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“パソコンの中の友達”と“ここにいる友達”

気づいたら惹かれていた

16年前、中学生の頃、スマホも携帯も持っていませんでした。家に帰るとパソコンを開き、どこかに実在している人と毎日のようにチャットをしていました。

同世代の女の子に向けて、注文通りのデザインを提供しながら、ブログを更新していたこともありました。

学校では友達作りや交友関係で悩んだことはありませんでしたが、ネットの世界にいつのまにか惹かれていました。

チャットをしながら知り合った人の悩みを聞いて励ましたり、仕上げたデザインに対して感謝されたり、充実していました。

それから、高校生になるとTwitterで繋がった人とライブ会場で会うようになり、どんどん輪が広がっていき、SNS上での交友関係は増えていきました。


自分らしくあれる場所

学校では自分らしくあれないような生きづらさを感じていましたが、ネットの中では、“本当はこうしたい”“本当はこうありたい”そういう自分でいていいような気がしていました。

人の目を気にせず表現し、それに共感してもらえたり感謝してもらえることに喜びを感じていました。


“ここにいる友達”

大人になると、気づけば複数のコミュニティに飛び込んでいました。

コミュニティという、SNS上でのクローズドな繋がりがどんどん増えていきました。

“パソコンの中の友達”が増えていくにつれて、“ここにいる友達”から、

「僕、私がいなくてもあなたは楽しそうだね」

「僕、私も同じ志を持った仲間や繋がりが欲しい」

「あなただから仲間ができたのだ」

と言われることが増えていきました。

羨ましさを越え、何とも言えない寂しさ・怒り・不安のような気持ちをぶつけられていると感じることが増えていきました。

私にとっては今に始まったことではなく、中学生の頃から“パソコンの中の友達”とのやりとりに楽しさを感じていたので、戸惑いました。


この違和感はなんだ?

私は、「だったら飛び込んでみたらいいよ!」と単純に考えてしまいます。

しかしそれを伝えるのもなんだか違う気がしました。

“ここにいる友達”は、何を願っているのだろう。

私はもしかしたら、“ここにいる友達”とともに時間を過ごしながら、今こことは違う場所にいるんじゃないか。

“ここにいる友達”とは別の世界に浸り、“ここにいる友達”を置いてけぼりにしているんじゃないか。

私の好きなことなんて適当に知ってもらえたらいいと思っていることにも気がつきました。

「僕、私がいなくてもあなたは楽しそう」

と言った友達は、私にいつでも会ってくれる友達。そして私のことを思い、知りたいと思ってくれている友達。大事な友達。

私は“ここにいる友達”との時間をもっと大切にすべきなのかもしれない、と思うようになりました。


大切な人との今ここを生きる

私にとって大切な人って誰だろう?

私を本当に大切にしてくれている人は誰だろう?

パソコンの中の友達、ここにいる友達、家族、職場の仲間、恋人…

みんな大事です。


けれど、私は今ここ、たしかに私の目の前に存在している人との時間を大切にしていきたいのかもしれません。

そう思ったとき、この記事を書きながらなぜか涙が溢れました。

私は大切な人との今を、もっと大切に、ゆっくり生きていきたい!!!

胸の真ん中に強く響きました。

みんないてくれてありがとう。

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