

「・・・ずっと・・・ずっと好きでした」

「・・・良かった。ようやく言ってもらえて」

「・・・言わせてくれて・・・ありがとう」

「・・・あのさ」

「・・・うん」

「・・・黙って去ろうとしてたでしょ」

「・・・・・・ごめん」

「どうせ『自分以外の誰かと一緒になる方が、伊達さんは幸せになれる』とか考えたんでしょ」

「・・・うん」

「それで昨日わざと、突き放すようなメール送ったんでしょ」

「・・・はい」

「そんなの!優しさでも何でもないよ!?自分勝手なんだから!!」

そう言うと真由美は、康平の肩に顔をうずめた。肩を強く震わせながら、泣きじゃくった。康平は、ギュッと強く真由美を抱きしめた。

「・・・ごめん。本当に、ごめん。もう二度とあんな悲しい想いはさせない」

「・・・ホントに?」

「うん、絶対。約束する。君を失うと・・・僕の全てが止まってしまう」

「私にだって・・・高橋さんが・・・必要なんだよ?高橋さんじゃないと、イヤなんだよ?」

「・・・もう二度と離さない」

「・・・約束だよ?」

「うん。約束する。絶対に」

真由美はずっと、ずっと、康平の肩で泣きじゃくっていた。どれほど悲しい想いをさせてしまったのだろう。康平にできることは、真由美を強く抱きしめ続けることだけだった。

やがて涙が収まってきた真由美は、目元に残ったそれを指で拭うと、雨上がりの空に広がる虹のように美しく、そして嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

「まあ今回は悲惨すぎたし・・・じゃあ今回だけ、許してあげる!なーんてね。ウフフッ」

・・・こんなに強くて、でもこんなにか弱くて、こんなに陽気で、でもこんなに切ない笑顔を、康平は今までの人生で見たことがなかった。その瞬間、康平と出会う前の、真由美のこれまでの人生も、極めて壮絶で過酷なものだったのだ、と確信した。一生、そんな真由美を守っていける自分になりたい。そう強く願っている康平がいた。

「・・・ありがとう」

真由美の肩にそっと手を添えて、重ね合わせた唇に、また静かにこぼれるものがあった。

止まっても、どんなに逆らっても運ばれていく時間の中で、二人だけは取り残されても良い。退職の餞別に、そんな猶予をほんの少しだけ与えてもらえたような気がした。会社からではなく、もっともっと、果てしなく大きな何かから。

「・・・でもさ。本当にスマートバイト社に入って良かった。夢は、叶っていた。」

スマートバイト社の本社ビルに顔を向けると、康平は呟いた。

「ん?正社員になって人生を建て直すって夢?」

「ずっとそう思っていたけど、実は違っていたんだ」

「違っていた?・・・本当は、どんな夢だったの?」

「夢とか目標を追いかけて、夢中になっていられる自分に戻ることが、本当の夢だった」

真由美は一瞬、きょとんとして、そして、笑いながら言った。

「・・・うっわー!キザだね~、鳥肌立っちゃった。ウフフフッ」

「え?な、なんだよー、でも、嫌いじゃないでしょ?」

「さすが私の見込んだ男。うん、ヨシヨシ、カッコいいぞ!」

ポンポンっと真由美が康平の頭を優しく叩く。

「これは尻に敷かれそうだなあ。まあでも、君と一緒にいられるなら、それでもいいかな」

「ウフフッ、覚悟しておいてね!じゃあ、そろそろ行きましょうか」

「・・・『みょうらい』へ?」

「うん!今日は日本酒、たくさん飲もうね。退職祝いしてあげる!」

「退職祝いって・・・俺はクビだよ?クビ!」

「見事な散りざまに乾杯してあげる。ウフフッ」

二人は手をつないで駅に向かった。夕暮れの優しさが、康平がいつも郵便物を運んでいた道に、初めて孤独ではない2つの影を映し出していた。

***再会***



康平が東京方面に向かっていたのは、館山と会うためだった。時折メールで連絡を取り合い、お互いの近況報告を報告しあっていたが、今回、1年ぶりに直接、会うことになった。

館山から、14Fの総務部に復帰したとの報告があったためである。しかも『総務部長』として。

「ホントに色々なことがあった。メールじゃ伝えきれないから、久々に会わないか?」

そう言われて、康平は『ぜひお願いします!』と答えて、意気揚々と仙台から東京に向かっていたのだった。 指定された居酒屋に着くと、館山はもう到着していた。館山は『みょうらい』を選んでくれていた。

