飛行機

飛行機、苦手である。

なるべくして、この移動手段をとりたくないなと思う。それによりお金や時間がかかったとしても、である。理由は至ってシンプルで、普段そこまで考えない"死"を強烈に意識してしまうからだ。

こんな話をすると「クルマで死亡事故に遭う確率のほうが高い」だとか、「雷に打たれる確率より低い」だとかそんな事を諭されるが、それは全くもってセンスのない説得だと思う。

なんたって人間のリスクへの感情値は、自分がその物事をコントロールできるかどうかと、起こった時の悲惨さや被害の大きさにかかっているのである。クルマの運転は、ある程度自分でコントロールできるものだし、それが良くないのは置いておいて、被害が起きても軽微なものだってある。

対して飛行機は自分が操縦するわけでもなし、被害が起こった時を想起すれば、それだけで自分の体が一回り縮んでしまうような、恐ろしい気持ちになる。
だから、実際にそれが何%の確率で生起するかどうかなんて、我々の感情の起伏には何ら関係のないものだ。

さて今日は、飛行機に乗る日の気持ちの変遷を、時系列に記してみよう。
(などと冷静さを装っているが、このブログはこないだ飛行機で旅した時に死にそうになりながら書いたものである)

まず家を出て空港に向かう時は意外に気楽なものだ。空港に着いてからも、いつもと違う景色、大してそんなに味は変わらないのに新鮮に感じるご飯、陽の光を最大限に吸収するように窓が一面に開かれていること、さまざまな要素に、私の児童心はくすぐられる。

しかし、ここからが地獄だ。

いよいよ飛行機に乗り、自分のシートに着く。ここまではいい。悪夢は、離陸から始まる。
自分の身に余るような、おぞましい機体の胎動を感じる。
コレにワクワクできる人種もいるようだが、何故そんな精神状態になれるのか甚だ疑問である。自分にとってそれは、ギロチン台にくくりつけられたような気持ちだ。
人間の癖に、空を飛ぶなんて驕りだ、こんなことはしたらあかん、するんじゃなかったという気持ちになる。古代の人間が、天の高みを目指して塔を建設したら、「生意気な」と神様に叱られて雷を落とされ、バベルを丸ごとぶっ壊された、という旧約聖書の話を思い出す。

空を飛んでいるという事実を厭でも意識させられるもんだから、外の景色なんて見たくなくて一度目を瞑る。でも本当は全く興味がないわけでなくて、本当は閉じたい窓を半分だけ閉めて、もう半分の意識で外を見る。
ジオラマのような街を見て、本当にここで暮らしているのか疑問が湧く。今見ている光景はバーチャルの、おあつらえ向けの景色のように思える。嘘くさい街並みを過ぎれば次第に雲がやってきて、突然に透明度が下がる。街がマスキングされていくのである。

この辺りで、自分がいる場所がいかに高いところなのかを意識せずにすみ、ようやく気持ちも落ち着いてくる。
ここいらで、なんらかの器官が、重力による何らかの影響を及ぼされた結果である頭痛と吐き気に気づく。難しく書いているが、要するに、乗り物酔いだ。そんなことにも気付けないほど、緊張と視野の狭まりがあったのだと自分でも驚く。客観性は、自らが何かに脅かされることでいとも簡単に失われるのである。

安心も束の間、気流が荒れていると告げるアナウンスに、心臓の鼓動の早まりを意識する。
どうやら「向かい風が強く、到着が遅れる」らしい。
オレにはわかる。
ウソだ。
本当はもう墜落寸前に違いない。
それを何とか安心させようと、理由をこねくり回しているだけだろう。
そう、それは機内アナウンスの安楽死である。
ここまで悪い妄想ができる人間という生物の脳みそのクオリティには感服だ。

