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スピーディに作品を創る

こだわればこだわるほど、複雑になる。
オリジナリティが発揮されると言えば、聞こえはいいが誰もが共感できたり、使えたりするものではなくなるかもしれない。
完璧主義の悪弊が顔をのぞかせる。
他者目線に立ったときに、自分のこだわりを相対化できる。
自分が創る以上、その時点で個性が入って来ざるを得ないのが、本来だ。
そこにまた、自分のあらん限りのイマジネーションを盛り込もうとすると、かえって他の人が入って来れなくなる。
しかも、往々にしてヘビー級を感じさせるボリュームになるのだから、いよいよ始末に負えないといった状況も生じてくる。
その種の世界観は好きな人は好きだが、嫌いな人は嫌うだろう。
別に人に受け入れられることが全てとは言えないにしろ、視点の転換によって作品の質も創作ペースも変えていけるはずだ。



誰もが入ってくることができ、使えるプロダクトを目指すならば、相手に配慮した視点は重要になる。
こだわりから脱却し、必要なことは何かを考える発想になる。
そこには、「役に立つ」という発想を重視させ、次から次に使えるものを持ってくるスタンスが自然と生じてくる。
こだわり過ぎないからこそ、シンプルにスピーディに動ける。
そして、それが人の共感を呼ぶというサイクルに繋がる。
重たいものを創るというより、共有を前提にして自分の所有物にするという発想すら捨ててみる。
それでも、そこに個性が入っていないと言えるだろうか。
選んだ題材、その配置の仕方、仕上げの段階に至るまであなたが創ったものには、あなたの思考様式が宿っている。
100%の思考力の発揮を目指すのか、70%でいいと考えるのかで違いは大きい。
この発想の転換はプロダクトそのものはもちろん、その作品に対する評価さえも変えてしまうだろう。
たとえば、審査員の立場に立ってみる。
審査員は大量の作品を審査する事になるのだから、どれだけ応募者に誠意ある対応を目指そうとも人間だから疲労は溜まる。
疲労がピークに達した時に、複雑で分かりにくい作品が登場したらどう思うだろうか。
その作品に挑む壁が現れてきてしまうのではないだろうか。
もちろん、面白いと思える人も中にはいるだろうが、人によりけりという状況が生じてしまう。
結果的に受け入れられないということも起こってくるはずだ。



7割のこだわりでスピーディに生産されたものには、そのリズムも宿っている。
作品の量産ペースが個々の作品にも可視化されてくる。
審査員もその流れにのっていけるのだ。
作品が既に流れを備えているかどうかを考えてみる。
自分なりのオリジナリティに固執して、周囲とのつながりという発想を欠いていないか。
文脈の中で、作品は位置付けられる。
流れへの意識を持ち、ある種の愚鈍な自己をかなぐり捨てた時、作品は水を得た魚に変貌するのではないだろうか。
それは、ちょっとした意識の変化、視点の転換によってもたらされることなのだ。

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