「おー、康平!久々だな!!元気だったか?」

「館山さん、お久しぶりです!お待たせしてすみません。はい、おかげ様で元気にやっています!いや、久々にお会いできて嬉しいです!」

二人は握手を交わすと、早速、ビールを注文し、乾杯をして再会を祝った。

「館山さん、総務部への復帰おめでとうございます!しかも、総務部長として復帰なんて、ビックリしました!」

「いや、ホント色々とあってさ」

「一体、何があったんですか?」

「いやさ、実は康平が退職した翌月、西山が取締役から外されて、九州支社に異動になったのよ。実質的な、左遷だな」

「・・・え!?西山常務が??なんで?」

「うーん、正確な理由は分からないんだが・・・その後任で14F管理本部のトップになったのが、豊中社長の子飼いの部下の岩下取締役って人だったんだよね。緊急対策本部にもいたろ?メディア事業統括本部長の。ある日、突然、人事異動が発令されたんだ。あの人が常務取締役に昇格して」

「ということは・・・社長との間に何かあった・・・」

「まあ、そもそも豊中と西山は1期違いで出世コースを突き進んでいたライバル同士で、前も言ったけど、表面上は上手くやっていたけど、実際は敵対関係にあった。豊中が自分の基盤をさらに固めるべく、西山を追放して、管理部門も完全に掌握しようとしたんだろうねえ」

「そうですか・・・。僕らは西山常務と真田さんに斬り捨てられましたけど、今度は西山常務が豊中社長に斬り捨てられた、ということか・・・。え、で、真田さんは?」

「真田は半年くらい前、総務部の部長代理から業務部に異動になったんだ。『他の部門の経験も積ませる』っていう岩下常務の指示で。だけど、真田は総務部しか経験がないことないのもあったのか、上手くやれなかったみたいでね。執行役員で業務部長の島田さん、康平も同じフロアだったから、名前は知っているだろ?島田さんにダメ出しをされまくって、さらには部下たちからも総スカンされて・・・うつ状態になってしまって、休職したんだ。」

「え、真田さんが、うつ状態に・・・。」

「そう、それで結局、しばらく休んだけど復帰せずに、退職した。休職中は何度も連絡取り合っていたんだけど、退職してからは音信不通になってしまった」

「そうでしたか。真田さんには斬り捨てられたとはいえ、うつになってしまったと思うと・・・心が痛みます。」

「そうだよな。連絡取り合っていた時、真田、謝っていたよ。俺と康平くんに、本当に申し訳ないことをした。罰が当たったんだって・・・。俺もさ、はめられたとはいえ、15年来の付き合いの大切な後輩だって思っていた。だから、あいつの状況を考えると、本当に心が辛いよ」

「館山さんは本当に優しいですね。それで、館山さんはどんな経緯で総務部長に?」

「真田が半年前に異動した後は、清寺さんが部長代理として昇格したんだけど、あの人、株主総会専門だったろ?あとは顧問弁護士との窓口くらいで。すごく良い人だけど、職人肌の人だからさ。だんだん総務部のメンバーたちも不平不満が溜まっていたみたいで。清寺さん自ら岩下常務に、『自分には総務部長代理は無理だから、降りたい』って言ったみたいなんだ。」

「清寺課長らしいですね。良い意味で、見切りが早いですね」

「そう、それで、岩下常務は総務部員の全員にヒアリングしたみたい。そうしたらみんなが、俺に戻ってきて欲しいって言ってくれたみたいでさ。それで、もう部長代理じゃなくて、総務部長として戻ることになったんだ」

「そうですか!それは本当に良かったです。館山さん、本当におめでとうございます!」

「ありがとう。それとさ、岩下常務は、『障がい者雇用の社員も、勤怠がある程度しっかりしていれば、やりたい奴にはどんどん仕事任せろ』って考え方でさ。嘱託社員からの正社員登用制度も、作ろうと動いている。西口くんも、どうしても体調の波はあるけど、昔と比べてあんまり遅刻・欠勤をしなくなって、元気に働いているよ。橋沢くんは、小説家を目指すみたいで、会社の業務はほどほどにして、そっちに力を入れているみたい」

「ホントですか!いやー、すごい。こんなことあるんですね!!」

「ただ・・・」

「・・・?」

「俺は、康平への罪悪感は未だにぬぐい切れないけど」

「何、言っているんですかー、館山さん!館山さんがあの時、僕を正社員登用しようと一生懸命になって動いていただけたことは、僕の人生の宝物です。だからもう、罪悪感なんて今日以降は持たないでください!ホントに!!」

「そう言ってもらえると、本当に救われる・・・。ところで、仕事は順調なの?あの日本酒の『宮霞』すごいな。よくメディアに取りあげられているな」

「ええ、会社は絶好調なのですが、ただ、今の会社の社長は『急激に会社を成長させ過ぎると、金は儲かるけど、社員が疲弊してしまう』って考えで、本当はやろうと思えば前年比200%くらいは軽くいけそうなのですが、『成長率の上限は120%までで抑える』って方針なんです。『それでビジネスチャンスを逃すながら、それはそれで構わない』と。まあ、それでも結構バタバタしていますけど、アハハ」

