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『新・三茶のポルターガイスト』公開まで待てない!『三茶のポルターガイスト』から考えるヨコプロ怪異の恐怖のメカニズム

先日、映画『三茶のポルターガイスト』の続編である『新・三茶のポルターガイスト』の公開が決定しました。そして第一作目『三茶のポルターガイスト』がアマプラで無料配信になっていることもあり、久しぶりに観直しました。
そんなわけで、続編に備える意味でも、再び三茶のポルターガイストおよびヨコザワ・プロダクションの怪異(以下ヨコプロ怪異)について、今思っていることなどを書いてみようかなと思います。

まず、新しい予告編の冒頭でいきなり映る「手」の映像を観た時、「初めてこの「手」を観た人は間違いなくヤラセと思うだろうな」という感想を改めて持ちました。それくらい、ある種のインパクトを持った映像だという気がします。

しかし現時点で、(『新・三茶~』を体験していない)我々が、あの現象を「ヤラセだ」と断定できるだけのエビデンスはまだありません。

ある意味では、あの映像の「手」が、「さあ、あなたなら何を信じる?」と問いかけて来ているようにも思えます。

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まず、ヨコプロ怪異について最低限押さえておきたい背景のおさらいですが、以前のnoteでも挙げましたが、実際には、そこにもまだ書ききれていないくらい、あの場所が”いわくつき”であるという話が(噂レベルのものを含めれば)多いことです。

そして横澤氏の著書によれば、横澤氏が元々”見えない世界を感じる能力”の持ち主であり、そのことと一連の怪異とは分かち難いものと考えるのが自然である、という前提です。この前提が受け入れ難い(そうした”見えない世界を感じる能力”の存在自体に否定的な)方は、そもそもヨコプロ怪異について、肯定的に捉えることは難しいかも知れません。

ただ、その横澤氏について、疑いがかけられるのは、事の性質上、無理もないだろうとも思っています。一方で、横澤氏が嘘をついていると仮定した場合、横澤氏自身のこれまでのキャリアを失いかねないほどの、大きなリスクを背負っているのも事実です。そしてそのリスクは、横澤氏だけでなく、映画関係者や、所属するタレントや俳優も、多少なりとも負わざるを得ないわけで、その多くの関係者の責任の頂点に横澤氏がいることを考えると、その規模の「洒落にならなさ」を想像したときに、果たして、そこまでして断行する「ヤラセ」に、どれだけのメリットがあるのだろう?という疑問が頭をもたげます。
「名前が売れたのだから結果オーライでは?」という声もあるかも知れませんが、私にはそうは思えません。仮にそうだとしても、そんな盛大な嘘をついた人間が作ったブランドに、資金を託そうと思う人や企業が現れるでしょうか。

とはいえ、人間誰しも「はじめは軽い気持ちだった」ということは往々にしてあります。横澤氏が、広げた風呂敷の大きさゆえに、もはや畳めなくなってしまった可能性というのも、完全に排除するつもりもありません。

私自身、この件については、なるべく憶測で言うのは避けるべきと思っていますが、横澤氏の霊的な資質についてと、動機(ヤラセだった場合のリスクの大きさを踏まえた)についての考察は、ヨコプロ怪異を語る上で欠かせないと考えています。

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怪異自体の話に戻すと、一作目を観直して良かったのは、「手」が出て来て引っ込んで、その場所を調査するまでの一連の流れをワンカットで撮っている箇所があるのを再確認できたことです。公開後、「全ての現象に対してカット割りされて(つまり編集が入って)いるせいで信憑性に欠ける」という声を耳にしたことがあり、「確かに、だとしたら残念だ」と思ったまま未確認だったのですが、観直したところ、一か所だけノーカットのシーンがあったのです。これは結構重要な要素だと思っています。
まあ、CGであるならそもそも無意味ですが、何らかの物理的な仕掛けなのだとしたら、コスト的にかなり大規模な仕掛けであり、それもまた不自然であると言わざるを得ないでしょう。(まあ、未知のマジックである可能性はゼロではないですが)

