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はっきり言ってオッパイまでは顔なんです!

 本コラムは、過去、cakesに連載していた『雑誌が切り取る私たち』のアーカイヴvol.2です。連載のコンセプト「時代を彩ってきた女性誌のキャッチコピーを振り返りながら、女性の人生の選択について思考する」に沿って執筆したものですが、初回のコラムとは、だいぶ毛色が異なっています。
 この回で取り上げたのは、タイトル通り、「オッパイまでは顔なのかどうか」問題だからです。決して、ふざけているわけではありません。
 おっぱいおっぱいと連呼しすぎですが、当時の私は、女性としてのあり方や加齢することに対して、複雑な心情をさらに拗らせながらも、自分なりの答えを見出すべく試行錯誤しています。
 さて、2023年、これを読んでくださる方は、何を感じてくださるのでしょう。

 ちなみに、本連載は親愛なる雑誌を擬人化して語っている側面がありますが、今回登場したニキータさん( 雑誌『NIKITA』)は、私の雑誌読者ライフの中でも、閃光のようにとりわけ強いインパクトを残して消えていった女性です。あれほどまでに突き抜けて明るく面白く、自分を貫ける人はそういません。いまだ、あんな姐さん(雑誌)がまた現れる日を心のどこかで願っている自分がいます。
                             2023.2.11  芳麗

はっきり言ってオッパイまでは顔なんです!

 おっぱいを開放することこそ、女性の解放である? “美魔女”の存在が発見されるずっと前から、女が熟することを謳歌していた『NIKITA』。芳麗さんは、そんな気風のいいニキータ姐さんの言葉に、何度も膝を打ってきたそう。はてさて、女性のおっぱいはなにが恥ずかしいのでしょうか。 
 この道20年のベテラン女性誌ライター芳麗さんが贈る“ありふれた女”たちのための教科書です。


  ニキータは声の大きな女性だった。40代とは思えないほど妖艶で、ハイセンスなドレスを身にまとい、エレガントなレストランを我が物顔で闊歩しては、よく通る声であけすけな本音を語っていた。

「コムスメに勝つ!」

 あれは、2004年のこと。彼女が唐突にぶちあげたスローガンに、当時、アラサーだった私は「別に勝ちたくないよぉ」と顔を赤らめながら反論した。本音を言えば、自分はまだコムスメ側だと思っていたのだ。

 ニキータは、隣のテーブルが眉をひそめていることもお構いなし。「だって、いつまでも夢みるコムスメではいられないのよ」とばかりにワイングラスを回し続けている。

NIKITA 2004.11

日本の男は、素人女性の胸の谷間に慣れていない

“ちょい悪オヤジ” の呼称で一世を風靡した雑誌『LEON』の恋人を想定して、2005年に創刊された『NIKITA』。憧れのロールモデルは、往年の女優ソフィア・ローレンのような豊潤なイタリアンマダム。

 10年前、40歳という年齢は、日本では女を降りる準備を始めるべきお年頃とされていた。“美魔女”の存在が発見されるずっと前から、『NIKITA』は女が熟する季節を謳歌することを先導していた。

 フェミニズム的な戦いよりも、本能のままに消費すること、奔放に恋をすることこそが、新しい女の生きる道とばかりに、煽情的な言葉を語り続けていた。だからって、狙った男のことを艶男(アデオス)とか、自分のことを艶女(アデージョ)って呼ぶなんてアグレッシヴを通り越しておもしろすぎる。

 決して、友だちになれないタイプの年上女だと思ったのに、私は、気がつけば、毎月のように、ニキータの言葉に心奪われていた。中でも、忘れられない至言がある。

『はっきり言ってオッパイまでは顔なんです』

 初めて目にした時は、そのあられもなさに戸惑いながらも「やっぱり、そうだったのか」とひざをうった。何だろう。この問答無用の説得力。

 ページには、外国人女性がざっくりと開いたトップスの胸元に“乳間ネックレス” ※ を煌めかせておっぱいを誇示している。その写真をしげしげと眺めているうちに不思議な高揚感を覚えた。これは、“乳間ネックレス”の宣伝記事である。しかし、女性誌には、時に驚くようなユーモアやフィロソフィが宿っている。

