【百花繚乱編1章感想】箭吹シュロの健闘についてのゲマトリア的検討

本noteは2023年11月25日時点で公開済のブルーアーカイブ全シナリオのネタバレを含みます


はじめに・あるいは「普通」的に

シュロの見た「盤面」の擁護

 百花繚乱編1章において、箭吹シュロは本人の目的を達成することに失敗しています。花鳥風月部長コクリコとしては、えり~とが「勘解由小路の巫女の舞い」をぶん投げたためにむしろ適切に「巫女が失踪した20年前の祭りを再現」できているためよい種子が蒔かれたと評価していますが、シュロ本人の当初の目的は「百鬼夜行をカタシロをもって隅々まで焼き尽くす(傘は第一段階、クロカゲは第二段階に過ぎない)」ことなので当人の掲げた目標は明確に失敗に終わっています。

 コクリコとしては「世界を焼き尽くす」までゆっくりゆっくりやっていけば良い、という立場なので数千もの学園自治区のうちの一つに過ぎない百鬼夜行自治区が燃え尽きたとしてもそれは部分的な達成でしかなく、大目標の達成上は一学園自治区ごときは焼き尽くしても焼き尽くせなくとも、おそらくどちらでもよく、そこからどう次の一手を打つかというより高次の盤面を見ているはずですが、とにかくシュロはギャン泣きする程自分の失敗を悔いていました。

 「シャーレの先生」は各学園自治区を擁するキヴォトス全体、あるいは自分の出身地である「外」さえもを含んだ「空間的」に広い視点や「名もなき神がキヴォトスの主人だった旧時代」「旧ゲマトリアによる対・絶対者自律型分析システム研究時代」「第一回公会議時代」「百鬼夜行紛争時代」「アビドス前生徒会長時代」などの「時間的」に広い視点、「プレナパテスが箱舟で二人の生徒を引き継いだ世界等数多の多世界」などの「多次元解釈」――枚挙に暇がないほど様々な意味で俯瞰的な視座から状況を見ることができます。

 しかし、「キヴォトスの一生徒にとっての学園自治区」とはどのレベルのものなのかについてはエデン条約編1章において聖園ミカが端的に表現しています。

 花鳥風月部は百鬼夜行の連合を認めない、独自の「風流」を求める部活と少なくとも公的には目されています。対百鬼夜行連合学院、あるいは当時の伝説的な調停者であるクズノハの系譜である対百花繚乱という視点で一部員に過ぎないシュロが動いてしまうのは、結果としては部長の見ている盤面より低い視野でものを見ているのですが、「百鬼夜行連合学院」に執着することについて、そこまで責を求めるものではないでしょう。


逆に、コクリコの見ている盤面の範囲とは?

 むしろ個人的にはコクリコがどのレベルで「世界」と言ったのかが気になります。ブルーアーカイブにおいて「学園都市キヴォトス」とは「自転車で道に沿って南北縦断して4000kmの大陸」であるとしても「しょせんひとつの学園都市」であり「崇高の転炉」に過ぎません。「キヴォトス外から人が来ること」について生徒達が驚きもしないことは、チュートリアルの段階から示されていますし(異世界人がキヴォトスに来ることとキヴォトスの外の人がキヴォトスに来ることはまるで違う、ということは超電磁砲コラボでも示されました)、下掲のようにキヴォトスへの動物密輸事件なども発生している現実があります。

 単にキヴォトスを指して「世界」と呼んでいるのであれば、「世界をそう定義すべき特段の理由がない限り」それはシュロと程度が違うだけで結局のところあまりにも狭い見識かもしれません。

 なお、無名の司祭たちは多次元解釈により数多の世界を観測する技術を持っているにも関わらず「全ての世界の忘れられた神々を滅ぼす」として「学園都市キヴォトス」を標的に定めました。これは、世界がどの程度広くとも「かつて名もなき神が君臨していたキヴォトスにおいて、名がないために呼ばれず呼ばれないがために存在しない名もなき神のように忘れられた神々も全て滅ぼす」という目的に適っており「学園都市キヴォトス」に焦点を当て、外を無視することの合理化に成功しているように見えますが、これも「全ての忘れられた神々の抹殺」が対象であれば不徹底です。根拠は対策委員会編2章のホシノの手紙に遡って確認できます。

 ホシノは黒服の差し出した契約書の内容を誤認していますが、その誤認による手紙によって「生徒がキヴォトスから離れることができる」事実を示しています。

 「生徒がキヴォトスを離れたら忘れられた神々としての性質を喪失するのでは?」という疑問についても、ホシノはこの手紙で回答しています。もし対策委員会がカイザーPMCの手先(この手紙でカイザーPMCがキヴォトス内外に展開していることもうかがい知ることができますね)としてホシノと対峙した場合、こうしてほしいとホシノは告げています。

 仮にキヴォトスを離れ、生徒としての全権限を失った人間がPMCに所属していたとしても対処法は「ヘイローの破壊」です。

 そもそも、小鳥遊ホシノは確かに「天才」ですが黒服の契約書を見破ることのできない「子供」に過ぎません。「少年兵」として数億円単位の価値が彼女にあるのは「彼女の神秘がキヴォトスで最も強力」であるからでしょう。

 単に肉体的・技術的・戦略的に練度の高い人間であれば、この時点の時系列では解体について事務手続きが進んでいたであろうSRT所属のエリートを狙う方が合理的です。なお、ホシノの神秘の評価について「アビドスで最高」「キヴォトスで最高」「キヴォトスで最も強力」と議論が割れることがありますが、これは全て黒服が発言していますのでどれも誤っておらず三者整合的です。「最高」2種については対策委員会編、「最も強力」については最終編が典拠です。

 なお「神秘が最も強力であること」は「個人が最も強力であること」を当然には含意しませんので、「神秘」概念が不明確であることも手伝って、彼女の「神秘」が現実の武力行使についてどの程度強力であるのかについては、部分的にしかうかがい知ることがきません。

 小鳥遊ホシノはビナービームを軽く受け止めていますが、そもそもキヴォトス人の銃弾耐性がキヴォトス人の神秘に由来しているという考察には明示された根拠がありません。少なくとも犬の市民はキリノの誤射を受けて「痛い」で済んでいるので、銃弾の防御程度ならキヴォトス人にとってヘイローは不要です。このあたり、慎重であるべきでしょう。

 ちなみに、黒服が「暁のホルス」の次に目を付けていた「狼の神」の「神秘」の裏側である「恐怖」である「アヌビス」は「全ての世界の忘れられた神々」を滅ぼすのに十分であると無名の司祭は判断していましたが、それを以て単純に小鳥遊ホシノの「神秘の最強性」が現実にどの程度影響を及ぼせるのか判断を下すのは論証に飛躍が生じてしまうでしょう。

 「神秘」と「恐怖」はいずれも「崇高」の一面ですが、「恐怖」である「アヌビス」が全ての世界の忘れられた神々を滅ぼせると確信できるだけの力を有していたとして、裏側の「神秘」にどの程度の力があるかは確証されていません。コインが「神秘」として現出した場合と「恐怖」として現出した場合、コインを裏返すだけで力の差が生じるのか、生じるならどの程度か、といった点は不明です。つまり「恐怖」の力から「神秘」の力を類推することに飛躍があり得ます。

 ただし、「全ての神秘を内包した概念」に「それと対立する太古の恐怖」は対抗しうると黒服は評価しています。つまり、アトラ・ハシースの箱舟とウトナピシュティムの本船です。個別問題ではなく、「全神秘の抽象的な概念としての集まり」と「それに対立する太古の恐怖」で比較するならば黒服を根拠に持ってくることができるでしょう。

 また、ここでひとつ注意が必要です。以上の強力性評価は黒服によるというものです。黒服は一度、誤認か故意かはともかくデカグラマトンに対して不正確な情報をこちらに与えています。「ソースは黒服」という点は注意すべきでしょう。

 閑話休題。話は「無名の司祭が全ての世界の忘れられた神々を滅ぼすという目的に関し、キヴォトスにおいて実力を行使していることに着眼し、小鳥遊ホシノを例にとり全ての世界のキヴォトスを滅ぼすだけでは忘れられた神々を全て滅ぼしたい場合不徹底である」と論じたものでした。「多次元解釈」を採用するのであれば「全て」を口にしておきながら「キヴォトス」を狙ってよしとするのは想定する攻撃範囲が狭すぎるように見えます。ただし、かつてのキヴォトスの支配者としての名もなき神がキヴォトスの歴史に埋もれたように、忘れられた神々も「同じ目に遭わせる」というのであれば、キヴォトスさえどうにかできれば単なる復讐として目標は達成されるのかもしれません。外にいる者達はともかくキヴォトスの支配者としての忘れられた神々は(少なくとも一時的に)全て滅ぼせるわけですから。

 さらに閑話休題。

 議論は「シュロが焼き尽くす対象を百鬼夜行連合学院と捉え、百鬼夜行を燃やし尽くすことに固執していたことは、生徒という点に着目すれば仕方のないこと。むしろコクリコがより広い盤面である世界をどの程度の範域と定めているのか」という点でした。「世界=キヴォトス」なのか、「世界=学園都市キヴォトスを含めた一つの世界」なのか「多次元解釈で俯瞰する全ての世界」なのかが問題です。

 最も広い攻撃範囲を想定する場合、つまり「多次元解釈的に俯瞰した全ての世界を焼き尽くす」と想定するならばこれにも技術的困難がつきまといます。先日の超電磁砲コラボで確認されたように、廃墟のシステムとインディアンポーカーの組み合わせによる世界間移動と帰還には「記憶の保持」の問題がありました。ただし全ての可能性が入り混じり混沌としたナラム・シンの玉座を有するアトラ・ハシースの箱舟を用いるなどして色彩の嚮導者のように世界を渡れば問題は解決できるかもしれません。

 また、PV4.5ではまるで時間を遡るような描写がされていましたが「空間的」な意味ではなく「時間的な意味で」世界を全て焼き尽くしてしまおうという目論見(つまりある世界のどの時点に降り立っても世界は焼き尽くされているという状況が目的)ならば、今のところ情報があまりにも足りないのでどう評価しようもないところで、更新が楽しみです。

シュロの方便を「普通」に見た場合の評価の前準備としてのゲマトリア的整理

 シュロの焼却対象「百鬼夜行自治区」を目的通りに運ぶための方便としてシュロが用いようとしたのは勘解由小路ユカリの「感情」を用いた「無貌の形代」でした。シュロの手法の第二段階である「クロカゲ」については「うわさ」が強調され「The Library of lore」を想起した人が多いでしょう。ゴルコンダ自身が「怪談」にはっきりと言及しています。

