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掌編 闇人への戸惑い

「アンチャンさあ、明後日あさって、病院の予約日なんだが、付き合あわねえかい? 帰りの一杯こみでさ」
 受話器からの品のないダミ声がそう言う。Iさんだ。俺はスケジュールを確認するフリをしながら、別の頭で迷っていた。あまり関わりたくない相手なのだ。
 Iさんは元ヤクザだ。名の知れた組織の二次団体の組長だったが、体を壊したのを機に引退。現在は不労所得で食っている。いや「現在も」か。
 売れない小説家の俺は、取材を通じてIさんと知り合った。新しいジャンルに手を出そうとしていたのだ。結局嫌悪けんおが勝りピカレスク小説は書かなかったが、Iさんとの付き合いは残った。とはいえ距離をとった。俺はヤクザ者が嫌いだからだ。それは「元」が付こうが体が悪かろうが関係ない。闇人はどこまでも闇人なのだ。なのに皮肉なことに、こういう手合いばかりに好かれてしまう。
 俺は、通院の付き添いだけという約束で、一日付き合うことにした。もちろん「帰りの一杯」は断った。Iさんも俺のヤクザ嫌いは知っているので、渋々だが承知してくれた。
 当日となり、着流しにサングラスといういつもの格好のIさんを車に乗せ、俺はデパートのような総合病院に向かった。受付で複数科受診の流れを一緒に聞く。診療ツアーの始まりだ。
 まずは内科だ。全身の刺青と長年の不摂生のせいで、肝臓と腎臓がやられている。次に外科。先代の組長を庇って撃たれたという太腿の銃創と、監禁されドスで斬られたという脇腹の傷が痛むらしい。ここまでで半日。俺は適当に本を読んで過ごしていた。
 そして最後の、本人いわく「唯一のまっとうな病気」を診てもらいに、眼科で順番待ちしていた時だ。診察室から、憂い顔をした若い夫婦が、幼い娘を連れて出てきた。そのまま、空いていた俺たちの隣に座る。
 幼い娘を挟み、しきりに夫婦が嘆いていた。生来のお節介である俺とIさんは(思えばこの気性が唯一の共通点なのだが)、じっとその会話に耳を傾けていた。
 どうやら娘の視力が落ち、眼鏡が必要になったらしい。たしかに、五つくらいの子が眼鏡を掛けなければならないのは不憫に思える。
「誠に失礼とは存じますが……」
 Iさんが夫婦に身を乗り出し、慇懃に口を開いた。濃いサングラスに、あどけない娘が映っている。
「まだ小さい娘さんですが、とてもお顔立ちがよろしい。眉の並びもよく、瞳もきれいだ。きっと眼鏡が似合いますよ。ですからそう、お気を落とさずに」
 俺は黙って聞いていた。母親の顔が輝いた。
「そ、そうですよね。そうよアナタ、なにも目が見えなくなったわけではなし、もっと前向きに考えましょうよ」
「それもそうだな。言われてみれば、眼鏡美人になりそうだ」
 満足そうにIさんが夫婦に頷く。その家族は、丁寧にIさんに礼を言い去っていった。その三人の背中を、Iさんが嬉しそうに見送る。「なあアンチャン」と、黒いサングラスがこちらに向いた。
「やっぱり、帰りに付き合わねえかい? 馴染みの店でご馳走させてくれよ。昔の、舎弟分だった奴の店だ。車は、そこの若い衆に代行させるからよ」
「酒は止められてるんでしょう?」
 俺は素気なく言った。Iさんが迫り出す。
「ホッピーの瓶だけならいいって、医者から言われてるんだ」
 俺は黙って首を振った。そしてそれだけでは足りないことに気づき、「だからさあ」と、尖った言葉を唇に載せた。
「俺はそういうヤクザ者が関係してる店や、そっちの世界が嫌いなんですよ」
「そうかもしれねえが、ここまで面倒みてもらって、タダで返しただなんて、とんだ恩知らずじゃねえか。義理を欠いちゃあ……」
 結構です、と俺は遮った。
「暇だから付き合っただけなんだから」
「でもなあ、受けた恩は返すってのが人の道理だろ。それに義理や人情がなくなっちまったら、真暗闇だぜ、世の中よう」
 闇人がそれを言うか。俺は呆れながらIさんを見つめた。けれどわからなくなる。なぜこんな人がヤクザ者に……。
 俺は診察室のドアに目を転じた。もしかしたら、俺のほうこそ目が悪いのかもしれない。
 するとそのドアが開き、Iさんの名前が呼ばれた。俺は立ち上がり診察室まで連れてゆこうとしたが、ひとりで行くと断られた。着流しの懐に仕舞われていた、折りたたみ式の杖が取り出される。そして背筋とともにシャキッと伸ばし、白杖にて立ち上がった。
 緑内障で全盲者となったIさんの背中が、診察室に悠然と向かっていった。


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