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日記 2024/4/29~『あしたから出版社』『ガラスの街』

2024/4/29(月) mさんと会う日。息子のSTの担当の先生だったmさんが3月末で退職するのと、わたしの隣の町に引っ越したのを聞いて、思い切って連絡先を交換したのがきっかけだった。無難なファミレスでのお茶だったが、趣味がものすんごく合うことを確認して、今まで以上に意気投合した。リアルで本好きな人に会うのも初めてだった。早速次に会う日にちも決めたし、ペンギン文庫に行くことになったので、楽しみすぎる。
時間があったのでひとりカラオケ。半年に一回のペース。好きな曲にも、聴くのが好きな歌手や曲と、歌うのが好きな歌手や曲があると思うのだけど、わたしの場合、歌うのが好きな歌手がaikoで、曲がミセスのstartとspeakingだった。aikoは何を歌ってもしっくりくるし、それは家の隣にあったカラオケ屋に通って、aikoばかり歌っていたからだと思う。aikoの歌い方を真似しすぎたからだった。

2024/4/30(火) 日記書こうと思ったがなぜかあまり記憶にない。(笑) ルンバを早めに動かしたこと、洗濯機をたくさん回したこと、息子がダンボール工作に集中して取りくんでいたことが、よかった。
夜ご飯は、サバの照り焼き、春雨サラダ、じゃがいものオーブン焼き

2024/5/1(水) 曇り。風があって肌寒い。息子のST・OTの日。新しい先生なので人見知り発揮するだろうなあ。早くつきそうだったので買い物をして時間を潰す。トミカ収納の材料を買う。
やっぱり人見知りを発揮していた息子だったが、しっかり関わってくれる先生で安心した。中には、何しにここにきてるんだっけ?と思ってしまう関わり方しかしてくれない先生も、いる。
夜ご飯は、ひっぱりうどん(納豆ときのこのつけ汁)、丸い、くちたちのおひたし。
『あしたから出版社』島田潤一郎(著)を読んでいる。島田さんの言葉が本に対する想いが、どこを読んでもひしひしと伝わってきて、震えながら読んでいる。大袈裟にいったるんじゃなくて、ほんとうに心が震えているのがわかる。読み切ってしまうのがもったいたくて、そっと本を閉じだ。

2024/5/2(木) 午前に父の手伝い。祖母の畑に籾殻をまく作業。父とあーでもないこーでもない言い合いながら作業する。母と花を植える場所を増やしてる最中で、そこに入れる用に籾殻も分けてもらう。
お昼幼稚園に行く。先生から息子が、年少さんの顔を引っ掻いてしまったこと、その理由は年少さん同士でおもちゃの貸し借りに揉めているのを見て、間に入って止めようとして手を出してしまったことを言われる。ほんと申し訳なくてずっと謝ってた。言葉でうまく伝えられないと手が出てしまうのは先生方も分かって下さってたけど、そこに変な正義感もプラスされて、逆に危害を加えれしまうとは......面倒を見てあげたいという気持ちと、それをどう表現したらいいのかといい気持ちで息子も葛藤してるのかもしれない。とにかくほんとうにすみませんでしたの気持ちしかない。

2024/5/3(金) 昨日のこと、うじうじ考えてても仕方がないので気持ちを切り替える。
早めに起きて準備をして、予定通りに出発。今日は郡山美術館の印象派展に行くのと、近くにある入場料無料の遊園地「カルチャーパーク」というところに行く予定。
福島の道の駅でラーメンのお土産とお決まりのアイスを食べて郡山へ向かう。

