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チョコレートがお好きでしょ #シロクマ文芸部

 チョコレートが好きじゃないの、とあなたは言った。
 車の中は暖房が効きすぎていて暑い。みしり、と締め切った車の鉄扉の向こうは雪になっていた。
 チョコレート好きじゃないの、と尋ねると、うん、好きじゃないのとあなたはまた言う。
 あなたの横顔をみつめたまま、膝に乗せたケイト・スペードのバッグの中に今まさにある、高級チョコレートのことを考えていた。冷蔵庫並みに冷え切った空気の中に長い間いて、今度は容赦のない車の暖房で今ごろ汗をかいているであろう、チョコレート。
 あなたはこちらを見ることもなく、フロントガラスの向こうをみつめていた。そろそろ、と思っている横顔。
 そろそろ。
 行かなくちゃ、なのか、はっきりさせたい、なのか。

 チョコレートにもいろいろあるんだけど、と義理を盾にして愚にもつかないことを言うと、あなたはわずかにこちらを見て、前髪の奥に隠した瞳をちらつかせた。そして、あなたは再び、チョコレート嫌いなの、ごめんねと言う。持ってきてくれたのにごめんね、でも嫌いなの、なんでか聞きたい、とあなたは尋ねた。そんな風に尋ねられて、聞きたくない、と答える人がいるのだろうか。ちらちら瞬く冬の星のような瞳をちらつかせられて。

 2月はずっと、生まれてこのかたずっと、チョコレートをもらうの、生まれてからずっとだよ、もらわなかったことが無いの、食べられない赤ちゃんのころでさえ、親戚中の女の人がチョコレートをくれたからね、チョコレートには愛も気持ちも価値もないの、ただでいくらでももらえるものなの、そんな気持ちわからない、わからないよね、誰もわかってくれないの。2月はチョコレートしか食べられないの、だってたくさんもらうからね、スーパーで買ったのや滅多に手に入らないフランス帰りの銀座のショコラティエのスペシャリテや何が入ってるかわからない手作りチョコを、食べ続けるの、毎年毎年——いつからか嫌いになったの、そういうこと、とにかくチョコレートが嫌いなの、と、あなたは良く滑るなめらかな舌を駆使してそう言った。
 そうねあなたは、まるでチョコレートを食べるために生まれてきたのかもしれない、とお行儀よくお返事をしたのに、あなたは不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。チョコレートが嫌いなことなんて知らなかったからと言うと、そうだろうね、と興味がなさそうにつぶやいた。

 雪は降り続く。降り積もる。長い沈黙。窓ガラスが曇っていく。チョコレートはケイト・スペードの中で溶け始める。あなたの指につままれることもなく。あなたの唇に吸い込まれ弄ばれることもなく。
 膨張する空気に耐えられなくなって銀鼠色の高級車は走り出し、互いに黙って目的地を目ざした。マイだけ、特別なのはマイだけなの、とため息の合間にあなたは言う。目の前の尖った美貌の喉ぼとけが上下していた。その喉にチョコレートが滑り込むのを想像したら、少しだけ気が済んだ。

 マイだから正直に言ったの、ほかの人からなら黙ってもらうよ、マイからのチョコレートだけは要らない、だって――

 そのうちに雪は止んで、まるで何もなかったようになった。当初から約束していた場所で車を降りて、手を振る。あなたは去り、道路には轍が出来ていた。沿道の雪をヒールでかき回すと、水を含んだ白い雪に黒が入交り、軋んだ音を立てた。

 裏口から店に入ると、ママが着物の裾を気にしていた。いまちょっとお店の前に出たら足袋を濡らしてしまったわ、替えてくるから花岡さんに伝えてくれる、とママは言い、奥へと向かった。バッグから金色の包装紙に焦げ茶色のリボンのついた箱を出し、バーテンダーの花岡さんの目の前に置いた。
 お客さんにでは、と、目線を寄越して花岡さんが言う。チョコレート嫌いなんだってと言うと、笑いを含まない目でホストですかと問う。知らないけどたぶんねと苦笑いで返すと、もらって捨てるのが常套でしょうが、断るんですね、珍しい、と彼は言った。お客で来たことある人だよと言うと、ああ、と何か察したような眼差しになった。

 私もチョコレートは好きじゃないんですよ、なぜなら今夜は、こういうチョコレートが私に回ってきますので。金色の箱を見ながらそういう彼の瞳は晩秋の湖水のように綺麗だ。カウンターにファー付きのコートの肘をついて、この世にチョコレート好きな人なんていないんじゃないかなと上目使いで問いかけると、マイさんがあげたくない人ほど欲しがっているものですよと彼は言った。世の中だわねと、いつのまにか足袋を履き替えたママが後ろで歌うように言う。そんなもの。そんなものよ。あたしは好きよ、チョコレート。欲しいわ、ちょうだいよ、これ。着物の袖から少しふっくらとした白い手が伸び、ママはカウンターの上の箱を美しい指先でつついた。花岡さん、あなたチョコレート好きでしょ、あたし知ってるのよ、娘さんから貰ったポッキー、嬉しそうに食べてたじゃないの。ポッキーと板チョコって最強よね。あたしポッキーはついチョコのとこだけ舐めとっちゃう。でも高いのは高いのでいいのよ。溶けて固まってたって高級なのは美味しいんだから。柔らかいのより硬い方が好きかしら。ぱくっとね、ひとくちよ。そういうママの唇にのせられた上品な口紅の色の型番を教えてもらいながら、コートの下でまくれ上がっていたミニドレスの裾を引っ張り下げた。
 リップの型番を何度か唇で反芻していたら、あなたがチョコレートが嫌いだったことなんて、どうでもいいことに思えてきた。
 あなたが最後に言った言葉が日陰の雪のように消えない。

 マイからのチョコレートだけは要らない、だって――
 ——だって本命じゃないんでしょ

 そうね、お店のロッカーに無造作に積み上げたチョコレートよりは少しだけ特別だったけれど。今夜は雪が積もるほど降って確かに特別な夜だったけれど。でももう今夜のことは思い出すこともない。あなたにも、もう会うことはない、きっと、たぶん。
 コートを脱ごうとしたら、側にいた花岡さんが手伝ってくれた。ほんの一瞬だけ目が合った。チョコレート、いただきましたよという低い声が耳朶の後ろから響く。ママがお客様を迎えているのを横目に見ていると、むき出しのデコルテにほんの少しだけ、チョコレートがついた。


#シロクマ文芸部
#チョコレート