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卒業制作で考えた「スケボーと建築」vol.3完結編

はじめまして。大阪芸術大学建築学科の米田龍人と申します。

 今回は、vol.3完結編ということで、卒業制作で考えた「スケボーと建築」を最後まで書きたいと思います。少し長いですが最後まで読んで頂けると嬉しいです。



vol.1では「都市と身体」という観点からのスケートボードの分析・考察、vol.2では西成区釜ヶ崎の「あいりん総合センター」を舞台に計画の核としての耐震補強を行ったところまでを書きました。
そして、今回のvol.3では耐震補強によって生まれたそれぞれの架構に対して、次はそれらをどう使うかというフェーズに移っていきます。







二度目のリノベーション/発見的設計

「三次元ブレース」を挿入した労働センター部分、基礎のみを残し上部を減築した医療センター部分、構造体のみを残しスケルトン化させた市営住宅部分それぞれに対して、「二度目のリノベーション」的な発見的設計を行いました。
 これは、人の行為や機能の配置を全て事後的に扱い、センターを守ることを最優先に計画した耐震補強によって生まれた空間や架構を、ユーザーとして乗りこなす発見的な試みです。

  • 「最小構成単位」による政治的な表現の場

 まず、「三次元ブレース」が挿入された労働センター部分には、隣接する道路や町のコンテクストを踏まえた5つの機能を与えようと考えました。しかし僕は、「ここは〇〇するところ」といった、そこでの行為を限定してしまうような予定調和的な空間や機能の与え方はしたくありませんでした。そこで考えたのが、「最小単位」による機能の構成という手法です。
 現代では空間に機能を与える上で、社会的に確立された価値や規範、合理性が優先され、それらを前提としてベストな空間や機能が与えられていることが多いと思います。しかし、こうした最大公約数的なデザインは、ユーザーに対する受け皿は大きいものの、冗長性が欠如しているが故にいずれボトルネックを迎え、多様な身体のふるまいを秩序づけてしまうのではないかと思ったんです。

そうしたときに、この最小単位による機能の構成というのは、介入の余地のない閉塞的な社会に対する一つの手がかりになるのではないかと思ったんです。

今回はそうして考えた機能の中から一つピックアップして話したいと思います。

HOMECENTER (最小単位:ラック)

 これは機能の一つとして設計したホームセンターです。最少単位として取り出したのは「ラック」です。まず、一般的にホームセンターとは生産されたさまざまなものが商品化され販売されている場所と解釈できるわけですが、ここでは地域の廃材やゴミが陳列・積層された空間をホームセンターとして再定義し設計しています。つまり、一度役目を終えたモノたちがもう一度資源化されている空間ということです。
また、パースや図面を見ていただくと分かると思いますが、このホームセンターでは耐震補強によって生まれた架構をバックヤードに見立て、そこをホームセンターの入りとして計画し、廃棄されたモノがユーザーを迎え入れ、その後ラックが現れるという構成になっています。つまり、ここではショップ→バックヤードという本来の関係性が反転しバックヤード→ショップになっているということです。なぜそんなことをしたのかと言われると長くなってしまいますが、割愛していうと、これらの関係を反転させることによって一般的に消費者として訪れるユーザーが生産者へと転換し、空間の捉える射程範囲が飛躍するのではないかと考えたからです。

 ここまでのことをまとめると、私が設計したのはラック単体ではないということです。最少単位としてラックを取り出した、つまり1という道具を手がかりに元ある空間を変化させたということです。これが設計者としての決定であり、責任だと考えています。しかし、結果として与えたのは1だけであるという見方もできるかもしれません。私はそれが私以外のユーザーにとっての介入の余地なのではないかと思うわけです。つまり、私が1という単位を変化させたように、ユーザーも私が与えた1という単位を如何様に変化させてもいいということです。

ある目的を満たす何かに見え、同時に何にも見えない。
人間の「生」にまつわる動機を何度も喚起する再生産のフィールドです。


  • 記憶を耕す/動く痕跡としての建築との対話

 次に、基礎のみを残し上部を減築した医療センター部分には、基礎の形状を活かした畑と、コンポストステーション、コンポストトイレを計画しました。

基礎の形状を活かした畑
コンポストトイレ/コンポストステーション

 本来、食事や建設といった主要素と、それに伴う排泄や廃棄といった副次的要素は同義であるべきですが、大量生産・大量消費の時代である現代においてそれらはあたりまえに享受できるものではなくなってしまいました。

 ここで考えたことは、農作や耕作といった生産活動を都市で行うこと自体が現代への政治的な実践だといえるのではないかということです。 つまり、多くの都市生活者が資本の掌で泳がされ、人とお金のやりとりという人間本来の関係とは乖離した生活が一般化した現代においての生産活動とは、そうした流れに矮小化されつつある要素を再び価値化するための実践であり、資本に依存した社会が搾取できること以上の可能性を有しているということです。


  • オルタナティブメディアとしての日常の伝播

 最後に、構造体のみを残しスケルトン化させた市営住宅部分は、従来の住機能を継承し、できるだけ少ない手数で建築における表と裏の関係をなくすことを試みました。

 片側に共用廊下があり、反対側にはバルコニーがあるといった一般的な中高層住宅の場合、そこには必ず表と裏の関係が生まれてしまい、パブリックとプライベートの空間が明確に二分化されてしまいます。 そこで本計画では、パブリックとプライベートの空間の間に日常的なモノやコトがあふれ出るセミパブリックの空間を設けました。

 そうすることで、表出する営みの中に緩やかな他者が介在し、建築の表と裏の関係がなくなるのではないかと考えました。また、この市営住宅は人工地盤の上に建っていて、かつすぐ隣を南海電鉄の車両が通っているという条件から、そこでの表出する営みが電車の車両に反映されることで、グラフィティ的な側面を帯びたオルタナティブなメディアとして、日常が伝播するのではないかと考えました。



 これらのように、成り立つ構造を考え架構を設定し、それらをどう使うかといった手法はセンターだけの話ではなく、日本中にある次々に壊されていく「都市の記憶としての建築」を、そこで生きている、あるいは生きてきた人々と、現代の都市に居場所を見出せない人々のための場をつくる方法であり、手段であると考えています。








 以上で、私が卒業制作で考えた「スケボーと建築」は終了となりますが、この卒業制作を通して私が言いたかったことは、日常のモノやコトに対する価値観がいかに固定されているかということと、“設計とは決定である”ということです。
また、一人のスケートボーダーとして、一人の生活者として、自身の実感を設計に投影すること。それは、建築領域の広がりを知る重要なトライアルであると同時にそこには“責任”が付きまとうと考えています。

 だからこそ、vol.2でも書いたように“設計者としてどこまで設計して、どこまでユーザーに自由を委ねるか”という点において決定したことが、設計者としての責任の取り方であり、設計に対する態度なのではないかと思っています。



 初めてのnoteでどう書いていこうかすごく悩みましたが、まさかここまで長くなってしまうとは思っていませんでした。笑

最後まで読んでいただきありがとうございました。



米田 龍人


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