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【804】non omnes eadem mirantur amantque/バカに古典を与えると?

ホラティウスの書簡集第II巻に収録されているユリウス・フロールス宛の書簡には「誰もが同じものを称賛し愛するわけではない」(2, v.58)というフレーズがあります。

この箇所はホラティウスの他の文言に比べればあまり有名ではありませんが——たとえばcarpe diem「日を摘め」なんてものはよく知られていて、seize the dayという英訳でも知られていますが——、まあそれなりに有名です。

その内容はと言えば、文脈をちゃんとみなくてはいけないわけで、ここでは老いたホラティウスがこれ以上詩を書かないための言い訳を並べているところです。みんな詩形に対する好みがバラバラなので書いても仕方ない、と言っているわけです(しかしそうやって主張している書簡そのものがきっちり韻を踏んで書かれているのがお笑いポイントです)。

言い訳であるからには、プレーンに「人の好みは様々だよね〜」と言っているわけではありませんし、ホラティウスという偉いローマの詩人が相対主義バンザイを言っているわけではありません。まして、多様な個人のありかたを積極的に認める思想が展開されているわけでもありませんし、他者に対して寛容になれと薦めているわけでもありません。

だというのに、しばしば(?)「人の好みはそれぞれです」という「名言」として理解されます。


結局のところ、文脈を理解しない、あるいは文脈から切断されたものをありがたがる、コンテクストを奪われたテクストを祭り上げようとする人々は、このくらいの知性の使い方をしているのです。もちろん素人が出しているアホみたいな動画で何かを「学んだ」気になっている人とか、根拠や出典のしっかりしていない情報をどうしてか即座に信じてしまう人間もそうした知性の使い方をしています。つまり人口の99%はそういう人々です。

この程度の水準の読みで「古典」をありがたがるというのは、単にもったいないばかりか、馬脚丸出しですし、あまり賢い態度ではありません。無論「実用的」なことしか頭にないから、文脈が豊かだと帰って厄介なのでしょう。自分の文脈へと当てはめることが最優先になってしまっているから、断片化されたものしか摂取しないわけで、寧ろ下手に文脈があると「役に立てられない」から捨てる(ないしは、「ケムにマイている!」と怒り出す)、ということになるのです。もちろん、古典を大切だと言っている人の大半は、古典の表面的な文言をぶちっと切り取ってきて、そうした文言を文脈抜きに「理解」して「応用」することができるから大切だ、と言っているのですが、これは無論或る種の簒奪であり、テクストに対する犯罪と言ってもよいありかたです。

もちろん或る種の思想史は簒奪の歴史です。たとえばドイツにおけるスピノザのずさんな理解は、それはそれで或る種の思想の豊かな土壌になりました(ヘーゲルから、ヘーゲルを批判したショーペンハウアーの周辺へ)。少しマニアックなところでは、イタリアのショーペンハウアー好き好きマンたちが多く依拠したのも、粗雑に理解されたスピノザでした。

が、だから今ここで積極的に簒奪しよう、というのは、少なくともまともな態度ではありません。「ら抜き言葉バンザイ!」と言う人をマトモだと思うとすれば、その人は明らかにどうかしているわけです。もちろん誤解が生じたり、誤用が普及したりすることは歴史の中ではよくあることですし、言葉も思想も或る種のいきものですが、だからといって今ここにいる人々が無反省に誤解や誤用を犯しつづけることが推奨されるわけではありません。


……ちょっとはまともにものを読む態度、というものは、しかし、なかなか身につけるのが難しいものです。この点に問題意識をわずかでも感じられるのであれば、たとえば私の出している以下の講義なんかは極めて有用ですよ(さしあたり安くしておきましょう)。

いや、その価値を理解できる人は、そもそもコンテクストなきテクストを「利用」するような愚を犯すこともないのでしょうが、とまれインスタントなものばかりが求められるなかで、価値を理解しにくいであろう講義が、さしたる宣伝もなしに50人以上に購入されているというのは、なんだか奇妙な事態です。

皆さんにもぜひ「奇妙」であってほしいものです。