大っ嫌い。

どうもこんばんは、吉沢です。

今日の話は、けっこう重いかもです。

閲覧注意です。

覚悟のある方だけ、この先は進んでください。











いいでしょうか?

では、ぶっちゃけます。

最近、モヤモヤが止まりませんでした。

ましーくんの”自己受容トーク”を受けてから。


お前のせいだぞ😈(超絶人のせい笑)

何がモヤモヤしたのか?
というと、これですわ。


「なぜ、こんなに自分は自己受容ができないのか?」


”自己受容”っていう言葉、ブログ始めた頃に
「嫌われる勇気」の本を読んで衝撃を受けて、
散々ブログ記事でも言ってたくせに、

改めて向き合ってみたら、
イマイチしっくりきません。

自分の言葉に言い換えるなら、

「なんでありのままの自分が好きになれないのか」

ってことですかね。


意外ですか?
僕、実は自分のこと、大っ嫌いです。


「本当の自分」


これがここ最近、
僕の中で非常に重要なキーワードな気が
しています。


本当は掘り起こしたくなかった、
自分の中で自然と蓋をしていた
昔の記憶が蘇ってきてから、

モヤモヤがおさまりません。

小学生の頃かな。

今振り返ると、
僕は”マイノリティ”だったんだと思います。

まあ、今もそうなんでしょうけど。笑

周りのみんなとは、
物の捉え方とか考え方が少し違っていた。

ズレていたのかもしれません。

具体的にどんな感じだったのか?

