元就(もとなり)の初陣(ういじん)と西国(さいごく)の桶狭間(おけはざま)その1(全3回)



今日はね、「西国の桶狭間」とも言われている「有田中井手の戦い」のお話しだよ。
毛利元就(もうりもとなり)という超有名な武将の初陣(ういじん)の時のお話しさ。初陣というのはね、初めて本物の戦いに出て戦うことを言うんだよ。

ポンと昔。毛利元就は明応6年、1497年。安芸(あき)広島の生まれだよ。織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)たちよりも40歳も年上の人になるよね。

毛利元就とお父さんの弘元(ひろもと)は、明応9年、1500年。毛利軍の郡山城(こおりやまじょう)と毛利軍が持っていた出城や土地を長男、幸千代丸(こうちよまる)8歳に早々と家督を譲って弘元は次男の松寿丸(しょうじゅまる)4歳を連れて、郡山城の支城の多治比(たじひ)にある猿掛城(さるかけじょう)へと入って行ったんだ。松寿丸とはね、毛利元就の幼名さ。幸千代丸とは毛利元就のお兄さん、後の興元(おきもと)のことさ。子供たちがまだまだ小さいのに、どうして弘元は家督を幸千代丸に譲って支城へと移って行ったんだろうね。弘元は永正(えいしょう)3年、1506年に39歳という若さで亡くなってしまうんだよ。なので、幸千代丸は15歳にして、毛利軍のリーダーとなっていったんだ。名前を幸千代丸から興元になったよ。松寿丸(しょうじゅまる)元就は、猿掛城(さるかけじょう)のお殿さまになったんだね。

ところがね、永正(えいしょう)13年、1516年。郡山城の当主興元が24歳の若さで死んでしまったんだ。残されたのは、2歳の幸松丸(こうまつまる)だったよ。じゃぁ、リーダーのお殿さまはどうするって訳でね、次の当主はは興元の弟の元就にしようかと話を進めていたところだったんだよ。なので、ちゃんと当主が決まってなかったから、敵にしたら、ちょうど攻め時だったんだね。

今日はここまで。読んでくれて、ありがとう。
毛利家のピンチ。さぁ、どうなるのかは明日のお楽しみ。
お休み、ポン!

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