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彼を愛することは生活の一部


週末の朝、起きてリビングへ行くと、いつもコーヒーを飲んで映画やアニメを見ているはずの彼がいなかった。不思議に思いカーテンを開けて外を見渡すと毎日遊びに来る猫と戯れていた。

彼はニット帽をかぶって首元まであたたかいアウターを羽織ってしっかり防寒していた。彼の口元からうっすらと見える白い息で、猫に何か話しかけているのがわかった。

窓を開けて彼に聞こえるように「おはよう」と言おうとしたけれど、猫がびっくりしてしまうかもしれないと思ったし、猫に何か話しかけて戯れている彼のやさしい表情をもう少し見ていたかったので、窓から少しの間その様子を眺めていた。

彼を少し遠くから見ている時間は結構好きだ。

つい先日一緒に買い物に行ったときにもこういう時間があった。

私がお手洗いから出ると、少し遠くで私を待っていた彼が、子どもの落としてしまったものを拾ってあげていて、ゆっくりと同じ目線にしゃがんで両手で子どもに差し出していた。

彼はほんとうに人の警戒心を解くのが上手な人だと思う。ああ、そっか、人だけじゃなく、きっと動物も同じなんだな。

そんなことを思い出しながら彼を見ていると、彼の視線がこちらの方に向き、窓際にいる私に気づいた。

彼は「おはよう」という声を出すかわりに満面の笑みで笑った。私も同じように笑って手を振ると、彼は猫に小さく手を振っておうちの玄関へ向かった。

玄関へ戻ってきた彼に改めて「おはよう」というと、「おはよう」と彼もいつものように返し「冬は猫の息も白くなるんだね」と嬉しそうに言った。

「にゃあって言ったときに?」と私が返し
「そう、にゃあって言ったときに」と彼が頷いて
「なにそれかわいい、人間のそれより愛らしいね」
と私が言うと
「人間のそれより小さい白い息なのがまた」
と彼が小さく笑い
「ふわってね」
「そう、舞う感じがね」と言い合って、
何がおもしろくおかしいのかもわからないまま2人ででくすくすと笑った。

彼は靴を脱いでスリッパを両足履いて歩き出すと同時に「良い朝だったなあって。ん、伝わった。コーヒー淹れるね」となんだか満足気な様子で私の頭を撫でてそのまま当然のように私の手を引いてリビングへ向かった。

「外にいた俺より手が冷たいな」と彼が言い、「外にいたのにこんなに暖かいのも不思議」と私が言う。

彼は私の手を握る時「冷たいね」とよく言うし、逆に私は「あったかいね」と言う。もうお互いの体温は分かりきっているのに手に触れると何度もこの言葉を交わしてしまうのはなんとなく、互いの存在を確認し合っている感じがして好きだ。

「この手が冷たいだのあったかいだのの会話、私たち何回してるんだろう」とつぶやくと「んー、いちいち覚えてはいないけど」「でもそうか、呆れるくらい、そのくらい手握ってるってことなわけだ」と彼が楽しそうに振り返ったので「そうだね」と少し強く手を握り返した。

彼の手や身体はいつもあたたかい。
生きている人の体温だなといつも思う。

手があったかいと心が冷たいってあれってきっと嘘だ。そんなどうでもいいことを思ったのは彼と出会ってからだった。

彼の心が冷たいのだとしたら、どんな人の心をあたたかいというのだろう、そんな答えを出しても何にもならないことを考えてしまうくらい、彼はあたたかいという言葉が似合う人。

*****


彼の心臓の音が聞こえる胸元に頭を置いて身体に寄り添うように抱きつくと、自分でも不思議なくらいにすぐに眠ってしまう。昔は毎日のように見ていた悪夢も、彼と出会ってから年に数回、不安なことが積み重なったときくらいしか見なくなった。

一緒にいると世界が違って見えるという感覚はほんとうにあるんだと彼といると実感する。

学生時代から長年苦しんできた「離人・現実感喪失症候群」という疾患も、薬でも精神療法でもどうにかならなかったところまで彼と一緒にいるうちに驚くほど改善された。今はほとんどその症状が起こらない。

彼は私にとってほんとうに奇跡のような人。

けれど、恋人のことを心から信用していても絶対的存在だとは思っていない。恋人に限らず絶対的な存在はいつになっても自分しかいないのだと思う。恋人に対し尊敬する気持ちはあるけれど、もちろん理解できないところだってある。

彼は私の世界を大きく変えてくれた人だけれど、不思議なほどに執着心や依存心がないのが自分でもわかる。そうさせないところも彼の人格なのだと思うし、だからこそ私は憚ることなく彼の前で子どものように大声を出して泣けたのだろう。

私がずっと欲しかったのは、心の拠り所なんてたいそうなものではなく、ただ純粋に帰りたいと思う場所だったのだと思う。遠くにいても離れていても泣いた夜でもその場所を思い浮かべるとつい口角が上がってしまうような、じんわり心があたたくなるような、そういう場所だったのだと思う。

将来とか結婚とか子育てとかそういうの、私にはまだよくわからないし望んだりできないけれど、笑い合って手を取り合い、彼と生きる今を、生活を、守って行けたらいいな。

そんなことを強く思った冬の休日の朝だった。

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