台所で流した涙は凍らない

ひとりでいること自体は好きで、ひとりの時間がなければたまらなく窮屈に思うけど、通院から帰った夜や体が弱ってしまう日に家にひとりでいることが、最近たまらなく怖い。

たぶんきっと、そんなことはないのだろうけど、このまま今死んでしまったらひとりなのだと思うとたまらなく怖い。何がなんでも生きてやるなんて気概があるわけでもないくせに、ひとりで死んで征くことは怖いらしい。

目を瞑って羊を数えても、睡眠導入音楽とやらを聴いても、深く深呼吸をしても、ハーブティーを飲んでも何をどうしたって怖くて眠れなくなる。

部屋に残っている恋人のいくつかの私物を見て、彼はもう寝た頃かなと思い、安らかな寝息や寝顔を思い出す。眠れない夜は大体心が苦しい。

ほんとうは泣いて台所に立つなんて嫌だけれど、やっぱり台所に立つと楽になるから換気扇の灯りをつけてしまう。

涙をぼたぼた流しながら分量を涙で見間違えないように慎重に材料をはかる。涙が少しボウルに落ちてしまいg数が変わると、私の命の重さがちゃんと数字であらわれて少しくすぐったい気持ちになる。

何かを作ると、そこに自分が居たことの証明になる気がして縋り付くように手を動かしてしまう。パン生地は放っておいてもふわっとつやっと膨らんでくれるからすごい。特別手をかけたわけではないのにちゃんと育ってくれる。パン作りは、スイーツや料理よりも命に近い何かを感じる。

だからというわけではないけれど、最近特に狂ったようにパンを作っている。別に特別パンを食べたい、どうしてもパンが良いというわけじゃない。どちらかといえば、パン生地と戯れるという目的が先行している。

手ごねパンは特別無心になれるし適度に体も疲れるから心地よい。息があがって脈がいつもより早くなると心臓の音もちゃんと分かるような気がする。気づくと恐怖心が少しだけ消えている。

焼き上がりを待つ時間は、台所に椅子を持ってきて、オーブンの前で本を読む。パンが膨らむ一番かわいい瞬間は大好きな読書もそっちのけで興味関心はすべてオーブンに持っていかれる。

料理をすることも好きだけれど、パンやスイーツは、「膨らむ」という瞬間がある。植物が芽を出したときの喜びと似たような幸福があって安心する。私は何かが育っていく瞬間を見ているのがほんとうに好きなのだと思う。

だからか、苦しい時にはよく、縋るように作ってしまう。

彼が週末に帰ってきたとき、冷凍庫を見て大量にあるパンやスイーツを見て嬉しそうな顔をした後に私を見て少し悲しそうな顔をした、その顔を忘れられずにいる。

食べようとして冷凍されていたパンをトースターに入れた後、なにも言わずに私を抱きしめて彼が背中をとんとんとした時にすべてが溢れ出しそうになった。

私の中の何かが溢れ出す前に、炊飯器の音が鳴って「パンもご飯も両方食べるの？」とおかしな気持ちになって、泣くことを忘れて笑ってしまう。彼は「とーぜん」と笑うとパンとご飯を大量にテーブルに持っていて食べ始める。

彼はきっと私が言わなくても気づいているいくつかのことがあって、それは時に彼を傷つけてしまう何かかもしれない。それでも何も言わずに変わらず抱き締めて手を握ってくれる。それが今の私にとってどんなにありがたいか。　

だからこそ、彼に縋っては駄目なタイミングというのも自覚している必要がある。ここは自分で何とかする、この先は少し手を貸してほしい。私がそうやって不器用にバランスを取っている間、彼は決して土足でそこへ踏み込んだりしない。ただずっと、私が彼を振り返るまで見ていてくれている。それだけが確かに分かる。

もうきっと昔のように私の中にある毒薬は爆発したりはしない。だだ起爆剤になる何かを恐れて生きている臆病な性格だけはどうにもならない。

うまく付き合っていかなきゃならないのは、仕事関係の人間でも恋人でも友人でも家族でもなく、きっと私自身なのだろう。

下を向いて泣いていると鼻水が垂れてくるから、それがやけに子供っぽくて「めそめそするな」と自分に思う。かと言って上を向いて泣くと耳に涙が絡んで不快感を感じる。俯いていたって顔をあげたって、さほど進む速度も変わりやしないのかもしれない。

めそめそ、しくしく

唇を噛んで声を殺して泣いてしまうことを、私たちはいつから覚えてしまったのだろう。

ひとりになれたら、たまには大声を出して泣いてみるといい。ただ叫ぶでもいいし「もういやだ」「疲れた」「消えたい」「助けて」なんだっていい、どうせ誰も聞いてないならその方がきっとその方が大人になってしまった私たちには都合が良い。

悲しくないよ苦しくないよ寂しくないよ、違うよ立派でしょ、ひとりで泣ける人間が立派じゃなくてたまるかよ。私たちはよくやってるよ。

顔を上げれば青空、下を向けば足元には花弁。美しいものはゆるがず。急がないで、焦らないで、大丈夫だから。