東京国立近代美術館『中平卓馬 火—氾濫』に行きました!

画像1 東京国立近代美術館『中平卓馬 火—氾濫』に行きました!
画像2 卒業式で袴姿の方もちらほらと。
画像3 日本の戦後写真における転換期となった1960 年代末から70 年代半ばにかけて、実作と理論の両面において大きな足跡を記した写真家である中平卓馬(1938-2015)。
画像4 その存在は森山大道や篠山紀信ら同時代の写真家を大いに刺激し、またホンマタカシら後続の世代にも多大な影響を与えてきました。
画像5 1960 年代末『PROVOKE』誌などに発表した「アレ・ブレ・ボケ」の強烈なイメージや、1973 年の評論集『なぜ、植物図鑑か』での自己批判と方向転換の宣言、そして1977 年の昏倒・記憶喪失とそこからの再起など、中平のキャリアは劇的なエピソードによって彩られています。
画像6 しかしそれらは中平の存在感を際立たせる一方で、中平像を固定し、その仕事の詳細を見えにくくするものでもありました。
画像7 本展では、あらためて中平の仕事をていねいにたどり、その展開を再検証するとともに、特に、1975 年頃から試みられ、1977 年に病で中断を余儀なくされることとなった模索の時期の仕事に焦点を当て、再起後の仕事の位置づけについてもあらためて検討します。
画像8 展覧会の第1章は「来たるべき言葉のために」です。中平卓馬は東京生まれ。東京外国語大学スペイン科を卒業し、月刊誌『現代の眼』編集部に勤務。写真家・東松照明との出会いから写真への関心を深め、1965年から写真家、批評家として活動を進めていきます。
画像9 第2章は「風景・都市・サーキュレーション」。1970年代初頭、中平は「風景」や「都市」と題する作品を数多く発表。当時はさまざまな雑誌などで「風景論」と呼ばれる議論があり、中平も主要な論客の一人でした。 中平は松田政男の論稿から刺激を受けて、写真にとっての「風景」を考えていきます。
画像10 第3章は「植物図鑑・氾濫」。中平は1973年に評論集『なぜ、植物図鑑か』を刊行。 昨今の中平の写真から詩的要素が失われているとする読者の投書に応え、逆に自分の情緒を外界に投影していた過去の写真を否定。事物を事物のままにとらえる「植物図鑑」としての写真を目指すと宣言しました。
画像11 第4章は「島々・街路 」。1973年、中平は初めて沖縄を訪問。以来、島々からなる日本の姿に関心を抱き、奄美群島や吐噶喇(とから)列島を取材しました。 同じ頃、海外にも渡航を重ねた中平。小説家の中上健次とともに香港やシンガポール、スペイン、モロッコなどを取材し、『プレイボーイ日本版』(集英社)に、共作「町よ!」が掲載されました。
画像12 最後の第5章は「写真原点」。1977年9月、中平は急性アルコール中毒で倒れ、肉体は回復したものの数年分の記憶を喪失。その後も記憶が持続しないなどの症状が残りましたが、写真家として再起を果たします。 1980年代にはモノクロフィルムを用いて撮影。自宅の周辺での撮影と暗室作業を重ね、写真集『新たなる凝視』や『AdieuaX』へとまとめられました。
画像13 その後、作品はカラーフィルムのタテ構図で、世界の断片を切り取るという方法へと移行していきます。
画像14 展覧会の最後で目を引く作品群は、2011年に大阪で開催された個展「キリカエ」の出品作です。165点でスタートし、会期中の作品追加を経て、最終的に300点近くが展示されました。 この展覧会が、中平の存命中最後の重要な個展になりました。
画像15 戦後の写真に大きな足跡を残した中平卓馬の全容が理解できる大規模な展覧会。これまで展示されることがなかった作品も公開される、貴重な機会になっています。

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