「おっぱいを開放することこそ、女性の解放! 幸せをつかむ術である」というメッセージを私は勝手に読みとった。

※乳間ネックレス:チャーム部分が一直線になっていて胸の谷間部分にまで垂れ下っているネックレスのこと

  本誌が発売されてまもなく、マジで乳間ネックレスを身につけている人に出会った。しかも、仕事場で。ヌーディーなファッションに抵抗がないモードな人や“女のプロ”的な妖艶な女性ではない。どちらかといえば、地味なタイプ。レコード会社勤務、仕事の熱心さには定評のある30代半ばの彼女が、『NIKITA』で見たままの乳間ネックレスを、矯正下着で力いっぱい寄せ集めてロケット巨乳化した胸の谷間に垂らしていた。ボディラメもたっぷりと塗られた胸元は、彼女のシンプルなメイクや控えめな立ち居振る舞いとは、まったくかみ合っておらず、そばにいるだけで、どうにもそわそわしてしまう。
 
 やはり、日本でニキータになるのは、難しいのか。私はわが事のように胸に手を当てた。

 とはいえ、“オッパイまでは顔”には、その人となりが宿る。たとえば、シャツのボタンを何番目まで開けるのか。

 峰不二子、藤原紀香、壇蜜のように自覚的に谷間を見せる女性は、性的アピールというよりも、「誘惑してア・ゲ・ル」というサービス精神にもとづいたビジネスであり、キャラである。

 一方、滅多に胸元を開かない、ぴったりとした黒のタートルが似合う女優たちを思い出してほしい。彼女たちは、女が秘密を持つことの吸引力――日本においては小悪魔よりも清純派、巨乳よりも隠れ巨乳のほうがいまだ一般的に価値が高いことを知っているのだ。

 そもそも、 日本男児は素人女性の谷間に慣れていない。草食系の20代男であろうと、いまだセクハラを自覚できないオヤジだって同じこと。テレビや雑誌で観るプロの谷間、二次元の谷間には欲情できても、素人女性が巷で披露している谷間には、目のやり場を彷徨わせるしか術がない。ある20代の男性は、40代女性の上司が常にスーツのインナーから谷間をモロ出ししていることについて、強い不満を表明していた。曰く「年増の谷間は公害だ!」と。本心なのか、そういうことを言いたいだけなのかはわからないが、それを聞いて胸が痛んだ。

 だから、年を重ねたら谷間を出さないほうがいいと言う話ではない。谷間に色恋の効果はないが、主義・主張、武器にはなる。ある時、清純派、隠れ巨乳と大衆に愛玩されてきた長澤まさみが晴れの映画祭の場で、サイドからおっぱいの輪郭が見える大胆なドレスを着てレッドカーペットを歩いていた。あれは、彼女なりの主張なのだ。

 別に隠しているわけじゃないし、おっぱいだけが自分のアイデンティティじゃないとばかりに。「長澤まさみって意外とロックだな!」と思った。

“おっぱい”と“年齢”は、出し過ぎても隠しすぎても下品になる?!

「いつも胸元がゆるくてセクシーですよね(笑)」
 ある時、知人の芸人にそう言われたことがある。仕事で何度も会って、軽口を叩きあえる距離になった時のこと。雑談で爆笑していた延長で、彼は言った。その口調に嫌味や過度なエロさは無かった。親しみをこめた、小さなからかい。

 彼の言葉とノリ自体は、テレて笑い流したのに、後から無性に恥ずかしくなった。なぜなら、私は自分の胸元のゆるさに無自覚だったから。たしかに、日頃からざっくり胸元が開いたトップスを着ることが多いが、それは、あくまでも「そのほうが痩せて見えるから!」。むしろ谷間は見せないように気を使っていた、つもりだった。私なんてさほど美しい谷間もないし……。そんな自信のない胸元を、結果、無自覚に見せていたのか。

 堂々と谷間を見せている女性たちに比べて、潔くないし、中途半端だ。私はなにを恥じているのか。件の芸人に、ツッコまれたところで、胸を張っていればよかったのだ。「なにか問題でも?」と。やっぱり、もっとニキータか長澤まさみを見習ったほうがいいかもしれない。