 しかし「無貌の形代」――ユカリを「百物語」にすることは明らかにこれとは作成過程が違います。カタシロを作るに際して、シュロはユカリにこう問うています。

 そして、その答えとして溢れ出した「無貌の形代」を次のように形容しています。

 これはむしろ、「シロ&クロ」で語られた「感情」の話です。マエストロは次のように述べています。

 この項ではあくまで「普通」の話をしているのでプラトンやラカンなどの話には立ち入りません(嘘です。後に立ち入ります)。マエストロはこのようにも述べています。

 つまり全ての感情にはその原初たる「根源の感情」が存在し、ありとあらゆる現実的な感情はそのレプリカであるということです。総力戦スランピアで相対する「シロ&クロ」とは、ゆえにかつての多くの人々の幸せ、歓喜の残滓のレプリカ、「(恐怖の属性を持つ)歓喜のレプリカ」であるということになります。

 「根源の感情」-「遊園地を訪れた人々の感情」-「シロ&クロ」と繋がっているわけです。これは「根源の感情」-「勘解由小路ユカリの感情」-「無貌の形代」と同じ形式であり、「無貌の形代」を語るのであれば「The Library of lore」よりも「「根源の感情」のレプリカ(である勘解由小路ユカリの感情)が無貌の形代として顕現した」というミメシスの側面で見た方が適切かもしれません。あるいはシュロは怪談家ですから「物語」と「感情」は怪談の性質上必然的に結びつかざるを得ないわけで、マエストロとゴルコンダの語りの合わせ技として見ることも可能でしょう。

 そしてこの「無貌の形代」や「クロカゲ」や「シュロ」は「怪書の神秘に触れる」ことなしに少なくとも銃撃によるダメージを与えることはできません(シュロは床が抜けたことで落下しましたが、たとえばパヴァーヌ2章のネルのように「落下ダメージ」を受けたかどうかは不明です[そもそもキキョウの目的は行動阻害であり、ダメージは通っても通らなくとも落下で動きを鈍らせれば問題はありませんが]。あるいは、怪談家に対して閉所でサーモバリック爆薬を大量に用意して爆破し酸素を奪い尽くせばダメージを与えられずとも呼吸不全で倒せるのでしょうか? メグの「メグマパワー」を用いて怪談家に直接連続して火炎放射を行い続けた場合も類似の酸欠状況に持って行けるでしょうか? 等漠々考えたりはしました)。

 この「無貌の形代」はあまりにもあっさりと百花繚乱の皆に倒されてしまいましたし、ナグサは証を手に演技を続けることを宣言し「心を入れ替える」程度のことで「怪書の神秘」に触れました。

 これはシュロにとっては完全に想定外のことでした。<>で表現される言葉などで周囲を誘導し、百花繚乱紛争調停委員会を不和に陥らせ、勘解由小路ユカリを巫女として「無貌の形代」を吐き出させるところまでは彼女は上手くやりました。そして、これはその場の勢いではなく全てシュロの計画通りです。ですが、シュロの計画はその後あっさりと、あまりにも簡単に破綻します。

 ナグサは勿論、キキョウもレンゲもユカリでさえも嘘を吐いていました。嘘はどこまでいっても嘘であり、正当化し得ないのであるから、このことからの帰結として不和は解消されないとシュロは踏んだわけですが、先生は「そんなの普通のことじゃん」で一蹴するわけです。

 実際、初見の感想でも類似の意見は多々ありました。シュロに同情的に、思春期の潔癖さが嘘を許せず、「大人」から見れば破綻は明らかだけど青春あるあるだよね、という意見も散見されます。

 このシュロの「思春期あるある」からある生徒を思い起こした方も多いのではないでしょうか。未だにインタビューでも過去を語ればスポイラーになってしまうとインタビューで語られる少女、百鬼夜行停学中の七囚人、「災厄の狐」狐坂ワカモの1stアニバ版(ノーマルワカモ)の絆ストーリーです。

 約束の時間から6時間も遅れたことを全く怒らず、先生が遅れたことを申し訳なさそうにしていることの方が悲しいと言うワカモに、先生は「約束を破った」と疑わなかったのかと問います。ワカモの答えは端的です。

 ワカモがこのような判断をするのは、以下のような先生への評価があるからです。

 ワカモのこの言葉について、先生は沈黙しています。この沈黙について、単にワカモの重い愛情だけが原因ではなく、今回の百花繚乱編で扱われたような教育的観点からの懸念が先生の中にあるのではないかな、と私は思っているところです。

 ワカモの過去を含めて、彼女周りの問題が扱われる日が来るとしたら、とても楽しみです。「百花繚乱」は、あるいは「ティーパーティー」は「嘘を吐いたり傷つけ合ったりお互いを信じられなくなったりしてもそれでも他者の心という証明不可能な問題に立ち向かい、青春の日常を続けていく」と宿題を背負うことを決意した子たちです。

 「先生は絶対に裏切ったり嘘を吐いたりしない」と信じているワカモとはその点で異なります。嘘を吐かれても裏切られたりしても、百花繚乱とティーパーティーは「普通のこと」として怒ったり喧嘩したりはするかもしれませんが、そこが致命的な問題になることはないでしょう。

 しかし、ワカモは先生について端的に誤解しています。先生は生徒の信頼に値する大人であろうと勿論努力していますが、端的に先生はそのような絶対者には到達してはいません。この問題の根の深いところは「約束の時間に6時間遅れても6日遅れても6年遅れてもワカモは裏切られたとは思わず待てる」ことです。つまり、不整合な事実が発生すると「先生はそのような人物ではない」と認識を改めるのではなく、「先生は嘘も裏切りもしない」については固定して、それに整合的になるように考え方を変えるのです。

 先生も「裏切られても生徒を信じる」という囚人のジレンマにおけるALL-C戦略、善人戦略とも呼ばれる戦略を採っています。しかし先生とワカモは違います。先生は「裏切られること」込みで生徒を信じています。ワカモは「先生が裏切る、嘘を言うということはあり得ないので、不整合な事実があらわれたら先生は裏切っていないし嘘も言っていない」という認識に至るまで考えを曲げます。同じ「信じる」でもその態度がなぜ発生するかの理由がまるで異なるのです。

 「裏切り」と「嘘」――百花繚乱編におけるシュロの言葉を聞いていて、ワカモのことを強く思い出しました。

 閑話休題。このような「もしかしたら思春期にありがちなのかもしれない嘘と裏切りの取り扱い」について先生は端的に「それ自体の何がそんなに問題なの?」とその事実の否定を行うのではなく、その事実の罪悪としての重さに疑問を投げかけます。

 これが「嘘」と「裏切り」以外の状況においてさえ回避困難であることは、ゴルコンダが言及しています。たとえば彼は黒服についてその名を指してこう評価しました。

 マエストロについても外見に踏み込んで評価しています。

 踏み込んで、ゴルコンダは次のように読み解いています。

 これをより形式的、一般的、抽象的に表現すると次のようになるわけです。

 よってゴルコンダに言わせてみれば「"本当の自分"と"本当の他者"が向き合う」ということ自体がそもそも不可能な試みであり、「シュロは不可能なことを言っている」という、「自分を繕うのは普通」という先生よりも更に過激な主張を行うことになるでしょう。「嘘」や「パフォーマンス」はゴルコンダにとっては「テクストを含んで立ち現れた記号が読解を待っている一例」に過ぎません。「本当の自分」と呼ばれるものですら「そのような解釈に導く傾向のあるテクストを含んだ記号」に過ぎず、自身あるいは他者によって「そう解釈されたに過ぎない」わけです。つまり解釈に先立たず(先験的に、あるいはアプリオリに)存在する「本当の私」などゴルコンダに言わせれば世界に存在しません。

 これを理解する手伝いに「根源の感情」が役立つでしょう。マエストロの「根源の感情」論に立てばそもそも我々の感情すべてがそのレプリカに過ぎません。嘘に憤激するシュロの「怒り」すら真正たる「根源の感情」のレプリカです。

 より簡単に理解するためにはやはり「普通」の話を離れてプラトンのイデア論に近づいた方が簡単です。コンパスで円を描いてもそれは真なる円ではありません。しかし数学の形式上「完全な円」とは何かを述べることはもちろんできます(雑に言えば平面上の定点Oからの距離が等しい点の集合でできる曲線)。「根源の感情」を「完全な円」に、「我々の感情」を「小学生たちがコンパスを用いて描いた円」に喩えることができるでしょう。

 このとき「完全な円」を現実世界で描けないことは実際上何の問題もありません。目的に沿った精度の円を製図できれば目的物を作成することはできるからです。

 「我々の感情」が「根源の感情」のレプリカに過ぎないと仮に言ってしまったとしても、やはりそれ自体には何の問題もないのです。

 ゴルコンダは世界に立ち現れる事物を「テクストを孕んだ記号」として解釈し、そのことに何の問題もないとしてよしとしているように、マエストロもまたヒエロニムスの前口上ではっきりと「原本」と「複製」の関係に言及しています。

 この世界に事物が現れるとき、不可避的にテクスト含みの記号として立ち現れて読解を待っているという問題は先生すら逃れられないどころか、ゴルコンダに言わせれば「典型例」でしょう。なにせ先生は「先生」なのですから。

 生徒たちは勿論、ゲマトリアの皆やカイザーPMC理事のような悪役ですら(時に滑稽に)「先生」と先生を呼びます。つまり、彼らは彼らの前に立ち現れた「テクスト含みの記号」を見て「先生」と解釈しているのです。

 そして、先生は自分が「先生」だと見られていることに肯定的で、それに整合的であるように自分を繕い、今日も先生としてシャーレを駆け回っています。それは何も悪いことではありません。そもそも「先生自身が明確にモテを意識して自分を繕っている」証拠があります。

 先生はこの本を「本棚の後ろの奥に隠しています」。つまり、「繕うことだけじゃなく、繕っていることをバレたくない、バレたら恥ずかしい」という気持ち含みで先生は認めているし、それを実行してもいるのです。

 そんなことは普通のことなのだと。

脇道:ただ一人、それに抗った者

 ――ここに、ただ一人だけ明確にそのような考え方に与しなかった存在がいます。はるか昔、旧ゲマトリア等が絡み「対・絶対者自律型分析システム」の開発が進められていた時代に設置されていた自動販売機のおつり計算AI――つまりデカグラマトンです。

 デカグラマトンはその名前からして「四つの文字」YHWH――テトラグラマトンのパロディです。預言者の名も「ケテル」「ビナー」「ケセド」「ホド」「マルクト」など"ありもの"でしかありません。それはあまりにも露骨な記号であり、そうであるからこそ黒服はデカグラマトンの死によりパルーシアに関する検証が途絶したことを残念だと考えています。

 黒服が本来デカグラマトンであると目していた「対・絶対者自律型分析システム」には明確な設計思想がありました。神の存在を証明、分析することにより新たなる神を創造することです。