と聞かれると、
イマイチよく思い出せませんが。

みんなにとっての”普通”が、
自分にとっては”普通”とは思えなかった。

っていうのは、
この頃からそうだったんだろうなと思います。


あ、ちょっと思い出したかも。

「好きなこと」とか、
変わってたのかもしれません。

今もそうですが、
流行りのものとかに
全然興味が持てませんでした。

テレビやドラマもそう、
アニメやマンガもそう、
あとゲームもそうだったかな。

そんなんだから、
周りの話についていけないことが多かったなーと。

これはあくまで一例なので、
こんな感じだったからそう、
というわけではなく、

その当時から、
自分が興味を持ったこと、
こだわりをもっていることに対して
集中していました。


文字に起こしてみると
なんとなくわかる気がしますが、

周りから見たらけっこうな
”変わり者”だったんでしょうね。

当時、そのことを
からかわれていた(と僕自信が感じていた)
というのが、

トラウマ的な感じになっているんじゃないかと思います。


「自分はこう思う」
「こういうもんじゃないの?」

そういった考えを発信すると、
受け入れてもらえなかったように感じてました。

今でこそ、男女平等とか
ダイバーシティとかの考えが浸透してきて、

ようやく「差別をなくそう」的なことが
浸透してきたように思いますが、

当時はまだまだ、
「多数派であること」が
良しとされていましたからね。


子どもってけっこう残酷ですよ。

平気で否定するし、バカにしてくるし。


長らく記憶に蓋をしていたせいか、
状況がよく思い出せないので
何とも言えませんが、

今で言う”いじめ”みたいなもん
だったんじゃないかと。

毎日、学校行くのが
イヤでイヤで仕方なかったですからね。


で、前にも言いましたが、
その頃は親や家族にも相談することはしませんでした。

こないだ母親も
その当時のことを振り返って
言ってましたが、

「学校に行かないとかありえない」

という考えが
あたりまえのように頭の中にあって、

僕がどんな感情だろうが、
どう感じていようが、
実際に何が起こっていようが、

「とにかく学校には行け」

って感じだったんですよ。

直接何があったのか、とかは
相談はしてなかったですが、

「学校行くのイヤなんだよね」
っていうのはそれとなく伝えていたんですがね。

結局はそうやって
頭ごなしに「行け行け」しか言わないので、

それとなく
「気づいてほしい」オーラを出すことさえも、
いつしかやめていたように思います。


かくして、当時の僕は
「本当の自分」と「本当の思い」を、
封印するしかなかった(と感じていた)わけです。


素の自分を出せば
からかわれ、否定される。

「学校に行きたくない」と言っても、
そんな話は受け入れてもらえない。

小学生という立場で、
”孤立”していたように感じていたのでしょう。

その封鎖社会(と自分の中で感じていた)
の中でなんとかやっていくためには、

「自分自身を変えなければならない」
「周りのみんなと”同じ”でなければならない」

そう感じていました。

そうなれれば、
からかわれることも否定されることも
なくなるだろう。

そう思って、
必死に流行りのものを追いかけ、
みんなの”普通”を理解しようとして、

多数派の一員になれるように、
「自分を殺していた」んだと思います。


「思います」って書いてるのは、
もはやその当時の感情など
覚えていないからです。

想像するに、
相当辛かったんじゃないかな。

だから、こうやって
記憶の蓋が開いてしまった今、

言いようのないモヤモヤが
消えないんじゃないかと。


しかしそんな努力の甲斐あって(?)、
中学生以降は

「周りのみんなに合わせる」

という能力がついていました。

みんなの普通
=(僕の中では)他のみんなに
受け入れられる状態に近づけていました。

その状態を「演じて」さえいれば、
否定されることはなかった。

そこから先は、

「みんなに受け入れられる自分」
「否定されない自分」
って、どんな感じなんだろうか?

と、無意識に考えたり、
常に他の人たちの言動を観察したりしていましたね。


これって、よく考えたら
”偽りの自分”
じゃないですか。

自己理解的な言葉で表現するならば、
完全に”外発要因”に支配されていた、
ということになりますわ。

けれど、
その当時はそうするしかないと思っていました。


否定されたくなかったから。

みんなに受け入れられたかったから。


周りの人から
チヤホヤされてる人を観察して、

その人の言動を
マネするようなこともしてました。

そしてこのクセは、
今も完全には治っていません。

一時期結婚はできたものの、
振り返ってみれば、元奥さんにさえ
本当の意味で”素の自分”を出せていませんでした。

元奥さんが求める
”理想の人”になれるよう、
別の自分を演じていたようにも思います。

そういえば、その時も”素”が出た時ほど
けっこうひどい否定のされ方したなあ。

生涯のパートナーに決めた人から
”本当の自分”を受け入れてもらえないって、
ほんとに辛かったですね。


その後いろいろ経験して、
アラフォーになってしまった今では
多少マシにはなってきましたが、

昔ほどのことはないまでも、
”素の自分”を完全に出すことは、
ほとんどできません。


怖いんですよ。

「受け入れられなかったらどうしよう」って。


みんなとわちゃわちゃできてる人たちが、
うらやましく感じることが多々あります。

自分には、その”才能”がないから。

そして、昔の自分に植え付けられた
”多数派”=”普通”の定義の一つが、

「みんなに受け入れられること」

だから。

それを自然とやってのける
”才能”を持っている人を見ていると、

勝手に自分と比較して落ち込みます。

「なんで俺はこういうことができないんだろう」

ってね。


そんなわけで、
と言いましたが、この他にも様々理由があって

僕は「本当の自分」が、
どうしても好きになれません。

価値観の一番上位の言葉が
”自信”(→最近は”自分”かなと思ってます)なのは、

これが理由なのかもしれないなって、
今日ふと思いました。


僕はただ、
”本当の自分”を受け入れてもらいたかった。

受け入れられるまでいかなくても、
理解してもらえればそれでよかった。

「自信がない」のは、否定され続けたから。

否定されるのが怖いから、
他の人から否定されないような
言動をするようになっていた。

「自分はマイノリティだ。
 だからダメなんだ。
 マジョリティ側にならないと。」

という呪縛に囚われていた。

自己理解に興味を持ったのは、

「人から否定されない自分」

を見つけたかったからではないか、
とも思います。


けど本当は、
「自分は自分のままでいい」
と思いたい。

「ありのままの自分でいいんだ」
と心の底から納得したい。

誰かに憧れて、
その人と自分とを比較して
自分の「できないところ」を
否定してしまうクセをなくしたい。

”偽りの自分”ではなく、
”素の自分”を出せるようになりたい。


そして、自分自身を愛したい。
また、人から愛されたい。

「愛されている」ことを確信したい。
”素の自分”を受け入れてもらいたい。

これが僕の”人生の目的”なのかもしれません。


はあ。

これ、自己開示になってるのかね?笑

僕のこんな話やあんな話、
ほんとに知りたいと思います?

これは短所の話ではないから、
ちょっと違うんじゃないかなーとも
思うんですけどね🤔


以上、夜中の独り言でした。

ここまで読んでくださった物好きなあなた、
相当な変わり者ですね。笑

そんなあなたには、
もしかしたら僕も”素の自分”を出せるのかも。

こっそりあなたが”誰”なのか
知っておきたいので、

ぜひ感想などお待ちしております。

では、今日はおやすみなさい🌃

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?