また、撮影された「手」には影が出来ているように見えるため、「あれは完全な物理現象だ」という声もよく聞きます。しかし、「手」は常にくっきりと物体の如く現れるわけでなく、時には透けて見えるケースがあるという点も、この現象の不可解な点です。
角由紀子氏(主演、企画およびプロデュース)が出演の某トークライブに参加した方の話によると、透けた状態で映っている映像も存在するそうなのですが、構成上の理由で本編では採用されなかったとのことです。
そうなると、物質と非物質の中間のような現象ということなのでしょうか?
また、ヤラセだとすると、物理的な仕掛けに加え、透けて見えるCGあるいはホログラムのような立体映像の2種類を準備しているということになります。それもまた、色んな意味で不自然と言わざるを得ません。

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そもそもヨコプロ怪異の特徴として、オカルトおよび心霊現象の定石を壊すような”出かた”をするため、いわゆるオカルト事情に詳しい人ほど拒絶反応を示しがちな傾向がある気がしています。かくいう私も、初めて「手」の映像を観た時は、真剣に取り合う気にはなれませんでした。

では、この拒絶の感情がどこから来るのか。

私の推測ですが、いわゆる通常のホラー系エンタメから摂取する恐怖とはまた別種の、「この日常が変わってしまうかも知れない」というような、ある種の”根源的な恐怖”から来るのでは?と思っています。

もちろん、オカルト自体が、日常からの逸脱をあえて楽しむような側面はありますが、ヨコプロ怪異の場合、あの「手」の正体如何によっては、既存の科学の前提が壊れてしまう可能性があるので、少しレベルが違うと思うのです。それは、今まで自らの五感を通してこの世界を認知して来たという、いわば根本の前提が「まやかし」であるかも知れないことを意味します。そうなれば、日常のありようも変わってしまうかも知れない・・・

そうした恐怖から身を守るための自己防衛の働きとして、(目の前で起きていることへの)拒絶が生まれているのでは?という推測です。

(ちなみに、この世界の根底のルールが変わることへの不安や嫌悪感に比べれば、”人の生き死に”まではまだ想定範囲内の現象なのだろうという気がします)

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我々がホラーコンテンツに求める恐怖(およびカタルシス)を"薬"に例えるなら、ホラーを単にエンタメとして摂取したい人からすれば、正しい用法外、用量以上の薬というのは、健康を害すものでしかないでしょう。
別の言い方をすれば、正しい用法・用量の恐怖を求める心理というのは、現象が、それまでの知識によって理解可能な範囲に収まっていて欲しいという、無意識の「物語化」であるようにも思います。

それでいうと、「横澤氏が嘘をついている」と想像することもある種の「物語化」ですし、逆に「真実であって欲しい」というバイアスも同様に「物語化」でしょう。

ヨコプロ怪異を摂取するのは、”正しい用法・用量”を越えた恐怖を摂取することでもあり、あの「手」は、容易な「物語化」を拒んでいるようにも思えるのです。

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たとえ、あらゆる前提を吟味して、もはや「信じるしか道はない」と決めかけていても、あの「手」を見た途端に、足場はぐらついて、また振り出しに戻されてしまう(無限ループ)。。

仏教では、苦(渇愛により生まれる執着が生む)の輪廻から抜け出し、”悟り”に至るためには、”今ここにあるものをありのままに見る”ことが肝要であると説かれます。このことはある種のヒントになる得るかも知れません。

目に映るものをありのままに認識するということは、確かに難しいことだと感じます。

もしも、あの「手」の出現によって、従来の認知機能(五感)が「まやかし」であったと分かった場合、あの「手」を認識するには、新たな認知機能(第六感)を拡張しなければならないのかも知れません。それこそが、自分の内のあらゆる「物語」から自由になる方法(ありのままに見るということ)でもあるのかも知れない、と思ったりもします。

とにかく、続編映画『新・三茶のポルターガイスト』の公開を楽しみに待ちたいと思います。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました!


◇過去のヨコプロ怪異および『三茶のポルターガイスト』関連記事
『新・三茶のポルターガイスト』待望の公開決定!オカルト熱の旅と未解の謎(2024年5月2日)
ヨコザワプロダクションの怪異(2023年9月23日)

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