 結局、日本人は、 男も女もおっぱいについて神経質すぎるのだ。私なんてその最たるもの。日本人らしい羞恥心は美徳だが、それと、おっぱいに過敏になりすぎることは別問題。隠したほうが美しい女の秘密は多々あるが、恥ずべきものでもないものを執拗に隠すことも、そこに執心して暴こうとすることも、下品としか言いようがない。たとえば、女のそれは、“おっぱい”。あるいは、“年齢”や“シワ”など。

 “おっぱいまでは顔”説を裏付けるもうひとつの理由として、おっぱいは形も大きさも色合いも、目や鼻など顔の他のパーツ以上に多様であることが挙げられる。たれパンダのようなおっぱいもあれば、固い蕾のようなおっぱいもある。他者と異なるからまた悩みの種にもなりえるのだろう。ある人は、貧乳であることを執拗にネタにする。巨乳であるがゆえに女性らしさとうまく向き合えず、素直に振る舞えない人がいる。

 豊満なおっぱいを育てる育乳ブラをつけるか、ワイヤーなしのデザイン性の高いブラジャーに走るか。乳がんで、乳房を切除するかどうかの選択もそう。アンジェリーナジョリーのように未病ながら、可能性のためだけにおっぱいを切除する人もいるという不思議。

 おっぱいについて考える時に彼女の語ること――は、その女を表している。

 日本では2015年現在も、『おっぱい番長の「乳トレ」』は激売れしているし、清純派女優の胸の谷間は相変わらず人を惹きつけて離さない。

 40歳を超えた今も、美乳になりたいと切に思う。でも、アメリカ産・シリコン製の美しいお椀形おっぱいを持つニューハーフの友人は、寝転がれば流れて消える、放っておけば垂れて行く、ふにゃふにゃで実態のない私のおっぱいが憧れなのだという。

 おっぱいは、年齢とともに、立場とともに変化していく。鍛えても成果が出づらく、容易に変化したようで戻りやすい。出産すれば巨大化するし、赤子に乳を与えればしぼむ。首のシワと同じくらい年齢が隠せないパーツでもある。

 実は、おっぱいはとても儚いものであり、この儚さこそ、おっぱいの美の本質。と敢えて言い切りたい。

 花は散り際が美しく、果物は腐りかけが美味しい。おっぱいも垂れかけたくらいが美味しいってことだと良いのにな。

 『NIKITA』の標榜するヨーロピアンマダムたちは、ヴァカンスのビーチでは、おっぱいが垂れていようがカラフルな三角ビキニを着ている。無頓着なわけではない。きゅっとあがったヒップや引きしまった脚にはワークアウトを怠っていない心意気が現れている。その上で、変容してゆくおっぱいを恥じることなく、自然体で付き合っているのだ。

 美しさには変わっていくものと、変わらないもがあること。人生には努力するべきことと、放棄するべきことがあること。その両方を受け入れて加齢している女は美しい。


「男に揉まれるためだけのおっぱいじゃないわ」

 おっぱいは顔と同様、年々歳々、その女と人生を物語る。どう見せても、どう隠してもいいけれど、その選択に自信を持ちたい。

 おっぱいに対しておおらかになれるかどうかが、熟する女のキモであり、コムスメに勝てる唯一の術なのかもしれない。

  ニキータ、あなたはやはり正しい――。

「おっぱいがしぼんだ時こそチャンスよ。ゴージャスなジュエリーは谷間よりも痩せた胸に映えるんだから。もっと、見せなきゃ! 魅せなきゃ!」

 たとえ、男にどん引きされたとしても?

「あら、おっぱいは揉まれるためだけにあるんじゃないわ。私たち、男のためだけに生きているわけじゃないのよ」

 わたしはうつむいて、胸元に手を当てた。

「失敗にも乾杯!」とソフィア・ローレンの名言を謳いながら、ニキータは私にウィンクすると、若いソムリエを家臣のように従えて、 またワインをあけた。

イラスト:ハセガワシオリ


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