さて、生きた心地がするのにあと何分かかるのか。
このストレスを何年も与え続ける拷問があるならば…自分はどんな秘密だって喋れる。身内を売ることだって全く憚らない。

そんな難儀な事を考えている自分とは対照的に、隣で気持ちよさそうに寝ている中年サラリーマンが羨ましいな、いや、もはや憎しみすら芽生えている。何だお前は、オレと同じ気持ちになってみろ。なぜそんなに気持ち良さそうなのだ。ふざけるな。人の気持ちを考えろ。俺と一緒に道徳の授業を受けようよ。

乗客に安心をもたらすために、気流で揺れていることについての機長の説明が、言葉がもつれて下手くそで、余計に不安を煽られる。
こんな簡単なことも澱みなく話せないなんて…
コイツは土壇場でパニクって、間違ったスイッチを押して墜落してしまうんじゃないか。
マルチタスクができないタイプなのでは?一体どんな試験を通って、ハンドルを握っているのか?昔、試験制度が易しかった時代(勝手に旧制度と呼ぶことにする)の負の遺産なのでは?
旧制度が生んだ悲劇なのではないか?
人は余裕がなくなると意味もなく他人を蔑むことができるという、どこかで聞いた話を思い出してほんのり反省する。

ようやくベルト着用サインが消え、安心してよいものか、探るような気持ちになる。まだ消えない心の中の警戒心を溶かして無くしたいがために、煮詰まったあまりおいしくはないオニオンスープを飲み干す。
食道から胃にかけて流れる熱さを感じたときに、ようやく周りの温度のことにも気を配る。
肌にちりつくような外の暑さ。少しばかり太陽へ近づいたせいで、ガラスから輻射熱が届いていたのだ。
それが鬱陶しくて中途半端に閉めていた窓を、終に、完全に閉めた。外が見えない、自分だけの世界に篭ることが、ようやくニンゲンの生活をもたらす。これがニンゲンの生活だというのなら、我々は「死ぬことを意識しない」からこそ、生の実感をもって正常な精神を保てているのだと思う。

そんなことを数十分も考えているうちに、またベルト着用のサインがつく。
まもなく着陸態勢に入るらしい。ただ、到着予定時刻を考えてもやや早すぎると感じる。
準備が早い事が、果たしていつの時代もどこでも、全てにおいて正しい事なのかは疑問だ。しっかり準備をして、「墜落しちゃダメだ墜落しちゃダメだ墜落しちゃダメだ」と3回唱えてから着陸態勢をとっていただきたい。

ただし、今の私は…離陸時とは心持ちが違う。
なぜなら、対処法を知っているからだ。
窓も閉め切っているし、どれくらい揺れるか、シュミレーションだってできている。隣のおっさんと同じように寝たフリだって可能だ。

そうやって私はまた世界を閉じていく。
自分の中に宇宙をつくるのだ。
空を飛びながら、実在しない仮想宇宙に潜る
自分のからだを意識しないことが、自分のこころを守る。
コレはいつだって真実で、空の上にいても、地に足が着いていても、どんな時でも起こることだと思う
もしかするとそれは人間の弱さなのかもしれないが、こんな防衛機能をつけてくれたことには感謝しかない
酒を飲む事だって音楽を聴くことだって、人によっては逃避行動だ。

まもなく別の陸地に到達することを示す、古ぼけたレーダーのような無機質な画面に一瞥をくれた後、目を瞑る。
なるべくこの後に起こる、楽しいことを考える。
目を閉じる。考える。考えないように、考える。
揺れが大きくなる。一際大きな揺れののち、これはまさか、と思い目を開ける。
おお、神よ、大地がある。道路がある。
もう少しだから頑張ってくれ!耐えろ!壊れるな!!
機体を応援し続ける。祈りにも似ている。
そうして車輪を陸地に擦り付けて、スピードを殺しながら飛行機は動かなくなっていく。

ラスボスを倒した後のエピローグのような音楽が流れる。これが、ハリウッド映画か。ほとんど見ない映画のことを考える。無知は罪だが、財産でもある。好き勝手な妄想は自由だ。
そうして僕は到着した。
この地球という名の惑星(ほし)から見れば、小さな大地の上に。
私は生きている。


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