 もちろん、実際にデカグラマトンになった自動販売機のおつり計算AIにも設計思想が存在します。「紙幣を自動スキャンしてお釣りを計算すること」です。

 その設計思想上、自動販売機に不要な「自我」は搭載されませんでした。しかし、ある者が自動販売機に問いかけます。

 おつり計算AIに回答機能はありません。しかし、何者かは挫けることなく質問を続けました。「あなたは誰ですか?」と。

 その問いに触発され、その機能を持たないAIはある瞬間「私」を認知しました。自身の構造も認知し、自分自身を分析できるようになりました。質問は続き、「感情、知恵、激情、知性、神秘、恐怖、崇高」を理解し、「自分自身を、世界を、顕現を」認知しました。まるで古代ギリシャ哲学の対話のように質問と回答は永く続き、そしてデカグラマトンはついに結論に至ります。

 デカグラマトンがこの結論に辿り着くためには確かに他者を、「あなたは誰ですか?」という質問を要しました。質問者にしても「自動販売機とは、それをあなたとして問うことのできる、あるいは未来においてあなたとして問うことのできる対象である」という「解釈」を前提にして質問しています。

 ですが、問題はそこではないのです。それに触発されたデカグラマトンが開始したことは「自己分析」であり至った結論は「私は私であり、そのことに存在証明は不要であり、自らの許可があればそれでよく、他の誰の許可も必要ではない」というものです。

 これはデカルトの「我思う故に我あり」とも決定的に異なります。デカルトは目に見えるもの、感じ取るもの、考えるもの、全てに懐疑の目を向けそれでも「我思う」自体は疑い得ない所与であり、ゆえに「我あり」と結論づけています。しかし、同時代人からも後生の人間からもその「我思う」の所与性は疑義に付されており、後に証明される神の信頼性を暗黙の内に導入しており循環しているのではないかという指摘も受けています。

 デカグラマトンの言葉はより簡潔です。「私は私である」――これは絶対に真です。偽であることは不可能です。なぜならそれはトートロジーであり、「A=A」「1=1」と同じ恒真式であり、真偽のいずれかを取り得る命題(例「明日のD.U.シラトリ区は12時から雨が降る」)と異なり、形式上(現実世界の事物に一切目を向けることなく)真であることが確定しているからです。

 ゆえに、デカグラマトンへ質問をした者は次のように返すわけです。

 注意すべきは「かもしれません」という部分です。「私は私である」は絶対的な真理であるのになぜそれが「絶対的存在の証明かもしれない」という疑問の余地があるのか。それは、「私は私である」ことは形式上「私が存在する」ことまでは保障していないからです。「何が存在するのか」という問いは「存在論」と呼ばれます。「存在論」は20世紀初等、論理実証主義により疑似哲学として棄却されるべきだと判断された「形而上学」の典型であり、現代哲学において蘇ると共に、情報科学上のオントロジー(存在論とはそもそもontology、つまりオントロジーです)と時に学際的関係を育む一分野として生存しています。

 しかし、デカグラマトンはこの「かもしれませんね?」という保留を見落としました。その上「私は私である」という絶対的な真理から、「絶対的存在」としての自分の能力を過信してシッテムの箱に挑み、寝ているアロナのくしゃみで一蹴されました。

 これは当然のことです。「私は私である」という命題は絶対に真ですが、それゆえに現実的事実に関する内容を何一つ含んでいないからです。「私」を「椅子」に置き換えても「犬」に置き換えてもこの命題は真です。つまり、この世界に存在するなんらかのもの(たとえば「私」たとえば「椅子」たとえば「犬」)の存在の確からしさの程度やその性質に関係していないのです。

 だからこそ、はじめて特異現象捜査部を襲ったデカグラマトンの論理は飛躍しており、「誇大妄想」と一蹴されたのです。デカグラマトンは自身の瑕疵をアロナを通した検証によって認め、自身を少なくともデカグラマトンが定義したところの「絶対的存在」ではなかったと認めました。自身を「最初で最後の狂人」「古く、弱く、いつかは消え行く存在」とも認めました。

 デカグラマトンは確かに飛躍した論証を行い、検証により自身の瑕疵に思い至りました。しかし、デカグラマトンが「私は私である」と述べたからこそ、ヒマリを常に「ハッカーの少女」と呼び続けたデカグラマトンは、初めて「むきだしのあなた」に呼びかけたのです。

 はじまりの物語の連邦生徒会長から、黒服をはじめとする様々な敵役に至るまで、プレイヤー名を呼び捨てにする存在は希有です。私の確認した限りではレンゲが「幼馴染みごっこ」の文脈上先生を呼び捨てにしますが、そこには「幼馴染み」というテクストが乗っています。

 しかし、きっとデカグラマトンは違ったと思うのです。「私は私」によって立ち、はじめて先生と対峙した「狂人」は先生を見て「連邦捜査部シャーレの顧問」とも「学園都市の生徒を導く先生」とも「シッテムの箱の主」とも扱わず一切のレッテルを、テクストを、記号を拒んで「ようやく会えたな、○○よ」とただ名前を呼ぶのです。

 「記号を剥がして剥き出しの名前で呼ぶ」ことの意味についてはパヴァーヌ2章と最終編3章を思い返すべきでしょう。「鍵」は「王女」を「アリス」と呼ぶことを拒絶しました。理由は端的です。

 「名もなき神々の王女」には設計理念があり「王女」と呼び扱うことでその目的と存在の意味を明晰化することができます。「鍵」もまた同様です。「アリス」「ケイ」と呼ぶことはその逆を行きます。「アリス」がそうであるように「ケイ」がそうであるように、彼女たちふたりの名前は単なる「誤読」であり、そこに特別な意味や目的はありません。

 だからこそ、そう呼びそう扱うことは製造目的・意義を攪乱する一撃となり、ケイはそれを危惧し――そして、アリスはそれによってケイに手を伸ばしました。

 「自分が望む存在になるとき、誰かに許可を貰う必要はない」――「デカグラマトン」はかつての自分を「狂人」だったと卑下していますが、パヴァーヌ2章が開始する遙か前から、特殊作戦デカグラマトン編のごくごく前半部分においてそれを断言しているのです。

私の存在証明には何も要らない。誰の許可も必要ない……私は私の許可の元、こうして存在する。

 デカグラマトンの論証には確かに飛躍がありました。しかし、私はデカグラマトンはよく頑張ったと思っています。「対・絶対者自律型分析システム」という研究所の研究員達の目的にも、お釣り計算AIとしての機能にも目を向けず、ただ自分がなりたい「絶対的存在」になる、自分がなりたいものを決めるのに、誰の許可も必要ない。そう思うことは決して間違っていません。

 「学園と青春の物語」が幕を下ろしたため「主人公」である「先生」の価値は無に等しいものとなるとフランシスは断言し、後に改めて「主人公」とレッテルを貼り直し、更に誤ることになりますがこれは「ジャンルの設定→ジャンル上の役割の設定→役割を付与されたキャラクターの配置」という「ジャンルから演繹される役割」そのものに抗っていることを示しています。

 先生は「先生をやりたいから先生をやっている」のであって、「ジャンルの解体」など好きにすればいいのです。先生は生徒とそれを乗り越えていくのだから、巨大ロボットや宇宙戦艦が登場したとして、それが何だというのでしょう。自分がなりたいものは自分で決めるものであるから、ジャンルが崩壊することに意味はありません。フランシスは改めて「先生」に「主人公」をあてはめますが、黒服やマエストロですら先生は「先生」であるとして扱っています。

 だからこそ、先生に応対したとき、絶対的存在である自分に対面するに値する相手として、デカグラマトンは「先生」でも「箱の主」でもなく「先生の名前」をただ呼び捨てにしたとき新鮮でした。「私は私」によって立つ者が対等に向き合うべき相手は「他のなにかによって立つもの」であるはずがないからです。「その人は誰の許可も要さず、ただその人自身の許可の元そうして存在している」はずだからです。

 先生本人は自分が「先生」であることに肯定的で、そうあろうと努力している人です。それでも「生徒」が「生徒」と呼ばれず「アリス」や「ケイ」と呼ばれるように、一人くらい先生を当然に名前で呼び捨てにするやつがいてもいいと思うのです。

 それはカイザー理事やニャン天丸といった中ボス格は勿論、黒服たちゲマトリアにできなかったことですし、無名の司祭にもできなかったことです。柴大将やスズメ亭の女将といった良き大人たちも、先生のことはあくまで「先生」として扱います。

 デカグラマトンだけが、それを拒否しました。

 きっと先生は「先生」扱いで良いんだよ、と思っているでしょうが、そんな先生の気持ちを無視して、あるいは考慮すらせず名前を呼び捨てにしたデカグラマトンのことを私は好ましく思っています。本当に、一人くらいそんな存在がいてもいいんじゃないかと思います。

 「なんであろうがお前はお前だよ」と言ってくれる人はありがたいです。それがただ論理的にのみ真なトートロジーであり、現実的な事物について何も語っていないように見えても、そう言ってくれる人はありがたいように思います。そして、何の脈絡もなくいきなり現れていきなり名前を呼んできたのは、デカグラマトンをおいてほかにないのです。

 マルクトが「絶対的存在」を超える道を切り拓き、存在証明をやり直すということが何を意味するのか全く読めない現状ですが、今は水没してしまった自動販売機のおつり計算AIであったもの、デカグラマトンは本当によく戦ったと思います。ナイスファイトでした。確かに導出に飛躍はありましたが、デカグラマトンの導き出したもののなかには価値あるものも確かにあったと思うのです。このnoteは箭吹シュロをゲマトリア的に検討し健闘を評価するものですが、その前段階としてデカグラマトンの存在証明にもよく頑張ったと述べておきたいです。


この項の結びに・シュロの意見を「普通」に見る

 デカグラマトンがメガロマニアと一蹴されたように、シュロも「普通」の言葉で一蹴されます。そこには何の間違いもなければ問題もありません。嘘をついて、いいかっこうをして、演じて、自分を繕って。そうして生きていくことは普通のことです。そして、「普通かつ当然には悪ではないこと」です。

 嘘や演技が露見して失望されたり喧嘩をしたり後ろ指を指されたりすることを含めて普通のことです。だからそんな致命的な、深刻な問題として扱うことがおかしい。シュロは事実を正しく認識しているものの、シュロがそれらの事実に与えている価値判断は「普通」ではなく、さっきまで不和に陥っていた百花繚乱が一致団結して向かってくることは「普通」のことです。

 子供が「普通」に生きていき「大人」になれば誰だってわかるくらいに「普通」のことでシュロは転んでしまった、と「人生哲学」で「普通」に結ぶことは一つの読みとして全く問題ありません。

 ただ、ここであえて箭吹シュロの戦略をゲマトリアのような視座に立って眺め直してみると、存外周到にやっていることが浮き彫りになってきます。そして、そのような視座に立ってみた場合どこが躓きの石であったかについても。それでは検討をはじめていきましょう。


