見出し画像

中世の結節点に立つ武田一族 西川広平

中世社会において武田氏は、中央の政権を主導した権力者とは別次元で、時代を動かす重要な役割を果たしていたのではないか?
西川広平先生の『武田一族の中世』では、武田氏の立場から見た中世という時代のあり方を叙述した注目の一冊です。本稿ではもう少し詳しく、武田氏の役割に触れていただきました。

 二〇二三年夏、吉川弘文館から拙著『武田一族の中世』(以下、本書)が歴史文化ライブラリーの一書として刊行された。すでに手にとられた読者各位はお気付きかもしれないが、他の歴史文化ライブラリー既刊と比べて一〇〇ページほど多く、随分と厚みのある本に仕上がった。

 結果的に、販売価格のご負担を読者各位におかけすることになり、大変恐縮しているところだが、中世を通した武田氏の歴史をまとめるには、相応のボリュームが必要であったことも否めない。その分、読み応えのある本となるよう執筆に励んだつもりである。

 これまでに武田氏の歴史を扱った書籍は、一二世紀末の治承・寿永の内乱期における甲斐源氏一族の活動に注目したものがある一方で、一六世紀の戦国時代における武田信虎・信玄・勝頼の三代にわたる興亡を中心としたものが多数を占めていた。いずれにしろ、中世の始まりと終焉の動乱期における武田氏の存在が、それぞれ関心を惹いていたわけであるが、これこそが武田氏の歴史の長さと深さの大本となっている。

 図らずも、本書の執筆・編集にあたっていた期間には、二〇二二年の「鎌倉殿の13人」(以下「鎌倉殿」)ならびに二〇二三年の「どうする家康」(以下「どうする」)という、中世の前期と後期の歴史を扱ったNHK大河ドラマが二年続けて放送され、主役となった人物たちのライバル的な存在として、武田氏の一族がそれぞれクローズアップされた。「鎌倉殿」の武田信義・一条忠頼、ならびに「どうする」の武田信玄・勝頼という二組の武田父子の登場シーンを楽しみにした視聴者も少なからずいたことであろう。

 ドラマはともかく、中世の社会において武田氏は、中央の政権を主導した権力者とはまた別次元で、時代を動かす重要な役割を果たしていたのではないだろうか。本書では、こうした武田氏の立場から見た中世という時代のあり方を叙述した。

 中世の社会における武田氏の役割を、もう少し詳しく見ていこう。治承・寿永の内乱期の信義・忠頼にしろ、また戦国時代の信玄・勝頼にしろ、いずれも中央の政権の担い手たちから自律した勢力圏の確立を図り、日本列島の社会を多極化する働きの一翼を担っていた。この一方、彼らは鎌倉・室町両幕府において長く政権の基本的な原則であった源氏将軍制に連なる清和源氏(河内源氏)の一族であることを強く意識し、それを利用することによって、中央の政権や他勢力との交渉を進めるとともに、自らの勢力圏を維持するための権威付けを行ない、源氏将軍を頂点とした階層化の中に自らを位置付けた。一方、中央の政権の主導者側としては、ある時は有力な支援者や配下として武田氏を遇する反面、またある時は権力を脅かす存在として警戒の対象としてきたのである。

 すなわち、武田氏を通して中世という時代を俯瞰ふかんすると、政治勢力の多極化をめざす一方で、中央の政権を担う権力者と共通の権威の下に繋がり続けたいという、一見矛盾する行動が並存した時代像が、浮かび上がってくる。こうした中世の両側面が交わる結節点にポジションを定めたことが、他とは異なる武田氏ならではの特徴であろう。

 武田氏は、平安時代の武将である源義光の子孫という由緒を誇ってきた。これまで、河内源氏の中では、源頼朝や足利尊氏・新田義貞らを輩出してきた義家流源氏の一族が、時代を動かす主役の立場を担ってきたが、河内源氏の中で兄義家の一族と地位や権益を競い合ってきた義光の立場が、五〇〇年間にわたって子孫である武田氏に影響を及ぼし続けてきたのではないだろうか。今後は、武田氏に加えて、常陸国(茨城県)の佐竹氏や信濃国(長野県)の平賀氏といった義光流源氏の存在が、さらに注目されるところである。

著書『武田一族の中世』の書影

 ところで、武田氏の特徴をもう一つあげると、中世を通して甲斐国と密接に関わっていたことも見逃せない。しかしながら、このことは武田氏が他に移ることなく甲斐国に土着し、もっぱらその内部で活動していたことを意味しているのではない。武田氏の活動は甲斐国の境界を越えて、治承・寿永の内乱の最中には東海地方へ、また鎌倉・室町時代には安芸国・若狭国・上総国など、日本列島の東西へと広がっていた。このうち若狭国守護となり足利将軍家の側近とも言える存在であった若狭武田氏には、犬追物いぬおうものの故実が伝来していたが、それは名目上であったとしても、馬の産地である甲斐国の風土で育まれた家の文化の伝統を受け継いだものであろう。

 本書の中で、筆者は甲斐国を「交通の要衝」と評したが、現代の感覚では、山々に囲まれた内陸にある山梨県をこのように表現することに、疑問を抱く人も少なからずいるのではないだろうか。しかしながら、近代以前の甲斐国は、富士川および桂川(相模川)などの水系や、峠を越える街道による往来によって、南の駿河国(静岡県)を通る東海道と北の信濃国(長野県)を通る東山道との間を結ぶ中継地、また東に広がる関東(坂東)への出入口という東西南北の結節点の役割を担ってきたとされ、こうした風土を基盤にして、鎌倉時代の甲斐源氏や戦国時代の武田三代が周辺の諸地域に進出を果たした。

 甲斐国の風土を反映した武田氏の活動は、近世の甲斐国において、人々が盆地や谷を取り囲む山々を越えて、煙草たばこ・綿などの換金性が高い畑(畠)作物や林産物、鉱物などを売り貨幣収入を得て食糧を購入するという、いわば市場経済が浸透していたという歴史、さらには現代の山梨出身の人々が、県外に出て活動していても、故郷とのつながりを意識してか、東京と山梨とを結ぶ中央本線の沿線に居住する人が多く、山梨との往来の利便性を重視している姿とも重なるのではないだろうか。

 このことを踏まえると、時代を超えて山梨の人々は、武田氏を通して自分たちの生き方や行動を見つめ直してきたのかもしれない。江戸時代以降、甲斐国に伝わっていた年貢や度量衡どりょうこうの制度は、信玄の遺制であるとする由緒が広まっていた。また、江戸時代半ばに五代将軍徳川綱吉の側近として幕政に大きな影響力を持っていた柳沢吉保は、甲斐源氏の末裔であったが、「先祖の地」である甲斐国三郡と甲府城を拝領するにあたり、信玄の後継者という立場をアピールすることで、大名としての権威を獲得することを図った。こうした権利や統治の裏付けとして信玄の治世や系譜が後世の人々に利用されたが、信玄に限らず武田氏の一族は、甲斐国・山梨ゆかりの人々の行動に、少なからぬ影響を及ぼしてきたのである。

 中世の社会、そして日本列島の風土において、結節点に立ってきた武田一族。こうしたポジションを反映して多様な活動を営み、歴史に足跡を残してきたからこそ、時代を超えて人々はこの一族に魅せられるとともに、その由緒を自分たちの活動に利用してきたのであろう。本書の刊行が、未来に向けてさらなる武田氏の魅力を醸成し、また新たな武田氏像の創出に寄与することになれば本望である。

(にしかわ こうへい・中央大学文学部教授)  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?