心に空いた穴を覗けば大輪の花が咲いている
友人から電話を受けて私が「はあい」といつものように出た数秒の間の後、友人が私の名前呼んだ。その声が震えていて、泣いていることがわかった。
「大丈夫だよゆっくりでいいよ」と言うと、堰を切ったように泣き出し、ちゃんと話し出せるまでその泣き声が言葉になることはなく私の耳に真っ直ぐ届いた。
家族が亡くなったとか、彼と別れたとか、友達に裏切られたとか、余命宣告されたとか、そういうことじゃなくて、そんなことじゃ全然なくて。そんな大きな何かがあったわけじゃないの、そうじゃなくて。けどもうすごく疲れて、もうほんとに疲れて。頑張りたいけど頑張れない、疲れた。
落ち着いた後に友人はそう言うと、「ごめんね」と諦めたように笑って言った。友人はその後も何度も「…があったわけじゃないの」という前置きをして話をした。
私にはそれが「特別辛い何かがなければ、泣いちゃいけないのにね、情けないね」と言ってるように聞こえて、それがどれだけ友人自身を苦しめているのかと想像すると胸が痛かった。
人とまったく同じ痛みや悲しみはきっと存在しない。だから大切な誰かが苦しいときに、私は想像することでしか、その人に寄り添うことはできない。
けれど、誰もが納得できる何かがなければ泣いちゃいけないなんてことは絶対にないんだよ、ということだけは、ちゃんと伝えたいと思った。
「(友人)が泣くときに、自分も周りも納得させる理由は必要はないからね」
「このくらい辛いことがあったなら泣いても許されるよなとか、逆にこの程度で泣いていたら情けないよなとか、そういうのってないじゃない。」
「(友人)は人一倍周りのことを考えているし、自分に対して厳しいからそういうことを自然と考えちゃうのかもしれないけど、それ自覚すらしていないのかもしれないけど、少なくとも私は(友人)が理由なく泣いていたって絶対に責めたりしないし、そんなことくらいでなんて思わない、ほんとうに苦しかったんだな、今頼ってくれてよかったって思うよ」
確か、こんなようなことを言った。
すべてを覚えているわけではないけれど、最後に「連絡くれてありがとう。辛かったね」というと友人は鼻をすすりながら、電話をかけてきたときよりも静かに、けれど長い間、泣いていた。
ひとしきり泣いたあとしばらく話しているうちに、友人は次第に元気を取り戻し、電話を切る頃には「(私)がいてくれてよかった」と言い「わー!改まって言うとはずかしー!」とケラケラ笑っていた。
みんなの中心にいて周りを照らす太陽のような明るい、いつも聞く踊るような笑い声だった。
友人の人生は私との電話を切った後も続いていく。
心配しないかと言えばそれは嘘になる。いつもの笑い声を聞いても、電話を切った後に、大丈夫だろうかと心底心配にはなる。
大事な人だから、健やかで居てほしい愛されていてほしいと願う人だからこそ、まったく同じ痛みではなくとも大事な人が苦しいときは、その痛みの破片が私の心にも刺さって痛みは生じる。
いつでもここに居るから、大丈夫だから。という気持ちで、大事な人たちを想う。
私が10代の頃に、最後に頼った相手が親友で「間違えなかった」と思えたように、友人が苦しくてどうしようもないときに頼った相手が私だったとき、いつでも帰ってきていいんだ、ここに居ていいんだ、という気持ちになって、また自分の日常へゆっくり戻っていってほしいなと思う。
疲れたら、羽を休めていけばいいよ。
またきっと、自由に飛べるように。
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