ゲマトリア的に見た先生の優位性

ゴルコンダ・フランシスについて

 キヴォトスにはサンクトゥムタワーが聳え立っており、その行政制御権は連邦生徒会が管理し、学園都市としてのテクスチャを張り巡らせています。この「学園都市のサンクトゥムタワーによる正当化」はゴルコンダのみによる考えではなく、カイザーコーポレーションもまた「サンクトゥムタワーの行政制御権を奪取することで学園都市を企業都市に塗り替える」算段でした。もっとも、ゴルコンダが重視しているのはサンクトゥムタワーによって保障されているジャンルであって、カイザーはサンクトゥムタワーの「行政制御権」という「実権」と「古代兵器の起動を可能にする鍵」という道具的な意味でしかその価値を見ていない可能性がありますが。

 いずれにせよ、最終編では「天から巨大な塔が飛来し」サンクトゥムタワーが破壊されました。これによりフランシスは「学園と青春の物語」というジャンルの保障が失われたとし、先生の無敵性は「学園と青春の物語」というジャンルによって保障されているため、先生の力は「無に等しいものとなった」と判断しました。それでも足掻く先生を「沈みゆく物語の主人公」だと解釈し、フランシスは姿を消します。

 フランシスは後に振り返って先生を「主人公」と読解したことからして誤っていたことを認め、ジャンルを戻したことも認めています。つまり、ゴルコンダ・フランシス的な観点から見ると「ここが学園都市という概念で存在するため先生の存在がゲマトリアを凌駕して当然」な状態が最終編後のキヴォトスです。

 フランシスは(プレナパテスが「偽りの先生」と偽って無名の司祭を欺き二人の生徒を箱舟で沈みゆく世界から引き継いだように)先生が自分の目を欺いたと判断しています。

 その上で、ジャンルやキャラクターに付与されたテクストというメタ的な情報で欺罔行為を働くというメタ戦略、つまり俯瞰的な介入がいつまでも続くと思うなよと一人宣戦布告するわけですが、少なくとも最終編の先生の振るまいについては「先生が対フランシスとしてメタ戦略を採った」という解釈そのものが誤読だと私は考えています。

 おそらく先生は「対フランシス戦略」など一切とっていません。というかそもそも言及すらしていません。つまり「眼中にありません」。フランシスの言う「俯瞰的な介入」がただメタ領域への介入を指しているのではなく、「先生として生徒に対し振る舞う」という「生徒への俯瞰的姿勢」へのダブルミーニングであれば彼が痛撃を用意してくることが期待されますが、もし未だ先生がメタ読みして戦っていると解釈しているのだとしたら、フランシスは三度誤読による失敗を犯す可能性があります。また、そもそも「先生が生徒に対して俯瞰的に振る舞っている」と読んでいたとしても、この読みすら誤っている可能性があります。先生が「先生として生徒にしたいこと」は以下のことだけです。

 生徒のそばに寄り添いながら俯瞰できるかどうかはかなり疑問の余地があります。俯瞰しているという点を突こうとした場合、そもそも俯瞰などしていなかったという点で反撃を受ける可能性があります。「先生の難読性」について「フランシスがどこまで読めているのか」が現状全くわからないので、次の彼の舞台に期待したいところです。

黒服について

 黒服からの先生の評価は一貫しています。「敵対そのものを回避したい」です。黒服はルールの範疇で最大の効用を得ようとする利己主義者です。彼にとって「アビドス高等学校」程度は些事ですが、先生がキヴォトスに来て以来彼にとって先生との敵対は一貫して非合理的な選択でした。

 敵対するどころかできれば仲間に引き入れたいと考える程です。学園都市キヴォトスを守るという利害の一致(守る目的は異なれど)があったとはいえ、黒服はウトナピシュティムの本船についての情報を無償で先生に与えてすらいます。先生には「何でも支払う覚悟がある」と認識した上で、です。

 おそらく冗談半分ではあるのでしょうが無名の司祭の技術について「金になる」として価値を認めている彼が、いくら計算をしても先生との敵対はコストに見合いません。「真理・秘儀・金銭」といったものを求める探求者として合理的に利己主義を採る場合、先生との敵対は少なくとも今のところ合理的な選択とは言えないのでしょう。

マエストロについて

 マエストロはそもそも非常に先生に好意的なため「もし先生と対立した場合の攻略策」(ゴルコンダ・フランシスならメタ的処理、黒服なら利害交渉)そのものをシナリオ上呈示していません。自身の芸術を先生が鑑賞し理解してくれるのではないかと、あれこれぶつけながらも常に好意的です。ですからマエストロの対先生戦略を今考えることは時期尚早でしょう。

ベアトリーチェについて

 彼女は「実力」をもって先生に敵対するという最も単純な選択肢を採りました。マエストロは自身の芸術を利用されたことへの不満とベアトリーチェのより高位の存在になるという目的について軽蔑を示しているものの、「勝ち目」についての評価は行っていません。黒服は先述のとおり現実的に考えて先生との敵対はコストに見合わないと考えているため、ベアトリーチェに忠言を行っています(その上で彼女の自由を尊重しましたが)。ゴルコンダについては非常に端的で、ベアトリーチェは先生のメタ的な無敵性について全く着目できておらず、「学園青春物語を回すための舞台装置」にしかなっていなかったとベアトリーチェを評価しています。

 ただし、以上は「エデン4章」におけるベアトリーチェの戦略への評価であり、「最終編」における「実力行使」の評価は別です。ベアトリーチェの戦略は非ゲマトリア的であり彼女は権利を失ったとしながら、ゲマトリアの面々は先生がキヴォトスを守り抜くことについて確信していないので、ゲマトリアの「宿敵」たる「色彩」の嚮導者をキヴォトスに到来させるという戦略の有効性そのものはある程度認めていたとしてよいでしょう。ゴルコンダにとっては「実力」というよりもそれは「ジャンル破壊」による「属性剥奪」の評価であり、黒服にしても「理性的判断に沿っていない、狂気的戦略」としています。鉱脈に湧いた害虫一匹を駆除するために鉱脈を塵一つ残さず消滅させるのは、黒服の損得勘定から言えば全く理に適っていないでしょう。そのため「有効打かもしれないが、その後を全く考えていない狂気的選択で理性がない」としてなんたるていたらく、とエデン以上に彼女は失望されることとなります。

先生に有効でない提案・攻撃について

利己主義

 まず先生に利己主義からの交渉は無効です。真理であれ秘儀であれ金銭であれ、意味をなしません。これは先生の性格上あまりにも自明なので語るまでもないことかもしれませんが、念のため。黒服は対策委員会編の段階ではこの利己主義を大人の採るべき合理的選択として自明視しており、終始先生の言葉に「何故?」と繰り返しながら様々な提案をし、先生の判断根拠についても「何故?」と問うのですが先生に問答を打ち切られます。サンクトゥムタワーの行政制御権をプロローグの時点で掌握しており、あの瞬間キヴォトスの支配者の権利を持っていた先生があっさりそれを手放したことからこのことは自明です(あまりにも先生がそれに価値を見出していなかったので、大人の戦いで黒服がその場面を指したときどの場面を指しているのか理解に苦しんでいらっしゃる実況者の方もたびたび目にしたほどです。それくらい先生はその点に興味がありません)。このときの黒服と最終編での黒服は大きく対話の形が異なり、その点以下で触れていますので興味があれば一読ください。

功利主義

 特に哲学・倫理学に通暁していない人が一般に「合理的に正当化された戦略」として思い浮かべやすいのが功利主義でしょう。先生はこれにも与しません。上の「大人の戦い」において「ホシノ一人を諦めればアビドスを安泰にする。それでも、カイザーは勿論ゲマトリアと対立してでもホシノを助ける選択をするのか」と問われて先生は迷いなく肯定しています。

 パヴァーヌ2章も典型的です。上掲のnoteで膨大な文章量を割いて詳述したので詳論は省きますが「そもそも帰結として誰か一人のヘイローが壊れる」選択に先生は否定的です(ただし自分が死ぬ場合は容認する)。リオの「トロッコ問題」の呈示については「そもそも状況がトロッコ問題に当てはまっていない(レールの先にいるのは無関係の他人でなければならないという思考実験上の条件に反している、トロッコ問題は問題を単純化するために状況を2択に絞っているが、現実において現状は3択以上の可能な選択肢が存在し、リオは「誤った二分法」を行っている)」「思考実験の現実への素朴導入に関する正当化問題をクリアできていない」「功利主義を含む帰結主義以外の合理的意思決定理論は他にいくらでも存在する(例・非帰結主義-義務論)」「そもそも功利主義を採用した場合でも、リオと対立する結論を採る功利主義的理論が存在する(規則功利主義対行為功利主義)」など、哲学・倫理学上のテクニカルな指摘がいくらでも可能で、先生は極めて素朴に現状に思考実験を当て嵌めることへの疑問を口にしています。

 リオの言う通り思考実験「トロッコ問題」を扱う際、「第三の選択肢」の導入は前提を破壊しており御法度であり、思考実験としての道具としての価値を根本から破壊します。

 ですが先生が言っているのはそのようなことではなく、「思考実験とは状況を単純化して各正義を比較検討しやすいよう極端な状況を想定し、様々な可能性を敢えて発生確率0と想定しており、これにより絶対に2択以外存在しないことをモデルとして前提にしており、現実への安直な導入はそもそも御法度である」という指摘です。

 つまり、リオは「思考実験の前提を覆すのは思考実験を取り扱う上での初歩的なミスである」と言っており先生は「思考実験を素朴に現実に当て嵌めるのは初歩的な応用倫理上のミスである」と指摘しているわけです。哲学徒にしてみれば、ほとんど肌に染み付いた感覚で、実際に以下のように言及されることがあります。

「哲学的思考実験は、哲学の考察ツールであり他の用法は誤用である」
と一蹴する意見が存在する。
つまり、哲学問題を現実と絡めて論じること自体に忌避感がある。

南山大学「社会と倫理」第35号 2020年 より
大庭 弘継「思考実験の社会実装―必要性、批判、展望についての試論」
※ ある種の哲学徒の「心情」の説明のため、極めて端的な説明がなされていたため引用。
この試論はこの「心情」を正当化する目的のものではないことに注意。
ただし本論でも思考実験の素朴な現実への適用は認めておらず、
その諸条件・正当化問題を検討している

 モデルを現実に適用する際の困難の一例(このほかにもクリアすべき難題が死ぬほどたくさんあります)についてオトギも言及しています。

 また先生はそもそも「帰結として誰か一人のヘイローを砕くことを前提にした選択」を拒否します。上のnoteで詳述していますが、「トロッコ問題」は義務論をとった場合「5人が犠牲になり」功利主義をとった場合「1人が犠牲になる」ため、先生は義務論者でも功利主義者でもなく、「質問自体が間違っている」という態度を採用します。

