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これまでの歩みPart2


記念すべき第1回目の投稿(自己紹介)をご覧になっていない方は、ぜひそちらもチェックしてください!
どうもY.K.です。

自衛官としての第一歩

高校卒業後、長髪、パーマ、カラーを堪能していた私は、出発の前日に断髪式をしました。そう…またあの頃とほぼ同じようにスポーツ刈り。短髪の自分はなんだかすごく懐かしかった。

初めて親元を長期間離れ、見知らぬ地 山口県防府市に到着。
女性航空自衛官の登竜門。ある意味、聖地(防府南基地)です。
ここは、いわゆる航空自衛官になるための訓練をする場所。
当時、女性の同期は400名程度はいた気がします。同じような髪型をした女子たちが、めちゃくちゃいっぱいいます。見分けがつかないレベル。双子があちこちみたいな感じです。

最初に悩まされたこと・・・
それは、ダニ。着隊後2~3日目で奴等にやられました。背中、腰に5箇所ほど痒みと水ぶくれ。いつ洗濯したのかわからない寝具類。先が思いやられた瞬間でした。

そこから約4ヶ月間衣食住を共にし、苦しみとキツさと何とも言えぬ辛さを一緒に乗り越えてきた同期は、卒業時には最高の仲間になっていました。
朝から晩まで時間に追われる日々。
朝食はパンの争奪戦。敗北すると5分もないトレイ配食の時間。
屋外は常に帽子とお友達。消灯後の見回りに怯えながらガラケーを弄りまくる。消灯まで携帯に触れる時間は全くないのです。
唯一の至福は、売店で買えるお菓子、週末の外出くらい。元気のある子たちは、基地内にいるメンズと連絡先を交換したり、隣の基地(防府北基地)に航空学生の捕獲に行ったりしてたようです。
要領と飲み込みの良い部類だった私は、指導官から目を付けられることはなく、それなりの成績で卒業させてもらいました。


術科学校・初部隊

職種は「航空管制官」を言い渡され、愛知県小牧市(小牧基地)へ。
田舎者にはめちゃくちゃハイテンションになる環境でしたね。
約1年間、専門学校のような所に入校しました。
ここでは、航空管制官になるために座学メインでお勉強。
よりによって希望外の職種だったので、モチベーションは上がらなかったですが、ここでも頼もしい同期に恵まれたおかげで、楽しい生活を送れました。この時期に流行っていたのは「術校LOVE」異性との接触を断たれていた男女が集まれば、恋が芽生え始める人が多かったのです。階段を登るたびにカップル達が、こぞってイチャイチャ。
女性の割合が1割もいない事もあり、特定の子に男達が言い寄るのなんて日常茶飯事。1年以内に確実に遠距離になることがわかっていながらお付き合いをするということに、一定の抵抗感があった私は全力で名古屋の街を遊び回っていました。
いったいカラオケオールを何度したことか。今では考えられないくらいの体力です。
ある程度のお給料を支給してもらえるようになり、都会という環境に解き放たれたことで、タカが外れていた私は、久屋大通や大須で無駄に服を買い漁り、初めて見るTowerRecordでCDを買い漁り、当時は物欲を満たすことで頭がいっぱいでした。
そんなこんなで、あっという間に術校生活が終わりを迎え、配属先が決まりました。それは、福岡県築上郡にある築城管制隊(築城基地)でした。


管制隊での6年間

管制隊は
航空自衛隊>航空支援集団>航空保安管制群>各管制隊
という位置付けの組織編成です。
私の所属していた部隊は、当時管制官は40人くらい。
その他にも整備員が30人程度、総務関係の人たちがチラホラと。
福岡に転勤する前実は4ヶ月ほど小牧管制隊に所属していたのですが、ここでは省略。
近辺を空港や飛行場に囲まれており、オーバーフライトが多めで、戦闘機はさほど飛んでなかったのが特徴ですが、まぁ、近隣の人たちにはかなり迷惑かけながら飛行訓練されてるんじゃないですかね。
私はトータル3年半くらい訓練生でした。
ちょこちょこ入校や別の訓練を挟んでいたので、結果として5年くらい築城でお世話になりましたね。
この期間でフットサルを初心者としてはじめました。
体力だけはあったのと、それなりにボール蹴れたので、充実した時間でした。

具体的な航空管制官の仕事については、別の機会でご紹介させて貰えばと思います。
ただ、訓練生の期間で、一度人を殺しそうになったことがきっかけで、管制に対してトラウマ。
ここで、初めて本気で自衛隊辞めたい。と思いました。
結果、辞めることはしませんでしたが…
精神的にやり続けたいとは思えない仕事となりました。

ただ、その時の先輩に精神的に助けられて、もう一度頑張る決意を固め5年弱管制官として経歴を重ねてきました。
この期間の間に、「空中輸送員」という職種への試験を2度受けていたのですが、低身長(154cm)+女性というところが理由で落ちました。相手はメンズですしね。同じ能力があったとしても、結局は性別や身体の差なんですよね。。。空中輸送員になることだけを励みに、嫌々ながらも管制を頑張って続けてきたので、意気消沈。
2度目の辞めたい症候群が再発。
自衛隊を続ける意味を見いだせなくなっていたわけです。

唯一の希望が浮上

知らなかった世界。ここで登場してくるのが…
特別航空輸送隊
たまにニュースなどで見る機会がある…そう。
政府専用機(旧B747-400/現行B777-300ER)
それまでは同じ航空自衛隊だけど知らなかったですね。

挫折後、初めて試験受けて、無事に合格。10人中5人合格。
その後、入校と訓練を経てなんとか無事に配属されました。特別航空輸送隊員へ。
この時も同期は最高のメンバーでした。
当時といいますか、以前から悪評の多い部隊だったため、期待値はめちゃくちゃ低かったというのが当時の私の気持ちです。
まぁ、職場って結局どこに行っても、人間関係だよな。とここで再認識。
当時は、仲間という概念が欠落しているのか、案の定、ライバル・後輩の蹴落とし合いの宝庫でした。
個人的に、助け合いみたいな考え方ができない人たちが多かったように感じますし、マウントの取り合い、後輩育成ができないもしくは、苦手な人が多かった印象。
私は反面教師的存在として見てました。
約5年の勤務ではありましたが、良いも悪いもすべて見て、感じてきました。ただ、今となっては様々な経験をさせてもらって感謝しています。
政府専用機での経験はまた違ったかたちで取り扱えたらと考えております。乞うご期待。


再出発

政府専用機を降りてからは、いち総務員として、東京にある基地(横田基地)にて勤務。
2年間、総務のスペシャリストの元、他の隊員のために働くことを学びました。
いろんな人から振り回されることもありましたが、それでも「総務」という職種の大切がよくわかりました。
ただ、もっと効率化できたら、もっとみんなが幸せになれるのに。と感じてました。総務の人の仕事は、多岐に渡り、総務なくしては、他の仕事が回らない。
総務を舐めてはいけない。


新しい道

コロナで色んなことを考えるにつれ、1つの決断をしました。自衛隊をやめよう。引っ掛かっていたのは、組織がマンモス🦣過ぎて、環境ややり方が変わるのに、ラグがありすぎる。環境が変わることを望むのではなく、自分が環境を変えることを選択し、IT業界に飛び込みました。もちろん、失うものありました。

  • 年収減

  • 休暇減

  • 信用減


ただ、これから得るものがどんなものなのか、分からないから楽しみです♪
現時点で得たもの以下

  • ストレス減

  • 自分時間増

今後

今までの経験で得てきたものについて、掲載していきます。




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