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短編小説『花を育てられる人だから』


「きみは、花を育てられる人だから」

 彼はそう言って、煙草の火種を潰した。振り返らずにドアを閉めた背中の残像だけをぼんやりと眺めながら、「正確にはリトルシガーっていって、葉巻の一種なんだよ」なんて笑った彼の、薄い唇を思い出す。細くて茶色いブラックジャックは、骨張った白い手によく似合っていた。

 鎖骨に薔薇のタトゥーを彫っているくせに、彼は花を育てられない人だった。水をやりすぎて、いつも腐らせてしまう人だった。灰皿に捨てられた長いままのそれを手にとって、彼が置いていったライターで火を灯す。一吸いで咽せて、よくこんなものを、と思いながら火種を潰した。私は、彼のことなんてこれっぽっちもわからなかった。知らなくたって、生きてゆけた味だ。

 映画を観るためにプロジェクターを買ったのも、ヴィンテージのお洒落なラグを敷いたのも、音質が良いスピーカーを買ったのもぜんぶ、彼の趣味だった。だからこの部屋には面影が多すぎて、いまさら窒息してしまいそうになる。黄ばんだ壁も天井もソファーに染みついた匂いも、どうやったって消すことはできない。私はたぶん、あと数日でここを出てゆく。

 花なんて育てられなくてもいいから、顔をあげて笑っていてほしかった。でも、彼はいつも弱々しく眉尻を下げて、「僕にはもったいないなぁ」って曖昧に瞼を伏せるから。私は口を噤んで、その肩に頭を預けることしかできなかった。

 吸えなかった煙草も灰皿もビニール袋のなかへ押し込んで、ブラックジャックの匂いが染みついたパーカーを羽織る。外に出ると、昨日までは感じなかった気配がざらりと心を撫でた。もうすぐ、春がきてしまう。穴なんてもともと空いていたのに、もっと大きく、ぽっかりと空いてしまったみたいだ。出会うまえの形が思い出せなくなるほど長い間、私のまんなかに彼がいた。それだけは嘘じゃなかったよって呟いた声は、あの背中に届いただろうか。ロック画面もアイコンも、はやく変えなければ。彼が記念日に買ってくれたお揃いのスニーカーは、足枷みたいだ。でも、軽い靴はこれしか持っていないから。

 街角のお花屋さんを素通りして、ラーメン屋にひとりで入る。食券を買ってちょっと無愛想な店主に手渡せば、すぐに瓶ビールを出してくれた。それをぐびっと飲んでから、半チャーハンとラーメンを貪る。穴の埋めようはないけれど、胃袋を満たすことはできた。私はまだ、生きてゆける。すべてを失ったわけじゃない。彼が私のすべてでした、だなんて言えるわけがない。彼はなんども、目を見て伝えてくれたのに。

 食べすぎたな、とお腹をさすりながらラーメン屋を出ると、コンビニで酎ハイを買った。ぶらぶら歩きながらそれを飲んで、夜の街を歩く。彼はたぶん、どこかでまた花を腐らせる。腐らないものには気づけずに、こわれやすいものばかり大切にしすぎてしまって。そんなところが好きだった、と美化してしまえば、この恋はドラマチックになってしまう。私と彼との日々は、決してドラマなんかじゃなかった。ずっと、生活だったのだ。それは日常で、生きることの真隣にある、営みだった。

「私、花は育てられるけど」

 残り香まみれの部屋に帰って、ベランダに出る。キンセンカの植木鉢を撫でて、星なんてひとつも見えない空を見上げた。どこかから、彼のものとは違う煙草の匂いがする。

「いちばん大切なものを、枯らしちゃった」

 彼は、花を腐らせるたびこんな気持ちになるのだろうか。それとも、枯らしてしまった私とは違うかな。きっといつもの情けない笑みを浮かべて、「またやっちゃった」と煙を吐き出す。彼の横顔が浮かんで消えて、もう、知らない煙草の匂いだけ。そのままでいてね、って願う権利が、私には残っていない。だからきっといつかは、ちゃんと花を育てられる人になってしまって。そのときくらいは、「僕も育てられたよ」って顔をあげて笑うかな。私が泣くなら、きっとそのときだ。


Fin.


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