印象派展、最高でした。空間に入った瞬間、なぜか涙ぐみそうになったぐらい込み上げて来るものがあった。モネの睡蓮も、チャイルド・ハッサムの花摘みも、間近で見たその迫力と繊細さに一瞬で心奪われました。
モネもハッサムもルノワールもセザンヌも....etc どの作品もとてもすばらしく、うっとりしてしまったんだけど、その中でも特に印象に残った作品が《サン・ピエール寺院》という絵。見たことはあったけど、誰が書いたかまでは知らなくて、今回改めて「太田喜二郎」という人が描いたということを知った。サン・ピエール寺院が大きく描かれている絵だけど、建物というより、光を描いたんだろうなと思うような色使い。うっすら描かれているその光の印象と周りの色とのコントラストががとても美しくて、何時間でも見ていたくなるような作品でした。後からその作品が連作であることを知って、他の作品も見てみたいなと思った。
息子は予想通り最初から早く帰りたい雰囲気で、旦那くんと交互に抱っこしながらの鑑賞だった。わたしたちの勝手で連れてきてごめんねという気持ち。それでもその場に居たという経験は彼の記憶の中に残り続けるだろうか、忘れてしまうだろうか...5歳の子どもの曖昧なの記憶。
息子お待ちかねのカルチャーパークは、入場料無料、持ち込みも自由、アトラクション代も安いということがかなり大きいようで、「ここはディズニーランド?!シー?!」って思うぐらい、どのアトラクションも大行列でびっくりしてしまった。わたしはジェットコースターに乗りたかったけど、1時間待ちは当たり前そうだったので諦めて、観覧車だけ乗って帰ってきました。息子は無料の遊具やコーラ味のかき氷を食べて満足してくれたのでよかった。(笑)
結局、思いのほか早く山形に帰ってきてしまい、焼肉の予約時間まで時間を持て余す事態に。息子は寝てしまったので、休憩も兼ねて車内でゆっくり過ごすことにした。思いがけずやってきた読書時間。読めないだろうなあと思いながら鞄に入れた本たちが報われる瞬間。本は二冊持ってきて、『あしたから出版社』と『ガラスの街』。道中で『あしたから出版社』は読み終わってしまったので、読みたがっていた旦那くんに貸して、読書会メンバーと読むことになった『ガラスの街』を開く。はじめから良すぎてこれまた食らってしまう。

ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。街路の動きに身を委ね、自分を一個の眼に還元することで、考えることの義務から解放された。それが彼にある種の平安をもたらし、好ましい空虚を内面に作り上げた。世界は彼の外に、周りに、前にあり、世界が変化しつづけるその速度は、ひとつのことに長く心をとどまらせるのを不可能にした。動くこと、それが何より肝要だった。片足をもう一方の足の前に出すことによって、自分の体の流れについて行くことができる。あてもなくさまようことによって、すべての場所は等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題でなくなった。散歩がうまく行ったときには、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった──どこにもいないこと。ニューヨークは彼が自分の周りに築き上げたどこでもない場所であり、自分がもう二度とそこを去る気がないことを彼は実感した。______(p6~7より引用)

                    『ガラスの街』ポール・オースター(著)

印象派展で買ったモネの睡蓮のしおりに、運転席の窓から指す西日が反射して、キラキラ光ってみえて、それが『ガラスの街』のニューヨークの描写に重なって、なんともいえない至福の読書時間の中にいた。とてもきれいだった。
夜ご飯は久しぶりの焼き肉で、三人とも食べ過ぎ、もうしばらく肉は見たくないね状態で帰ってきた。

2024/5/4(土) あんだけ肉を食べ、もう肉は見たくないと思っていたのに、次の日になると平気になっている。全然食べれる。消化されたことで全部なかったことになっている。これだから人間はまた過ちを犯してしまうのだ。
朝息子が落ち着きなくて怒ってしまう。朝から落ち着きないってなんなんだって思うけど、興奮してくると人の話が聞けない、指示が入らないのはいつものことで、この前幼稚園の担任の先生から言われたことがずっと引っかかってて、そのことをぶつけてしまった感じ。怒ってごめんと伝え、ぎゅうする。
KUMONの宿題をして、外に行こうと誘ったが
今日は家の中で遊びたい気分だったようで、窓際におもちゃを持ってきて遊んでもらう。わたしは母の手伝い。敷地の隅の所(砂利が敷き詰めてある所)を掘り返して石を取り除く作業。花を植えやすくする。だいぶ掘れたし、だいぶ石が取れた。
午後は妹夫婦の家に行く。今日の甥っ子はこの前来たよりムチムチ感が増したみたいだ。音のなるおもちゃへの反応がすごい。鳴らすと震えてる。震えるぐらい好きなのか。相変わらずかわいい。
夜ご飯、カレー、エビフライ、冷奴、よもぎ餅。

2024/5/5 昨日の作業の続き。その場所に植えていたアナベルを、ハーブ畑の方に移動させる。あんまり大きくならなかったのは、小石がたくさんあって、根がしっかり張れなかったからだろう。大きくなってきれいな花を咲かせてほしい。
息子は祖父にトラクターに乗せてもらってドライブに行った。家にあるからだろうけど、トラクターとか軽トラとか、農業機械系が自然と好きなようだった。
午後は母と息子と買い物。去年ダメになってしまった花オレガノを買う。ドライにするととてもかわいいのだ。冬越しが難しいのだけど、今年はうまくいくといいな。



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