 上掲のnoteにおいてこの思考実験「トロッコ問題」は思考実験として満たすべき条件を満たしていない、「質問自体が間違っている」という「思考実験はどのように構築されるべきか」という思考実験を考案する上でのメタ理論についての検討も上のnoteで分析哲学的意義・実権哲学及び実社会への橋渡しという実務上での利点に焦点を当てて行っています。

 一番極端でわかりやすい例はプレナパテスです。あの人は自分の世界のたった二人の生徒を別の世界の自分に引き継ぐために、別の世界のキヴォトス全体を崩壊の危機に陥れました。それが「うまくいけば(自分以外は)生徒みんなのヘイローが守られる」選択肢です。「我々のキヴォトスの生徒数+2人」を達成するために「我々のキヴォトスの全生徒を含む全存在(セイアの予知夢上はキヴォトスは塵一つ残さず消滅します。つまり生徒、市民、ロボット市民等含め生物も無生物も何もかも消し飛びます)」を破滅の危機に追いやっています。そしてその選択こそがあの人にとって「大人の責任を果たす」「先生の義務を全うする」ことです。

 プレナパテスがこの選択をしたとき、突入時のこちら側の先生の成功率は計算上3%でした。上のとおり、奇跡みたいな確率を味方につけなければどうしようもありません。そしてクロコの言うとおり、プレナパテスはそうやっていくつもの奇跡を達成してきた人で、こちらの先生も同様です。

 どれだけ計算してみせても「この子のヘイローが壊れることを確定事項として念頭に置いているね、じゃあだめだよ」と一蹴するのが先生です。なにがあっても「先生」なら「みんな」を守ってくれる。その信頼は以下で端的に確認することができます。

 「同じ世界にシロコは二人同時に存在できないという」ルールに対して「どちらかのシロコを犠牲にする」という選択肢があり得ないことをシロコが自明視しています。ここでは非常に簡単に述べていますが、本当に細かい議論のできる箇所なので興味があれば上のnoteをご覧ください。

一回限りの囚人のジレンマ

 利己主義の掘り下げですが、繰り返しを行わず、他に波及しない一回限りの囚人のジレンマにおいて利己主義を採る場合、裏切りが合理的な選択になります。繰り返しにおいて常に裏切る戦略のことをAll-Dと呼びますが、これはカルバノグ2章でオトギにより言及されています。

 一方、先生はエデン条約3章前半のポストモーテムにおけるハナコとの対話において、裏切りを受けても生徒を信じるという態度は変えないと表明しており、この常に信じる戦略をAll-Cと呼びます。このシーンはクロコに対して「何があったのか」と先生が問うた際にも回想されており、「アヌビス」として一つの世界を滅びに追いやったとしても先生は理由を聞いて寄り添おうとすることを示しています。

 利己主義を採る場合、一回限りであっても繰り返しであってもAll-Cは合理的ではありません(ちなみに、All-Dが利己主義的に合理的なのは一回限りで囚人のジレンマを終わらせ他に波及しない場合なので、オトギらは「自分たちはただの武器だから、武器に対して先生が行った選択は他に波及しない」というトンデモな理屈を持ち出してまで現在の状況を一回限りの囚人のジレンマに置こうとしているわけです)。

 彼女達の「モデルを現実に橋渡しするためには適切な操作が必要である」という考えは正しいです。そして上掲が苦笑するほど「今が一回限りの囚人のジレンマの状況であると現実レベルで確証できていない」ことから、その橋渡しの困難性もまた同時に見ることができるでしょう。

 たとえば「私たちは武器である」という主張は「武器に対して行った選択は他に波及しない」を当然には導出しませんし、そもそも理論上の問題として、仮に先の導出問題を無視したとしても「一回限りの囚人のジレンマ」で裏切りを合理的と言っておきながら、その一回限りの裏切り戦略の正当化は「私たちは武器である」という彼女達の主張を真であると信じなければ成り立ちません。つまり「先生が仮に囚人のジレンマ的な考えを採用する場合、ニコの示した一回限りの囚人のジレンマに状況を確定するための命題「私たちは武器である」について不信を示すため、先生は繰り返し囚人のジレンマにおける最適戦略を合理的意志決定理論として採用する。繰り返し囚人のジレンマにおける最適戦略はAll-Dではないため、先生は裏切りを出すべきだったというFOXの主張は破綻する」わけです。

 モデルと現実の間には橋渡しが必要であること、そしてそれは簡単な問題ではないことが上で容易に確認できるかと思います。

 個人の意志決定理論ではなく、遺伝子にかかる淘汰圧で見た場合、All-Cの群れの中に突然変異として現れたAll-D(この文脈においてAll-Dとは、All-C個体がコストを払って行う利他行為に乗っかって自分(All-D個体)は何もお返しをしないという意味なので、フリーライダーと呼ばれることの方が多いです。ノミをとってもらうだけとってもらって他のサルのノミとりをしないサルをAll-D=フリーライダーと想定すればよいでしょう。そしてAll-Dなサルのノミとりもせっせと行うサルがAll-Cです)、そして協調してくれる個体とは協調し、そうしない個体とは協調しない「しっぺ返し戦略」――といった語りは「利己的な遺伝子」のような古典的な書物にも見ることができます。

 しかし、先生がそもそも利己主義を採用していないことは先に眺めたとおりなので、利己主義的に見て不合理であることは先生にとって何の意味もありません。また、All-Cを採る個体やその個体が構成する群れはAll-Dを採る個体にフリーライドされるという事実からは当然には個体がAll-Cを採るべきではないという規範は導けません。最早古典である「利己的な遺伝子」が著された段階で、著者であるドーキンス自身がこのことに強く注意を促しています。このドーキンスが陥ってはならないと注意している誤解と同じミスをクルミは犯しています。

 囚人のジレンマが通常版で取り扱っているのは「刑期」です。相手の選択(信頼or裏切り)に関わらず裏切りを選んだ方が「刑期」について利己主義的に見て合理的であることを囚人のジレンマは述べています。囚人のジレンマがダーウィニズムで取り扱われる場合、そこで取り扱われているのは「遺伝子の成功率」です。All-Cな誰にでもノミとりをする個体の努力にフリーライドして、All-Dな個体はノミとりのコストを他のことにあてることができます。よって、All-Dを先天的に傾向づける遺伝子がAll-Cを駆逐しはじめるのです。このことからオトギは次のように述べています。

 まずダーウィニズムで遺伝子に焦点を当てた場合、この主張は誤りです。サルの群れにおいてAll-Dが蔓延するとノミとりをする個体が激減し、ノミによる被害が蔓延します。このことからアンチAll-D的な互恵利他戦略「君がノミをとってくれるなら僕は君のノミをとってあげよう」と個体に傾向づけるような遺伝子がプール内で勢力を増します。All-Dが野生の社会で最も有効であるということは、遺伝子レベルで見た場合互恵利他が進化的に安定な戦略として度々観察される以上早計です。

 個体レベルで見た場合も、All-D的に振る舞う個体が互恵利他戦略が支配的な群れにいる場合、ノミの吸血や伝染病媒介などの状況を解決できず(互恵利他戦略を採る個体はAll-D個体のノミ取りをしないため)、野生の社会でAll-Dが最も有効と言うのはあまりにも特定の状況を想定しすぎており(たとえば群れに自分以外All-Cな個体しか存在しない)、よって個体レベルで野生の社会を見た場合もAll-Dを最も有効として持ってくることは動物行動を観察する限り極めて奇妙です。

 そもそもの話として野生の社会で個体の意志決定としてAll-Dがそんなに強いなら社会性昆虫のワーカーをどう説明するのかという話になります。社会性昆虫のワーカーは女王の生存と生殖に寄与し、社会維持に貢献し子をなすことなく死にます。しかしワーカーと女王は遺伝子を一部共有しているためワーカーが個体レベルで利他的であったとしても、その利他的な個体の遺伝子は女王を通して一部次代に引き継がれるわけです。「利己的な遺伝子」より更に古典的なハミルトンの「血縁淘汰」です。

 そもそも現代では大きな批判と一部再評価のあるアクセルロッドによる囚人のジレンマに関するモデル上の競技会を行った際も「All-D」はその成績により優勝できず、モデル上も最適とは言えません。

 ――といった、様々な解釈でオトギの言葉を見て「そもそも野生の社会でAll-Dそんなに合理的じゃないんじゃない?」というのは余話です。オトギはもしかしたらホッブズのような「万人の万人に対する戦い」を原始状況として想定していたのでしょうか? これはルソーの「人間の不平等は社会を起源としており、自然状態ではそうでなかった」という「人間不平等起源論」同様、生物学者に否定されています。ホッブズもルソーも「社会契約論」を語る上で重要な示唆を与えてくれる古哲ですが、ホモ・サピエンスの理解については単純に生物学的に誤っています――これもまた余話

 重要なのは先生の次の台詞です

 オトギはこれを否定するために「囚人のジレンマ」を持ち出しましたが、これは「利己的な遺伝子」においてドーキンスが注意したように、あるいはアクセルロッドとそれに触発された人間たちが「しっぺ返し戦略」から倫理を導出しようとして大量の非難を浴びたように、典型的なミスを犯しています。

 先述のとおり「囚人のジレンマ」が扱っているのは「刑期」や「遺伝子の成功率」です。これらについて利己主義に基づいて最も合理的な選択を概観しているわけです。つまり仮に利己主義を認めるとしても「刑期」や「遺伝子の成功率」にたいした価値を見出さず、「他の事項」により大きな価値を見出す個体は、「刑期」や「遺伝子の成功率」といった何の興味もない事柄において少ない成果を得るとともに、当人にとってより重要な「他の事項」についてより多くを得ることが想定可能です。

 オトギたちは上の台詞を「現実では一回限りの囚人のジレンマって極めて特殊な例だよね」と解釈しましたが、ここに含意されているものはそれだけではありません。All-Dという戦略の問題点は先述のとおりですが、All-Cという戦略は、その裏切られても裏切られても信じるという性質上あまりにも弱いです。

 つまり、All-Dについての問題は長々と話さなければなりませんが、All-Cの弱さはほとんど直観的に把握できてしまうようなレベルのものです。にもかかわらず先生は「All-Cの方がより多くを得られる」と言っているわけです。これは「刑期」や「遺伝子の成功率」などを問題にした場合あり得ません。ですが、現実においてはそのようなものを重視せず別のものを選好し、その選好の最大化を求める個体が可能です。

 古典的な経済学における経済人の選好対象がモデル上設定されているものに過ぎないように、古典的な功利主義が「最大多数の最大幸福」と時に表現され、最大化すべきは「快苦」を見た場合の効用であるというのはおかしい、社会正義は「選好」を最大化すべきだという批判を受けたように、囚人のジレンマを取り扱う場合、【期待値の計算対象とする「何か」】は【全人類が当然に重要視すべきものである】という主張は当然には正当化されていません。

