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必要だからやる。それが仕事

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 養老先生が若い頃、つまりまだ東大で教えておられた頃、必要な設備を私費で購入して研究していた。そういうエピソードがある。これは美談だから紹介するのではない。先生はこの話をすると、「本当はいけないんだけどね」と苦笑いする。
 なぜいけないかと言うと、東大の教授は国家公務員だからである。ポケットマネーを使ったら、研究の目的が歪む。だから禁止されている。しかし、本当にそうか。
 どんな研究でもそうだが、たとえば私企業から資金をもらって研究すれば、その研究は必ずその企業によって左右される。どれだけ偉大な発見があっても、スポンサーが研究をやめろと言ったらやめるしかない。
 その意味では、国から出ているお金だって同じではないか。研究費を申請する書類に研究目的を書いて、その目的がお上の意に沿わなければ、研究費は下りない。それなら、ポケットマネーはいちばん色のついていないお金である。
 美談というなら、死体の引き取りの話こそ美談であろう。解剖にはご遺体が必要だから、生前にご意志のあった方からご提供いただく。これを献体と呼ぶ。
 しかし、死は時を選ばない。お盆だろうが正月だろうが、死ぬときは死ぬ。養老先生は正月に病院に引き取りに行ったことがあるという。正面玄関から出ようとしたら、「正月から縁起が悪いのでやめてくれ」と、看護師が飛んできた。それで運転手さんと二人がかりで非常階段から運び出した。「これじゃあ死体が増えちゃうよ」と冗談まじりに。
 先生は「そんなの、教授の仕事じゃありませんよ」と言われたそうである。しかし、ご遺体がなければ解剖はできない。それなら、引き取りは解剖に必要な仕事ではないか。
 この国では、仕事はしばしばお金が決める。しかし、それならそれは研究者本人がやった仕事ではなく、お金がやった仕事ではないのか。養老先生がポケットマネーで設備を購入したのも、自分で死体の引き取りに行ったのも、それが必要なことだったからである。お金が出なかったら、必要なことをやらなくてもいいというのか。
 先生は、仕事とは社会に空いた穴だという。穴が空いていたらみんなが困る。だから、誰かが埋めなくてはならない。それが仕事だ。つまり、必要があるからやる。それが仕事。自分のためにやるのは、仕事ではなく趣味である。

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