音楽とイスラム

YouTube におすすめされた動画、とても良かったので皆さんにおすそ分けします。
ウィントン・マルサリス・クインテットとパキスタンの伝統楽器奏者集団、サッチャル・ジャズ・アンサンブルによる、コルトレーン・アレンジの『マイ・フェイバリット・シングス』。

サッチャル・ジャズ・アンサンブルというのは、イスラム原理主義の影響によって音楽が衰退したパキスタンで、同国の音楽の伝統を絶やすまいと立ち上がった音楽家たちによって結成された楽団です。
伝統楽器を用いたジャズ・スタンダード『テイク・ファイブ』の演奏が動画サイトで注目され、あれよあれよという間にウィントン・マルサリスの楽団とニューヨークで共演することに...という経緯は、2015年に『ソング・オブ・ラホール』という映画になり、なかなか話題になったそうです。私は例によって全然知りませんでしたが...。

バンスリという篠笛によく似た竹の笛、たゆたう霧のような柔らかな音色がとても素敵です。

映画公開から6年経ちますが、このコロナ禍.、音楽家の皆さんは今頃どうされているのでしょうか。ご無事でいらっしゃいますように。

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ここからは、ちょっと私の学習ノートみたいになっています。
(間違いのご指摘、大歓迎です。)

イスラム教は音楽禁止?

タリバンは音楽を禁止していますが、そもそも、イスラム教は本当に音楽を禁止しているのかというと、実はコーランには明確な記述はないそうです。議論自体は10世紀頃から存在しているようですが、多くの神学者たちは「歌の内容に問題がなければいいよ」というスタンスだったようです。

Hussein Rashid という米ホフストラ大学の宗教学教授の記事(*)によると、例えば、10世紀のイフワン・アス=サファと呼ばれる同胞団は、「モーセがシナイ山で耳にした神の御声だけが真の音楽であるが、人間はその御声を忘れないために音楽を奏でる必要がある」と考えました。
15世紀のペルシアでは、スーフィー(白いロングスカートのような衣装でクルクル回る踊りで有名なイスラム神秘主義)の詩人ジャーミーが「神が人間に命を吹き込んだというコーランの記述は、人間が最初の楽器であったと解釈されるべきだ」と述べているそうです。有名なスーフィーの詩人ルーミーも人を笛に例えた詩を残しています。
また、旧約聖書はイスラム教の聖典でもあり、その中の詩篇の作者とされるダビデと彼の子供のソロモンはイスラム教の預言者として名を連ねていますが、両者とも歌の名手だったとされています。

そういったことから、現代のイスラム学者たちの間でも、信仰の妨げにならないような音楽であれば問題なし、という姿勢が主流のようです。
とても保守的で厳格なワッハーブ派の国、サウジアラビアでも音楽は違法ではありません。そういえば、去年、韓国の人気グルーブBTSがリヤドでコンサートを開催したというのがニュースになっていましたね。

タリバンのバックグラウンド

では、タリバンの一切の娯楽を許さないようなガチガチの思想はどこから来ているのでしょう?

タリバンは、イギリス統治時代のインドで設立されたデオバンドという保守的なイスラム神学校の教えに思想的ルーツを持っています。この学校は、信仰を中心とした勤勉で実直な生活を教えるとともに、外国による植民地支配や国内勢力による独裁政治への抵抗も目指すゴールの一つとして掲げており、ここの生徒の中からはインド独立運動の大きな力になった活動家も生まれました。
インド・パキスタン分離後、このデオバンドが分裂してパキスタンにできたのが、タリバンの母校です。(タリバンはそもそも「生徒」という意味です。)この学校で学んだ(亜流の)デオバンド派の教えと、厳格派とも呼ばれるサラフィー主義が混ざったものがタリバンの思想であるようです。(サラフィー主義は、人によるコーランの研究や解釈を認めず、ムハンマドの言行録であるハディースを遵守することを求める純粋主義的な立場です。)

本家インドのデオバンド学院は音楽禁止で非常に厳格であるものの、過激派を生み出してはいません。彼らはタリバンとは明確に距離を置いていて、タリバンの史跡破壊や残虐行為は非イスラム的だと非難する姿勢を取っています。
しかし、タリバン自身はデオバンドがインドで達成したことを自分たちはアフガニスタンで叶えたのだ、という思いがあるようです。最初にロシアを追い出し、次にアメリカを追い出し、やっと自分たちの国を作り直す機会を得たということです。タリバンの過激で残虐な行為の要因は、宗教的なものよりも民族主義的な動機の方が大きいのでしょうね。

異なる宗教の共存の可能性

前述のHussein Rashid教授は、同記事の冒頭でイスラム研究家Jacques Jomierのイスラムの地域的バリエーションを肯定する美しい言葉を引用しています。

「イスラムは澄んだ川の流れのようなものだ。確固とした特徴を持ち、どこにあっても本質は変わらない。しかし、川が走っている土壌は場所によって様々だ。そして、川の水はその土地ごとの色を川岸や川底の砂や土から得るだろう。」

私は、これはイスラム教に限らず、すべての宗教、あるいは哲学をも当てはめることができるのではないかと感じました。
澄み切っていて、その物自体を見ることができない水を真理とすれば、それを探り学ぼうとする行為が信仰や哲学と言えるのではないか。たとえ、地域や個人によってアプローチの形式や方法が違っていても、求めているものは同じなのではないかと。

ラーム=モーハン=ローイという「近代インドの父」と呼ばれる18世紀前半の独立運動家・思想家がこれと少し似た宗教観を持っていました。
彼は、キリスト教やイスラム教と一神教であった古代のヒンドゥー教は、形式が違うだけで根本的には同じものであるという信念を持ち、迷信・俗信にまみれた多神崇拝のヒンドゥー教を批判し、サティ(夫を亡くした女性を焼き殺す習俗)やカースト制度などの廃止を求めた、とても先進的な人です。

すべての宗教、そして無神論的な哲学までを含めた平和的な共存のヒントがここにある気がしています。



(*)"Music and Islam: A Deeper Look" by Hussein Rashid
https://asiasociety.org/arts/music-and-islam-deeper-look




ありがたくいただきます。