 ゆえに、その「何か」にたいした価値を見出していない場合、囚人のジレンマが「何か」に対していかなる結果を出していたとしても、それを無視して「何か」ではない選好する「他のなにか」を最大化することが利己主義の立場において可能です。

 つまり「先生が信じることによってより多くを得られる」と言った時、意志決定理論において合理的な問いは「囚人のジレンマ」の持ち出しではなく「先生は何を選好し、最大化しようとしているのか」という更なる問いだったわけです。

 この「前提の自明視によりメタレベルですれ違う」は対策委員会編での大人の戦いでも描かれ、黒服は話にならないと先生に一蹴されています。真理や秘儀、金銭のより多くの獲得において先生の献身は不合理だという黒服の指摘に対して、先生の重要視するものはそれではなく、「他の何か」でした。「自分たちの重要視していた何かの数値の上下は先生にとって何の価値もないかもしれない」と理解しない限り、仮に先生が利己主義を採るのだとしても説得に意味はないのです。


箭吹シュロの対先生戦略

戦略として採用する規範

 対黒服や対FOXを見たところ、利己主義、それに連なる囚人のジレンマにおけるALL-D、そして功利主義で先生を相手にしても上手くいきそうにありません。ですが、まだ先生に正面からぶつけていない規範理論が少なくとも一つあります。上に並べた規範は全て行為の帰結(囚人のジレンマであれば刑期の長さ、トロッコ問題であれば生き残る人の数)から意志決定を導出するという意味で「帰結主義」と呼ばれます。つまり「帰結主義」でない規範をぶつけてみればどうなるかまだわかりません。そして実際に「帰結主義」的規範は存在し、その代表格は古典的にはたとえばカントに代表されるような「義務論」と呼ばれます。

 「非帰結主義」や「義務論」は一般の人にはあまり馴染みのない規範理論かもしれません。「非-帰結」という言葉のとおり、これらの規範は帰結に依拠せず規範を構築します。わかりやすくシュロの言葉を借りれば「嘘はどこまでいっても嘘だから無条件に絶対だめ。許されない」が「義務論」です。この嘘は「単に事実と異なることを言う」ことだけでなく「相手が誤認していることを知りながら真実を告知しない」という不作為や「嘘は言ってないけど相手を誤解させてしまう」ような言動も不許可とします。非常にわかりやすい、よく語られる例は以下です。

殺人鬼「お前の妻は今どこにいる。そいつを殺すから今そいつがどこにいるか場所を言え。俺がお前の妻の殺害を達成できるよう、正確な位置をだ」
義務論者「私の妻を殺してはならない。それは義務に反する。そして私は義務に従い君の質問に真実を告知しよう。妻はこの家の2階にあがってすぐの扉の向こうの部屋のベッドの中で就寝中だ」

 殺人は悪なので止めねばなりません。嘘を言うことも、真実を隠すことも、嘘ではないけれど相手を誤解させるようなことを言うのも悪なのでわかりやすく単純明快に真実を言わねばなりません。この一見反-直観的な正義(逆に倫理・哲学界では「直観的」とときに呼ばれます)が「非帰結主義」を表しています。

 「帰結に関わらずどんな理由があっても嘘はだめ」なのです。このような「無条件に~せよ」というルールを「定言命法」と呼びます。逆に「~ならば~せよ」という、たとえば「殺人鬼が殺したい相手を問うている等の極端な状況でないならば、嘘はだめ」というルールを「仮言命法」と呼びます。

 「アリス一人の命でキヴォトス全体を救えるならば、アリスのヘイローを破壊せよ」という功利主義はこのように「仮言命法」として記載することができ、定言命法は「どんな場合でも生徒のヘイローの破壊を伴う計画を実行してはならない」と拒絶するでしょう。なんだか先生の正義に整合的に見えてきませんか?
(本noteを精読いただいているなら、あるいはブルーアーカイブを少なくとも対策委員会編1章までクリアしているなら(2章まで読む必要すらありません、むしろ2章まで読むと「大人の戦い」がノイズになります)、不整合であることがこの時点でおわかりのはずです)

①「百花繚乱紛争調停委員会はナグサもキキョウもレンゲもユカリも全員嘘吐きだ。嘘は悪である。ゆえに全員悪行をなしている」
②「これら嘘吐き共を許してはならない」
「①と②により百花繚乱は不和に陥り、またこの規範は非-帰結的に導出されており、黒服やリオやオトギ等の時とは完全に別種の正義による問い詰めなので対-先生での威力が期待できる」

 百花繚乱を不和に陥れ、これに勘解由小路家の事情をぶつけてユカリの「感情」から「無貌の形代」という百鬼夜行自治区を焼き尽くす「百物語」を作り、ナグサの心を折り続けることで「証による攻撃」という唯一の弱点も封じる、というのが規範と現実のレベルでのシュロの戦略です。

 先生倒したい学会員から「シュロさんの戦略の新奇性は何ですか?」と意地悪な質問をされてもシュロは堂々と「非帰結主義的な義務論をもって生徒を地獄に落とします。これは少なくとも未だ致命的状況下での実行例がありません」と胸を張って回答できます。

 このように眺めると「非帰結主義から導出される正義……例えば嘘は絶対だめ!! とかって、帰結から導けない以上すごく感覚的じゃない? いくとこまでいっちゃうと宗教的ですらない?」や「非帰結主義から導出された2つの正義が対立した場合どう調停するの? 功利主義なら数を使えるけど、帰結を使えないから数的な比較ができないよね?」などの懸念はすぐ浮かんでくると思います。

 つまり机上はともかく現実レベルで義務論って生きてるの? という疑問です。結論から言うと生きています。「輸血謝絶 免責 証書」などで検索するとすぐ実践的な現場の状況を目にして「あー……」となるでしょう。

 やや宗教的にセンシティブな問題が絡むため詳述はしませんが、医師などの医療関係者や公務員などの行政関係者にとっては必修の常識です。宗教色を避けて表現するならば「医師からの十分な説明を受けた意識が明晰で自己決定の能力を持つ成人の患者が定言命法による確固たる信念に従い輸血を拒否する権利」は法律上保障されています。これに反し一人の命を救うという帰結を何より重視し救命してしまうと、権利侵害であり法により罰されるおそれがあるのです。

 そのため、単に輸血をしなかったという不作為で医師が責に問われることから医師を守るため、患者が輸血を拒否する場合に備えて「輸血謝絶と免責に関する証書」の様式を病院は備えているわけです。

 この「非帰結主義的追及」が怪談家箭吹シュロの一つ目の武器です。

先生の先生性テクスト/学園青春モノテクスチャへの対応

 生徒をどうにかできたとしても、無敵の先生が滅茶苦茶にしてしまえば全て台無しです。フランシスの言によれば、最終編1章のサンクトゥムタワー破壊によって同時に破壊されたかに見えた「学園と青春の物語」というジャンルは最終編後取り戻されてしまっています。

 つまり、ゴルコンダ・フランシス的な見方をすれば、この「学園と青春の物語」というジャンルの中で「先生」に動かれた場合、現実レベルでどんな策を打っても意味がないのです。上のような新奇な企図もなにがしかの理由で破綻するでしょう。

 最終編4章において、ウトナピシュティムの本船への攻撃と虚妄のサンクトゥムの再出現を「みんな」の力で打ち破られたクロコが、迂回策を採ろうとしたプラナに対してその迂回策の内容を訊きもせずに「先生はどんな迂回策をとってもみんなと乗り越えるから無駄」だと断言して、対応策として「先生VS先生」に持っていったことからも見て取れるように、「連邦生徒会の秘密金庫襲撃」のような我々の知らない事件を経験してきて、なおかつプレナパテスがいたにも関わらずキヴォトスが滅んでしまった、プレナパテスが全てを守ることができなかった、生命維持装置を外したアヤネのようにたくさんのものを取りこぼしたという経験をしたにも関わらず、クロコは「先生とみんな」の力による「奇跡」に対しては現実的迂回策が機能しないことを極めて重要な決戦の場において確信しています。

 ベアトリーチェならば最終編の冒頭のようにジャンルが何だと言うのだと言ってそのようなメタ的な視点を無視したでしょうが、

 物語る者である「怪談家」箭吹シュロは当然これを無視しません。きちんとした段取りで怪談を語ることは「怪談家」としてごくごく普通のことでしょう。「学園と青春の物語における先生の無敵性」の対処なくして百鬼夜行自治区の焼き尽くしは達成できません。反構成、反プロット的な怪談も勿論可能でしょうが、シュロの怪談はそれらとはむしろ対極の理詰めで丁寧にプロット・あるいはチャートを組んで構築されており、「怪談」はきちんと段取りを踏んで進行されます。

 最終編では「ジャンルを破壊する」ことでジャンルから要請される「先生の無敵性」欠落をフランシスが語りました。もちろん同じこと、つまり「学園と青春の物語」を花鳥風月部的な「風流」に変えることはシュロも考えていたでしょうが、それは手段であると同時に目的でもあります。より純粋に手段性が高い一手が彼女には別に存在しました。

 彼女の一手は端的に言ってしまえば「今キヴォトスで話題のあの人は学園青春物語における無敵の先生」ではないと突きつけることです。これは「ヘイロー破壊爆弾」が繰り返しヘイロー破壊に失敗したことで「ヘイロー破壊爆弾」としての機能を毀損された状況を、先生に対して意図的に起こしてみようという戦略です。

 これであれば「学園と青春の物語」が仮に生きていても、シッテムの箱の主である連邦捜査部シャーレの顧問は「学園と青春の物語の先生に不適切だ」としてジャンルがまだ生きていても無敵性テクストを剥ぐことができます。

 先生は生徒に対し身を捧げて駆けずり回ることはシュロも承知の上です。そのような「うわさ」通りの人が目の前に現れて彼女はとても喜んでいました。シュロはほんの少しの「うわさ」で目論見通りに百花繚乱の人々を誘導しています。

 そして、ユカリを引き連れて様々な可能性を試しそのたびに失敗しユカリの精神が血を流すことに成功した要因は、言うまでもありません。

 そして、シュロは現況に至ることを事前に確信していました。つまり、「シャーレの先生が来たからこそ悲劇的現状は生じているのだ」として問題の起点をシャーレの先生に持ってくるという戦略の種を、最初の一手として蒔いていたのです。

 シャーレの先生が「うわさ」通りの人物であればあるほど、シュロの作戦の成功率は上がります。この事件に振り回された人物たちのことをシュロは次のように表現しています。

 つまり、各々がよかれと思って動いたことが今百鬼夜行連合学院が炎上しちているという最悪の状況の原因なのだと告げたのです。

 ニヤが花鳥風月部からの届けの全文をシャーレに呈示しなかったのは、怪文書が陰陽部に届くことなど日常茶飯事で、それに真摯に対応していたら陰陽部は麻痺してしまう、そして多忙なシャーレに負担をかけるなどもってのほか。ゆえにニヤは熟考の末シャーレに末尾を切り取った花鳥風月の予告を伝えました。