「そっか、社員を大切にする、いい社長さんだな」

「でも、以前の僕だったら、その方針は大反対だったと思うんですよね」

「どういうこと?」

「以前の僕だったら『こんなビジネスチャンスめったにない。200%、300%の成長を目指して、もっともっと、この会社を発展させていくべきだ、もっと世の中に認められる会社を目指すべきだ』って思っていただろうな、って。でも、なぜか今はそう思わないんです。やる気は満々なんですが、過剰なまでには頑張らなくてもいいかな、という感じで。自分でもよく分からないのですが」

「なるほどね。上手くバランスが取れるようになったわけだ。康平、それきっと、親父さんのおかげだと思うぜ」

「父親ですか?なんで??」

「ハハハ。まあ親父さんは一度お会いしただけだけど、あまり多くは語らない方だと思うから、俺もそこは言わないでおくよ。いつか分かるさ」

「そういうものですかね」

「そういうものさ。ところで、康平は、今は何の仕事をしているの?」

「あ、今は経営企画部長をやらせていただいています。あと、新しい日本酒の商品開発も手伝わせてもらっています。勉強、というか修行に近いですが」

「経営企画部長か!商品開発も兼務しているの?すごいな!」

「といっても、スマートバイト社とは比べ物にならないくらい小さな会社ですけどね、ハハ。でも、みんなスマートバイト社の総務部員みたいに良い人たちで、毎日、すごく充実していて、とても楽しいです」

「そっか!それは良かった!体調は問題ないか?」

「今のところは問題ないです。ちょっとでも崩れそうになったら、無理せずその日は定時で仕事を切り上げています。というか、ほぼ毎日、定時で帰っていますけど。アハハ」

「そうか!それは何よりだ!あ、ところで・・・タケとは連絡取ったりしているか?」

「いえ、それが・・・タケとは音信不通です」

「そうか、俺も何回かメールしたが、返ってこなかったな。ただ、看護師になるための専門学校に入ったって聞いたよ。なにか必要な提出書類があったみたいで、人事部に連絡があったって」

「そうですか!あいつ、元気にやっているといいな。そして、許されるのであれば、またいつか仲良く再会できる日が来るといいな」

「そうだな・・・。息子さんは?」

「息子とも、会えないですね。正直、辛いです。いつかもし再会できた時は、ちゃんと育ててあげられなかったことを、心から謝りたい、です」

「そっか・・・。そうだな。きっと、そんな日が来るよ。いつか必ず会えるはずだ」

「・・・はい。そう信じています。」

「あの子とはどう?・・・伊達さん」

「それが・・・」

「・・・え?」

「いや、実は昨日が、僕がスマートバイト社を退職してから、あと、真由美と付き合い始めてから、ちょうど丸1年だったんですよね。それで昨日プロポーズして、婚約しました。今日は、“1年と1日目”です」

「え、マジか!!それはめでたい!!おめでとう!康平!」

二人はあらためて乾杯を交わした。

「え、ってことは、次期社長か?康平は」

館山が冗談めかして笑う。

「アハハ、社長の息子さん、つまり真由美の兄もいるので、それはないですよ。でも、もう肩書きとか役職とかはどうでもよくて。お義兄さんとも仲良くやれていますし」

「ホントそうだな、俺もつくづく、そう思うわ」

「はい。僕の場合はですが、仕事で夢とか目標を追いかけられて、健康で、仲間に囲まれて、愛する人がいて、問題なく暮らしていけるお金があれば、僕はもう十分、満足です。生きていればキツイことも起きますけど、何も問題がないのが幸せなんじゃなくて、どんなことがあっても、最後はしっかり乗り越えられる。そんな自分でいられれば、それが1番幸せかな、と」

「おっしゃる通りだな。康平は良いこと言うなあ」

「アハハ、まあ、最後のは受け売りですけどね、真由美の」

「あの子、たいした子だな。これは、尻に敷かれる旦那になりそうだ!」

「アハハ、もうすっかり敷かれています」

「なあ、康平」

「はい」

「お互い、いつか棺桶に入る時『なんだかんだあったけど良い人生だったな!』って言えるように、これからも生きて行こうな!」

「そうですね!」

「ようし!次のお酒、頼むぞ!日本酒行くか!」

「はい!そうしましょう!!」

(今日は楽しい飲みになりそうだな)

康平はしみじみと、久々に訪れた『みょうらい』の中を見渡した。9ヶ月の間に起きた様々な物語が、康平の頭の中に蘇っていた。




※本作品はフィクションです。登場する人物、場所、団体、事件等は作者の発想によるものであり、実在のものとは一切関係ありません。また本作品の内容や登場人物の意見が、現実の事件や特定の個人の見解を示しているものではありません。


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