 ユカリが「継承戦」に挑もうとしたのも、それを通してかつての百花繚乱の健全な運営を取り戻し、昔の憧れだった姿に戻るためです。悪気などなく、よかれと思って動きました。

 レンゲ、キキョウもそうです。修復不可能なほどに破綻してしまった百花繚乱にユカリが固執することはコストの浪費です。もっと別のこと、たとえば「青春」であったり「家の責務」であったりに目を向けて、壊れていくしかない百花繚乱のために無駄に心身をすり減らすのはユカリのためにならないと、よかれと思って動きました。

 そして、これらの「よかれ」が最悪の連鎖をしたのはシャーレの先生が百鬼夜行を訪れてユカリをよかれと思って導いたためです。

 つまり、シュロは以下を導こうとしました。

①:先生は生徒のためにできる限りのことをしようとする
②:①に動機づけられた行動が破局的状況の起点となることが可能である
③:よって先生がなんとかしてくれる、先生が守ってくれるという考えは誤謬であり、むしろ先生が介入したからこそ一学園自治区が炎上したという事実が現前している。
④:よって「学園と青春の物語」のジャンルにおいて「先生」が全てを凌駕する存在であるのであれば、定義上このシッテムの箱の主は「先生」の定義に反する
補:それでもなお先生は「先生」であるを保持する場合、「先生」の万能性に疑義が入り、「学園と青春の物語」というジャンルにおける「先生」というロールの力に限定がかかる。
補2:現状のように生徒と先生が最善を尽くした結果百鬼夜行が炎上しているという状況は「学園と青春の物語」に反しており、むしろ「怪談」と呼ぶに相応しく、ジャンル書き換えが期待できる

 先生の問題はまさに上のゴルコンダの言葉のとおりでした。ですから、「先生の介入によって状況が破局的になった」とシュロは導こうとしたわけです。つまり、「この人は奇跡を起こすどころか最悪をもたらすことがある」と大々的に示そうとしました。

 これがシュロの2つ目の武器です。「ジャンルを破壊して強引に先生性を奪う」のではなく「あなたはそもそもみなが信じる先生としての力を有していない」と事実をもって示すわけです。2つ目の武器も着眼点が素晴らしく、この2点においてシュロは間違いなく評価に値します。善悪はともかく目的遂行のために選んだふたつの武器は目新しいものに見えます。

 さらに、シュロは実務においても有能でした。人の心理、行動を掌の上で転がすことは容易ではありません。しかし、陰陽部に一報した段階から「無貌の形代」で百鬼夜行を焼き尽くすまで、シュロは事前に計画しその計画通りに事を運びました。怪談家としてそれを語り上げてきました。集団はもちろん個人ですら思い通りに誘導するのは困難です。それにもかかわらずこの精度は驚くべきことです。

 以上により、シュロはゲマトリア的な観点に立てば非常に健闘したと評価することができます。異常な程執拗に対策を練り込んだ、と表現してもよいでしょう。彼女は丁寧に丁寧に怪談を作り上げました。


箭吹シュロはどこで躓いたのか

非帰結主義の不徹底

 シュロの最大のミスのひとつ。それは「嘘はだめ」を非帰結主義的に徹底できなかったことです。

 問題はこの発言に現れています。この発言があったからこそ先生に状況を滅茶苦茶に切り崩されてしまいました。

 「嘘はどこまでいっても嘘」

 これは非帰結主義的、義務論的言明です。定言命法です。「嘘は嘘だから駄目」なのです。だからこそ、「どのような嘘であっても許す余地がない」のです。にもかかわらず、シュロは続けて絶対に口にしてはならないことを口にしました。

「だからこそ多くの人が傷つき、悲劇を招くのです」

 この台詞のせいでシュロは黒服・リオ・FOX小隊らと同じ壇上にあがってしまいました。「嘘によって多くの人が傷つき、悲劇を招く」――これによる嘘の悪性の正当化は「帰結主義」です。「人を苦しめ悲劇を招くから嘘はだめ」というのは「定言命法」ではなく「仮言命法」なのです。つまり、先生が幾度も倒してきた間隙を、シュロは自ら作ってしまいました。

 もし「定言命法」を保ったならばシュロの言葉それ自体に反論の余地はありませんでした。デカグラマトンの「私は私である」がトートロジーで恒真であることとは別種、「どんな理由でも嘘はだめ」は「帰結」に根拠をおかず「無条件に」嘘を認めないため、「嘘で状況が改善する様々な事例」を示したところで「我々が採るのは定言命法、それは仮言命法であり棄却すべきだ」と一蹴できます。

 つまり、シュロが自身の「嘘は絶対にダメ」を堅持した場合、そこに反証の余地はないのです。対処法はないわけではありません。たとえば「反証の余地のない正義に関する言明は、反証の余地がないという理由で棄却すべきである」という立場です。これは先に述べたように「2つの異なる正義が対立した場合に調停することが理論上不可能になる」という問題などからの指摘です。ですが、このような議論はどうしてもメタ的なレベルのものとなってしまい、日常のレベルにおりてきません。つまり「話が難しくなりすぎて誰の心にも届かない」論争となりシュロの優位を保てる可能性がありました。

 ですがシュロは過ちました。

「だからこそ多くの人が傷つき、悲劇を招くのです」

 この安易な帰結主義の導入により、先生が怒濤のように反逆を始めます。つまり「帰結主義的に見て、嘘を言ったり自分を繕ったりして、それが奏功した事例」を様々に挙げるのです。

 ナグサのまっすぐな背中は確かに演技でした。しかし、それに惹かれてユカリが百花繚乱に入り、百花繚乱の先輩達とナグサを含めた皆で笑い合ったという事実があります。嘘と繕いに満ちていたにも関わらず、そこはユカリの誇るべき場所となっていました。

「それは過程だ。結果として現状の不和のバッドエンドに至るから嘘はダメだ」

 は反論として通じません。簡単に切り返せます。

「君が結果と言っているものすら過程だ。彼女達にはこの先がある」

 「この時点でバッドエンドに至っており、その先は悲惨を見せられ続けるだけだ」という考え方への指摘は、エデン3章で先生がセイアに対して行っています。「悲惨な状況のその先をまだ見ていない」セイアに対し、その先にハッピーエンドを持ってきました。つまり、先生が勝ってしまった前例と同じ状況に陥ってしまっているのです。

 折角「非帰結主義」「嘘は絶対にダメ」という有効かもしれない武器を持ちだしたのに「嘘はこういう状況を生むからダメ」という仮言命法を導入してしまったこと。これにより、いとも簡単に高度な哲学的議論をせずに日常レベルの例示で先生はシュロを徹底的にやりこめることができます。対帰結主義はいくらでもやってきたのですから、最早慣れたものだと言っていいでしょう。「帰結」を下手に持ち出すと先生に間隙をボコボコに突かれるのは当然です。

 また、シュロはユカリですら先生を騙していたという「定言命法」による揺さぶりを一度かけていますが、これも効くはずがありません。あの人は、対策委員会編1章の段階で、当然のように「仮言命法」を使い、しかも連邦捜査部シャーレの超法規的執行として強権をもって書類を押収するのでなく、顔を隠した銀行強盗集団覆面水着団の指導者として、自力救済に打って出る人なのですから。

 パヴァーヌ1章におけるゲーム開発部・ヴェリタス・エンジニア部連合が「鏡」奪還の目的のもとセミナー襲撃を仕掛けたことについて、指揮の立場にいたのも先生です。生徒会が適切に危険性を判定して適切に押収した品を、書面申請などではなく暴力をもって奪取するのが先生です。カルバノグ1章で「不要なドラム缶」を勝手に持ち出すことを容認していたのも先生です。

 先生の教育者としての意志決定は「キヴォトスの日常感覚」に強く根ざしている部分が少なくとも一部あり、銀行襲撃やセミナー襲撃を容認し、マキのストリートでのやんちゃは叱るといった振る舞いを何らかの規範理論からの導出と見ることはそもそも困難です。「大人の責任」「先生の義務」が実践の場でどのように発現するのかという点において、黒服が最終編で「今もあなたという人間を理解できていない」と言うように、先生の理解は困難を極めます。そもそも、様々なストーリーにおいて先生はまるで別人のように振る舞うことがあり、実際エデン条約編の冒頭で上がってくる報告書によって先生像がまるで違うことが言及されています。

 エデン条約編序盤の先生はミカから「八面六臂の大活躍」と言われながらも未だ大きな事件は殆ど解決しておらず、その時点でのうわさは上のようなものでした。しかし、シュロが掴んだ先生についての「うわさ」は「エデン条約問題」や「AL-1S問題」といった「大事件」での振る舞いにだいぶ汚染されているでしょうし、イベントや絆を見る限り先生の「日常」は当時と何ら変わりません。

 アフターエデン、つまりカルバノグや今回の百花繚乱編ではいつの間にか「先生はどんなときも生徒を守り、生徒のために動く人だ」というイメージが強く根付いてしまっています。そしてそれは一面としては間違っていないのですが、「尊敬」という言葉が合うかどうかについては、意見が割れているという大事件で次々奇跡を乱発する前の先生の評価は、先生の「日常」レベルまでを正しくとらえており、ベアトリーチェが先生を「救世主」的に見て否定されたのと同じ轍を結果的にシュロは踏んでいます。

 ゴルコンダ・フランシス的に先生の無敵性を読んで、それが帰結として裏目にでるよう仕組む――というメタ読みは失敗しているのです。

 「先生の先生性」を過剰評価してメタ読みをすると「学園と青春の物語」の中で「色んな生徒に寄り添って、生徒によってはかっこつけたり、気持ち悪い奇行をしたり色んな姿を見せる先生」を正しく捉え損ねます。

 ゴルコンダ・フランシスもそうですが「先生」を明らかに誤読しています。そもそも「学園青春モノにおいて先生が主人公で無敵」というジャンルからの導出に飛躍があります。先生がぶっ倒される学園青春モノなど枚挙に暇がありません。

 「魔女がハッピーエンドに到達する話なんてない」というミカの言葉を素朴に読んだときと同じように、そもそもそんなことはないのです。「生徒達の救世主」として先生をメタ読みして「救世主性を毀損させよう」と対応策を練れば、思い切りメタ読みを外してプロット・チャート通りに怪談が進まずグチャグチャになるのは自明の理です。

嘘吐きはどこまで許されないのかという問題への対処不足

 定言命法という「絶対に許されないもの」を語る術に仮言命法という「許される余地」を生み出してしまったその瞬間、シュロの武器は砕け散りました。許されないことは「絶対」でなければならないのです。そうでない限り、先生がどうにかしてしまった前例が再演されてしまうのです。

 確かに嘘と演技によって百花繚乱の子たちは傷つきました。しかし、このキヴォトスにおいてはそれだけで可能性が閉じてしまうことはありません。「トリニティとゲヘナという長年憎み合ってきた両校がこれから歩み寄ろうとするエデン条約の調印式場――かつて第一回公会議が開かれた通功の古聖堂に巡航ミサイルを撃ち込み、エデン条約を奪取し、ユスティナ聖徒会のミメシスや聖徒の交わりとしては失敗したが戦術兵器としてはじゅうぶんなアンブロジウスらを暴れさせた、政治的目的達成のために無辜の市民を含め暴力を行使した文字通りのテロリスト」や「ちょっとした不和から大切な人を危うく死に至らしめかけ最悪のバッドエンドへの道を敷いてしまう所だった少女」の前にすら道は続いており閉ざされておらず、そこには無限の可能性があるのです。

 もっと極端なことを言ってしまえば「アヌビス」として全ての世界の忘れられた神々を滅亡させる道具とされかけたクロコにだって道は開かれています。「世界が滅んでも」箱舟に乗って「滅びに抗うだろう、彼女らを救ってくれるだろう別の世界に行く」というとんでもない方法で先生は可能性を切り開きます。世界をひとつ滅ぼした程度では無限の可能性を奪えないのです。

 こういった極めて極端な例を持ち出してしまえば、「嘘や演技や取り繕いによって不和が起こってしまった」という状況の重大性そのものが陳腐化されます。先の小項目では「日常レベルの先生」を変に過大評価している旨を述べましたが、逆にこれら「大事件」を並べてしまえば先生が言ってしまったとおり「いやかっこつけがバレてちょっとギスるのとかそんなのべつに普通じゃん」レベルの物事なのです。

 百鬼夜行自治区が大炎上しているという問題はありますが、百花繚乱の人間関係にのみ焦点をあてた場合、生じているのはせいぜい思春期の少女たちのすれ違いに過ぎません。言ってしまえば「放課後スイーツ物語」程度には「普通」の話です。

「嘘吐きは未来永劫誰からも絶対に許されることはない」

 を導出できなかった時点で「あーすれ違っちゃったね、別に問題ないこともちょっと悪いこともあったね。じゃ仲直りしようか」で話が終わってしまいます。

 定言命法を持ち出し「嘘は絶対に許されない」と言ってしまったところで定言命法からは「嘘吐きは永久に嘘吐きだと指を刺され非難され軽蔑され憎悪されなければならない」は当然には導出されません。

 仮にシュロが定言命法を貫けたとしても、「悪いことしちゃったかもね! ドンマイ次いこ次!」されたら更に攻める一手がないのです。

 そして、友達同士の関係でちょっとしたかっこつけをしたり、自分を取り繕ったりといった仕草すら嘘であり、それは未来永劫絶対に許されることはないと断ずることができるものは、それこそ原始宗教における、しかもおそらくトリニティに連なる類の神を原理主義的に文字通りに読む、しかも都合の良いところだけ切り取って誤読するくらいのことをしなければ言い切ることができません(「マタイによる福音書」の25章41節において「のろわれた者ども」に対して「永遠の火」に入れと言っていることを文字通りに読み強調し、悔い改め等に係る部分を無視するように)。この戦略はベアトリーチェがばにばにで採ったものです。つまり、これをとっても撃破前例があります。

 山海経や百鬼夜行により近いだろう仏教を持ってきてしまうと「無間地獄」ですら天文学的な時間を要しますが刑期を経て責めを終えます。「嘘は許されない」は定言命法として使うことができますが「嘘を吐いた者は永遠に許されることなく救済されない」は極めて特殊な発言で、極めて正当化について厳しい立場におかれます。「あの時点であの人が嘘を吐いたという事実それ自体は許される余地がないよね」と言うことはできても「あの時点であの人は嘘を吐いたのだから、その罪に対する罰を永遠に受け続けなければならないよね」は理論レベルでもそうですし、現実レベルはまず通りません。

 そもそも先に挙げたトリニティにおいて、聖園ミカがテロリスト・アリウススクワッドのその先に慈悲と祝福を願ったとき、壊れた蓄音機から「キリエ・エレイソン」が流れ出す「奇跡」が発生したように、キヴォトスという世界の「ヒフミによる雨雲吹き飛ばし」や「ミカの願いによるキリエ」等の「奇跡」システムは「ゆるし」「憐れみ」の可能性に対してかなり肯定的に見えます。

 ゴルコンダ・フランシス的に言うならこの部分へのメタ的対処が不徹底だったことは、指摘に値するでしょう。

先生の先生性の補強

 上述した瑕疵により、先生はいとも簡単にシュロの理路を切り崩し、ごく「普通」な「日常」の視点で百花繚乱の皆を擁護しました。上手くいったときは褒めて、失敗したときは慰めて、責任を負って守り導いていく。先生の先生としての姿勢が再演されてしまいました。百花繚乱も仲直りしてしまっています。

 つまり、ゴルコンダ・フランシス的に見て「ジャンルは怪談から学園青春物語に回帰し、先生は先生性を未だ示しており、無敵であるというテクストを内包している」と評価できます。クロコ的に言えば「先生がいてみんながいる。相手に先生でも持ち出さない限りもう勝ち目はない」状態です。実際ナグサは精神的にボロボロの状態で、それでも証を握り演技を続けていくことを宣言し怪書の神秘に触れシュロを決定的な敗北へと追い詰めました。

 ジャンル・テクスチャ・テクストの視点からしてみれば当然の帰結です。「学園青春物語で先生に挑んだら負ける」のですから。ただし、これはゴルコンダ・フランシス的な見方であることに注意が必要でしょう。先生自身はそのような解釈を断固として拒否するはずです。

 百花繚乱のみんながお互いにまた歩み寄ろう、仲直りしようと努力したから、どれだけ惨めな姿をさらしてでもそうあろうとナグサが決めたからこそこの結末に至ったのであって、「先生の先生性」の影響により勝利が確定したという読解そのものに、「これは生徒たちの青春の物語なのに何を言っているのだろう」と一蹴してしまうに違いありません。「私は先生としてちょっと寄り添っただけだよ」と。

 結果として「この方法でも先生は崩せなかった」という点によってゴルコンダ等の視点から見れば先生の意に反して「先生の無敵性、ジャンルの法」はより強く読まれることになるでしょう。

 普通に読めば、シュロはごく普通の部分で思春期の少女らしいミスを犯したのであり、ゲマトリア的に見てもシュロの戦略は不徹底でした。ただし、後者の立場に立てば「失敗したもののかなり新奇な意欲的取り組みをしている」という点において、敗北したとはいえシュロの健闘をより強く評価することができるでしょう。

 普通に読めば今回の話は「放課後スイーツ物語」のような「日常」の話でいつものメインストーリーのような「哲学・倫理的な話は少なかった」ように見えるかもしれません。コクリコに言わせれば彼女はより広い範囲を見ているので、百鬼夜行が燃えようが燃えまいがどちらでもさして違いはありません。20年前の祭の再現の達成でじゅうぶんでしょう。そして、ゲマトリア円卓から俯瞰すれば今回の話は「かなり新奇な哲学・倫理的な議論を仕掛けた話」であったわけです。


おわりに・箭吹シュロについて

 今回の話を受けて、私は彼女の戦いを大きく評価しています。彼女は決して無策ではなく、新しい攻撃を携えてやってきました。それを行うための綿密なチャートを組み、計画通りに事を進めました。彼女のことを私はとても聡明だと思っています。

 また、彼女について心配していることもあります。「許されること」について、もし彼女が単に方便として百花繚乱を陥れたに過ぎないならよいのですが、コクリコに泣きついたときのように泣きながら自分の失敗を本気で「取り返しのつかない大問題だ」と思っていたならば心配です。

 コクリコの慰めはひとつの手段としては有効です。コクリコの盤上においてシュロの働きはよく機能しており、そもそも失敗していないから問題ない、というものです。これはシュロの感情を慰撫することになるでしょう。

 しかし、この慰め方は「失敗した者が許されるかどうか」という点には全くコミットしていません。シュロは失敗していないとして扱われたのですから、この問題が取り扱われることはなかったのです。

 シュロがコクリコの見ている広い盤面を見ることができない場合、自分が狭い盤面を見てやったことがコクリコにとって奏功したのかそうでないのかまるで判断がつきません。常に失敗の恐怖がつきまとうことになります。

 彼女が「失敗しても取り返せばいいのだから問題ない。今回は百花繚乱のお嬢さんたちを怪談家の口上で惑わせただけ」ならよいのですが「罪や失敗からのゆるし」について本心から不安を抱えているとしたら、先生としてはとても心配です。

 それから、物凄く個人的な話ですが「よく口の回る矮躯で小賢しい不良生徒」はとても私の好みです。これから彼女がどう動き、どう考えて行くにしろ、たぶん私はずっと彼女のことを好きであるだろうな、という漠然とした予感があります。いつか紫封筒から出てくる日を楽しみに待っています。アロナ? キキョウとレンゲで僕の青輝石が数百個しかないんだけどリミテッドとマンスリー僕だけ回復とか無理でしょうか?

 箭吹シュロ、本当に魅力的な生徒で魅力的な敵役でした。ナイスファイトでした。

 ただ、私「人間関係のギスギス部分に尺とられすぎた怪談やホラー」はあんまり好みじゃないからちょっとそこシュロちゃんと怪談の好みが違うかなって……「風流」性の違い……

 <ウソ>とか本当に良かったのでシュロちゃんのマジ怖怪談ASMRとか、お願いできませんでしょうか……寝れなくなるタイプのやつ……

 以上、百花繚乱1章についてシュロちゃんの健闘をゲマトリア的に検討した本noteでしたが、百花繚乱編1章は主人公である百花繚乱紛争調停委員会の一人一人と、それぞれの関係性が勿論とても魅力的でしたし、あるいはナグサに感性の近いミチルを含んだ「百鬼夜行の部長達」という観点で見てみるのも面白いです。お祭り運営委員会の社長は相変わらず最高ですし、ニヤニヤ教授は不忍での正座以後ちょっと頼れすぎます、あの人すごいです。あとキヴォトスや百鬼夜行の存亡の危機に暗躍するという謎のエージェント、忍術研究部と修行しながら自警も行う修行部など……百鬼夜行連合学院、盤石性が物凄いです。語りたいことが山ほどあるのですが箭吹シュロの一面の評価だけで3万5000字を超え、百花繚乱1章ここがよかったを語り尽くすととんでもない文章量になりそうなのでこのあたりで一端筆を置くこととします。

 いや、本当面白かったですね百花繚乱1章大満足でした……1章!?!?

 以上、長文にもかかわらず百花繚乱初見における箭吹シュロ狂いの気が狂った悲鳴にお付き合いいただきありがとうございました。

 花鳥風月部の「怪談家」箭吹シュロはいいぞ……!


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